第5話 地に落ちる
時は経過し、五月に入ったばかりのある日。
「ね、ガーシェル君。二階堂君と笹永君ってどう?」
一時間目の授業が終わり、
ちょっとした休憩の合間に、二人の女子に聞かれて首を捻る。
「どうって?」
「怖い人?」
「? 別に普通だけど……」
すると彼女たちは顔を見合わせて、こそこそとした小声になり
「不良じゃない?」
「不良?」
「小学生の頃から上級生とよく喧嘩してたとか、噂聞くから―――」
「中学の時は二人揃って怪我してたとか」
「……ああ」
一緒に陽人たちとハンバーガーを食べに行った日の二日後、
頬に大きな絆創膏を貼って朝家に迎えに来た陽人の顔が頭をよぎる。
どうしたのかと聞いたら、退魔師の仕事でドジを踏んだと、
彼はあっけらかんと笑っていた。
きっと中学の時のその噂も、そこからきているのではなかろうか。
「なんか知ってる?」
「んー。どっちも悪い人ではないかな」
「そ、そう……じゃあついでに、二階堂君の好きな人とか……」
「……それはわからないけど」
「だ、だよね! 自分のこと話さないっぽいし……
ご、ごめん! ありがとね!!」
顔を赤らめて恥ずかしそうに笑いながら、女子は自分たちの席に帰っていく。
(人気があるんだなあ……)
机の上に教材を揃え、次の授業の支度を済ませて
時が過ぎるのをぼんやりと待つ。
……思えば彼らとは未だに一緒に登校はしているし、
曇りになる度、屋上で一緒に昼食を食べたりする。
時々わからないことを教えてもらったり、使えるレシピを紹介してもらったりして、
もう友達と呼んでも躊躇いはないくらいの仲ではあるが。
(それだけだな―――)
何故人間界に来たのかという理由は聞かれても、あまりプライベートな話はお互いしていないということにふと気づく。
そして、彼らが退魔師として具体的にどんなことをしているのかまったく想像がつかない。
そもそも、二人はどうして組んでいるのだろう。
親友だから?
考えたところで別に自分には関係のない話だけれどと、
リーフェルトは頬杖を突いたまま、短い息を吐いた。
ようやく今日一日の授業がすべて終了し、リーフェルトは大きく伸びをする。
どうやら翌日から、ゴールデンウィークなる連休になるらしい。
クラスメートたちは皆浮き足立って、連休中の予定について友人たちと群れを成し話し合っている。
「ガーシェル」
声をかけられ顔を上げると、辰弥が何やらカラフルな本を自分に差し出してきた。
つい、その流れに委ねてその本を受け取ると、
「昔買ったレシピ本だ。もう読まないからやる。
簡単で細かい絵付きだから、わかりやすい」
「……! ああ、ありがとう」
「ゴールデンウィーク中、惣菜だけで生き延びるなよ。じゃあ」
用が済むと早々に鞄を肩に担ぐように持ち、小夜を連れ教室から立ち去っていく辰弥。
リーフェルトはレシピ本をパラパラと適当にめくって中身を確認してから、
有難く鞄の中にそれをしまった。
リーフェルトの住むマンション。
帰るなりいつものようにシャワーを浴びて着替えた後、 まだ慣れない陽射しに消耗した身体を癒す。
それからしばらくして目を覚まし、ベッド近くのデジタル時計に目配せしたころには
既に十時を回っていて、重々しいため息を吐いた。
……明日から連休とはいえ、油断し過ぎだ。
目覚ましでもつければよかったと、内心後悔した。
(……この時間から料理して、お皿を洗って……)
寝ぼけ眼で時計を睨み、
頭の中で大体どれくらいの時間がかかるかざっくりと計算する。
簡単な料理一つならそんなに時間はかからないだろうが―――。
(面倒くさいな……)
最後の授業が体育だったせいか、まだ身体は気怠い。 もう一度横になってしまいたいくらいだ。
しかしそういうわけにもいかないので、ベッドから降りて洗面所に行き、リーフェルトは自分の髪にブラシを通す。
「コンビニ行こう……」
辰弥に世話になった日の翌日から、
慣れない料理に昨日まで頭を悩ませたのだ。
だから今日ぐらいいいだろうと判断し、
そのまま彼は鍵と財布をポケットに入れて家を出た。
リーフェルトが今住んでいる家はまあまあ住み良くはあるけれど、
コンビニと家の距離は微妙で、少し歩く必要がある。
まだ疲れが抜け切れていないのでさっさと飛んでいきたいのだが、
人間界でそんなことをするわけにはいかない。
早足で辿り着いて食欲をそそる夕飯と飲み物を買 い、コンビニの袋を手から提げてマンションに戻る。
人気のない、自分の足音だけが耳に響く夜の道。
その道のりの中、 目の端に何かがひょっこり現れ、リーフェルトはそちらに目を向け立ち止まった。
……黒猫だ。
好奇心のまま、猫の目線に合わせるようにリーフェルトが膝を曲げる。
しかも見事な金色の瞳だ。
自分たちのような魔の種族は風習や掟で本能を刺激することで力を得、
その証とし、魔の力を使った際に灯る瞳の色が青から赤へと変化する。
だが繁栄した種族であればあるほど成長はそれだけに留まらず、
種族の長や王から瞳の色が変化したことを認めてもらうことで成人になった祝福を授かり、
更なる力を手にできる。
王が認めた立派なヴァンパイアとなった時、
その証として瞳が赤から金色へと変わることから、
まるで長に成人を認められた魔族のようで、ほんの少し、その黒猫に親近感が湧いたのだ。
そう―――しゃがむ、という行為。
それはその時リーフェルトにとって、本当にたまたまの行動であった。
「……?」
頭の上から、何やら妙な音が耳に届いた。
それは日常ではそう聞かない音。
なんとも上手く例えようはないが。
金属が何か擦れるような音と、なにか突き刺さるような音が混ざったような。
「……」
黒猫から頭上の音に関心を移し、立ち上がるリーフェルト。
そこには何やら、奇妙なものがあった。
白い、なにか輪のようなものが二つ、自分の首の付け根あたりの位置で
コンクリートの壁に突き刺さっている。
(……コンビニに行く時、こんなものあったか な……?)
それらには取っ手のようなものがついていて、
すべらかな白い輪の表面には、小さな文字が円に沿って刻まれている。
(なんだろう……チャクラムみたいな―――)
実家である城の武器庫に、これとよく似たものがあった気がする。
よくよく調べようと、二つの輪に彼が手を伸ばしかけた瞬間。
焼け付くような痛みが、リーフェルトの左脚を貫いた。
「……いよいよ、見習いの肩書きを外していい頃だな」
一方。
退魔師の仕事帰り。
自分と肩を並べ歩いている陽人に、相棒である辰弥が少し柔らかな表情で口を開く。
「んー。まだまだじゃねえかな」
「そうか? でも大した怪我もしなくなったじゃないか」
「でも俺はまだ見習いでいいな。 そっちのほうがなんていうか、気合いが入りそうで」
「……まあ肩書きがなんであれ、強くなってくれるならそれでいいさ。
ただ君は修業に関しては意欲的なのに、色恋に関しては積極性が足りない。
頼りなく見えるぞ」
「……スミマセン」
突然消え入りそうな声になって、目を泳がせ謝る陽人。
「だからそんなところがいけないのだ」という科白が辰弥の喉から出かかったが、
なんとか飲み込み咄嗟に溜め息に変換し吐き出す。
彼には彼なりに考えているのだろうが、どうもじれったい。
小夜に気持ちを告げる気があるのかさえ怪しくなる。
陽人曰く「いつかは……」とのことだが、
そうしている間にいつの間にか小夜に彼氏ができて、勝手にへこんでいるのだこいつは。
折角自分が認めた男だというのに、
何故こんなに自分に自信がないのか。
幸い彼女には男を見る目が絶望的にないので、
続いても一か月ほどで失望し別れてしまうのだが。
(次に小夜にろくでもない彼氏ができたら、こいつを説教部屋行きにしよう―――)
ジトっとした目を陽人に向けながら、
辰弥は中指で眼鏡を直す。
その時―――眼鏡を直した自分の手の甲に何かが当たったような気がして、
ふと、掌を反転させそれに目を落とす。
「……なんだこれは」
足を止めて低く呟いた辰弥に、陽人も立ち止まる。
相棒の手からは、何か赤い液体のようなものが滴っていた。
「血……?」
今日の仕事では陽人同様、辰弥も怪我など負っていない。
降りだした雨が身体に当たるのと似た感覚だったから、
どこからか降ってきたのだろうかと、辰弥は咄嗟に空に目を向けた。
脚から滴る血もそのままに、リーフェルトは羽を広げて飛行しながら逃げ回る。
怪我をしているのは最早脚だけではなかった。
肩越しに見やると、まだ追跡してくる二つのチャクラム。
一つ一つの威力は大したものではないが、 じわりじわりと時間をかけてなぶるように、自分の身体を少しずつ切り裂いていく。
「なんなんだよ、あれは―――!!」
訳が分からなかった。
どうしてあんなものに追われているのかと、
何度も頭の中で誰に向けたものでもない疑問が回る。
本当にあれが武器だとは思わなかった。
そしてチャクラムを操り、誰かが自分を狙っている。
しかし心当たりはない。
自分はまだこの世界に来たばかりで、半人前で、誰も傷つけてなどいない。
(どうして―――)
息を切らしながら、パニックになりつつある頭に一瞬過ぎる、陽人と辰弥の顔。
……まさか彼らが? 今自分を狙っているのは、あの二人?
自分の素性を知るのは、彼らだけだ―――。
(そんな、馬鹿な……でも……)
拒否する感情。
あんなに、自分に対して優しくしてくれたあの二人がこんな形で自分を襲うなんて。
信じたい気持ちと、犯人を彼らだと結び付けたい猜疑心が、
リーフェルトの意識を少しの間鈍らせる。
そして―――その少しの間が、命取りだった。
「半人前か。楽でよかった」
そんな声が上から聞こえ、ハッと我に返ったリーフェルトの胸は、
身を翻し空に対し身体を上に向けた瞬間、何かに貫かれた。
そしてそのまま、自分を貫いている得物と一緒に落ちていく。
ごぽりと口から血があふれ出す感覚も忘れ、 信じがたいものを見たというように、リーフェルトは目を大きく見開いた。
少年だ。
しかし自分を貫いたその少年は、陽人でも辰弥でもなかった。
それより更にリーフェルトを一番に驚愕させたのは、その背に生えた羽。
その形状。
(ヴァンパイア……僕と、同じ―――)