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神ヒト血鬼~たった一人の最後の人間《レスタト》~  作者: HibinaJestzona(火雛じぇすとーな)
第1章『最後の人間』
5/12

第3話『靴音が君臨する』

当ページの

文字数(空白・改行含まない):10302字

行数:289

400字詰め原稿用紙:約26枚

  

  


 例えば、自室で一人っきりで微睡(まどろ)んでいる時。

 突然見知らぬ誰かが這入(はい)ってくれば、誰でも怖気(おぞけ)を感じるだろう。

 熟睡状態からでも即、飛び跳ねてしまえそうな、差し迫った危険信号が体を駆けるはずだ。

 そんな危険信号は、音や空気の揺らぎだけで感じるものだろうか? 家族の足音ではなく、風の悪戯でもなく、異常事態なのだと――そう判断する材料は、五感や記憶だけだろうか?

 耳、鼻、肌や骨で振動を感じる以外にも、異変自体の震度を感じ取れる気がしないか?


 十二月一日、夜。アージェンタイトの魔女を発見してから、約一〇分が過ぎた頃。

 交通課あがりの青年は、生まれて初めてそんなことを考えた。


 そんな感覚器が、たとえ身体の何処にも無かろうと。

 未知の感覚を、器官ですらない身体の何処かが。あるいは、身体の何処にも無い「何か」が。

 感じられてもいいじゃないか? 自分の死が迫っている時くらい。

 死神の足音を聞くのに、耳は要らないだろう。命さえ有ればいいはずだ。

 もっとも――そんな足音を、決して聞きたかった訳ではないが。

銀煙幕弾(シルバースモーク)セット、いいな? 撃つぞ!」

「撃て! 五百メートル先に重ねろ!」

 応答を聞くや否や、三人の警官が、携帯式の射出器(ランチャー)から擲弾(てきだん)を撃ち出した。

 筒のようなそれは硝煙の尾で放物線を描き、どれも指示通りの距離で地を打った。アスファルト舗装面をろくに転がりもせず、種々の銀塩片からなる猛毒の煙を吐き始める。

 出来上がるのは銀煙のカーテンだ。携帯電燈(ランタン)の光を遮り、視線が通らなくなる。

 と同時に、トンネル西方からひしひしと感じていた圧迫感も少なからず遠のいていく。

 銀がヴァンパイアの身体を傷つけ、自然治癒を疎外することは常識だが、“感覚を鈍らせる”効果を実感したのはこれが初めてだ。とはいえ、脅威が去った訳ではない。

 もう自分は、“五感以外で何かを感じる”という経験を知ってしまった。その感覚に繋がれた世界で、何が見えるかを知ってしまった。

 盲目の者が、視覚の概念を得てしまうようなものだ。

 価値観そのものをこじ開けられたのだ。戻りようがない。感じなくなっても探してしまう。


 人の気配ではない。

 自分はまだ間近の同僚たちの気配すら感じられないままだ。そんな自分の感じている“これ”が人の気配であるはずがない。こんなものが――人であるはずが。

 なら郊外を彷徨(うろつ)くという野犬の群れか?

 違う。“多数の小さな何か”ではなく、“一塊の大きな何か”だ。

 ここにいる警官全員、あるいは数十人の血と命を練り合わせても、まだ及ばない規模の。


 青年は周囲の仲間たちを見た。

 ある者は煙幕の増していく様をひたすら見つめ、またある者は時折、仲間同士で視線を交わす。例外なく銃をしっかりと構え、二種の銃器を携帯していた者はより強力な方に持ち替えていた。いまだにただの拳銃を手にしているのは、新人の青年だけらしい。暗視装置を外した者も散見された。

 何人かの警官が、銃身下部のサーチライトを点灯させた。廃車の群れ、汚れたトンネルの内装、そして煙幕の表面を、索敵光が泳ぐ。無意味でも探さずにいられない。


 そんな(はや)る人集りの中、メガネに修道服という()()ちの魔女が、辛うじて立っている。


 折れたままの腕を(かば)いつつ、沈鬱な面持ちでやはり西を眺めていた。

 彼女もまた恐れているが、警官たちと違って、もう焦りや困惑の色は見えない。諦めたような人形のような目で、煙幕ではなくその先へと視線を馳せて――

 次に数秒だけ、全く逆の方角を見つめた。

 東西に延びるトンネルの東側。つまりコフィン・シティの外、廃墟の方角をだ。

 なんだ? その方角に逃げることを考えたのか?

 それとも――そういえば西からの異変に気付くのは、マロイよりも彼女の方が早かったが。

 東にも、何かを感じているのか? その方角にも、何かが居るのか?

「マロイ、わかるか?」隊長の声だ。

「ああ、まだ居る……ゆっくり歩いてる。もう一キロも無い……」絶望げなマロイの声。

 トンネル入り口の検問所に待機していたはずの別働隊とは、連絡がとれない。それどころか全員の通信機が一切の電磁波を拾わなくなった。

 まるでこの一帯から“電磁波が消えた”かのようだが、そんな莫迦(ばか)げた妄想を実際に語る者は居なかった。

 全員の通信機が一斉に謎の不調をきたした、と考える方が遙かにマシだからだ。

 莫迦げた妄想こそが正解だったときのことを、考えたくなかったからだ。

「……これで全員ただの錯覚だったら、いい土産話になるぞ。全員、東へ退避するぞ! 三百移動するたびに煙幕を貼り直す。突破してくるものが有ればなんであれ、ぐっ――?」

 ひゅごっ!

 隊長も、他の警官も、もちろん少女までもが、同じタイミングで呼吸を封じられた。

 突風が吹いたのだ。

 乱気流、いや衝撃波と言った方が正しいかもしれない。

 ごおおおおおおおおオオオオオッ!

 それは銀の煙を押して散らすだけではなく、錆び付いた自動車を横転させ、路面鉄道用線路の脆い箇所をめくり上げた。軽い廃材が、まだ煙幕を噴出中だった三つの擲弾(てきだん)と一緒になって、皆の後方、トンネルの遙か東方へ飛び去っていく。

「きゃあっ!?」

 飛来した金属片を避けて、少女が地面に転がった。ネジや砂塵を浴びながら隊長が()える。

「銃列乱すな! 車ごと飛んで()やしない!」

「だからってこんな出鱈目(でたらめ)な、――」ざぱん、という音と共に、警官一人の声が途絶えた。

 音のした方を、声の途絶えた方を、少女が見上げた。

 すぐ傍ら。

 ひとりの警官の首と胴が離れて、前者が天井すれすれまで()ね上がっていた。

 脱力した胴の周囲を、黒い何かが(はし)ったような。

 輪郭のはっきりしない黒い鞭のようなものが、反転して西へ飛び去ったような?

「なんだ!?」

「畜生、撃て!」

 血の降る音を掻き消すように、悲鳴と銃声が響き渡る。

 古参警官たちの動体視力は、明らかに何かを狙って発砲した。しかし各々の索敵光と弾道は虚しく路面を叩いて削りながら、みるみる西へ遠ざかる。

 煙幕のなくなった五百メートル地点を越えて、ほんの数秒で弾雨は焦点を失った。トンネルのカーブの向こうへ取り逃がしたのだろう。索敵光が散開し、路面や壁の曲面を舐め始める。

 静寂が。

 あるいは、警官たちの混乱に満ちた会話のひとときが――

 訪れることはなかった。

 首から上を失ったマロイの体が、断面からありったけの血を噴き終えて、どさりと倒れる。

 たったそれだけの猶与しか置かずに、脅威が再来した。


 不定形の黒く細長い“線”が一筋。


 紐ではない。紐状の物体ではない。黒ペンキで描かれた絵のような、一筆書きの床の模様。

 カーブの向こうから地を這って伸びてくる!

「うあああああああああああああっ!??」

 間違いなく全員が悲鳴を上げた。青年ですらトリガーを引いた。

 殺到する銃弾の嵐を、しかしその「線」は悠々と通り過ぎてしまう。まるで草叢(くさむら)でも避けるように平然と迂回し、隙間を縫うように通り抜けて、移動するのではなく先端を伸ばす。

 速い。数百メートル先で照準を定めようとした頃には、もう警官隊の足元に来ている!


 切り刻む時だけ床を離れて、それは立体的に鞭のように宙を往復した。


 いつのまにか二股に分岐していた鞭が、最前衛で発砲していた警官二人の四肢をぶつ切りにバラ撒いた。首は()ねない。断面が広すぎて今度は血の噴水も上がらない。骸の各部が二人分、無力に落ちて、バケツでもひっくり返したようなジャバジャバという音を立てた。

 その落下と雨音に紛れて、敵も地に沈む。

 アスファルトの地面から剥がれて鎌首を振った黒いそれは、再び地面にピッタリと貼り付いて、形を持たない二次元の存在に戻った。

 その変化を見て、青年は思い至る。

 地面の細かな凹凸・ひび割れに、綺麗に沿って同化した黒絵。

(見たことがある……)似たものを。日常的に見知っている。索敵光に照らされた様など特に。

 影。これは影だ。

 物体を光で照らした時に、光源の反対側に現れる限定的な暗所。それが動いているのだ。ただし大元の「物体」が見当たらず、しかも影自体が殺人を行っている。

 この影は地面を伝って、西から細長く伸びてきている――

「くっそ化け(モン)、がアアアッ!」

 野太い罵声と共に、大柄の警官が駆け寄って散弾銃(ショットガン)を撃ち込んだ。

 それまでのどの銃声よりも重い轟音が、ポンプアクションの駆動と交互に場を覆う。

 カシャコ、ドウン! カシャコ、ドウン! カシャコ、ドウン!

 老朽化したとはいえ平面を保っていたアスファルトが、発砲ごとに砕けて開く。

 正確に狙われたはずの影絵は、発砲ごとに後退して短くなるだけ。かすりもしない。

 しかし遠ざかった。

 それを好機と読んでいいかはわからなかったが。賭けに出る者はいた。

「これならどうだ……!」

 隊長が、一回り大きな狙撃銃を構えた。ボルトアクションの動作から一拍を置いて、部下たちとは違う距離めがけて銃声を鳴らした。

 ライフル弾は、迫り来る黒線の先刃部ではなく、遠方の幹(?)の部分を狙ったのだ。トンネルカーブによる死角すれすれ、直線で狙える限り最も遠い限界点である。銃火にさらされていなかったためか、支点としての役割があるのか、その部位はさっきから微動だにしていない。

 着弾の火花が閃いた。隊長警官の狙撃は完璧だった。

 だが彼の放ったライフル弾は、黒線を断裂する寸前に、まるで見えない壁にでもぶつかったように空中で甲高く砕け散った。黒線は火花に照らされただけで、相変わらず動かない。

 その結果を、おそらく場の全員が見届けた。

 ライフル弾を何が阻んだのかはわからない。それでも望みが絶たれたという事実はわかる。


 銃声が明らかに減って――そして途絶えて、今度こそ静寂が訪れた。


 影の触手が音もなく縮んで去っていく。

 まるで、ただ警官隊を黙らせるだけが目的だったようにだ。

 うねるのをやめ、ただ短くなって遠ざかる様は、こちらの銃撃を明らかに警戒していない。呆然となった警官たちの隙を突くことも出来ただろうに、そんな素振りも皆無だった。銃撃を(かわ)しながら容易(たやす)く迫って殺せるのだから、隙の有無になど興味は無いということか。

 遠ざかっていく影に、追い撃ちをかけることはできただろう。しかし当たるとは思えない。青年も早いタイミングで発砲をやめてしまっていた。たとえ当たっても通じるとは限らないし、効いたところでなんになる?


 この影を(つか)わした本体が最早、すぐそこに居るのに。


 トンネルのカーブを曲がった先で、ダンプカーほどの巨大な何かが息づいている。

 殺人鬼ではない。かの殺人鬼は、誰にも気配を悟らせない神出鬼没ぶりゆえに『消失者(ヴァニッシャー)』と名付けられた。得物も銃や刃物だったはずだ。今の襲撃とは似ても似つかない。


 では、この敵はなんなのか?

 今ならわかる。

 五感以外で知覚できる世界や、影を動かすという現象を認めた今ならば、青年にもわかる。


 というより、特徴や事態を総括すれば誰でも辿り着くほど自明だった。一般常識とさえ言っていい。こんな現象を起こせる怪物のことを、知識としては街の子供だって知っている。

 なのに証拠を認めるまでは誰も思い付かない。事実、公安警官隊は殺人鬼との遭遇まで想定して今夜ここに来たが、そんな彼らにとっても想定外の敵だった。いや敵以上のモノか。

 誰もが知っているし、間違いなく実在もするが――

 街で暮らす限りは決して関わることのない、棺外世界(アウターワールド)よりも殺人鬼よりも縁遠い存在。

 聞けば警察の中にも、影を多少動かしたり、風を起こしたり出来る者は居るらしい。あとは念話か。決して実用に耐えるレベルではないが、それでも彼ちは警官で居続けるために、その切れっ端ほどの才能を必ず隠す。マロイの才能も仲間内だけの秘密だった。

 才能が明るみに出れば、彼らは平民街での今までの人生を剥奪され、ある場所への移住を強制されるからだ。そこで本来の主君に直接、仕える身となる。拒否権は無い。


 場所の総称は、貴族領。

 地上平民街の真下に位置する空洞聖域。コフィン・シティの地下領域(アンダーワールド)


 そこを治める主君たちは、存在の根底からして平民とは異なっており、肉体は()(もの)でしかなく、実体はこの世界に存在しない何かであるという。そして、平民のやるような真似事ではない本当の秘術妖術――『式』と呼ぶらしい――を、手足同然に常用するという。

 彼らは決して地上に出てこない。機械だらけの平民街は下俗の地と見做(みな)されているらしく、統治するにしても平民の使節を遣わすだけだ。御自ら街に現れるなど聞いたことが無い。

 なのに今、それが間近に迫っている。そうとしか考えられない。

「……貴族……」少女が呟いた。

 先刻の悲鳴と同じ喉から紡がれたとは思えない、澄んだ可憐な声だった。血腥(ちなまぐさ)い音が耳に残っていたせいか、清澄さには感銘すら覚えた。


 貴族。誰かが声に出して言うべき言葉だった。受け入れがたい事実を認めるためにだ。


 その単語を発音することは何故かタブーだった。誰かが禁じた訳ではないが、貴族(それ)や貴族領が話題になった時も、直接の言及を皆が避ける。不文律があった。

 おそらく、「彼ら」が平民と平民街を避ける以上に、平民が「彼ら」を避けていたのだ。

 意識することを拒んでいたのだ。

 少女の発言以後、再び静寂が戻ってきた。影線が見えなくなってから十秒経っても、誰も動けない。見えないワイヤーで縛られたような重い空気だった。

 そんな沈黙と静寂を、ゆっくりと(ほぐ)すように――西方から――

 コツ、コツ、コツ、コツ。


 靴音が君臨する。


 コツ、コツ、コツ、コツ。コツ、コツ、コツ、コツ。

 不自然な音だった。ここ数分で耳にした誰の足音とも違う。アスファルトの地に鳴っていい音ではなく、演劇場の(オーク)の床と、舞踏用の靴が奏でるような、足音というよりは音色だった。

 気配から想像した巨体、化け物のイメージとは似ても似つかない。小気味良くさえある。

「っ、くっそおおおおおお!」

 沈黙の鎖を破って、あるいは()をあげて、警官のひとりが怒号を上げた。数分前、煙幕弾を最初に発砲した男だ。手には再び射出器があり、なんらかの弾頭を――撃った。

 小銃弾よりも重い弾頭が、ひゅるひゅると西へ飛んでいく。放っておけば、視線の途切れる地点でトンネルの曲壁に着弾しただろう。


 寸前、人影が歩いて現れる。

 臨戦態勢でもなんでもない、散歩するように悠々と歩いて現れた人影が、弾道に重なる。

 爆発が起こった。


 トラックの一、二台は横転させる規模の爆発が、しかし一瞬で消える。

 人影の足元から影が伸びて、爆発を先回りするように大きく広がったのだ。そして爆発を覆って包み、握り潰した。食べるようにだ。衝撃波はおろか爆音の残響すら残らない。

 影は――まるで巨大な野花が(つぼみ)を閉じて、頭を垂れているような形で、それこそ草花のようにゆらりと揺れた。

 揺れるままトンネルの曲壁に貼り付き、二次元の存在となってから、人影の足元を目指してゆっくり流れて戻っていく。

 人影は、すらりとした男のそれだった。スーツ姿だと直感できる。手をポケットに入れるか、あるいは腰に当てるかしているようだった。

 大型車輌ほどの大きさを想像させた威圧感の正体が、たったひとりの優男。

 しかし目を疑う必要は無かった。むしろ瞭然に、ありのままを信じられた。

 ゲート・トンネルの壁いっぱいにひしめいて蠢く男の影が、翼や尻尾をうねらせて大首を巡らせる化け物を(かたど)ったためだ。それ自体は、ひょっとすると偶然だったのかもしれないが。


 こいつだ。間違いない。そしてやはり人ではない。

 青年は子供の頃の絵本の記憶から連想した。悪竜(ドラゴン)悪竜公(ドラクル)竜公子(ドラキュリア)


 人影がこちらを見た。


 青年の心に、恐怖と悲嘆の感情が“外部から”流れてくる。拒否したい衝動で埋め尽くされたが、青年の赤い眼球は自然に動き、視線を直視してしまった。

 途端に、脱力感が支配する。立ったままなのに、銃を持ったままなのに、手足に力を込めることも放棄することもできなくなった。体の主導権が自分に無い。外から何かに接収された。

 意識すら、操られていた。

 男の目から視線を逸らせない。心を逸らせない。釘付けになる。

 金色のふたつの瞳に。

 酒がグラスへ注がれるように、魂が注がれていく。

 残らない。自分が何をしていたのかも思い出せない。

(……あっ……、レオンだ)

 青年の魂が、最後にそれだけを呟いた。

 レオンを求めて呼んだわけではない。レオンを感じたような気がしたのだ。

 それも見付けた、遭遇したという域ではなく、レオンに導かれて“入った”と感じた。仲間入りをしたように、吸い込まれて同化したように、混ざり合ったように、何故か感じた。

 レオンとよく似た何かに加わったような――

 スーツ姿の化け物に飲み干されながら。


   ◆


 貴族吸血鬼(ヴァンパイアロード)の金の瞳は、平民の赤い瞳から意識を奪う。

 実際にその通りになった警官たちが、立ったまま脱力して、やがてゆっくり銃を落としていくのを見届けながら、ヤサヤは思った。

 やはり正統な貴族の視線は、自分の視線よりも強い。

 ヤサヤは視線が合ってからようやく相手を支配できる。背けた者に対して、視線を合わせるよう強制することはできない。しかし現れた男は無言でやってのけた。次元が違う。

 ――それから少女は、先程まで自分の敵方だった男どもが速やかに餌食となっていく光景を、黙って眺めていた。

 見殺しにした訳ではない。ただの順番待ちのつもりだった。

 彼らの次は自分の番。平民警官に追い詰められた自分が、貴族から逃げられる訳がない。

 そんなヤサヤの諦めを見透かしたが如く、捕食者は彼女を後回しにした。


 純白のシングルスーツ。瞳に比べると色素の薄い、金の短髪。どちらも闇の中とは思えないほど鮮やかで、決して発光してはいなかった。何かに照らされているかのようだった。


 ひときわ甲高く靴音(タップ)が鳴った。白スーツの捕食者が爪先で地面を小突いたのだ。すると、彼の足下から勢いよく跳ねるように、一振りの短剣が現れた。影の中に収納していたということは、銀製ではないのだろう。しかし、やはり平民には思いも寄らぬ芸当だ。

 男は両刃の短剣をキャッチし、跳躍した。痩身(そうしん)をくるり(ひるがえ)し、逆手に握った短剣で、自らの左の(てのひら)を串刺しにする。

 白い残像の放物線を描いた果てに、棒立ちの警官一人の眼前へと降り立つ。


 そして短剣が刺さったままの左手で、警官の胴体を突き破った。


 血の雨は降らない。血飛沫(ちしぶき)は上がらない。

 警官の胸から零れるはずだった鮮血は、白い捕食者の左手の傷にドクドクと殺到していく。

 見えない太い血管(ケーブル)を辿るように、流れは脈を打っていた。リズムがあった。心臓の鼓動と同じだ。奪われる者の脈動が消え入り、奪う者のそれを奏でていた。もはや、哀れな警官の血ではない。手の傷口に吸い込まれる以前から、血の所有権は捕食者に移ってしまっていた。

 数秒後。もはやカラの(さかずき)でしかなくなった犠牲者を、白スーツ氏はぽいっと捨てる。

 ヤサヤの視線は、その末路――つまり、地面に激突した衝撃で粉々に砕けてしまい、屍灰(しはい)となって四散する様へ釘付けになったが、暴君はもう次の酒杯へ着手していた。

 封を開けて(切り裂いて、突き入れて、叩き潰して)。

 飲み干して(掌の傷から、伸ばした影から、ほんの少しは唇から)。

 そして次々と叩き割っていく。

 後に残るのは警官の制服や装備一式。制服の袖や裂け目から屍灰が零れる。


 しかし、最後の犠牲者に関してだけ、白スーツの暴君はミスを犯した。


 棒立ちではなく、最初に首と胴を切り離されたっきり倒れて心肺停止していた警官を、彼は自分の手足でもなければ影でもない、見えない「何か」でプレスに掛けようとしたらしい。

 念動力で圧縮した空気の塊か、あるいは透明な厚板やブロック状の物体か。隊長と思しき警官がライフルを撃った時、弾が空中で阻止されたのをヤサヤは思い出した。

 とにかく、そんな分厚い透明な何かが、警官の頭と胴体を上から()して、ぐしゃりと。

 骨の形も、肉片も残さない。全てが赤黒い液に変わって、それらは暴君の影に吸い込まれていく――

 そんな算段だったのだろう。

 プレスの底で、たったひとつの誤算が破裂した。

 すなわち、犠牲者の銃か制服に仕込まれていた、銃弾のカートリッジが()ぜたのだ。

 その爆発すら透明なプレスを押し返すことはできなかったが、銃弾には無論、多量の銀が含まれていた。

 炸裂した銀は、彼が飲むはずだった鮮血を()き、屍灰(しはい)にしてしまったのだ。

「なっ――……ああ、しまった」

 今まで見てきた凄惨さ全てを疑いたくなるような気楽な声を、白スーツの男が吐いた。

 緊張感の無い、優雅だが気だるそうな若い声音だった。まるで流血も銃撃も屍灰も何もかもが劇団のお芝居で、予行演習の最中うっかりカップを落としてしまったような。

 些細なミスを嘆く声だった。

 重大な事態などひとつも起きていない、と言わんばかりに。

 男は左手から剣を抜いて、伸ばした影に回収させた。傷口が癒えるまではほんの数秒であろうに、それすら待たず、手で髪をかき上げる。短い金髪は汗と無縁だが、こんな廃道の闇の中でも瑞々しげに、指の間を泳ぐ。


 そしてヤサヤを見て、笑みを浮かべた。


 遠出した先で、友人に会ったような笑顔だった。失敗を笑われた時に、気分を害さず一緒に笑うような笑顔だった。骨折り損の労働の苦楽を、いっしょくたに愛でるような笑顔だった。

 そんな友好的な気軽さで表層を覆いつつ、金の瞳はギラギラとヤサヤを観察している。

 奇妙な装身具で目元を守り、所属を示す(タグ)を一切外した修道服を着て、貴族の金の視線を無効化した癖に、折れた腕をいつまでも庇っている娘。平民警察に追われていた娘でもある。

 男から見て、自分は果たしてどれほどの不審者だろうか?

 それだけではない。

 男の知覚は、おそらくヤサヤと同格かそれ以上のはずだ。ならばヤサヤが男から“化け物じみた気配”を感じるように、この男もヤサヤの気配を探れるはず――

「なんだろうな? お前は。結局、純血種の居所を知っているのか?」

「……え?」

「純血種、だ。賤民(せんみん)の警官どもに疑われていただろう。奴の仲間なのか、違うのか?」

「……」

 じゅんけつしゅ。初めて聞く言葉だ。反芻して、ヤサヤは意味を考える。

 すると、表情の変化から即座に察しを付けたのか、白スーツの貴族は笑みを「変えた」。

 (ともがら)に対する笑みと、敵かもしれない者に対する笑みと、供物や玩具に対する笑み。

 その比率が僅かに変動したと感じるが、分析が及ばない。わからないことが多すぎて、どの疑問から手を付ければいいのか、焦点がわからない。思考をまとめられない。

 こういうとき、最近なら仮面たちが――ヤサヤの中の別のヤサヤたちがしゃしゃり出てくるはずなのに、影も形も見当たらない。

 どうして?

 警官たちに囲まれている最中は、子供っぽい方の自分が出しゃばってくれたのに。

 この貴族がゲート・トンネルに入ってきた瞬間、ヤサヤの虚飾は消え去ってしまった。

 小手先の嘘なんて通用しない、全部見透かされるのだ、という宣告のように。

「禁じてやろう。ひとつ、僕に正体を明かすな。素性を秘したまま、慎重に振る舞え」

 男が言った。左手の人差し指を自分の口元でかざし、数字の「1」にも「秘密」を表すサインにも見える微妙な位置でしばし揺らした。

 言うまでもなく、その手には傷痕ひとつ、煤汚れひとつ見当たらない。

「許してやろう。ひとつ、僕に対して口車を(ろう)せ。僕は今夜、純血種狩りで程々に忙しい。お前のために時間を割いてやってもいいし、さっさと殺してもいいし、後回しにできるならそれが一番いい。うまく僕を欺けば、この場を切り抜けて、街に隠れる猶与も作れるだろう。うまく僕の気を惹いてみろ。この窮地を潜り抜けるために」

「……あ、あなたは」

「一度きりだ。僕を(たばか)る無礼を、一度だけ許すと言った。街に帰って、昨日までと同じ日常に戻るチャンスだ。よくよく言葉を選べ、小娘」

「……」

 ヤサヤは息を呑んだ。念押しされて怯んだからではない。言葉を失ったためでもない。

 逆だ。男の語りのごく一部が、彼女を駆り立てたのだ。そんな自分を咄嗟に抑えた。

 自分の持っている情報と、今ここで見聞きした断片を照合する。

 警察――殺人鬼――廃墟――外界――ゲート・トンネル――ヤサヤ。

 貴族――純血種――地上――外界――ゲート・トンネル――ヤサヤ。

 ヤサヤ――殺人鬼――廃墟――外界――ゲート・トンネル――武装警察――貴族。

 昨日までと同じ日常に。

 戻るチャンス。男はそう言った。

(なんのためのチャンスか、あなたに決めて欲しくない……!)

 そんな反論の代わりに、彼女は最も適した言葉を探す。

 勝ち取るべきものは決まっている。

 安全や日常のために、ここへ来たのではない。

 自分は『ヴァニッシャー』に会いに来たのだ。

「………………………………私、は……あなたよりも、ずっと!」

 紡いだ言葉は、懇願でも、提案でも、命乞いでも、嘘でもない。

 白い暴君の笑みが歪む様を見て、少女は覚悟を決めた。


――#3『靴音が君臨する』終

  

  

  ◆次回◆


「そうだな、酷い臭いだ。しかし我々の血の臭いは、これとよく似ているんじゃないか? ヴァンパイアを生かす命の臭い、そして死ぬときにぶちまける死臭、どちらも同じだ。小娘、この瓶に詰まっている物がわかるか?」

「……鉄と泥で、血の臭いを真似できるとは聞きますけど」

「次元が違うだろう? 臭気だけでなく、こいつは『そこに誰かが居る』ような錯覚を振りまく。まるで本物の血や『式』で出す影のようだ。純血種は自分の居場所を誤魔化すために、(デコイ)としてこの瓶を、廃墟のあちこちに隠しているが――正体は、奴自身の血だろうな。これは凝固した血液だ」

「ぎょうこした、血……?」

 ヤサヤには意味がわからなかった。

 ぎょうこ……凝固? 液体や気体が固体へ状態変化する現象。そこまでは想像が及ぶ。

 しかし「血液が凝固する」とは、どういう意味なのか?


――次回、第4話『魔女と悪竜の探索行』

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