第1話 出会い
現代では語られていない、埋もれた数々の歴史の一つ。人間たちはかつて、人の姿をした化け物たちと大きな戦争を繰り広げた。
自然の掟に反した存在を討ち滅ぼさんと、魔女、魔法使いたちの協力を得た人間たち――しかし、化け物らの凄まじい猛威は幾多もの人間と魔法使いたちを屠り、戦争は壮絶を極めた。
『私はもう、ここまでのようです……』
『師よ――まだ、ここで貴方を失うわけには……!!』
『私のロッドを、あの子に……私の意志と共に……』
このまま真正面から化け物に向かうだけでは、最早勝てないこの状況下。残った魔女と魔法使いたちは力を振り絞り、化け物の敵兵たちのほぼ九割を、異世界へと転移させることで、長かった戦争に終止符を打つことに成功する。
その化け物の名は――『ヴァンパイア』。異世界に転移されたヴァンパイアたちと人間たちは、もう未来永劫触れ合うことはない……はずだった。
陽の当たる異界。
暗闇に慣れた双眸に馴染みのない明るさが目に付き纏い、高級マンションの一室から出た制服姿の少年は、咄嗟に片手をあげて顔を背ける。ただ眩しかったからというよりも、何らかの被害から顔を守るために身構えた――そんな表現の似合う、なんとも大袈裟なポーズである。
学校指定の清潔なシャツとブレザーを、ボタンを一つも外さずきちりと着こなした、ブロンドの髪、白人系の彼は、ハッと自分の行動の奇妙さを恥じつつ、何事もなかったかのように姿勢を正す。
(な、慣れないと……この先やっていけない)
誰かに不審な目で見られていないかと、つい彼は今の自分の挙動を誰かが目撃していなかったか確認する。マンションの廊下に誰もいないこと。自分に目を向けている者がマンションの下にいないことをよくよく確かめると、
少年はほっとして家のドアに鍵を差し込み、回した。
リーフェルト・ガーシェル。本名はリーフェルト・アップルガース。
ヴァンパイアの王家、アップルガース家の第五子である本作の主人公であるこの少年は、異界である人間界にやってきた15歳だ。
人間の血の味を知り、一人前になる。ヴァンパイアに生まれた者がいつか成し遂げなければならないその風習のため、人間のことをよくよく勉強するようにというのが、王であるリーフェルトの父の教え。
(眩しいなあ……)
幸い王家の血のおかげで塵になることはないが、焼き付くような日光に目がチカチカする。
家の資金で借りている高級マンションのエントランスを出、慣れない人間界の、晴れた四月の空の下、若いヴァンパイアはなるべく影のある場所を探して歩いた。
――南実先高等学校。
そこが人間界でのリーフェルトの新しい学び舎だ。
入学初日からまさかの熱中症になり、最初のイベントである入学式には出席できず、保健室で過ごす。
そんな不調の中クラスメートの名前や顔など憶えられるはずもなく。そして勿論人間たちと碌に会話などできるはずもなく、呆気なく一日が終わった。
翌日。
不運にもまた二日目も快晴だったので、リーフェルトは晴れ渡った青空を憎々しげに見上げ、げんなりしながら日傘をさして登校する。
(人間界ってみんなこうなのかな……。それとも来た国が悪いのか……?)
しかし自分で選んだわけではない。こんな“日本”とかいう小さな島国に好きで来たわけではないのだ。
長男を除く三人の兄姉たちが、『飯の美味いところにしようぜ!』と勝手にリサーチし、勝手にルーレットダーツで決められてしまった挙句勝手に日本に行くと周囲に広められ、結局この国に来ることとなってしまった。
まあ、確かに食事は美味かった。昨夜買ったスーパーの寿司とか。一昨日ふらりと立ち寄った店のかつ丼とか。
(でも決めるんならせめて薄暗くて快適な場所にしてくれよ……まったく)
同じ吸血鬼ならわかるだろうに、もう少し気を利かせてほしかったと兄姉たちを心底恨む。
「ねえ。……貴方、1-Aの人だよね」
「……?」
心の中で直接本人たちに言えない不満をぶちまけている最中、不意に鈴が鳴るような綺麗な声が耳に入り、リーフェルトは声の主を振り向った。
目を合わせた途端鼻腔をくすぐった、微かな香水の香りについ、くらりとくる。
「外国から来た人、だったよね?」
「……あ、うん……」
黒髪にセミロングの、大人びた顔をした少女だ。とても綺麗ではあるがその笑みはどこか幼く、小動物のように愛らしい。甘い匂いを漂わせた彼女は、くりくりとした瞳で自分を見上げていた。
「昨日は身体の調子大丈夫だった? っていうか日傘さしてるの? まだ四月なのに」
「……生まれつき、陽射しに弱くて」
「えー、そうなの? 大変だね。……えっと。君の名前」
「あ、リーフェルト。リーフェルト・ガーシェルです」
「ガーシェル君! 名前かっこいいね! 外国の人ってとこだけ覚えてたから、つい声かけちゃった! あはは」
人懐っこい娘だと、思わずリーフェルトも笑って警戒を緩めてしまう。初対面なのに気安いような態度も不思議と許してしまえるような魅力があった。
リーフェルトは彼女の纏っている制服が、自分と同じ学校指定の制服だと気づいて彼女の名前を聞いた。
「! ああ、ごめん、名乗ってなかったね。私は木塚小夜。貴方と同じクラスです!」
「木塚さん、ね。よろしく」
「ね。このまま一緒に学校行かない?」
「うん。いいよ」
「やった! 私いつも友達と一緒に登校してるんだけど、今朝全然寝癖が直らなくって。
待たせるの悪いから先に行っててもらったんだ」
「ああ。だからちょっとハネてるんだ? 後ろ」
「えっ、やだ。直ってない??」
「着いたらワックス貸そうか」
「え、マジで?」
「男用でよければ」
「ありがとう! 学校ついたらでいいからね。助かるー!」
後ろ髪を抑えて恥ずかしそうに笑って、小夜は朗らかに笑っている。
そしてまたふわりと香る香水に、リーフェルトは少したまらないような気持ちになった。
「さっきから思ってたけど、君、どんな香水つけてるの?」
「……ん?」
「香水。いつもつけてるの?」
「え? 香水なんてつけてないけど……」
「嘘」
「うん……。……! え、え、私、くさい??」
「い、いや、そうじゃなくって――」
他愛のない話をしながら、初めてまともに人間と会話を交わし、通学路を共にする。
陽射しには暫く慣れそうにないが、人間たちにはうまく溶け込んでいけそうだとリーフェルトは安堵した。
入学式から早一週間。
まだ少しぎこちなくはあるが、リーフェルトを含め誰も皆、新しいクラスと新しい学び舎に馴染みつつあった。
「ガーシェル君って肌白いよねぇ」
「そうかな?」
「うん、雪みたい! 夏とか大変じゃない? ヒリヒリして」
1-Aの教室内。授業の合間の休憩時間で、クラスメイトの女子と他愛のない会話を楽しむ。
その最中、ふとその女子の後ろで男子二人と話している一人の少女が視界に入り、ついついリーフェルトは視界の端で彼女を気にした。
(ああ、まただ――)
また瞳が引き付けられている。あの少女、木塚小夜の方に。
どうしてあんなに気になるのだろうと、彼女を目に入れる度に不思議に思う。
彼女はそんなことを考えているリーフェルトの心の内など知らずに、ニコニコと相変わらずの人懐っこい笑顔で談笑を楽しんでいる。
「……また木塚さん見てる」
「……!!」
慌てて目を自分が会話していた相手に戻せば、どこか悪戯っぽい目とかち合う。先程まで自分が談笑していたクラスメイトの女子が、茶化すような調子で笑った。
「告白するんなら急いだ方がいいよー?
木塚さんとは私、同中だったけど、そりゃーもーモテモテだったよ!」
「っ、ぼ、僕は別に……」
「いいじゃん。あの子美人だけどなんか、鼻にかけてないっていうか。
話してみると見かけによらずちょっと幼いっていうか、案外可愛い系? 癒し系?」
まあ、わざわざそんな言葉にしてもらわなくてもそんなことはわかる。
確かに彼女は、人間ではない自分から見ても可愛らしいと思う……が。恋人にしたいか。タイプなのかと聞かれれば、なにか違うような気がする。
人間よりも遥かに長寿であるヴァンパイアの世界ではまだまだ赤子同然でしかないリーフェルトだが、恋の一つや二つくらい普通にしたことくらいある。
(……だから、なんだろう。恋とか、そういうものじゃなくて――)
「いっちゃえば? 本気なら。でも、遊びとかなら近づかないほうがいーよ。二階堂に殺されるから」
「? ……二階堂君??」
「あれ。今木塚さんと一緒に話してる男子。
家近くて幼馴染で、兄妹同然なんだって。高校も同じなんて、本当木塚さん愛されてるよねー」
「……へえ」
まだ一週間しか経っていないので、クラスメイト全員の名前はまだよく覚えていない。
話し相手の目を追いかけて視界に入った、すらりとした長身を持つその眼鏡の男子は、ニコニコと楽しそうに話す小夜とは対照的に、淡々とただクールに相槌を打っていた。
その日の午前の授業が漸く終わり、昼休みの時間になる。
ふと外を見るといつの間にか空は曇っていて、陽射しがないようだった。
しかし、雨は降っていない。
(……そうだ。良い天気だし、屋上で食べよう)
折角の快適な空。
自分も人間たちのように、気持ち良く高い場所で食事がしてみたい。
購買部で気になるパンを購入し、階段を鼻歌交じりで上がっていく。
ドアを開ければ、初めて足で立つ学校の屋上。
やはりそこには陽の光などなく、心地良い涼しい風だけが自分の頬を撫でていくだけ。
どうやらまだ他の生徒は来ていないようだった。
さあ一番眺めのいい場所はどこだろうと、ドアを閉め歩き出したリーフェルトだったが――
「……?」
何かが背中に当たった感覚に、リーフェルトはすぐに足を止める。
何やら重いものが落ちたような音が耳に入った気がして振り返れば、そこには一冊の書物。
それはなかなか分厚く、表紙を見る限りなかなか古い書物のようだった。
「わ、悪い! 大丈夫か――」
後ろから焦ったような、男子の声。書物を落とした本人だろうか。
厚い書物を自分にぶつけてしまったことを謝っているのか。
そんな考えが過ぎるも。すぐにそんなことは、リーフェルトにとってどうでも良くなった。
彼は今、それどころではなかった。
リーフェルトはなにやら喉にこみあげてくる違和感に、咄嗟に、口許を手で覆う。
「げほ……っ」
一回。身体を屈し、咳き込む。
すると口から何か液体が飛び出し、自分の手やコンクリートを嫌な音と共に濡らした。
そしてその液体が何なのかその目で確認し――リーフェルトは自身の目を疑う。
紛れもない、血液。
嗚呼。血を吐いたのだ。今、自分は。
「……お前。人間じゃないのか」
自分の手を見下ろし愕然としているリーフェルトの背に、落ちてくる冷静な男子の声。
リーフェルトは、驚いてその声の主を振り返る。
その時、リーフェルトは気づいていなかった。
魔力を使うときと同じように、自分がその瞳に青い光を宿していたことを。
そして――塔屋に座り、人ではない者を見下ろす少年の瞳と、リーフェルトの双眸が、まっすぐかち合った。
陽射しのない。快適で素晴らしい、曇り空の下だった。
少し直しました