グリード&ハッピーキス
二つ折りの手鏡を取り出して開く。
自分の顔を映し、変な汚れはついていないか、服装は乱れていないか、チェックする。
鏡の中の自分は、明らかに緊張しきった面持ちでこちらを見つめている。だけど、兎にも角にも身だしなみはオーケー。多分オーケー。及第点に届く程度には整っていると思う。
手鏡を折りたたんで、黒を基調とした制服のスカートのポケットにしまい込む。
こうして鏡を見て、身だしなみを確認するという行為を、ここに到着してから既に五回は繰り返している。それもこれも、身体が強張るほどのこの緊張のせいだ。別にこれから愛の告白をするわけでもないのに。
いや――ある意味、それに近いことをしようとしているわけだけど。
放課後の方代学院高校は、柔らかい夕陽の光に包まれ、全ての風景が茜色に染まっている。校舎の真っ白な壁がぼうっと朱に彩られ、まるで西洋のレンガ造りの家屋のような趣を呈している。
その校舎裏にそびえる一本の大きな木の下に、私、一之瀬心は佇んでいた。
校舎裏。女子校である方代では、この定番の呼び出しスポットは普段あまり使われることがない。いわゆる不良と呼ばれる生徒が時折この場所を溜まり場にすることがあるらしいけど、今日はそういった人たちの姿を見かけることはなかった。
私は木の幹に寄りかかりながら、無意識のうちに、本日六回目の身だしなみチェックを行った。といっても気分は浮ついていて、鏡の中の自分に集中することができない。
強い風が吹いて、頭上の枝葉がざわざわと擦れ合う。
まだかな。
手鏡を強く握り締めたまま、緊張している時の癖で爪を嚙んでしまう。
私はこの場所に、ある人物を呼び出していた。
相手は同じくこの方代に通う、一年上の先輩だ。彼女自身は私との直接の知り合いではないけど、私が方代附属中学の時からお世話になっている凪島昭美先輩と、友達の関係にある人だ。
今回の呼び出しは、私がその人と直接示し合わせたわけではなく、凪島先輩を通じて連絡をとってもらった。なので私自身は、彼女の姿を見たことがない。
「こんにちは」
つまり私にとっては、この挨拶が彼女との初めての出会いだった。
「ひゃっ!」
反射的に、幹にもたれかかっていた背中がぴん、と張った。
声の方に振り返り――そして思わず息を呑む。
校舎裏から校庭へと繋がる、細い通路の入り口。
夕陽の茜を背負い、その瞳に透き通る水面のような静けさを秘めて、彼女はそこに立っていた。
その唇は、まるで絵画の中のマリア様のような柔らかい微笑みを浮かべている。
私は無理に背筋を伸ばした姿勢のまま、ぽかんと開けた口から吐息を漏らした。
瞬きを忘れて、彼女の瞳を見つめる。
背中まで届く、夜闇を溶かし込んだような黒い髪。輝きを放っているように錯覚してしまいそうな、雪のように白い肌。私と同じ制服を着ているはずなのに、彼女はそれを、まるで御伽噺に出てくるお金持ちのパーティードレスのように着こなしている。けれどもそんな整った美貌を持ちながら、その佇まいには僅かなあどけなさが感じられる。
深窓の令嬢というよりは、心を許すことのできるお姉さん。それが、彼女に抱いた私の感想だった。
「あ、ごめんなさい、驚かせちゃったかな?」
彼女は地面に落ちた枯葉を踏みしめながら、歩み寄ってくる。
「……っ! いえ、そんなことは!」
完全に見とれていた私は、彼女の言葉に対する反応が遅れてしまった。両手を顔の前でぶんぶんと振り、彼女の顔をじろじろと見つめていた自分に気づいて、思わず足元に視線を落とす。
――きれいだな。
私は頭を垂れたまま、上目遣いで彼女を見上げる。
頬が熱い。
これからすること思って、私の緊張はますます高まった。
「…………」
たっぷり、十秒は沈黙。
校舎裏が一時、重い空気に包まれた。
私はともかく、何故彼女は何も言わないのだろう。
もしかして、何か気に障ることをしてしまった?
私が混乱した思考を巡らせて、沈黙の意味を必死に見出そうとしていると、
「一之瀬、さんだよね?」
彼女の涼やかな声が、静まり返った校舎裏の空気を震わせた。
「~~~!」
伏せたままの顔が、一層熱くなる。喉から変な声が出そうになって、咄嗟に唇を引き結んだ。
相手の胸をかがり火で暖めるような、優しげな声音。
その声に心が浮き立ってしまい、頭の中が白くなる。こんな状態で言葉を紡げば、どんな失礼を働いてしまうか分かったものじゃない。
でもずっと黙っているわけにもいかない。
私は、私の願いを、彼女に叶えてもらわなければいけないのだから。
「…………!」
強張った面持ちのまま顔を上げて、声が震えないよう自分を叱咤しながら、ほとんど勢いにまかせて口を開いた。
「は、はじめまして、琴糸先輩!」
必要以上に大きな声を発してしまう。しかし、その声を自分でうるさいと感じる余裕もない。
「す、すみません、いきなりこんな場所まで……その、わたし……」
結局勢いは続かずに、私は制服の袖を掴んで、もごもごと口ごもってしまう。そんな私に、彼女――琴糸先輩は、苦笑するように表情を崩した。
「大丈夫。そんなに緊張しなくていいよ。それより、早く終わらせよう」
私を気遣ってくれたのか、琴糸先輩はそんな言葉をかけてくれる。
「は、はい!」
返事。奇妙に上擦ってしまう。
私の言葉を否定しないということは、やはり彼女がその人なのだろう。
琴糸日向先輩。
方代学院高校三年生。昭美先輩の友達。
私よりたった一つ年上なだけなのに、琴糸先輩はまるで別の世界からやってきたお姫様のような、不思議な雰囲気を纏っていた。こういっては失礼だけど、昭美先輩にはこんな大人っぽさは感じられない。
そして――彼女の不思議さは、決して雰囲気だけじゃない。
「え、ええと、その、琴糸先輩」
いつかの昭美先輩の言葉が、ふと脳裏に過ぎった。
――日向はねー……エスパーとか、魔法使いとか、そういうタイプじゃないのよ。まあ一言で表すなら、そうねえ……妖精?
「あの……昭美先輩が言っていた、琴糸先輩の『力』って、ほ、本当なんですか?」
口に出してから、しまった、と後悔した。今の言葉はまるで、琴糸先輩を疑っているみたいじゃない。
琴糸先輩は少し呆れたような笑みを浮かべると、突然くるりと私に背中を向けた。
「『嘘』って言ったら、私はこのまま帰っていいのかな?」
「……! ご、ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
あたふたと、視線をあちこち色んな方向に泳がせる。
あからさまに表情や雰囲気に滲ませたりはしないものの、今の言葉は、きっと琴糸先輩を嫌な気分にさせてしまった。
当たり前だ。私は琴糸先輩の持つ『力』を頼って彼女を呼び出したのに、その『力』そのものを疑ってしまうのは、琴糸先輩を信用していないことと同じじゃないか。たとえ、私にそのつもりがなくても。
「信じます! だからその……お願いします!」
自分の非礼を詫びるつもりで、一生懸命に頭を下げる。
ああもう、私の馬鹿馬鹿馬鹿!
本当に、琴糸先輩が私を置いて帰ってしまったらどうしよう。そんな不安がこみ上げ、目尻に涙が浮かんでくる。
唇をきゅっと噛み締める。目を固く瞑っているので、琴糸先輩の表情は窺うことができない。
こうしている時間はほんの数秒だったのかもしれないけど、私にはそれが何分にも引き伸ばされて感じられた。
「……顔を上げて」
琴糸先輩の靴音が、すぐ近くで聞こえた。
私はその言葉に従っておそるおそる顔を持ち上げ、瞼を開く。
涙で少しだけにじんだ視界の先に、琴糸先輩の困り顔があった。
「ほら、泣かないで。大丈夫、ちゃんと任されたことはやるから、ね」
慰めるようなその言葉を聞いて、安堵が胸に押し寄せる。
「あ……ありがとうございます! ありがとうございます!」
私は両手で、私の顔を覗き込む琴糸先輩の右手を強く握った。私の突然の行動に、琴糸先輩は「わっ」と驚きの声を上げる。
単純な私は、こうやって分かりやすい行動に表さないと、感謝の気持ちを伝えられない。しかもその気持ちというものは、上手く相手に伝わらない時もあるわけで。
現に琴糸先輩は、その手を握り締める私に対して困惑の眼差しを向けていた。
「あ……す、すみません!」
慌てて手を離す。私の馬鹿みたいなコミュニケーションで、これ以上琴糸先輩を困らせるわけにはいかない。
「いや、大丈夫。ちょっとびっくりしたけど」
琴糸先輩は握られた手をさすりながら、小さな子供を見るような目を私に向ける。
うう、流石に恥ずかしかったかも……。
「――さて」
私が一人恥ずかしさに悶えていると、琴糸先輩は改まったように、こほんと咳払いをした。
「昭美から、私の『力』については聞いてるんだよね?」
「は、はい!」
それについては昭美先輩が詳しく教えてくれた。その『力』を借りる条件についても、全て。
「それなら、分かっていると思うけど――」
それまで優しげな雰囲気を纏っていた琴糸先輩は、不意に真剣な瞳を私に向け、重々しい契約をするかのように声を潜める。
「一之瀬さん。私が叶えられるのは、あなたが願ったことだけだよ」
「……はい」
息を呑み、琴糸先輩の、厳かとも感じられるその言葉に頷く。
「あなたの願いは、何?」
琴糸先輩の問いかけ。その表情からは、笑みが消えている。
圧倒するような空気に飲み込まれそうになりながらも、私はなんとか答える。
「……コロを、見つけたいんです」
私が琴糸先輩をこの場所に呼び出した、その理由を。
「コロっていうのは、私が飼っている犬です。……今は『飼っていた』って言わないといけないかもしれませんけど」
私は頭の中に、コロの姿を思い浮かべる。黒くて丸々と太った体。高価な宝石みたいな目。コロの黒い毛を手で梳くのが、私は大好きだった。
「一週間くらい前の夜、家族が目を離してるうちに、コロは庭の犬小屋に繋がれてた首輪を外して、どこかへ行ってしまったんです」
コロがいなくなった夜、私は街中を走り回ってその姿を探した。夜中にも関わらず近所の家のインターホンを鳴らして、コロの姿を見なかったか尋ねたりもした。
それでも、暗闇のような黒い体を持つコロは、まるで夜の中に紛れるかのように、姿を消してしまっていた。
「どこかで幸せに暮らしていれば、それでいいんですけど……でも、何か危ないことに巻き込まれているかもしれないと思うと、心配で……」
ううん。たとえどこかで幸せに暮らしていたとしても……やっぱり私はもう一度、コロに会いたい。
「だから、琴糸先輩……コロを見つけるために、先輩の『力』をお借りしたいんです!」
私は言い切って、再び琴糸先輩の手を握った。
それが、私の願い。
琴糸先輩は少しの間考え込むように俯いてから、ふっと顔を上げて、優しい笑みを浮かべながら小さく頷いた。
「うん、分かった。じゃあ――」
先輩は言葉を止めて、ゆっくりと目を閉じた。そして唇を引き結び、気をつけをするように両手を脇に下ろす。
まるで流れに身を任せるかのような、無防備な佇まい。
そうして黙りこくる先輩を前にして、私はこれから自分が行わなければならないことを、再び思い出す。
――う、うわわわわ。
途端に頭のてっぺんまで熱さが立ち上ってくる。
――いやね、決して日向にそっちのケがあるわけじゃないのよ。そういう『力』なの、あれは。だからまあ……がんばっち☆
昭美先輩のおどけたような笑みが、頭の中に思い浮かんだ。
「こ、琴糸先輩……その、やっぱり、それをしなければ……?」
「うん。……私も恥ずかしいんだから、お互いのためにも、早く済ませよう」
その言葉を裏付けるように、琴糸先輩の眉は、微かに震えている。
やっぱり先輩も――こういうことには抵抗があるのだろう。
頭はすでに緊張と恥ずかしさでパンクしそうになっているけど。でも――今更後に引くわけにもいかない。
私は両手で自分の顔をぱん、とはたいてから、目の前の琴糸先輩へと歩み寄る。
「し、失礼します……」
私より頭一つ背の高い琴糸先輩の顔に自分の顔を近づけるため、おそるおそる先輩の両肩に手をのせて、背伸びをする。
手を通して、先輩の身体の鼓動が伝わってくる。私と同じくらい緊張しているのか、その鼓動はとても早く感じた。
先輩の顔を見つめ続けられない。私はぎゅっと、固く目を瞑った。
――琴糸先輩の『力』を借りるための条件。
「……ん」
それを満たすため、私は琴糸先輩の唇に、そっと自分の唇を触れさせた。
それはほんの一瞬。その瞬間、蜂蜜みたいな甘い香りと共に、花びらに口付けをするような柔らかさを感じた。
風になびいた琴糸先輩の髪が、私の頬に触れる。けれど、くすぐったさは少しも感じない。時が止まったような刹那の中で、琴糸先輩の唇の感触だけが、私の心に存在を訴えかけていた。
でも――そんな夢見心地の私に目覚めを促すように、かちん、と硬い音が鳴る。
「――――っ!」
慌ててお互いに身体を離す。琴糸先輩は大きく目を開いて、びっくりしたような表情を浮かべていた。多分、私も同じような顔をしていたと思う。
「ご、ごめんなさい!」
歯に硬い感触が残っている。顔を近づけすぎたせいで、唇を合わせた時に、お互いの歯が当たってしまったのだ。
そんなに強く当たったわけではないけれど、先輩を驚かせてしまったことには変わりない。胸に手を当てて私を見据える琴糸先輩に、私はまたもや必死に頭を下げる。
「……ふう」
先輩は一つ息を吐くと、私の肩にぽんと手を置く。
「お疲れ様。……ほら、そんなに謝らない。別に歯が折れたりしたわけじゃないんだから」
「は、はい……」
先輩の言葉に胸を撫で下ろす。優しげな微笑を浮べる先輩は、お母さんみたいだった。
「さて……それじゃあ、私はこれで」
「あ……」
先輩は私の肩から手を離すと、くるりと踵を返して私から離れていく。さっきまであんなことをしていたのに、まるで何事もなかったかのように。
あんなこと。
同姓同士の……キス。
そのことの異様さを思い浮かべると、途端、何か大変な間違いを犯してしまったような罪悪感が訪れる。
「先輩!」
その罪悪感の行き場を見失い、私は思わず、先輩を呼び止めてしまった。
「あの……さっきのは――」
「大丈夫」
琴糸先輩は、私の言葉を遮るように少しだけ大きな声で言う。私は思わず、手を差し出しかけた格好のまま固まってしまった。
「あなたがちゃんと、願うべきことを願えたのなら、それはきっと叶うよ」
囁くようにそう言って、先輩は再び歩き出す。
突風が吹き、琴糸先輩の長い髪がさざ波のように揺れる。夕陽を浴びながら歩む琴糸先輩は、まるで演劇のスポットライトの中に進み出る舞台女優みたいだった。
「先輩……」
言葉を遮られた私は、校舎裏を立ち去っていく琴糸先輩の後ろ姿に、何も言葉をかけることができない。呆然としたまま、茜色の向こうへと遠ざかっていく先輩を見つめ続ける。
そして、まるで全てが幻覚であったかのように、琴糸先輩の姿は校舎の陰へと消えてしまった。
一人取り残された私は、口元に手をあて、思いを巡らせる。
琴糸先輩の『力』。
童話の中でも聞いたことがないような、不思議な能力。
――キスをした相手の女の子の願いを一つ、叶えることができる。
昭美先輩曰く、「妖精のような力」であるそれが、琴糸日向先輩が持つ『力』というものだった。
その真偽は分からない。けれど私は――琴糸先輩ならその力を持っていても、何も不思議はないと思う。
あのキスの瞬間。あれは本当に、妖精と邂逅しているかのような、幻想的な感覚があった。
考えていること全てを見透かされるような心地。心に流れ込んできた、温かいもの。同姓との口付けであるにも関わらず、そこには一切の嫌悪感が無かった。
その泡沫の夢のような感触は、触れた唇にいつまでも残っていた。
「…………」
感覚が麻痺してしまっている。その自覚はあった。
陽はますます落ちて、辺りはいつの間にか夕闇に染まり始めている。私は心に燻る夢心地を持て余しながら、「帰らないと」という日常の行いを漠然と思い浮かべていた。
木の下に置いたままの鞄の元に歩み寄り、屈みこんで拾い上げる。地面に直に置いていたため、鞄には土の汚れがついていた。ぼうっとしたままの手つきで、その汚れを無意識のうちに払う――
「…………え?」
不意に気づいて、手を止めた。
背後を振り返る。最初は聞き違いかと思った。
校庭から聞こえてくる部活の生徒たちの声に混じって届いた、その音。
でも、朱色に浮かび上がる光景に目を凝らすと、たった今琴糸先輩が去っていった校舎の陰から、その子が顔を出していて。
まるで自分の存在を主張するように、その大きな喉を震わせた。
――オォン。
大きな黒い身体に相応しい、低くはっきりとした吠え声。
掴みかけた鞄が、音を立てて地面に倒れる。
言葉を失った私は、手持ち無沙汰になった両手で、思わず口を覆っていた。
目尻が熱い。でもその意味が、今の私にはよく分からなかった。
その子は校舎の陰から何食わぬ顔で出てくると、尻尾を振りながら、私の方に歩み寄ってくる。
漆黒の毛並みに覆われた体躯。土を踏みしめる四本の太い脚。はっ、はっ、と呼吸をするたびにひくひくと動く、赤くて長い舌。
一週間ぶりくらいに見たその姿は、まるでちょっと散歩に行ってきただけみたいに、何も変わっていない。
私を見上げる宝石のような目が、ただ愛おしかった。
夕闇の中に溶けてしまいそうな小さな声で、唱えるように、私はその子の名前を囁いた。
「コロ……!」
本当に奇跡みたいで。
本当に魔法みたいで。
嬉しくて声を上げそうになるけど、喉がつかえて上手く言葉が出ない。
みっともなくしゃくり上げながら、駆け寄ってくる家族に向かって両手を差し出す。
妖精。
全てが夢の話みたいなのに、全てが本当。
王子様とお姫様がするようなキスが、本当に願いを叶えてしまった。
――琴糸日向先輩。
もしかして、昭美先輩が言っていたのは大げさでもなんでもなくて、本当にあの人は、妖精なんじゃないかな。
白く透き通った羽を持つ、メルヘンの登場人物。
駆け寄ってくるコロを胸に抱きとめながら、そんなことを思う。
ねえ先輩、きっとそうなんですよね。
最後に見た琴糸先輩の後姿に、光に包まれた一対の羽を幻視する。
想像の中で振り返った先輩は、その言葉を肯定するように小さく頷き――そして私の額に軽いキスをした。
*
「おええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
わちゃわちゃと口を濯いだ水を、嘔吐の勢いで洗面台に吐き出した。
「んー。日向嬢、また随分と派手な口内洗浄をするねえ」
両手で流し台の縁を掴んで荒い呼吸を繰り返す私を、背後から凪島昭美がけらけら笑いながら見つめている。机に腰掛けて両脚をぶらぶらとさせているその姿に、無性に腹が立った。
こんちくしょう、誰のせいでこうなっていると思ってるのか。
「あ、当たり前でしょうが……いきなり赤の他人とキスさせられたのよ? しかも歯当たったし……」
「人の口の中には数多の雑菌があるって言うしねー。歯垢一ミリグラムの中にも数億。でも心ちゃんはいい子だから、お口の中はちゃんと清潔に保ってると思うよ?」
「知らないわよそんなの……うう、離れ際にちょっと唇舐められたし、なんで微妙に勢いよく突っ込んでくるのよ……」
私はハンカチで、先ほど昭美の後輩である一之瀬某さんによって触れられた唇をごしごしと拭う。一之瀬さんに対しては失礼にあたるのかもしれないが、一応TPOを弁えて可能な限り平静を装った状態であの場を立ち去ったのだから、勘弁してほしい。
放課後の科学部の部室は授業教室から離れていることもあり、ひどく閑散としていた。ガラス棚に収められたよく分からない薬品の数々が、何やら変に不気味な雰囲気を醸し出している。壁に沿って設置されたいくつもの流し台にはそれぞれ水道蛇口が付いているのだけど、締まりが悪いのか、時折ぴちょんぴちょんと気になる水滴の音を立てる。
そんなひっそりとした教室で、私、琴糸日向は、凪島昭美と二人、先ほど私が校舎裏で会った一之瀬某さんのことについて話し合っていた。
「まあまあ。ほら、心ちゃん可愛かったでしょ? ぬいぐるみとキスしたと思えばいいじゃない」
「キスした唇をぬるっと舐め返してくるぬいぐるみがどこにいるのよ」
ハンカチをポケットにしまい、目の前の鏡に映る昭美を睨みつける。
凪島昭美。私が方代附属中学に入学した頃からの知り合いで――認めたくはないが、この学校の中では私のことを最もよく知る人間にあたる。
父親は私でも知っている大手製薬会社の社長で、昭美本人は随分甘やかされて育ったらしく、裕福で不自由をしない生活を送っているとのこと。生々しい言い方をすれば、学生の癖に非常に金回りが良い。
私が知る限りの金の使い道は如何なるものか、といえば、
「はい日向。今日の観察料」
「ん」
本人曰く、『観察料』。
私はよろよろと頷いて、差し出された一万円札を懐にしまいこむ。
まったく、一之瀬さんも可哀想だ。まさかあの校舎裏の様々な場所に、私と一之瀬さんの一部始終を記録するための小型カメラが仕掛けられていたとは、夢にも思わなかっただろう。
「早く回収してきてよね。他の生徒に一つでもカメラを見つけられでもして映像が出回ったりしたら、それこそ一大事よ」
「おーけーおーけー、心配しないで。大好きな日向と心ちゃんを危ない目に遭わせるようなことはしないって」
両手を顔の前で合わせて小首を傾げる変なポーズをとる昭美。本人に悪気は無いのだろうけど、こういう天然っぽい所作は時々イラッとくる。
ましてや今回の一連の出来事は、元をたどれば昭美に原因がある。その元凶が一番能天気なのだから、余計に鬱憤も湧くというものだ。
*
昭美が一之瀬さんの件について私に話を持ちかけてきたのは、二日前のこと。
「ねえ日向。私の後輩が日向の『力』を借りたいって言ってるんだけど、協力してもらえないかな~☆」
科学部員でもなんでもない私を部室に誘いこんだ昭美は(それはいつものことだが)、角砂糖をそのまま食べたようなデレッデレの笑顔で、そんな頼みごとを投げかけてきたのだ。
「後輩?」
「そ。一之瀬心ちゃん。付属中の頃の部活の後輩なんだけど、今もちょいちょい会ってるよ。可愛い子でね~」
赤らめた両頬を押さえる昭美に、「レッサーパンダを目の前にした子供みたいだ」という感想を抱いたことを覚えている。
「でも、今ちょっと困ってるみたいでさ。それで、どんな願いも叶えることのできる日向の『力』を、どうしても使いたいって言っててね」
その依頼を聞いた私の第一の反応は、疑問だった。
それは、その一之瀬某さんの「どうしても『力』を使いたい理由」に対しての疑問でもなく、昭美から話も聞いたことのない一之瀬さんの人物像に対する疑問でもなく。
「……なんでその人、私の『力』のこと知ってるのよ」
依頼そのものを生じさせた原因である、情報源についての疑問だった。
「私の『力』について知ってるのは、昭美、この学校ではあなただけのはずよね?」
少なくとも附属中学に入学してからこの方、私は自分が持つ『力』について、基本的に公言をしたことはない。何せ一般人の持つ感性から大きくずれた現象を引き起こす力だし、それを公言すれば周囲の人間によって平穏な日常を脅かされる可能性があることに、中学生になってから気づいたからだ。
例外として、中学に入学してから最初に親しくなった人間である(やはり認めたくはないけど)昭美だけは、私の『力』のことを知っている。意図的に教えたわけではなく、親しくなった当時の会話の流れの中で私がうっかり口を滑らせてしまい、結果として知られることとなってしまったのだ。
しかし、『力』についての話は決して公言しないよう彼女に対して口止めをしていたのだから、そのことを知る人間が他にこの学校にいるはずはないのだけど……。
「……ねえ昭美? あなたまさか……」
事の次第に勘付いた私は、目の前の昭美に、仇敵を討たんとする武士のごとき眼差しを突き刺した。
自分のこめかみがピクピクと震えているのが分かる。私の考えが事実ならば、たちまちこの女はこの場で切り捨て御免だ。
不穏な空気を感じ取ったのか、昭美の額には汗の玉が浮いている。やはりそうか。依頼者が昭美の後輩と聞いて、何やら妙だとは思ったが。
「……バラしたなこの野郎」
「や、野郎じゃなくて、アマだよ、ビッチだよー」
わざわざ蔑称で言い直したのは、変なところで気を遣ったからなのだろうか。
秘密漏洩理由は昭美曰く、「うっかり話しちゃった」とのこと。こんな女を知り合いに持った己の不幸を、私はたっぷりと呪った。
ともあれこのお喋り女のせいで、私はその一之瀬某さんとやらの願いを叶えるのに協力しなければならなくなったのだ。
何せ相手はこちらにとって知られたくない弱みを握っているのだ。適当に恩を売って、これ以上傷口が広がらないよう口止めをする必要があった。
――とまあ、ここまでが依頼の一つ目。
私が今回の件で受けた依頼は二つあった。一之瀬某さんの願いを叶える依頼と、もう一つは――他ならぬ元凶、凪島昭美からの依頼である。
「私からもお願いなんだけどさー……日向が心ちゃんの願いを叶えるために『力』を使うところ、カメラで撮らせてもらえない?」
この女は厚かましくも、開き直った態度でそんな「お願い」を投げかけてきたのだ。
私の『力』――すなわち、「キスをした相手女性の願いを叶えることができる」という、人類の子孫繁栄本能に真っ向から喧嘩を売るような発動条件を伴った力が行使される場面を、映像として記録したいという依頼。
といっても、この依頼に関しては今回が初めてというわけではない。
「キスの覗き見ってわけね……ほんと、いい趣味してるわ」
「やだなあ、そういういやらしい目的じゃないよー。科学的探究ですー。やっぱり自分のケースと他人のケースを比較してみたいしね」
『自分のケース』という昭美の言葉が指す通り、私は昭美に対しても、自分の『力』を使って願いを叶えてやったことがある。
その願いの内容は、「黒いバラを生み出して欲しい」とか、「傷ついた鳥の雛を治癒してほしい」とか、正直私にとっては他愛のないことばかりだ。昭美曰く『科学的探究』らしく、何やら意味のある実験であるらしいが。
そして、「観察料」という幾ばくかの報酬を条件に、昭美はその実験の場面を毎回カメラで撮影し、映像として記録している。
こんな部活動の一環に貴重な金銭を湯水のごとくつぎ込めるのだから、凪島昭美というブルジョワ科学部員が考えることは分からない。
「日向の『力』は、いわゆる物理主義の考え方に変革をもたらす力だからねー。なんてったって、『人の願いが物理現象に影響を及ぼす』っていう魔法みたいなことをやってるわけだから。科学部員としては、実に興味深いものなのですよ」
「だからって盗撮? 少なくとも私の目の黒いうちは、その映像を公表させたりはしないわよ」
好意的に見れば研究熱心ということなのだろうけど、目的に対する昭美のやり方は強引だ。今回の依頼についても後輩の頼みを引き受けたというよりは、本人の言う通り、私の『力』について「自分のケースと他人のケースを比較してみたい」というのが主目的で、そのために一之瀬さんをダシにしたのではないか、と私は睨んでいる。
しかし、昭美に接吻場面を記録されることについては、私にさほど抵抗は無い。
持って生まれた『力』のせいで、私のキスに対する価値観は、一般人と比べて随分と歪んでいる。ましてやその映像を記録しているのは、実験と称して愛の伴わないキスを時折交わす相手だ。羞恥心など、とうの昔に消えてしまった。
問題があるとすれば、同姓と口付けを交わすことによる、単純な嫌悪感。
撮影などよりも、そっちの方がよっぽど難儀だ。羞恥心と違って、嫌悪感はいつまで経っても消えはしない。むしろ、その行為の回数を重ねる度に増しているような気さえする。
しかしその忌まわしい行為から逃れようにも、私には昭美の依頼を断るという選択肢が存在しない。
中学の頃、昭美に最初の実験を持ちかけられた時、私は自分の嫌悪感に従って彼女の依頼を断ろうとしたことがある。同姓同士のキスという行為の異常さを強く認識し始めた時期のことだ。
すると昭美は、天真爛漫そのものの笑顔でこう言い放ったのだ。
「やってくれないんだったら、日向の『力』のこと、みんなに言っちゃおっかなー」
早い話が、脅しである。
単なる威嚇で留まればそれでよかったのだが、何せ可愛い顔をして腹の中に何を抱えているか分からない女だ。結局私はそれ以来、昭美の依頼への服従を余儀なくされている。
金銭報酬を受け取っているとはいえ、私は決してそういうことを望んでやっているわけではない。決してだ。私の名誉にかけて、そこは主張しておかねばなるまい。
ともあれ、問題は接吻そのものであって、それを記録されることは大して気にならないというのはその通りだ。自分でも、大分ひん曲がった感性だとは思うけど。
今回の一之瀬さんの件に関しても、同姓同士のキスという関門を否が応でもくぐらなければならない以上、撮影行為は私にとって「ついで」でこなせる依頼に過ぎない。なので癪に障るが、昭美の依頼に関しては特に断る理由が無いのだ。報酬一万円は、メリットといえばメリットだし。
事情も知らず、乙女の恥部を実験記録として撮影される一之瀬さんには、一応同情しておくべきなのだろうか。
とにかくこれが、私が今回引き受け(させられ)た依頼の、経緯と全容である。
*
「――ま、そんなことがあってね。その一之瀬さんって子、実験で慣れてる昭美と違って、まるで削岩機みたいにがくがく震えながら迫ってくるもんだから、こっちまで緊張しちゃったよ」
昭美に二度と『力』の話を広めないよう厳重に釘を刺して別れた後の、学校からの帰路。
申し訳ないと思いながらも、私は隣を歩く六平太に対して、今日の中で起こった出来事の一部始終について、ぐだぐだと愚痴を浴びせていた。
既に陽は完全に落ち、住宅街は道の両脇に等間隔に設置された街灯によって照らされている。別に車両通行禁止場所ではないのだけど、先ほどから一台の自動車も通らない。朝と夕方には学生が横行する通りなので、その付近の時間帯は自動車の側で通行を避けているのかもしれない。
立ち並ぶ家々の窓にはぽつぽつと明かりが灯っている。今の時間はどこの家庭も、子供が帰ってきている頃合だろう。くんくんと匂いを嗅ぐと、どこからかお風呂の甘い匂いが漂ってきていた。
「へぇ、大変だねえお前も」
そっけない返事。とはいえ変に気を遣われてお互いにきまずい思いをするよりは、そっちの方がありがたい。流石六平太だ。自分で言うのもなんだけど、私の扱い方を心得ていると思う。
綿引六平太は、昭美よりももっと以前、小学校からの付き合いだ。中学、高校と私が女子校である方代に進学したので現在通っている学校は異なるが、六平太が通う高校は方代からそう遠くない場所に位置している。なので放課後は、都合を合わせてこうして一緒に帰宅をすることが多い。
現在の私と六平太の関係は、平たく言えば恋人同士だ。高校生になってすぐの時期に、六平太の方からそれとなくそういう関係を持ちかけられ、私がそれに応じた。
随分と素っ気無いプロポーズだとは思ったけど、六平太とは既にお互いのことを随分と知り合った仲だ。下手に緊張を促されるよりは、よっぽどありがたかった。
ともあれ、昭美との話が長引いて、一人で帰宅する心積りをしていた私をわざわざ校門前の階段下で待っていてくれたのだから、本当にいいやつだと思う。
「うん――でも、もう慣れたからね。言うほど大変じゃないよ」
嘘をついた。確かに同姓とのキス自体はこの『力』のために小さい頃から何度も繰り返してきているので経験は多いが、中学生になってはっきりとその異常性に気づいてからは、それを嫌だと思わなかったことはない。
普通の感性が身に付くというのは、ある側面から見れば残酷なものだ。小さい頃は他人の願いを叶えることのできるこの『力』を、少し得意にすら思っていたというのに。
私が最初にこの『力』を行使した相手は、お母さんだったらしい。らしい、というのは、当時私は生まれて間もない赤ちゃんで、その時のことを何も覚えていないからだ。何でもある日お母さんが私に親愛のキスをした際に、お母さんを悩ませていた肩凝りが解消されたことが、私の『力』を発見することになったきっかけだったそうだ。
『力』の存在を知った当初の私は、まるで全知全能の神にでもなったかのような気分になっていた。幼稚園、小学校低学年では、同級生の女の子に対して自分の『力』を自慢していたし、誰かが望めば渋ることなく『力』を使わせてあげた。
小学五年生に上がる頃、その行為の危険性を指摘したのは他でもない、最初に私の『力』を体験した、お母さんだった。
「日向。あなたのその『力』は、遊び半分で使ってはいけないよ」
「『好き』には色んな形がある」とはよく言ったものだが、幼稚園や小学校の同級生に対して私が振りまいていたキスは、そういった感情とはまた別の、縁日でお菓子を配るような愛のこもらない接吻だった。お母さんは幼い私の行動に、親として不安を覚えたのだろう。
更に言えば、私の『力』は相手の願いを叶える力だ。言葉にすればロマンチックだが、誰の願いでも叶えられるということは、よからぬことを企む誰かがその『力』を使えば、周囲に対して取り返しの付かない危害を加える可能性もある。そういった危うさもあったのだろう。
お母さんのその考えは、全く正しいと思う。おかげで私も普通の感性を手に入れ、こうして高校三年生までつつがなく育つことができたのだ。
――流石に「報酬と引き換えに『力』を使わせてやっている」という事情については、お母さんにも秘密にせざるを得ないのだが。
「無理すんなよ。嫌々実験に付き合ったところで、相手に変に気ぃ遣わせてかえって迷惑なんだからさ」
六平太は肩を竦めて首をふるふると横に振る。
六平太は、私の『力』についての大体を知っている人間の一人だ。
小学校の頃からの付き合いだ。あの頃は同級生の女子の間で私の『力』は噂になっていたし、六平太もそれを聞きつけていたのだろう。プロポーズを受けた際に『力』の概要について改めて打ち明けても、大して驚く様子を見せなかった。「あの噂マジだったんだ」程度の反応だ。
とはいえ、全てを打ち明けたわけではない。昭美と『力』対金のギブアンドテイクを行っている、という部分までは話したものの、私がそれを嫌悪していることについては秘密にしている。変に心配をかけたくないからだ。
おかげで、ちょっとばかりそっちのケがある人間と思われているかもしれないけど。
「……ごめんね」
先ほどまで一方的に愚痴を垂れ流していた私は、自分の中の鬱憤に区切りがついたところで、息を整えてからそう呟いた。
「なんだよ急に」
「ほら、その、何? 一応私たち、そういう関係のはずなのにさ。私、他の女の子たちと――」
一之瀬さんとキスをする自分の姿を思い出して、申し訳ない気持ちに駆られる。
私と六平太は恋人という関係にありながら、一度もキスをしたことがない。
その理由は主に私の事情による。私のキスという行為に対する価値観が、その原因だ。
小さい頃から私は、他人の願いを叶えるためにキスという行為を繰り返してきた。そんな育ち方をしてきたせいで、どうしてもその行為に、お互いを好き合うという感情以外の不純な何かを感じ取ってしまうのだ。
おかげで現在の私のキスに対する価値観は、一般人のそれと比べて随分とくすんでしまっている。愛よりも願いが先行し、願いの温床として使い倒してきた私の口付けは、きっと六平太には相応しくない。
無論、六平太がどうしてもそれをしたいと言うのならば応じるつもりだけど、そういったことを迫られたことはない。元々そういう性格なのだ。
こんなことでお互い恋人をやっているのだから、奇妙なものだと思う。
「……六平太、よく嫌にならないね」
六平太はよりよりと前髪をいじっている。その何を考えているのかよく分からない顔を横目で見遣りながら、私はそんな言葉を投げかけた。
「お前の場合は仕方ないだろ。みんなに頼られる『力』を持っちまってるんだから」
六平太は表情を変えずに私の目を覗き込んでくる。
私は六平太の瞳から目を逸らして俯く。こういう言葉を貰うたびに、普通の恋人同士がすることに喜びを感じられない自分が腹立たしくなる。
「でも……」
私がさらに言葉を続けようとすると、突然頭にぽん、と軽いものが乗せられた。
びっくりして六平太の方に顔を上げる。見ると、六平太の大きな手が伸びてきて、小動物でも撫でるように私の頭に置かれていた。
「ま、人助けはいいことだ。お前が嫌じゃなければ、俺はそれくらい気にしないさ。心の広さは男の器の広さってね」
「嫌じゃなければ」という言葉にどきりとする。一瞬、心の中を見抜かれたような気がした。
「――別に人助けじゃないよ。お金が貰えるからやってるだけ」
頭にのせられた手を払う。セリフにしてみると、なかなか下衆なことを言っているなと思った。
その言葉に、六平太は歯の隙間から息を漏らして、さも可笑しそうに笑う。
「どうだかね」
「……?」
気になる言い回しだった。
「なによ。言っておくけど私、自分からすすんで女の子とキスがしたくて昭美に付き合ってるわけじゃないわよ」
「いや、ごめんごめん。そういうことじゃなくてさ」
私が詰め寄ると、六平太はおどけるように仰け反る動作をする。そして私の額に手を当てると、どうどう、と詰め寄った身体を押し戻してくる。
「ただ、困ってる人を目の前にした時、日向は本当に報酬と引き換えじゃなきゃ動かないのかなーってね」
再び二人で歩き出すと、六平太は何かを品定めするように目を細めながら、にやにやと小生意気な笑みを浮かべる。
「? 何、どういう意味よ?」
立ち止まり、煙に巻くような言い方をする六平太の背中に視線を突き刺す。
当然のごとくそんな眼差しを意にも介さない六平太は、三歩進んでからくるっと振り向き、まるで探偵が犯人を暴くかのごとく私の顔を指差す。
「君はもっと優しい人間だと思う、と言っているのだよ、日向くん」
「……はあ?」
何言ってるんだこの男?
六平太はそれ以上語らず、再びくるっと前を向いて、さっさと歩いていってしまう。段々と遠くなっていく背中を眺めていると、何となく騙されたような気分になった。
「ちょっと、答えになってない!」
走って追いかける。住宅街を照らす街灯の光をくぐるたびに、長い影が地面に伸びた。
先の方で足を止めて私のことを待っていた六平太は、憎たらしく笑うばかりだった。隣に追いついて言葉の真意を問い詰めても、はぐらかすばかりで何も語ろうとしない。
結局家への岐路で別れるまで、六平太は私の詰問を、のらりくらりとかわし続けた。
答えを得ることができなかった、といっても、長い付き合いだ。六平太が言わんとしていることは、私には大体分かっていた。
――ただ、困ってる人を目の前にした時、日向は本当に報酬と引き換えじゃなきゃ動かないのかなーってね。
――君はもっと優しい人間だと思う、と言っているのだよ、日向くん。
要は、「本当に困っている人に出くわした時、お前は報酬なんか無くても善意でその人に『力』を貸すはずだ」――六平太の言葉の真意は、つまりはそういうことだろう。
だけど、残念ながら、私はそこまで上等な人間ではないことを自負している。目の前に何かの選択肢を提示されたら、きっと自分にとって、負担の少ない方を選ぶだろう。
信頼してくれている六平太には申し訳ないけど、私は多分そういう女だ。
*
「ふあぁぁ……」
翌日の朝。
「方代の学徒たるもの、淑女であることを常とすること」。そんな学則を鼻で笑うかのごとき大欠伸をしながら、私は周囲を往く他の生徒と同じように、喧騒賑やかな校門前の階段を上っていた。
階段脇に植え込まれた桜の木々は春先ですっかり役目を終え、次の開花に向けて太い幹に養分を蓄えている。桃色の花がなくても、黒々とした樹木が長く広い階段の脇を番兵のごとく固める光景は、なかなか壮観なものだ。中学から今までこの光景を見続けてきた私にとっては、ありがたみも薄いけど。
しかし私も、いずれはこの学び舎を卒業する身だ。永遠ではないこの光景を、しっかりと思い出に焼き付けておこう――などと考えていると、
「こ、琴糸先ぱーい!!」
「……ん?」
私の珍しい苗字を呼ぶ声が、私の背後、やや遠くから聞こえてきた。
足を止めて、上ってきた階段を振り返る。声に反応した周囲の生徒たちの一部が、私同様に階段下を眺めていた。
階段下からこちらに向けて手を振っているのは、同じく方代の制服を身に纏った生徒。ショートカットの髪と可愛いに属される容貌に、優雅さを誇示する漆黒の制服がなんともミスマッチに組み合わさっている。
その少女は振っていた手を引っ込めると、周囲の生徒の間を縫うようにして、私に向けて階段を駆け上がってくる。楽しいことでもあったのか、その顔にはぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべている。
私の立つ段まで階段を上った少女は、膝に手をついてはあはあと息を整える。その疲弊した様子に「大丈夫?」と声をかけようとすると、少女はばっと顔を跳ね上げて、それから緊張した面持ちでばっと頭を下げた。
「お、おはようございます琴糸先輩!」
「…………」
さて、問題だ。
……この子、誰だっけ?
こうして挨拶をしてくるということは、私とこの少女は顔見知りのはずだ。実際、確かに彼女の顔は、ごく最近見た覚えがある。
朝の空気を掻き回した目の前の少女に、生徒たちが注目している。私に向けて頭を下げていた少女はその視線に気づいたのか、きょとんとした表情で周囲を見回した。
「……あ、そ、その、すみません!」
少女が周囲の生徒に向けて頭を下げる。その姿に、ようやく記憶が該当者を探り出した。
「……一之瀬さん、おはよう」
数秒の記憶喚起の間を悟られないよう、なるべく自然に挨拶をする。
「はい! 先輩、あの……昨日はありがとうございました」
少女――一之瀬某さんは昨日のことを思い出したのか、微かに顔を赤らめながら両手の人差し指を合わせる。
そうだ。家出したペットを見つけたいという理由で、昨日私の『力』を使わせてあげた、昭美の後輩だ。名前も昭美から聞いていたが、私は『一之瀬』の部分までしか覚えていない。
そういえば校舎裏で会った時にも彼女の下の名前が思い出せず、苗字だけで呼称すればいいという判断に至るまで、十秒ほどの沈黙を余儀なくされたものだ。
私は再び階段を上り始める。一之瀬さんは私の隣にぴったりと付いてきた。
「先輩のおかげで昨日、コロが見つかりました。その、私、なんてお礼を言ったらいいか……」
一之瀬さんは鞄を両手で持ち直しながら、上目遣いでこちらを見上げてくる。昭美の言っていた通り、小動物的な可愛さを持った少女だった。
「そっか、よかったね。これからは目を離しちゃ駄目だよ」
「は、はい!」
やや上擦った返事。この子は変に堅くなる癖があるので、相対している側としては扱いに迷う。
参ったな、どうしよう。
「本当に先輩は、私の恩人です! これから先輩に困ったことがあれば何でも言ってください! 協力します!」
直前まで萎縮していたかと思えば、押すときにはどんどん押してくる。一之瀬某さん、どうにも苦手なタイプだ。
それにどうやら、私のことを変に色眼鏡で見ている節がある。
「恩人だなんて、大袈裟な……」
「お、大袈裟なんかじゃないです! 本当にそう思ってます!」
一之瀬さんは被せるように詰め寄ってくる。……わあ、顔が近い近い。
「私がコロとまた一緒に暮らせるようになったのは、先輩のおかげです! 先輩がいなかったら、私今、どうしていたか……」
言葉尻が萎んでいき、一之瀬さんは泣きそうな表情をする。感性豊かな子だ。
褒められるのは嫌な気分ではないけど、この『力』のこととなると複雑ではある。
「……そんなにいいものじゃないよ。一之瀬さんだって、気持ち悪いって思わなかった?」
私は一之瀬さんの瞳から目を逸らしながら尋ねる。
「同姓同士のキスを強いるような『力』だよ? 本当のところ、ちょっと引いたんじゃない?」
自嘲の笑みを零す。私自身その異常性に気づいてからは、この『力』を使うことに不快感を抱かなかったことはない。
「そ、そんなことないですよ!」
ところが一之瀬さんは顔を真っ赤にして、私の言葉を否定した。
「え?」
「あ、そ、その、誤解しないでください! 私に別にそういう趣味があるわけではない……と思うんです! はい!――は、いや、そうじゃなくて……」
一人ぶんぶんと首を振って、わたわたとパニックに陥る一之瀬さん。早口で、何を言っているのやらさっぱりだ。
「あの!」
一之瀬さんは強く石段を踏みしめると、ずいと顔を寄せてくる。
「先輩の『力』は、他の人を幸せにできる、素晴らしい力だと思います!」
まるで叫ぶように、一之瀬さんは強い口調で訴えかけてくる。周囲の生徒の注目が、再びこちらに向いていた。
「だからその、女の子同士のキスだって、決して気持ち悪くなんか――」
「わ、ちょっと、ストップ!」
私は大慌てで一之瀬さんの口を手の平で塞ぐ。衆人環視の元で何を言おうとしているんだ、この子は。
周囲を見回す。学生たちは怪訝そうな顔をしていたものの、特に私たちを気にかけることなく再び校門に向かって階段を上っていく。
よかった。どうやらまずい部分は聞かれなかったらしい。そっと一之瀬さんの口を開放する。
「もう、駄目だよ。そういうことを大声で言っちゃ」
「す、すみません……」
一之瀬さんはすっかり萎んだ表情で、視線を落としている。……うん、しばらくは静かにしてくれるだろう。
階段を上りきり、校門を二人で通り抜ける。昇降口にたどり着いたところで、私と一之瀬さんは学年の違うそれぞれの靴箱に向かうために別れた。
「じゃあね、一之瀬さん」
「は、はい! ありがとうございました!」
最後に頭を下げる一之瀬さんに、社交辞令程度に笑みを返す。ようやく解放された。やはりほとんど面識のない人を相手にするのは得意ではない。
自分の学年の靴箱に向かう。靴箱の周りには同級生たちが集まって、朝のガールズトークに花を咲かせていた。
同級生の間を進んで自分の番号の靴箱にたどり着き、上履きを取り出す。
「…………」
――私がコロとまた一緒に暮らせるようになったのは、先輩のおかげです!
――先輩の『力』は、他の人を幸せにできる、素晴らしい力だと思います!
靴を履き替えながら、私は先ほどの一之瀬さんとの会話を、頭の中で繰り返していた。
私の『力』。昭美から実験の材料として重要視されたり、六平太から遠回しに賞賛されたりすることはあったものの、一之瀬さんのように真正面からストレートに感謝の言葉をかけられたのは、これまで一度も無かったような気がする。
言葉と一緒に思い浮かぶ、一之瀬さんの無垢な笑顔。
それが私の胸の内に、むず痒くなるような温かさを呼び起こす。
自覚すると、その思いは一層強くなる。考えるだけで、自然と顔が綻んでしまうような想い。
この『力』を誰かに貸してあげるという行為の中で、こんな気持ちになったのは、初めてだった。
キスは嫌いだ。それは変わらない。
それでも。
――なんだか、照れちゃうな。
その瞬間私は、確かに頬が緩むような温かい想いを抱いていた。
それは自分でも信じられないような――自分の『力』と他人の笑顔に対する、掛け値なしの純粋な嬉しさだった。
*
「ごめん日向。また日向の『力』を借りたいって人が、私のところに来ちゃった☆」
そんなささやかな喜びを嘲笑うがごとく、私と相対する昭美は、大変に憎たらしい笑顔を浮かべながら、大変にふざけたことを言い放った。
一日の授業をこなしての放課後。校門前の階段下で待っている六平太の元に急ごうとする私を引き留め、件の科学部部室に半ば無理矢理引っ張り込んでの発言である。
「……あなたは生きるべきか死ぬべきか。それが問題ね」
「は、ハムレットってなんかお菓子みたいでおいしそうな名前だよねー」
指に力を入れてこきこきと骨を鳴らしてやると、昭美は冷や汗を浮かべながら向けられた矛を逸らそうとする。怨敵同然のこの女から逸らす道理は当然無い。
とはいえ、弁解くらいは聞いてあげようじゃないか。
「どういうことなの。一之瀬さんの頼みはもう終わったし――まさか、更に他の人にまで私の『力』について教えた、なんていうんじゃないでしょうね」
「そ、そんなことないよ! 心ちゃんにしか日向の『力』のことは教えてない! 私と日向の友情に誓って!」
それは随分と脆く儚いものに誓っていらっしゃる。
「じゃあ一体何で」
「それが……私にも、何でその人が日向の『力』を知っているのかは、よく分からないの」
珍しく困惑の表情を浮かべながら、昭美は懐から手帳を取り出してページを捲る。話を持ちかけてきた相手の情報をメモしているらしい。
「奥園みちる、一年C組。心ちゃんと同じクラスみたいだね。知り合いかどうかは知らないけど。――願い事については、日向に直接話したいって言ってる」
「直接?」
あまり他人には言いたくないということだろうか。
「流石に日向に悪いと思って、私は断ろうとしたんだけど……」
昭美は手近な机に腰掛けると、私と目を合わせずにもごもごと口を動かす。
「『頼みを聞いてくれないなら、私、何をするか分かりませんよ』って、すんごい迫真の顔で言われちゃってさ」
「へえ……陰湿そう」
奥園さんとやらの口調を真似ているのであろう昭美の言葉を聞いて、相手の様子を想像する。「何をするか分からない」。我侭ぶりと考えの無さが表れたセリフだ。
「で、下手に断れないかなーって思って、とりあえず引き受けるって返事しちゃったんだけど……まずかったかな?」
昭美は気まずそうな表情を浮かべ、私の顔をちらちらと見る。
「まずかったかな?」と訊かれれば、そもそも以前私の『力』を一之瀬さんに漏らした時点でまずいに決まっている。そんな思いを込めて、教師に叱られたように居心地悪そうにする昭美を、しばらくの間じっと睨み据えた。
しかし、今日の昭美は柄にも無くテンションが低い。一応言葉通り、今回は本当に私のことを気遣ってくれたのだろう。
そんな彼女を見ていると――まあ、滾っていた怒りも冷めてしまうというものだ。
私は色々なものが混ざった溜息を、はあ、と深く吐き出した。
「いつもだったら怒り心頭ってところだったけど、一応、あなたも断ろうとしたみたいだしね」
私の言葉に、昭美は「え?」と顔を上げる。
「『力』を使わなきゃいけないのは当然不服だけど……仕方ないから、今回は不問にしてあげるわよ。これっきりだからね」
「日向……!」
どの道、相手には既に『力』のことを知られているのだ。何かしら恩を売って口止めをしなければいけないだろう。
昭美は跳ね上げた顔を綻ばせ、元の憎たらしいほどの笑顔を浮かべると、机から飛び降りて私の腰に飛びついてくる。
「日向さま素敵! ああ、本当に……日向に嫌われなくてよかったよぅ~」
「うわ、離しなさいよ気持ち悪い!」
ぐりぐりと頬を押し付けてくる昭美を、頭を掴んで引き離そうとする。しかし気力を取り戻したわんぱく少女は、なかなか離れようとしない。
ええい、これが平常運転だから性質が悪い!
掌底気味の一撃を額に喰らわせると、昭美は私の身体を解放して後方に転倒する。そして「いったぁ~」と情けない声を上げ、額を押さえながらよろよろと立ち上がった。
「まったくもう……それで私はいつ、その奥園さんに会いに行けばいいの?」
問いかけると、昭美は思い出したように「あ!」と手を叩き、それから私の肩を両手でがしっと掴む。
「そう、今日これからだよ! 奥園さんの依頼!」
「……また随分急ね」
私に予定があったとしても、それは考慮の外というわけか。
「頑張ってね日向! 私、応援してる!」
昭美は爽やかな笑顔でそう言うと、右の握りこぶしを私の方に差し出し、親指を天に向けて突き立てた。にっと笑うと、心無しか昭美の歯がきらーんと光ったような気がした。先ほどまでの落ち込みなど忘れ、「我、憂い無し」といった表情。
……あれ、何だろう。とても清清しい笑顔を向けられているはずなのに、何故かまた沸々と怒りがせり上がってきた。
「ねえ昭美」
「ん? なあに?」
昭美は笑顔のまま首を傾げる。……やはり彼女にも、多少の贖罪は受けてもらわねばなるまい。
「昭美は今回も、私の『力』の観察をするんだよね?」
「うん、場所はちゃんと校舎裏を指定しておいたし、カメラは常時セットしてあるから、遠隔操作でいつでも撮影可能だよ!」
そうかそうか、と頷いてやる。
「うん、それで私に対する報酬は」
「もちろん用意してあるよ~。観察料一万円」
「……うん、いつもならまあ、それで納得してあげるんだけどね」
私もまた、自分の出来る限りの愛想良い笑顔を浮かべて、顔の横で両手を組む。
「今回は私に事前報告もしなかったんだから、その分の迷惑料を上乗せするのが筋だと思うんだけど、どうかな?」
「……上乗せ、というと」
不穏な空気を察知したのか、昭美の笑顔が少しだけ強張る。
「プラス一万、くらいでいいかな?」
言いながら、昭美は人差し指を一本立てる。私は笑顔のまま、肯定も否定もしない。しかし昭美とて、この場で私が何も反応を返さないということの意味を、分からないはずがない。
「……プラス二万?」
沈黙。
「三万?」
沈黙。
「四万?」
沈黙。
「……ご、五万?」
沈黙。……そろそろ苦しくなってきたのか、五本の指を立てる昭美の指が震え始める(むしろプラス四万までなら苦しくないという感覚が、庶民の私には分からないが)。
とはいえ、自分で申告することが出来る値段ということは、まだ余裕があるということだろう。
「……九万」
私は淑女のようにおしとやかに頬に手を当てながら、その金額を口にする。
「プラス九万。合計十万。耳を揃えて払ってもらおうかしら」
私が提示した数字に、笑顔のままの昭美の顔色が、吹雪にでもあてられたようにさっと青ざめた。
なるほど。金持ちのお小遣い感覚がどんなものかは分からないが、この金額を要求すれば、昭美が表情を変える間もなく硬直するほどのダメージを与えられるのか。僥倖僥倖。
「……私たち、親友だよね?」
昭美は固まった笑顔のまま、最後の救いを求めるように、私に問いかけてくる。その笑顔からは精気が失われ、まるで主人のご機嫌を窺う奴隷のようだ。
「本当の親友は、親友の秘密を勝手にバラしたりしないんじゃないかな?」
私は有無を言わせぬ口調で言い放ち、昭美の方に拳を差し出して、ぐっと親指を地に向けて突き立てた。
*
夕陽が差し込む校舎裏には、確かに一人の少女が待っていた。
少女は随分な時間そこに佇んでいたのか、苛立ったように寄りかかっている大きな木を何度も踵で蹴りつけていた。放課後になってから、ずっとこの場所で私を待ち続けていたのだろう。
校舎の陰からその姿を観察する。
「うーん……」
少女の外見は、一言で表せば「醜悪」だった。
くすんだ色の黒髪はぼさぼさと乱れ、髪の下に覗くカメレオンのような目は、ぎょろぎょろと注意深く周囲を見渡している。鼻は潰れたパン、唇は太いミミズのようだ。彼女が身体を揺する度に、スカートのホックを弾き飛ばさんばかりに膨れたお腹の肉が重たそうに揺れた。
人の善し悪しを外見で判断するのはよくない……という意見には普段なら賛成だけど、これからすることを考えれば、気が重くなるもの致し方ないというものだろう。
しかしいつまでも隠れているわけにもいかない。
「……こんにちは」
なるべく人当たりの良い笑みを浮かべながら、私は校舎裏に差し込む朱の夕陽の下へと進み出た。
「……!」
まるで侵入者を見咎めるかのように、少女が急にこちらに顔を向ける。顔の動きに合わせて、両側の頬に垂れ下がる贅肉がぶるんとふるえた。
私はその威圧感にたじろぎつつも、努めて平静を保って声をかける。
「奥園……みちるさん?」
私の言葉に、少女は頬の贅肉をぐにゃりと微かに歪ませた。……笑んだのだと気づくのに、しばらくかかった。
「は、はい、奥園です。初めまして、琴糸先輩」
少女――奥園さんの声は、まるで冥府の底から湧き出る亡者のように、掠れて聞き取りづらかった。
「すみません、急に呼び出したりして」
「いいのよ、別に」
いいわけはないが、そもそも拒否権が無かったのだから仕方が無い。
奥園さんに歩み寄り、厚い瞼に挟まれた目を覗き込む。とりあえず、訊くべきことを訊いておかなければならない。
「ねえ奥園さん。最初に訊いておきたいんだけど――私の『力』のこと、誰から聞いたの?」
私が尋ねると、奥園さんは荒い鼻息を吐きながら、照れくさそうに頬をかく。
「私のクラスの娘が、先輩の『力』を借りたって、友達に話しているのを聞いたんです。その時は琴糸先輩だとは分からなかったんですけど……凪島先輩のご友人であることは聞いていたので、彼女を通じて話を通してもらいました」
奥園さんと同じクラスで、私の『力』を借りた少女……つまり、一之瀬さんのことだろう。
一之瀬さんがクラスメイトに私の『力』のことを話しているのを奥園さんが聞きつけ、私と繋がりのある昭美にコンタクトをとったということか。
……それにしても、はて。一之瀬さんには、『力』のことを公言しないよう、昭美から伝える手筈だったはずだが――
昭美の顔を思い浮かべる。
――ごめーん、伝えるの忘れちゃった☆
やつが手を合わせながら舌を出す姿が、容易に想像できた。
……どうやらあのメスには、更なる制裁が必要なようだ。
「なるほどね」
私は奥園さんに気取られぬよう、そっと息を吐く。……まあ元凶が分かったのだから善しとしよう。善くはないけど。
問題はこれからのことだ。
「それで、奥園さん。私の『力』については大体知っているのかな?」
「はい。キスした女の子の願いを、叶えてくれるんですよね?」
「……うん」
私は少し溜めてから頷いた。……目の前の少女と口付けを交わす自分を想像して、思わず身震いをしてしまった。
しかし、後に退くことも難しい。なにせ本来なら知られたくないことを知られているのだ。ましてや相手は、本人曰く「何をするか分からない」。
逃げ出したくなる自分を叱咤激励して、私は心とは裏腹の柔らかな笑みを浮かべた。
「それなら、分かっているとは思うけど――私の『力』は、あなたが願ったことしか叶えられないわ」
「? どういうことですか?」
言葉の意味が分からない、といった風に、奥園さんが首を傾げる。
「そのままの意味。あなたが思い浮かべたことしか、私の『力』は保証できないということだよ」
「はあ……」
奥園さんの曖昧な返事。
実のところ、この忠告にそれほど大きな意味は無い。単純に、ちょっと難しそうなことを言って、『力』を使うことを相手に躊躇わせたいだけだ。
大抵の人はこんな忠告をするまでもなく、私の『力』に正しく願いを込めることができる。
「奥園さん……本当に私の『力』が必要?」
私は真剣そのものの表情で、奥園さんに迫る。正直、このミミズのような唇とキスをすることは絶対に避けたい。
しかし、やはりこの世界に神はいないのか、果たして奥園さんは頷いた。
「はい」
その目には、一点の曇りも無い決心を秘めた輝きが宿っている。一度決めたことを最後まで貫き通す人の目だ。
一気に絶望の底に突き落とされた私に、奥園さんは言葉を続けた。
「私……人生を変えたいんです」
分厚い唇から紡ぎだされる声が、トーンを落とす。
「琴糸先輩。私、醜いでしょう?」
「え……」
問いかけられて、一瞬言葉に詰まった。だが自覚しているのなら誤魔化しても無駄だと思い、おそるおそる頷く。
「……うん」
「ですよね。別に気にしないでください。琴糸先輩だけじゃなく、みんなそう言いますから」
奥園さんは唇の間から、ぶふ、と息を吐き出した。……苦笑だろうか。
「私はこの顔のせいで、これまでの人生、散々馬鹿にされて生きてきました。『美女に見捨てられた野獣』、『モンスターピエロ』……つけられたあだ名は、数えればキリがありませんよ」
「そ、そう……」
私は口元を押さえ、震える声で相槌を打つ。ちょっと笑いそうになったのは言うまい。
「もう、こんな酷い姿で生きていくのは嫌なんです。だから、琴糸先輩!」
奥園さんは急に顔を跳ね上げると、挑みかかる勢いで私に顔を近づけてくる。荒い鼻息が、私の顔に吹きかけられた。
「先輩の『力』で、私の姿を美しくしてほしいんです!」
神に縋り付く狂信者のような声音で、奥園さんはそう言った。
奥園さんの強弁に圧倒されっぱなしだった私は、二、三歩後ろにさがりながらも、彼女が投げかけてきた願いの内容を考える。
つまるところ、「美しい女性になりたい」、と。
「な、なるほどね」
私は奥園さんと少しだけ距離をとってから、こほんと一つ咳払いをする。そして、必死の形相の奥園さんから目をそらし、思索を巡らせた。
――美しくなりたい。
その願いを叶えた奥園さんの姿を想像する。奥園さんが得意顔で髪をなびかせ、太陽の下を闊歩する姿を想像する。そして、それを見た周囲の反応を想像する――
――ああ、駄目そうだ。
「奥園さん」
私はどうにか心を落ち着けて、奥園さんの方に向き直る。
「その願い――叶えるのやめた方がいいと思うよ」
相変わらず、キスをしたくないという思いが半分。
しかし残り半分は、純粋な忠告だ。
「な、なんで……」
「多分その願いを叶えても、奥園さんが思った通りに事は運ばないと思う。――ほら、ちょっと想像してみて。自分が美しくなった後の――」
私は諭すように続ける。しかし奥園さんは顔を真っ赤にすると、私の言葉を遮ってずんずんと距離を詰め、私の肩を力強く掴んだ。
「いたっ」
「先輩の感想なんてどうでもいいんです! 私はこれまでの人生、本当にろくなことが無かったんですよ! こんな姿から生まれ変われるなら……!」
奥園さんはそこで言葉を止めると、緊張を嚥下するようにごくりと喉を鳴らし、それから唇をすぼめた。
「ちょ、ちょっと……」
目の前に迫ってくる奥園さんの顔から逃れようと、必死に足を踏ん張る。しかし奥園さんの太い腕は、私の肩を決して離そうとしない。
ま、待った……流石に覚悟というものが……!
しかしそんな私の思いが通じるはずもなく――やがて奥園さんと私の唇の距離が、否応なく零になる。
「~~!」
ぐじゅ、とナマコに触れたような感覚が、唇一杯に広がった。
咄嗟に目を閉じて、自分の現状を見ないようにする。奥園さんは、その強い願いを刻み付けるように、私の肩を引き寄せて一層深く唇を押し付けてくる。
自分の唇が、認めたくない種類の液体で濡れたのを感じた。
臭い臭い臭い! 唇の接触部から、奥園さんの唾液の匂いが立ち上ってくる。何日ニンニクを食べ続けたらこんな匂いを作り出せるのだろうか。そんなことを思わせる悪臭だった。
絶望的に長く感じられた時間――しかし、どんな辛い冬の後でも春は来る、という言葉が指し示すとおり、やがて奥園さんの唇が私から離れ、私の呼吸が開放される。
胸を押さえて荒い息を繰り返す。胃液が喉をせり上がってくるのを必死でこらえる。外の新鮮な空気を肺一杯に吸い込みながら、私はゆっくりと目を開いた。
変化は、劇的でもなく訪れていた。
目の前に立って私を睥睨していたのは、私の目から見てもこの学校の女子の中で頭一つ抜きん出た容貌を持つ、白百合のような美少女。
不思議の国のアリスのような長い金髪を背中に流し、前髪の奥に覗く大きな目が、くりくりと歳相応のあどけなさを宿している。小ぶりな鼻は筋が通り、唇は花びらのような淡い桃色を縁取っている。彼女が自分の姿を見るために顔を動かすと、細い首筋から綺麗なうなじが垣間見えた。
ポケットから手鏡を取り出して自分の顔を映した奥園さんは、感極まったように声を震わせる。
「すごい……これが、私?」
その声は既に、あの亡者の呼び声のようなものではない。
私は口元を押さえながらその姿を見つめる。なるほど、我が『力』ながら、確かに効果はすごい。あの醜悪な姿が、ここまで一変してしまうとは。
奥園さんは、その細く白い手で私の手を掴むと、芝居がかった所作で頭を下げる。
「琴糸先輩、ありがとうございました。本当に、こんな姿になれるなんて……これで私も、これからは誰にも馬鹿にされずに生きていけます!」
言うなり、奥園さんはスキップでも踏むような軽い足取りで私の横をすり抜ける。私は目で追う気にもなれず、奥園さんの唾液に触れた自分の唇を、何度も制服の袖で擦っていた。
「本当に、ありがとうございました!」
去り際、奥園さんは背後から再び感謝の言葉を投げかけてくる。私は軽く手を上げて応え、奥園さんの気配が校舎裏から消えたタイミングで、その場にぐったりとしゃがみこんだ。
「……おえ」
少し気を抜けば嘔吐しそうだった。むかむかする胸を押さえ込みながら、私は金髪美少女へと変貌した奥園さんを思い浮かべる。
奥園さんが望むこれからのこと。皆にその美しさを賞賛され、嫉妬され、過去のすべてを切り捨てた未来。
「……無理だと思うんだけどなあ」
私はその想像に亀裂が入る様を思い浮かべ、夕陽が落ちかけた校舎裏で、そう独りごちた。
*
翌日のこと。
結論から言えば、私の予想通りのことが起こった。
一之瀬さん、昭美経由で聞いたのだが、奥園さんはその日、学校を休んだ。
そりゃそうだ、というのが、私の感想である。
*
「凪島先輩! 琴糸先輩はどこですか!」
その日の放課後のこと。珍しく六平太が一緒に帰れないということで、昭美に付き合って科学部部室で時間を潰していると、突然怒声と共に入り口の扉が勢い良く開かれた。
私と昭美は同時に声の発生源を見る。そこには一度見たら忘れられない、長い金髪と白い肌を持つ絶世の美少女が、肩をいからせて立っていた。
私は当然見覚えがある。なにせ、自分の『力』でドレスアップした少女だ。
昭美は戸惑いながら、私に耳打ちをする。
「ね、ねえ日向……未だに信じられないけど、あれって、奥園さんだよね?」
困惑するのも無理はないが。
私が昭美の言葉に答えるよりも早く、奥園さんは私の姿を見つけると、ずんずんと部室に上がりこみ、怒りに満ちた目を私に向ける。
「……こんにちは、奥園さん。今日は学校を休んだって聞いたけど」
「どういうことですか」
奥園さんは、白い肌を真っ赤に染めて私を見上げてくる。
「昨日あの後家に帰ったら、お母さんに家に入れてもらえませんでしたよ。『あなたがみちるのはずがないでしょう』って」
奥園さんの姿を見ると、制服が少し皺になっていた。ネットカフェかホテルで一夜を明かしたのだろうか。
「お母さんだけじゃありません! 今日学校に来て自分のクラスに入っても、クラスメイトは誰一人、私のことを奥園みちるだと認めてくれませんでした! クラスのホームルームの時間なのに、私だけ担任の先生に追い出されて……そのせいで、今まで美術準備室に隠れる羽目になったんですよ!」
「……正常な反応じゃないかな。誰だって、自分の知り合いの姿格好、さらには顔まで変わっていたら、それをその人だとは思えないでしょう?」
「どうしてですか!」
奥園さんは激昂する。その迫力は、あの醜悪な姿だった奥園さんほどではない。
「何で願いが叶ったのに、こんな目に遭わなきゃいけないんですか! これじゃ……これじゃあんまりです!」
「……言ったはずだよ」
私は奥園さんに背を向ける。昭美は心配そうに、そのやり取りを見守っている。
「私に叶えられる願いは、あなたが願ったことだけ。――奥園さん。あなたは美しくなりたかっただけなんでしょう?」
私の言葉に、奥園さんが背後で微かにたじろぐ気配がする。
「だったら、私の『力』で叶えられる願いはそこまで。その願いの先は――奥園さん。あなたが責任を持たなきゃいけないのよ」
肩越しに振り返り、奥園さんの顔を睨みつける。まるで追い立てるように私に迫ってきた彼女に、少し腹が立っていた。
「私は、あなたの願いは保証したけど、あなたの人生を保証してはいないんだから」
その言葉を突きつけると、奥園さんは目を見開いて絶句する。そんな仕草も、今の彼女が行えば、苛立ちが募るほどに可愛らしい。
「ねえ奥園さん。……今でも、その姿のままでいたいって、本気で思ってる?」
私は声音をやわらげて、奥園さんに問いかける。
奥園さんは何も答えない。視線を落とし、唇を震わせて、自分の想像から大きく外れた今に思いを馳せている。
その目には透明な涙が浮かんでいた。まるで捨てられた子犬のような瞳。自分の拠り所を失い、どこに向かえばいいのか分からずに右往左往している、迷い子のような瞳だ。
「奥園さん……」
昭美はおろおろと、奥園さんにかけるべき言葉を探している。とはいえ、これは彼女の力ではどうしようもない問題だ。言い方は悪いが、昭美が状況を好転させてくれることには期待していない。
奥園みちる。彼女は明らかに助けを求めている。自分でも解決方法の分からないそのジレンマを解消する道を、必死に模索している。
「…………」
弁明しておこう。私は、同姓とのキスは嫌いだ。
人間は異性同士で子を為すため、そういうメカニズムを組み込まれて生きている。同姓と仲良くすることは、動物的に言えば群れを為すこと以外に意味は無い。だからキスなどというものは、そもそも必要が無い。
だから――
「……!」
――私がこうして奥園さんに口付けをしたのは、決してその行為を好んだからではない。
ただ自分の中に生じた憐れみの感情に、従ったまでの話だ。
「……あ」
奥園さんは、吐息のような声を漏らす。私はその声に、強く瞑っていた目をゆっくりと開けた。
そこに立ち、私と目を合わせていたのは――ぼさぼさの黒髪と、太いミミズのような歪な唇を持ち合わせた、醜悪な少女。
私の印象に最も深く刻まれている、奥園みちるだった。
「せ、先輩、今なにを――」
困惑する奥園さんは、部室の壁にかけられた鏡を見て言葉を失う。クラスメイトに蔑まれ、馬鹿にされてきた醜い少女が、鏡の向こうから彼女を見つめていた。
「そんな、なんで……?」
奥園さんは自分に起こった事態を飲み込めずにいる。私は奥園さんから身体を離し、呆然と鏡を見つめる彼女を見下ろした。
「……私の『力』は、奥園さんが願ったことしか叶えないよ」
その言葉に、奥園さんは驚きに満ちた表情を私に向ける。ジレンマを抱えた少女は、導き出された自分の望みに戸惑っていた。
「奥園さんが、その姿に戻ったということは――つまり、そういうことなんだろうね」
私はそれだけ言い残し、奥園さんの横を通って部室の入り口へと向かう。経過を見守っていた昭美が「ま、待ってよ!」と慌てて私の元へ駆け寄ってきた。
開けっ放しにされていた扉から部室を後にする前に、もう一度奥園さんへと振り返った。
彼女は贅肉のついた頬をたぷたぷと揺らしながら、自分の手の平を見つめている。未だに自分が『力』に願ったことが信じられずにいるのだろう。
美しさを捨ててでも、彼女は――誰もが『奥園みちる』と認める少女に戻ることを望んだ。
要は、蔑まれ、馬鹿にされようと、自分を知る人たちともう一度繋がることを願ったのだ。
別に困惑するような願いでもないんじゃないかな。
私は奥園さんの願いにそんな感想を抱き――彼女を一人残して、さっさと部室を立ち去った。
――余談。部室を後にした私と昭美の会話。
「いやあ、日向、びっくりしたよ。まさか日向が自分からキスするなんてねー」
「……昭美」
「ん、なに? 思い出して恥ずかしくなっちゃった?」
「奥園さんの前では言えなかったけど、今の私の正直な気持ちを言っていいかな」
「ん、なになに、親友の私に何でも吐露してごらんなさい」
「……めっちゃ吐きそう」
「……うん、そうだよね。日向ってやっぱそういう人だよね」
*
奥園さんの件から二日後の木曜日の夕方。
走って、走って、走って――叩きつけるように扉を開けた。
「六平太!」
室内にいた看護師さんや患者さんが、驚いて私を見る。私は自分が大きな声を出してしまったことにバツの悪さを感じながら、急く足取りで広い病室へと踏み込んだ。
市内中央の総合病院。様々な科が盛り込まれたこの病院は、方代やその周辺の学校に通う生徒たちが大きな怪我をした時にお世話になることが多く、それらの学校と親密な繋がりがあるらしい。
その病院の一室、最大四人の入院患者が寝泊りすることの出来る広い病室のベッドの一つに、六平太は横たわっていた。
「よお」
駆けつけた私に対して、六平太は軽く手を上げる。いつもと変わらない、飄々とした声音。
その陽気な挨拶に、私は自分の肩から力が抜けるのを感じた。
「な、なんだ……意外に元気そうね」
「そりゃあまあ。別にこんな怪我程度でいちいち落ち込んだりしねえよ。最後の大会目の前にした陸上部じゃあるまいし」
おどけながら、六平太は自分の右脚に巻かれた厚い包帯をぽんぽんと叩く。
症状、骨折。六平太本人から送られてきたメールによると、放課後私を迎えに行こうとした際に、方代の校門前階段で足を踏み外して滑落、右脚を折ってしまったらしい。私がそのメールを受けたのはつい先ほどのこと。一人で学校からの帰り道を歩いている途中に携帯が鳴り、急いで病院に駆けつけたのだ。
私は、とりあえずいつもと変わらない様子の六平太に胸を撫で下ろし、手近な椅子に腰掛ける。病室を出て行く看護師に笑顔を向けられたので、軽く会釈を返した。
「もう、間抜けだなあ……どうせ生徒のスカート下から覗き見ようとして、注意力散漫になってたんじゃないの?」
「酷ぇこと言うなあ。俺お前の彼氏だぞ? 他の女の子のスカートなんて……まあ、見れる状況なら見るけど、今回はそういうんじゃねえよ」
六平太はスケベ心を素直に告白する。素直なのはいいことだ。
「まったく……でも、大したことなさそうで安心したかな」
「大したことないとは失礼なことを言うねえ。これでも一週間は安静入院だぞ、授業置いていかれちまう」
「……早く退院したい?」
私は声を潜めて、顔を六平太の耳元に近づける。六平太も私の様子に気づき、ひそひそ話をするように声のトーンを落とす。
「ん、なんだよ日向」
「六平太。私なら六平太を早く退院させてあげること、できるよ。わかるでしょ?」
「……ああ」
私の言葉に、六平太は合点がいったように頷く。
正当な医療行為なら、六平太はこの病院に一週間安静に入院しなければならない。でも――私の『力』なら、六平太がどんな怪我をしていようと、治すことは容易い。
「まあ、私だって普段なら『力』を使うのは嫌だけど、六平太のことだからね。お母さんに頼めば、六平太の怪我の完治くらい、願ってくれると思うし」
私の『力』が私一人で使えないのは自明の理だ。しかし、既に私の『力』を知っている人に協力してもらうことは容易い――
「却下」
――のだけど、六平太はその魅力的な申し出を、一秒の間も置かずに切り捨てた。
つれない態度に、私は唇を尖らせる。
「なんでよ。せっかく彼女があなたのことを思って、助けてあげようって言ってるのに」
私がじっと睨みつけると、六平太は苦笑しながら私の頭に手をのせる。
「いや、俺のことを気遣ってくれるのはありがたいんだけどね。何分、骨折してた脚が急に治ったら医者が混乱するだろうし、変に悪目立ちしそうだ」
「六平太なら、誤魔化せそうな気がするけど」
「……俺を何だと思ってんだ」
六平太は呆れ顔で私の言葉を受け流す。私はしばらくの間、六平太に責めるような視線を送っていたけど、やがて可笑しさがこみ上げてきて、思わず口元に手を当てて息を漏らした。
……まあ、六平太ならそう言うと思ってたから、こんな申し出をしたんだけど。
「わかったわよ。しばらくは、一緒に帰れなくなるね」
「お前の方から毎日見舞いに来てくれればいいじゃん」
「甘えない。今週は宿題も忙しいんだし、一週間くらい我慢しなさい。暇が出来たら来てあげるけど、期待しないこと」
びしっと人差し指を突き立てて、六平太の眼前に突きつける。六平太は私の指を寄り目で見つめていたけど、やがて「ちぇー」と女々しく呻くと、両手を頭の後ろで組んでベッドに身を沈めた。
私は厚い包帯に覆われた六平太の脚を、ちょんと指で突く。
「まったく……周りに心配かけるんだから、こういううっかりはこれっきりにしてよね」
――その言葉に、何故か六平太はつい、と私から視線を逸らした。
「?」
「あ、ああ、そうだな。気をつける」
誤魔化したものの、僅かに六平太の声が震えたのを、私は聞き逃さなかった。
斜め上に視線を逃がして天井を見上げる六平太の顔を、私はじっと覗き込む。六平太はまるで動揺などしていないかのように、ヒューと高い口笛を吹いた。
……何だろう。余計に怪しい。
「ねえ、六平太」
「ん、何さ」
「何か隠してない?」
……僅かな静寂の間。
「……な、何も隠してねえよ」
あきらかに不審な口調で、六平太はそう答えた。……うん、ダウト。これは腹に一物あると考えていい。
「そう。……いいよ。聞かないから」
私が肩を竦めてみせると、六平太は決まり悪そうに唇を嚙んだ。「やっぱ誤魔化しきれないか」そんなぼやきが聞こえてきそうだ。
「あーうん、悪い。本当、大したことじゃないんだけどな」
長いこと付き合っていれば、隠し事が深刻なものかそうでないかは、大体察せるというものだ。六平太の隠し事の重要度は、「なるべくなら隠しておきたいけど、バレたところで大した問題にはならない」。……そんなところだろう。
隠しておきたい秘密というものは、誰にでもあるものだ。私自身、それはいつも痛感している。
「大丈夫。六平太が人に言えないことをしてても、私は六平太を嫌いになったりしないよ」
「その言い方酷くないか?」
六平太はベッドの上で腕を組み、真顔を作って私を見上げる。
……別に間違ったことを言ってはいないんだから、酷いとは心外だ。
*
「へえ。彼氏さんも真面目だねえ。彼女の助けくらいどんどん借りちゃえばいいのに」
翌日の放課後。私は昭美を道連れに、科学部の部室で一週間の宿題を片付けていた。
既に週末を目前にした金曜日。本来ならば宿題などというものは、休日にゆっくり終わらせるのが私のポリシーなのだけど、今週に限っては勝手が違う。せっかくの土日の休日だ。先の憂いを無くして、六平太の見舞いに行ってやりたいという気持ちがあった。
「昭美と一緒にしない。まあ、本人は別に真面目ってつもりもないんだろうけどね」
「ふーん」
昭美は頬杖をついて、鼻と唇の間に挟んだ鉛筆を小刻みに動かす。……昭美。あなたのノートが未だ真っ白なのは私の気のせいか。
「ま、本人も『一週間学校休める』って、不純な喜び方してたからね。そもそも『力』なんてものは――」
「使わなくて済むなら、それに越したことはない、と」
「……そういうこと」
何度でも声高に叫ぶが、私はそもそも同姓とのキスは嫌いなのだ。
六平太の話を打ち切って、私と昭美はせっせと宿題に取り組む。一週間分の宿題といっても、その量は生徒が少しやる気を出せば、一日で終わる程度のものだ。
この分なら当初の予定通り、明日明後日は病院に足を運べるだろう。私は鉛筆を止めて、病室のベッドで寂しがっている六平太の姿を想像する。見舞いが来ず、枕を濡らし、周囲の患者や看護師に慰められる六平太――
うん、あいつに限ってあり得ないな。
「あ」
私がくだらない考えを巡らせていると、不意に机を挟んだ向かい側に座る昭美が何かを思い出したような声を上げた。
「ん? いきなりどうしたのよ、昭美」
「うん、実はね、日向に言わなきゃいけないと思ってたんだけど」
昭美は広げていたノートを鞄にしまい込み(垣間見えたノートのページにはやはり何も書かれていなかった)、机に両手を突いて私の方へ身を乗り出してきた。
「ほら、覚えてるでしょ日向。奥園みちるさんのこと」
「……ああ」
すぐに思い出す。何せ色々な意味で強烈な印象を私に与えた少女だ。そう簡単に忘れられるはずもない。
「まあ、数日前のことだしね。彼女がどうかしたの?」
「うん、あの一件以来音沙汰無くて、とりあえず彼女も心の整理がついたのかなーって思ってたんだけど……実は今日、昼休みにうちのクラスの教室の前で会ってさ」
「え? 奥園さんと?」
私が尋ね返すと、昭美は「うん」と身を乗り出したまま頷く。
昼休み。その時間、私は学食を利用するために普段教室を離れている。
「で、まあ一応顔見知りだしね。私の方から軽く彼女に挨拶したのよ。そしたら――」
昭美は一瞬言い淀む。だがここまで言っては今更というものだ。一拍おいて言葉を続けた。
「……私にしがみついてきて、『もう一度琴糸先輩の『力』を貸してください』だってさ」
「はあ?」
思わず声が裏返りそうになる。流石に驚いた。
僅か数日前に『力』の危うさを知った少女が、再度その『力』に縋りたいと言ってきたのだ。呆れるべきか、苛立つべきか、私はしばしの間反応に困った。
「……それで?」
「そりゃもう、私は日向の友人だからね。流石に今回ばかりは、上手く奥園さんを言いくるめて断ったよ。感謝してよね。彼女、餌を前にしたライオンみたいな勢いで迫ってくるもんだから、断るの大変だったんだから」
昭美はそう言って得意げにふん、と鼻を鳴らす。……そもそも奥園さんに『力』の存在が知られることとなった原因はこいつであり、以前そのことで詰め寄った上でしっかりとボディーブローを叩き込んで反省させたのだが、この態度はそれをちゃんと憶えているのだろうか。
「奥園さんがねえ……」
私は部室の天井を見上げる。
昭美曰く、奥園さんは私の『力』を求める際に、「餌を前にしたライオンみたいな勢いで迫ってきた」という。
一度『力』による陥穽に嵌ったはずの彼女が、数日のうちに再び『力』を必要としたことが、少しだけ気になった。
「それで、日向様」
思索にふける私に、昭美は揉み手をしながら笑顔を向けてくる。
「今回の私、奥園さんの依頼を断るために、なかなかに骨を砕いたわけですよ」
「うん」
「私は親友である日向のために頑張ったということで……つきましては、ほんのちょっとだけ苦労代が欲しいなーと」
「うんうん」
「いえ、苦労代といってもですね、日向からたかりたいとかそういうことではなくて……以前お支払いした十万円のうちから、一部だけでもこちらに返上してもらえたら、それに勝る喜びは無いのですが、なんて……」
昭美の言葉に、私はなるたけ優しい笑みを浮かべる。
そしてお互い笑顔で向かい合うと、私は昭美の腕をぽん、と軽く叩いた。
「そんな言葉が出てくるってことは、まだ反省が足りないのかな?」
――流石に可哀想なので、これ以上の制裁は勘弁してやることにした。
*
涙に濡れる昭美を置いて、科学部の部室を出る。
最近は陽が傾くのが少しずつ遅くなっている気がする。人気の無い廊下には朱色の光が窓から差し込み、陽炎が立ち上っているかのような茫漠とした光景を作り上げている。逢魔が刻、とはよく言ったものだ。
宿題を片付けた私の足取りは軽い。こうして平日のうちに面倒な諸々を終わらせて、ゆったりとした気分で休日を迎えるのもたまにはいい。意識せず、鼻歌を歌いながら廊下を歩く。
「~♪」
その時の私は全てから解放されたような気分で、暢気に廊下を闊歩していた。
立て続けに起こった『力』頼みの依頼もようやくカタがつき、私に小遣いを搾り取られた昭美も、最近は自粛して実験を控えている。今まで自分を縛り付けていたものが解け落ちたような自由を、私はたっぷりと味わっていた。
そんな状態だったからこそ、その時の私はまさしく隙だらけだった。
そもそも普段から絶えず周囲に注意を払っているわけではない。偉い人のガードマンや兵隊ではあるまいし、たかだか一学生に過ぎない私が自分に向けられた気配を感覚で読み取るなど、無理な話だ。
だから、油断をしていた私に、彼女は造作もなく襲い掛かることができた。
「……え」
廊下の曲がり角に至って、私は足を止める。止めざるを得ない。
曲がり角の陰から、一人の少女が音も無く飛び出してきたからだ。
少女は真っ直ぐに私を睨むと、猛犬のような獰猛さで私に詰め寄ってくる。その贅肉がぶら下がった顔に、私は勿論見覚えがあった。
奥園みちる、その人だ。
「奥園さん、なにか――」
私は戸惑いながらも、目の前の少女に声をかけようとする。
しかし奥園さんは私の言葉に耳を貸さない。ただ鼻息荒く、重そうにお腹の肉を揺らしながらこちらに歩み寄ってくる。
総毛立った。よく分からないけど、今の奥園さんからは危うさを感じる。近づいてはいけない、獣の危うさ。
しかし私がその直感に従って動く前に、奥園さんは私の腕を捕まえる。服に爪を立てられ、鋭い痛みが走った。
「ちょっと、何を」
奥園さんを睨み返す。しかし私の講義は、言葉の途中で遮られる。
「う……?」
――奥園さんが私の身体を引き寄せて、無理矢理に唇を合わせてきたからだ。
「ふ……んぐ!」
まるで噛み付かれたような感覚。私は自分の唇に奥園さんが吸い付いている絵面を想像して、思わず卒倒しそうになる。
ちょっと待って。何でこんなことになってるの?
疑問を投げかけようにも、唇を封じられているので言葉を発することができない。二度と味わいたくないと思っていたナマコのような感覚が、唇を汚していた。
奥園さんはしばらくの間私の唇を存分に吸い取ってから、ようやく私の身体を解放した。
「……! はあ、はあ」
その場に膝をついて、深い呼吸を繰り返す。
奥園さんの視線を気にすることもなく、制服の袖を口元に押し付けて、必死に唇を拭った。見上げれば、奥園さんは私に申し訳なさそうな瞳を向けている。
一通り呼吸を落ち着けてから、私はどうにか言葉を発した。
「……どういうつもり?」
怒りに震える私の声に、奥園さんは弱々しい口調で答えた。
「……すみません。琴糸先輩には、大変失礼なことをしたと思っています」
奥園さんは言葉の通り、深々と頭を下げる。しかし謝られたところで、私の混乱は収まらない。
「奥園さん。何でこんなことをしたの?」
立ち上がり、頭を下げたままの奥園さんを責め立てる。掴みかかりたかったけど、理性がどうにかそれを押しとどめた。
信じられなかった。昭美から奥園さんが再び『力』を求めていることは聞いてはいたものの、こんな強引な手段をとってくるとは、夢にも思わなかった。まるで襲撃だ。
奥園さんは顔を上げ、私の視線に真っ直ぐに応える。その目は、自分の行いに対する後悔など微塵も感じていない。開き直っているようにすら思える目。
「……私、どうしても叶えたい願いができたんです」
奥園さんははっきりとした声音でそう言い放った。
「どうしても叶えたい願い?」
「はい。……先輩、申し訳ありませんでした。このお詫びは、いつか必ずさせていただきます」
奥園さんは一人でさっさと話を切り上げると、くるりと背中を向けて駆けていってしまう。私は制止する気にもなれず、精気が奪われたような心地の身体を壁に凭れさせた。
……何なのよ、本当に。
奥園さんと逢うまでに感じていた解放感はすっかり失われ、身体は得体の知れないだるさに襲われていた。
私はしばらくその場を動けずにいたが――やがて自分がさせられたことを思い返し、口を押さえながら、手近なトイレに駆け込む羽目になった。
*
週末というものは、一般的には平日の間に使い倒した身体を休めるための期間だ。その中には単純な休息は勿論、身体の不調をケアすることも含まれる。
そういうわけで、週末の総合病院というものは、平日に比べて多くの人でごった返している。平日の不調や故障を持て余した人々は、この休憩期間の間に身体の調子を整え、次の週に備えるのだ。
まあ何が言いたいかというと、以前六平太の元を訪れた時と比べて、本日土曜日の病院は大分うるさい。
私は大きなバスケットを両手で持ちながら、病院の廊下を歩いていた。バスケットの中にはメロンを始めとする果物の盛り合わせ。今更感溢れるお見舞いの品だけど、食べ物というものは渡されて困ることがない。
すれ違う看護師に挨拶をしながら、六平太の病室を目指す。休日の午後を返上して彼氏の見舞いに向かうのは、彼女としてなかなかの功労と言って差し支えないだろう。バスケットを抱える私は、自分が少しだけ誇らしかった。
総合病院といっても、迷うほど広いわけでもない。受付から五分もかからず、私は六平太が入院している病室へとたどり着いた。
病室の前で止まり、一度深呼吸。
……そういえば以前ここを訪れた際には、大変取り乱した状態で病室に飛び込んで、望まぬ注目を受けたものだ。あの日帰ってからそのことを思い出して、ベッドの中で悶絶した記憶が蘇る。
同じ轍は踏むまい。今日の私は冷静だ。それこそ方代の学徒たるに相応しい淑女の態度でもって、六平太に面会してやろう。
私は一つ咳払いをしてから、病室の扉の取っ手に手をかける。そして自分にできる限りの淑女らしい微笑を作り、その表情を仮面のごとく保ったまま、扉を横にスライドさせた。
「――――」
――扉を開け、そこにあった光景を見て、私はぴたりと凍りつい
た。
ごきげんよう、と発しかけた言葉は、即座に喉の奥に引っ込んだ。
即席で作り上げた淑女の仮面は、ガラスを叩き割るような幻聴を残して脆く崩れ去る。
「あれ、よう日向。来てくれたのか」
私の姿を見つけた六平太は、相も変わらず軽い調子の声を上げる。しかし私の注意は、六平太に向けられることはない。
六平太が横たわるベッドの脇の丸椅子に座る少女に、私の視線は注がれていた。
少女は六平太の視線を追って、私の方に振り返る。
思わず息を呑む。考えが上手く回らない。あまりの驚きに、バスケットを取り落としそうになった。
少女の顔には見覚えがある。
見覚えがあるどころの話ではない――最早何度も邂逅した、醜悪な容貌。
「え……琴糸先輩、何でここに?」
その、六平太の傍に寄り添うような席に、奥園みちるは平然とした顔で座っていた。
*
「そう……琴糸先輩、六平太さんとお知り合いだったんですか」
バスケットを病室に置いた私は、できるだけ動揺を抑えて二人に挨拶を返した後、六平太を残して奥園さんと二人、病院待合室の一角の長椅子に場所を移して会話を交わしていた。
わざわざ奥園さんに言って場所を移してもらったのは、六平太にこの会話を聞かれたくなかったからだ。
嫌な予感がしていた。病室で奥園さんを目にした時から湧き上がっていた悪寒。その正体は分からないが――漠然と、何か大事なものを失う前兆のような感覚。
「うん。まあ結構長い付き合いかな。小学校の頃からだしね」
奥園さんと隣り合わせに座っていた私は、前の席に座る老人の背中を見ながらそう答えた。
奥園さんには、私と六平太の関係については話してある。
――とても仲の良い、幼馴染のような関係、と。
嘘はついていない。私と六平太は確かに恋人関係という言い方が正確――なはずだが、その関係を言い換えたところで、意味の不足はあったとしても、虚偽は無い。
だけど私は何故、そんな曖昧なことを言ったのか。
それについては不思議なことに、私自身も分からなかった。
奥園さんは私の顔を覗き込むように、少しだけ身体を傾ける。
「あの――それじゃあ琴糸先輩。六平太さんが好きなものとかって、何かありますか?」
「ん、え? 好きなもの?」
深く考えずに首肯しそうになり、言葉の意味を再認識して聞き返す。
「はい。えっと私、六平太さんに伝えたいこととか、話したいこととかがあって……それでその時に、何か作るか買うかして渡したいと思って」
奥園さんは視線を落として頬に手を当てる。シミの浮いた頬の贅肉がぶよ、と持ち上がった。
そんな彼女の顔は、桜色に染まっている。
その様子を横目で見ながら、しばし押し黙る。
――私は気づき始めていた。
いや、気づき始めたのは今じゃない。本当は、病室で六平太の傍らに寄り添う奥園さんを見た時から、察していたはずだ。
「……ねえ、奥園さん」
声をかけると、奥園さんは赤い顔をこちらに向けてくる。私は彼女のカメレオンのような瞳を、真っ直ぐに見据えた。
奥園さんの質問を無視して、問いかける。
「奥園さんは……昨日私の『力』を使った時に、何を願ったの?」
――そうであって欲しくないと、内心では思っていた。
奥園さんは「え?」と一瞬呆然とする。しかし、すぐに私の言葉の真意を汲み取ると、膝の上に両手を揃えてもじもじと身体を動かした。
まだだ。まだはっきりと決まったわけじゃない。そもそも出会って数日しか経っていない奥園さんの本心など、私が把握できるわけがないのだから、この推察は間違っている可能性の方が大きい。
間違っている、はずだ。
「……先輩。もしかして、察しがついていたりします?」
奥園さんはミミズみたいな唇を動かして、照れくさそうに微笑む。
苛々した。もったいぶらずに質問に答えろ、という物騒な思いが、私の苛立ちを更に大きくしていた。
「うん。大体ね。だけど、奥園さんの口から聞いてみたいと思って」
適当に返す。――推察をしているのは事実だけど。
嫌な時間はゆっくりと過ぎるものだ。奥園さんの言葉を待つ私の耳には、待合室に身を寄せる来院者の声が、やけにはっきりと聞こえていた。
――結局は分かっていたのだろう。
前兆など何も無い。どういう経緯でそうなったのかも知らない。理由など、私の与り知らぬところだ。
それでも六平太と奥園さんが一緒にいた光景、そして奥園さんのこの態度を見れば、分かってしまう。
六平太の病室に入った時からおかしいと思っていた。
六平太と奥園さんは、私の知る限り面識は無いはずだ。
なのに何故、奥園さんは六平太の見舞いに来ていた?
何故それが当たり前のように、奥園さんは六平太の傍らに寄り添っていた?
「……なんだか、いざ言葉にしようとすると、恥ずかしいですね」
――まるで得体の知れない『力』が、そういう場面を拵えたみたいじゃないか。
「私、六平太さんと、その……恋人の関係になりたいって、琴糸先輩の『力』に願いました」
だから奥園さんのその言葉を聞いても、不思議なほどに驚きは無い。
ただ、あらかじめ目の前に用意されていた掃き溜めに突き落とされたような――そんな感覚だった。
「…………」
咄嗟に口が開かない。
その言葉を理解した脳は、ドライアイスでも放り込まれたかのように冷え切っている。
奥園さんのカメレオンのような瞳は、きらきらと輝いているように見えた。まるで一生の幸せを全て掴み取ったかのようなその曇りない表情に、私は堪らず目を逸らす。
「六平太さんと出会ったのは、一昨日のことなんです」
私の苦悩など気づかずに、奥園さんは語り始める。
「琴糸先輩は憶えていますよね? 私が以前、『美しくなりたい』って願ったこと」
「……ええ」
辛うじて頷く。
「でも、結局願いは叶わなかった。あの後の私は以前と変わらず、周りの人から馬鹿にされる日が続きました」
奥園さんは自分のセリフに没入しているのか、表情を曇らせる。
「二日前も、私はそんな状態で学校を終えて、帰ろうとしていました。一緒に帰る友達もいなかったんですけどね。それで――とにかく、自分の願いを上手く叶えられなかった落胆を引き摺っていた私は、きっとぼーっとしていたんでしょうね」
奥園さんは苦笑する。その表情には、微かな嬉しさが宿っている。
「私、校門前の階段の途中で、足を踏み外してしまったんです」
しれっとそんなことを言う。私はその言葉に多少驚きはしたものの、感情通りの反応を上手く返せなかった。
「本来なら私は、ごろごろと無様に階段を転げ落ちるはずでした。でも――そんな時、階段の下に立っていた彼が駆けつけて、私を抱きとめてくれたんです」
奥園さんは両手を組んでうっとりと天井を見上げる。その場面を思い出しているのだろうか。
「結局受け止めきれずに、一緒に転んでしまったんですけど……六平太さんのおかげで、私はほとんど怪我をせずに済みました」
その言葉で合点がいく。つまり六平太の怪我の理由は、実際には彼女を庇ったが故のものだった、ということだろう。
奥園さんを庇う六平太の姿を想像する。男の中では華奢ともいえる体格の六平太と、方代の生徒の中ではそうそうに見受けられない肥満体を持つ奥園さんのイメージは、なんともミスマッチだ。
けれども、六平太は助けたのだろう。あいつはそういう男だ。
「六平太さんを見た時、はっとしました。息が止まって、心がふわふわして……私その時、確信したんです」
奥園さんは目を瞑る。まるで自分自身、その言葉を噛み締めているかのようだ。
「六平太さんが、私の運命の人だって」
人が聞けば一笑に付すようなセリフ。奥園さんはそれを、この上なく真剣な声音で言い放った。
「……それで、私の『力』を?」
「はい。――先輩。私、間違っていました」
奥園さんは、恥ずかしい思い出を振り返るように、肩を竦めてくすくすと笑う。
「『美しくなりたい』なんて、本当の願いじゃなかった。綺麗な見た目や羨望の眼差しなんかよりも、好きな人と育む愛の方がとても素敵なものなんだって、私は分かりました」
奥園さんは、見る人が思わず顔を綻ばせるような、幸福の笑顔を浮かべる。
純粋。彼女の想いはまさにその一言に尽きる。やっと手に入れたものを強く抱きしめる、子供のように無邪気な想い。
そんな彼女の喜びは――私の胸を、鋭く突き刺した。
「先輩、昨日は本当に申し訳ありませんでした。急にあんなことをして、いくらお詫びをしても足りないと思います。でも」
奥園さんは私の手に自分の手をそっとのせる。
「先輩のおかげで、私、やっと自分の本当の願いを叶えることができました」
その言葉は一点の飾り気も無い、感謝の言葉だった。
「…………」
何も知らないが故の無垢。
それを突きつけられた私は、ようやく理解に至る。
――何故私は、自分と六平太の関係を、奥園さんに曖昧に伝えたのか?
結局のところ、答えは簡単だった。そんな関係を、私は失くしていたからだ。
私と六平太の特別な関係は――昨日、奥園さんと口付けをしたあの瞬間から、とっくに彼女に奪われていたのだ。
*
「いや、隠すつもりはなかったんだけどな」
奥園さんは用事があるとのことで、待合室で私と別れてから病院を後にした。
病室に戻った私は、ひとまず奥園さんのことを六平太に尋ねた。彼女から聞いた六平太との出会いや、その後の経緯。――声が震えないように言葉を繰り出すのが本当に辛かった。
六平太によると、奥園さんを助けた後、彼女が見舞いにやってきたのが親しくなったきっかけなのだそうだ。お互いのことを詳しく知り合ったのは昨日のこと。夕暮れの面会受付ぎりぎりの時間に、奥園さんが花束を持って病室を訪れたらしい。奥園さんは私の『力』を使ったその足で、この病院まで駆けつけたのだろう。
「人を助けようとして自分が脚折ったなんて間抜けな話だろ? しかも女子受け止めようとして支えきれずに落ちたなんて、男として情けないのもいいとこだ。そう思うと、言い出しづらくてな」
ベッドの上で上体を起こしている六平太は、悪戯がばれた子供のように口を尖らせてそう言った。
六平太の言葉は本当なのだろう。少なくとも二日前、六平太が私に奥園さんのことを語らなかった理由は、それだけのことだったはずだ。
「……本当にそれだけ?」
でも――今も「それだけ」とは限らない。
詰め寄るような私の言葉に、六平太はびくっと小さく肩を震わせる。
「本当は、私に言いづらい話を奥園さんとしてたとか、そういうんじゃないでしょうね?」
動揺は抑えようにも抑えられず、私の口調はついきついものになってしまう。
奥園さんが、私の『力』に込めた願い。それを考えると――六平太はまだ私に、何か言っていないことがあるような気がする。
「…………」
六平太は押し黙る。否定も肯定もしない。
さらに問い詰めるのを辛抱して、私は次の言葉を待つ。
数秒、私と六平太は互いのことを見つめ合っていた。
「……お前に話せないことを彼女と話してたってことは、ない」
ようやく発せられた六平太の声には、どこか真剣な響きが混じっていた。
六平太は逃げるように私から視線を逸らす。そんな態度を取る六平太は初めてだった。
「ただ確かに、今お前に言いづらいことは、ある」
六平太は一つ一つの言葉を自らに言い聞かせるように強調する。その姿は、まるで自らの罪を告白する咎人のようだ。
――ああ。
六平太のその姿を見て、私の胸の内に満ちたものは、諦観だった。
――私の『力』は今まで、どんな願いでも叶えてきた。
小学生の頃、同級生の女子が好きな男子へ告白したいと言った時には、私は『力』によってそれを成功に導いた。
中学に上がり、半ば巻き込まれるように親しくなった昭美に「無から物体を生み出せ」と実験を強いられた時には、『力』によってそれを実現させた。
更には醜悪な容貌を持った奥園みちるを、『力』によって瞬く間に絶世の美少女に変身させたりもした。
私の『力』に不可能は無い。それは私自身が一番よく知っている。
だから――奥園さんが『力』に込めたその願いは、叶うべくして叶うのだ。
「……言いづらいことっていうのは、六平太が奥園さんを気になっちゃってるとか、そういうこと?」
自分でも気づかないうちに、私の口調は穏やかなものになっていた。
もちろん、決して心が落ち着いたわけではない。単に憔悴していただけだ。
私の言葉に、六平太は目を見開いて言葉を失う。決して鈍いやつではない。私の「気になる」という言葉の意味を、六平太はちゃんと理解しているはずだ。
六平太は自分の感情を誤魔化すということをしない。だからこれは――まさに図星の反応なのだろう。
「あ、いや、ええとな――」
「そうなんだよね?」
六平太の言葉を遮る。これ以上素直な反応を見せられるのが嫌だった。
同じ病室に入院している患者たちや看護師の視線を感じた。私と六平太の間に漂う不穏な空気を感じ取ったのかもしれない。
――ああもう、見世物じゃないんだから、あんまりじろじろ見ないでよ。
私の言葉に逡巡していた六平太は、口を真一文字に引き結ぶと、こくりと小さく一度だけ頷いた。
「…………」
いっそ笑い出してしまいたかった。まるで私と六平太が幼い頃からずっと、長い長い飯事をしていたような気さえする。
私と六平太がこれまで積み重ねてきた関係は、つい最近まで知り合いですらなかった少女によって、いとも容易く解き崩されてしまったのだ。
本当に可笑しい。――可笑しいと思わないと、やってられない。
「自分でも変だと思ってるんだ。思ってるんだけど……ただ最近、彼女――奥園さんのことを考えてると、どうにも気にかかるっていうか、胸がつかえるっていうか……」
六平太はたどたどしく自分の気持ちを表現しようとする。無意識なのか、その顔には朱が差していた。不意に自分の中に生じたその感情に、六平太自身戸惑っているのだろう。
幼馴染から緩やかに関係を強めていった私には、決して見せたことのない表情だった。
「そっか。――浮気?」
冗談めかした口調で囁く。六平太ははっと気づいたように顔を上げると、慌てた面持ちで捲くし立てようとする。
「いや、日向。俺は――」
「いいよ」
けれど私は、六平太が言いかけたその言葉を押し留めた。
そう。いいんだ。これは六平太のせいじゃない。六平太は、そういう感情を「抱かされた」だけだ。
結局は、私の持つこの『力』が原因なのだから。
六平太は自分の失言を悔いるように頭を垂れる。何も言わず、口を噤んだまま。
六平太は普段生意気ではあるけれど、根は正直な性格だ。遠回しに言うことはあっても、心を偽ったことはほとんどない。
そんな彼が、奥園さんに想いが傾いた今の心境を語れば、その言葉はすべて、私にとって痛みを伴うものになる。
六平太も、それを分かっているはずだ。
だから。
「……なあ、日向」
次の六平太の言葉は、自身の心情と私への気遣いの、両方から紡ぎ出されたものだったのだろう。
「明日から、見舞いに来ないでくれるか?」
呟くように言う六平太の、苦しげな表情。
その言葉に対する驚きは無かった。予想していたわけではないけれど、漠然と、そういうものが突きつけられるだろうと思っていた。
――奥園さんが六平太と恋仲になることを望んだとして、それは具体的にどういうものだろうか?
答えは分かりきっている。当然それは単純明快に、「二人だけの」、「相思相愛の関係」なのだろう。奥園さんは、そう願うことに何の疑問も抱いていなかったはずだ。
すると、その願いの障害となるものは何だろう。
自覚している。理解している。
少なくとも、その障害の一つとなるものは――私だ。
六平太を懸想する人物。そして――私の認識が、妄想でなければ――六平太に懸想される人物。
奥園さんの願いにとって、私と六平太の関係は決して望ましいものではない。
「何か今の俺、変だ。日向と喋ってると、どんどん日向に対してまずいこと言っちまうような気がする」
だから排除される。自然淘汰のように。自らの『力』によって。
普段の六平太なら気づけたかもしれない。自身が不明瞭な理由によって奥園さんに好意を持っていることのおかしさを。そしてその突然の感情を、私の『力』と結びつけることも、もしかしたらできたかもしれない。
でも、六平太は既に影響下だ。例え私の『力』の知識を持っていたとしても、抗うことはできない。
「だから――暫く俺と会わないようにしてくれ」
だから――六平太はまったく疑問を抱かずに、私を遠ざけようとする。
私がいたその場所に、奥園さんを迎え入れるために。
「…………」
とても恐ろしい事実に気づいた。
影響下にあるのは、何も六平太だけじゃない。
そもそも、今の肝心要、奥園さんの願いにとって六平太から遠ざけなければならない対象は私だ。
だとしたら当然――私もまた、『力』によって何らかの影響を与えられていてもおかしくない。
そう考え、自身に何か変化が無いかと考えた時、ふと思った。
そもそも私は今、六平太のことが好きなのかな?
自問する。――自答。六平太とは幼い頃、小学生の時から親しく過ごしてきた。
自問する。――自答。思い出がたくさんある。二人で遊園地に出かけたことも合った。
自問する。――自答。
それだけだ。
確かに、今より前の時間、私は六平太と親しかったのだろう。好きだったような気もする。
でも、この今。私は六平太に対して、本当に男女の仲を意識しているのだろうか。
――いない。
即断してしまった。すぐにその答えが出てしまった。六平太に対して、かつてはおそらく抱いていたはずの想いを、私は容易に否定してしまった。
六平太は大切の親友だ。でももう、大切な恋人ではない。
なくなってしまったのだ。
――六平太さんが、私の運命の人だって。
奥園さんの言葉が脳裏によぎった。
まさにその通りだ。六平太は私の元から鮮やかに奪い去られ、奥園さんの「運命の人」に仕立て上げられた。私の『力』が、そうさせた。
きっと明日も、奥園さんはここに来るのだろう。そんな確信に似た予感があった。
「わかった」
至極あっさりと、六平太の言葉に私は頷く。まるで誰かにそうすることを命じられたかのように。
今すぐではない。けれども少しずつ時間をかけて、私は六平太から切り離され、奥園さんは六平太に歩み寄っていくのだろう。
――そのことに、今の私は抵抗を感じられるのだろうか。
そう考えようとして、考えるのが恐ろしくなって、やめた。
かくして。
長い時間を積み重ねて私と六平太が築いた関係は、砂時計が砂を落とすような緩慢さで、ゆっくりと崩壊していった。
*
病院を出ると、既に陽が落ちかかっていた。意識していなかったけど、随分長い間話し込んでいたらしい。
バスケット以外は何も持ってきていなかったので、帰り道はほとんど手ぶらだ。身が軽い。――荷物以外の何かも、置いてきてしまったような気がする。
茜に染まった道を歩きながら考える。
私には、奥園さんから六平太を取り戻す方法は無いのだろうか。
愚問だった。あるに決まっている。
奥園さんの願いを叶えたのは、そもそも私の『力』だ。私がその所持者である以上、手の打ちようはいくらでもある。
一番手早い手段は、適当な女性に協力させて、私と六平太が再び恋仲になるよう願ってもらうことだ。昭美なんて、実験ついでに喜んで協力してくれるだろう。
理屈ではそう分かる。奥園さんを突き放すのは簡単だ。
でも、もう駄目だ。
私は奥園さんを引き離してまで六平太を取り戻す、その価値を見出せない。
今の私は、六平太のことを親しい友人としか思っていない。
『力』で奪い返す関係なんて、まっとうなものではない。
私の大切なものを奪ったこの『力』に、縋りたくない。
何より、
――先輩のおかげで、私、やっと自分の本当の願いを叶えることができました。
奥園さんが掴みかけた幸福を、私が横から奪い取るという行為が――どうしてもできない。
――君はもっと優しい人間だと思う、と言っているのだよ、日向くん。
いつかの、まだ私と恋人だった頃の六平太が、そう言った。
奥園さんの願いを妨げるという選択ができないのは、六平太の言葉通り私が優しい人間だからなのか、それとも奥園さんの願いによって、『力』が私を遠ざけるため、そういう思考をさせているからなのか。
私には、分からなかった。
「……恨むよ。奥園さん」
歩みながら呟いた言葉も虚しく空転する。
私の言葉は誤りだと自分でも分かっている。恨むべきは、奥園さんではない。
本来恨みをぶつけるべきは、奥園さんにそんな願いを叶えさせるに至った、私の『力』だ。
しかし、『力』に関しては今に限らず、私はずっと前から恨み続けている。
――こんな『力』、大嫌いだ。
これまでそう思った回数は、もはや数え切れない。
その思いを言葉にするのも今更だ。
気づけば私は病院から大分離れ、住宅街に入ったところで足を止めていた。
休日の住宅街の道路では子供がボール遊びをしていることが多いけれど、時間が時間なので、すでに道に人の姿は少ない。立ち並ぶ家々から、ぽつぽつと家族の話し声が聞こえてくるだけだ。
折角誰もいないんだから、失恋の悲しみに涙でも流しておこうか。そんな自嘲混じりのようなことを考えていると、
「琴糸先輩?」
背後できりきりと、自転車のタイヤが回る音がした。
聞き覚えのある声に振り返る。私がそちらを向くと、声の主は押していた自転車を止める。
目と目が合い――流石に三度目ともなると、すぐに思い出すことが出来た。
「……一之瀬さん」
「あ、はい、こ、こんにちは」
相変わらずの気弱な表情を浮かべた一之瀬某さんが、相変わらずのかしこまった態度で、そこに立っていた。
*
「あの、琴糸先輩。私の勘違いかもしれませんけど――」
私と一之瀬さんは、二人並んで住宅街を歩いていた。
一之瀬さんが押す自転車のハンドルに結ばれたリールの先には、首輪に繋がれた一匹の犬がいた。黒い毛並みの、大きな犬。
そういえば、以前一之瀬さんが私の『力』を使った時に、彼女は家出をしたペットを見つけることを願ったはずだ。するとこの犬は、彼女が以前言っていた「コロ」という飼い犬なのだろう。
そんなことをつらつらと考えていたので、私は一之瀬さんの話をあまりよく聞いていなかった。
「その、もしかして今、何か悩んでいたりしますか?」
なので、一之瀬さんが私の心を見透かしたようにそう言った時、私はすぐに反応することができなかった。
少し驚いて、言葉を失う。
「あ、その、違ってたらごめんなさい! その……先輩、なんだかすごく疲れているように見えたので……」
一之瀬さんの言葉は尻すぼみに小さくなっていく。
視線を足元に落とす彼女を見ながら、私は内心で密かに感心していた。たかだか三度しか会っていない私を、彼女はよく見ている。
「…………」
――言っていいのだろうか。
悩み、という言葉が的を射ているのかどうかはさておき、今私が、奥園さんのことが原因で優れない気分になっていることは確かだ。
今の気持ちを誰かに吐き出したいという気持ちはある。しかし一之瀬さんにとって、その話を打ち明けられることは、決して気分のいいものではないだろう。
私が黙っていると、一之瀬さんはおずおずと顔を上げる。
「あの……本当に何か悩んでいるんでしたら、是非言ってください。私には何もできないかもしれないけど、人に話すことで気分が楽になることって、ありますから」
一之瀬さんは小さくてもしっかりとした声で、私に訴えかけてくる。
その瞳には曇りが無い。本当に、心の底からの気遣いでそう言ってくれているのだろう。
――結局は私も弱っていたのだ。
こっちから話そうとしているわけでもないのに、わざわざ言葉を重ねて聞き出そうとしてくるのだ。彼女の言葉通り、私の中に巣くうものを第三者に打ち明けることで、肩の荷が軽くなるというのはあるかもしれない。
甘えてしまおう。弱っていたが故に、私は容易にその言葉に乗っかってしまった。
遠慮が抜け落ちてしまえば、あとはもう躊躇うものは無かった。
「――失恋」
ぽつりと呟く。
その言葉に一之瀬さんは「え?」と足を止めた。黒い犬だけが、リールを伸ばして先に歩いていこうとする。
「失恋、しちゃってね」
どうにか気丈に見せられるよう、私は苦笑した。実際心の内はそれほどの暗雲ではない。何せ私自身の恋人に対する恋慕も失われているのだから。
あるのは、失ったという自覚だけだ。
一之瀬さんは押し黙る。その姿に、私は後悔の念を抱いた。……ほら、やっぱり困らせてしまった。
確かに言葉にしたことで、胸の中に蟠っていたものが少しだけ取り除かれたような気がした。しかしその代わりに、一之瀬さんに対する罪悪感が生じていた。これではあまり問題の解決になっていない気がする。
「ごめんね。急にこんなこと言われて困っちゃったでしょ? 忘れていいよ」
「い、いえ!」
一之瀬さんは首をぶんぶんと横に振る。分かりやすい。「どうしよう」という言葉が、顔に書いてあるみたいだ。
私は笑って、再び歩き出す。罪悪感とは別に、少しだけ癒されたような感覚があった。
前を歩く黒い犬を見つめる。犬ははあはあと舌を出しながら、一之瀬さんと一定の距離を保って歩き続けている。決して逃げようとはしない。
私の与り知らぬところで、一之瀬さんと黒犬は再会を果たし、元の絆を取り戻したのだろう。
「ねえ、一之瀬さん」
「は、はい!」
私の言葉に、一之瀬さんは背筋を伸ばして過剰に反応する。もう慣れた。
「一之瀬さんは私の『力』を使って、よかったと思う?」
繋がれた犬を見つめながら問いかける。一之瀬さんは私の視線を追って自身の飼い犬を見遣ると、ほとんど間をおかずに頷いた。
「は、はい。私とコロが今こうして一緒にいられるのは、先輩がいてくれたからです」
んと、んと、と一之瀬さんは言葉を続けようとする。感謝の言葉でも探してくれているのだろうか。
「そっか」
私はふっと息を吐いた。
一之瀬さんもまた、奥園さんと同じように私の『力』で自身の願いを叶えた少女だ。願いを叶える過程での私の嫌悪感はともかく、それで彼女の望みが叶ったというのなら、それは良いことだと思う。
一之瀬さんは確かに、私の『力』で幸せになった。そして奥園さんもまた、私の『力』で幸せを得ようとしている。
人が幸せになるというその点だけを見れば、私は祝福をするべきなのだろう。
そうは分かっているのだけど――心はそう割り切ってくれない。
「一之瀬さん、訊いてもいい?」
やめなさい、と理性が警告する。これから私が言おうとしていることは、一之瀬さんに責任は無い。
「な、なんでしょう」
「うん。一之瀬さんはさ――願いが叶って、幸せ?」
努めて柔らかい口調を心がける。ここで話を打ち切ることもできた。
それでも私は、一之瀬さんに甘えることを、やめることができなかった。
「も、もちろんです! 幸せです!」
一之瀬さんはこくこくと何度も頷く。何だか怪しい宗教団体の教徒みたいなセリフを言わせてしまって、少し申し訳なかった。
ともあれ、一之瀬さんは私の予想通りの回答をする。彼女は正直だ。本心なのだろう。
私は言葉を止めて、奥園さんの顔を思い浮かべる。
――先輩のおかげで、私、やっと自分の本当の願いを叶えることができました。
病院でそう語った奥園さんもまた、自分の想いを遂げることに、嘘偽り無く幸せそうな表情をしていた。
彼女もまた、言葉通り、幸せを感じていたのだろう。
「私の『力』は他の人を幸せにできる、素晴らしい力――」
唄うように呟く。
「一之瀬さん、前に私の『力』のこと、そう言ってくれたよね?」
「えと、はい、言いました」
横目で一之瀬さんを見る。一之瀬さんから見れば、私の様子は大分おかしいのだろう。明らかに困惑した表情を浮かべていた。
「私もそう思う。確かに私の『力』は、他の人を幸せに出来るよ」
「はい、本当に先輩の『力』はすごいと――」
「でもさ」
私は一之瀬さんの言葉を途中で止める。
「その『力』が幸せにしてくれる人の中に、『私』は多分、入っていないんだよね」
本心とは裏腹に――私は笑いながらそう言った。
「あ――」
一之瀬さんは言葉を失う。
……駄目だ駄目だ。こんなことを一之瀬さんに言ってどうするんだ。
そう思っても抑えられなかった。私は更に言葉を続けてしまう。
「だからさ、他の人がどう思ってるかは知らないけど、少なくとも私は自分の『力』が大嫌いだよ」
――ああ、本当にごめん。
心の中で謝る。
一之瀬さんは何も悪くない。彼女もまた自分の願いに純粋で、そこに私の『力』があったから、それを叶えただけだ。
誰だって、自分の願いは叶えたいものだ。叶えてくれるという話を持ちかけられれば、それに乗るのは当然の感情。
責めるとしたら、私に無断で一之瀬さんに話をもちかけた昭美くらいなものだろう。
「ごめん、また困らせちゃったね。今の話も忘れて」
私は一之瀬さんにひらひらと手を振る。
駄目だ、私は。一之瀬さんと会ってから、彼女に甘えっぱなしだ。甘えたところで、何かが変わるわけでもないのに。
一之瀬さんは、私に対して何を言ったらいいのかわからないのだろう。戸惑いの表情を浮かべている。仕方の無いことだ。おそらく一之瀬さんは、私の真意を半分も理解していない。私もまた、一之瀬さんにすべてを話す気にはなれない。
そんな状態で、一之瀬さんから何かを与えてもらうことなど、期待してはいけない。
「――先輩」
なのに。
その声に顔を振り向けてみれば、一之瀬さんは真剣な表情で私を見据えている。
緊張している。困惑もしている。それでも、彼女の瞳は真っ直ぐに私を捉えている。
「一之瀬さん?」
彼女の表情には、見覚えがあった。弱々しくも、自らの意思をはっきりと伝えようとする表情。
……そうだ、思い出した。
――先輩の『力』は、他の人を幸せにできる、素晴らしい力だと思います!
彼女が今私に向けているのは、あの言葉を言ってくれた時の表情だ。
私がほんの少しだけ自分の『力』を好きになれた時の、あの言葉を。
「えと、その、私はそうじゃないと思います」
一之瀬さんは少し俯きがちながらも、私から視線を外さすにそう言った。
「そうじゃないって、何が?」
「そ、その、上手く言えないんですけど……先輩の『力』は、他の人たちを幸せにすることができる力だって、私は今でも思ってます」
「……そうだね。それは私も思ってる」
『私以外はね』。そう付け加えなくても、一之瀬さんは私が言わんとしていることが分かっているだろう。
「それなら――先輩の『力』は、きっと先輩のことだって、幸せにしてくれると思うんです」
「……え?」
はっきりとした口調のその言葉に、眉をひそめる。
話が突然飛躍した。もしくは、一之瀬さんは私の言葉の意味を理解していなかったのか。いずれにせよ、脈絡の無い話だと思った。
しかし一之瀬さんは真剣そのものの表情で続けた。
「だって、少なくとも私は、琴糸先輩にも幸せになってほしいって、そう思っています」
驚いたことに――そう言い放つ一之瀬さんは、目に透明な涙を浮べていた。
「…………」
唖然とする。一之瀬さんが言ったことを、上手く受け入れられない。
どうして一之瀬さんが泣く必要がある? そもそも根本的なところでは、彼女には何の関係も無い話だ。
頭ではそう分かっていても、私はどこかで納得していた。
数回しか会っていなくても分かる。一之瀬さんは、そういう人だ。
私の言葉を哀れみ、あるいは悲しんでくれる、優しい少女だ。
一之瀬さんは袖でごしごしと涙を拭ってから、人気の無い住宅街に靴音を響かせて駆け出していく。そして5メートルほど先の道路脇におもむろに自転車を倒すと、再び踵を返して私の元へと戻ってくる。
黒犬は倒された自転車に駆け寄って、低い声で何度か吠えた。主の解せない行動に困惑しているのだろう。
一之瀬さんは、私の前に立ちはだかるように足を止める。そして一つ息を吐くと、頭一つ高い私を見上げて、
「あ、あ、あ、あ、あ、あの、あの」
萎縮するように視線を下げる。
何か大事なことを言おうとしていたように見えたけど……まあ、一之瀬さんらしいといえばらしい。
一之瀬さんは私を見上げ、視線を落とし、見上げ、視線を落とし――そうした無為な行為を数回繰り返した後、ようやく言うことが固まったのか、自分の顔をぱんと叩いてから、再び私を見た。
こんな光景を以前も見た気がするな、と思った。
「せ、先輩。そ、そ、その、私は先輩にも私と同じように幸せになってほしいです」
「……ありがとう」
その言葉には、感謝の念しかない。
「だ、だ、だから、その……」
「――?」
「せ、先輩、あの、その――本当に、失礼します!」
何を、とは訊く必要が無かった。というより、訊けなかった。
「――ん?」
唖然とする私の唇が、一之瀬さんの唇によって、そっと塞がれていたからだ。
「――!」
すぐ目の前に一之瀬さんの顔がある。
近すぎるせいで視界がぼやける。けれども、目の前で小さく震えているのは一之瀬さんの睫だろう、と私の中の冷静な部分が推測した。
一之瀬さんの手が、私の肩を強く掴んでいる。頭一つの身長差があるので、精一杯背伸びをしないと、私の唇に自分のそれが届かないのだ。
されるがまま。「どうなってるの?」という混乱が、頭の中にぐるぐる渦巻いている。
触れ合っているのは唇だけなのに、不思議と甘い味がしたような錯覚を覚えた。その甘さにわけもなく頭が熱くなり、膝に力を入れることを忘れてへたりこみそうになる。
多分時間にすれば二秒ほど。私と一之瀬さんはどちらからともなく身体を離す。
目を瞑っていた一之瀬さんは瞼を上げると、ようやく自分が行ったことの大胆さを自覚したのか、顔を真っ赤にして服の裾を両手で握り締めた。
「あ、せ、せ、せ、先輩! 本当に突然、ごめんなさい! えと、キス!」
焦りきっているのか、言葉の順序立てができていない。
といっても表に出さないだけで、取り乱しているのは私も同じだ。呆然と立ち尽くしたまま、一之瀬さんを見ることしかできない。
「一之瀬さん、今のは――」
どうにか喉の奥から言葉を搾り出す。一之瀬さんは赤くなった顔を上げることができずにいる。
「せ、先輩!」
一之瀬さんは視線を落としたまま、叫ぶように呼びかけてくる。
「な、なに?」
「私は先輩の『力』は素晴らしいものだと思います! だから、その……先輩には、その『力』を、嫌いにならないでほしいです」
「…………」
嫌いにならないでほしい。
確かに私の『力』は、他の人を幸せにすることができる素晴らしいものだろう。それは認めている。
でも、一之瀬さんには申し訳ないけれど、私は嫌いなものは嫌いなのだ。
『力』を使うのは、単純に気持ち悪い。頬や額ならともかく、唇と唇のキスだ。外国人じゃあるまいし、スキンシップ代わりに接吻、という気にはとてもなれない。
だから私がこの『力』を嫌いにならないということは、絶対にありえない。
――本当に?
「そ、それに、先輩にも私たちと同じように、幸せになってほしいです」
一之瀬さんは言葉を続ける。弱々しい声音だけど、尻すぼみにはならない。
「幸せになってほしい」。一之瀬さんの言葉は真剣だった。
「だ、だから、その――そ、そういう思いを全部、今のキスに込めました」
……え?
私は思わず目を見開く。
たった今の一之瀬さんの言葉の意味を考える。
――先輩には、その『力』を、嫌いにならないでほしいです。
――先輩にも私たちと同じように、幸せになってほしいです。
――そういう思いを全部、今のキスに込めました。
そう考えて――一之瀬さんの願いが紛れもなく、自分に向けられたものだと気づいた。
「一之瀬さん……」
「あ、あの、本当にすみませんでした!」
一之瀬さんは何度も頭を下げる。まるで何か、取り返しのつかない過ちを犯してしまったかのように。
そんなことはない。私はただ、困惑していただけだ。
たった数回しか会ったことのない少女。そんな彼女が、私を気遣って――そして、私のために願ってくれる。
それが、にわかに信じられなかった。
「――――」
何かを言おうとした。そのつもりだった。
でも実際には何の言葉も出てこない。まるで喉がつかえたみたいに、言葉が押し留められる。
胸中は複雑だ。無理矢理唇を奪った一之瀬さんを責めるべきなのか、それとも私のために『力』に願いを込めてくれた一之瀬さんに感謝を伝えるべきなのか。
キスのせいもあったのだろう。判断力は曖昧になっていて、一之瀬さんに言うべきことが思い浮かばない。
「――一之瀬さん。帰ろうか」
やっと発した言葉はそれだった。
一之瀬さんは不安そうに顔を上げて、私の表情を窺ってくる。私はなるべく自然に笑み返して、先に歩き出す。
一之瀬さんは自転車を立て直して、慌ててついてくる。
再び隣り合って歩く一之瀬さんに、私は少しだけ迷ってから――ぽつりと小さな声で、感謝の気持ちを伝えた。
私のために願ってくれてありがとう。そんな感謝だ。
「――! い、いえ、そんな勿体ない……」
一之瀬さんは頭から湯気が出そうなほどに赤面して、再び俯く。
私はその表情を見て――どういうわけか、思わず抱きしめたくなるような衝動に駆られる。
可愛いと思った。確かに昭美が言っていたように、一之瀬さんはぬいぐるみみたいだ。
その後、私と一之瀬さんは他愛の無い会話をしながら歩き続けた。
病院から抱え続けていた蟠りは、いつの間にか解消されていた。代わりに何か温かいものが、胸の内に満たされている。正体は分からないけれど、決して不快なものではなかった。
一之瀬さんと隣り合って歩きながら、私はあることを考え続けていた。
――一之瀬さんは可愛いな。
――一之瀬さんを、抱きしめてみたい。
――一之瀬さんと――
……え?
困惑する――違う。困惑したつもりだったけれど、すぐにその考えは掻き消えた。
そう。当たり前じゃないか。そう思うことなんて。
その行為をしたいと思うことに、嫌悪感を覚えるはずがない。
私は自分のうちに生じた感情を素直に受け入れ――自分の顔が少しだけ熱くなっていることを自覚しながら、一之瀬さんと二人で歩き続けた。
――先輩には、その『力』を、嫌いにならないでほしいです。
――先輩にも私たちと同じように、幸せになってほしいです。
――そういう思いを全部、今のキスに込めました。
「先輩、さようなら。また学校で」
「うん、さようなら」
一之瀬さんの家の前。一之瀬さんは自転車を支えたまま頭を下げる。私は軽く手を振って応え、それから彼女に背を向けて再び歩き出した。
自分の内に生じた感情に納得する。
なるほど、確かに。
一之瀬さんが『力』に願ったことは、間違いなく叶えられていた。
*
放課後の科学部の部室で、私は彼女と向かい合っていた。
――その申し出を聞いて。
最初はひとまず単純に喜んだ。また実験ができる、と。
それから疑問に思った。何故急に、そんなことを言い出したのか、と。
最後には、不気味に思った。
「……ねえ。あなた本当に、日向だよね?」
物の怪を前にしたような気分で、私、凪島昭美は目の前の少女にそう問いかけた。
いや、本来目の前の少女、などという他人行儀な呼び方は相応しくない。
何せそこにいるのは私の親友、琴糸日向なのだから。
「……昭美、ボケた?」
日向は呆れ返ったような半眼を私に向けてくる。
私としては、その言葉をそっくりそのまま返したい。私の経験から言って、日向が放ったその言葉は、彼女が正気ならばまずありえないと思うようなことだった。
「いや、だってさ――誰かに『力』を使わせてあげたいから、『力』を必要としている相手を探してくれ、なんて、いつもの日向じゃ絶対に言わないから」
中学の頃からのそれなりに長い付き合いを根拠に、私はそう断言する。
日向からその頼みごとを受けたのは今朝のこと。
席について始業までの時間待ちの間に予習を行っていた私に近づいてきた彼女は、私の机に勢いよく両手をつくなり、自らの『力』を貸す相手を探すよう、私に依頼してきたのだ。
日向の『力』は、方代の学則から考えても健全なものではない。だから色々と後輩にコネがある私を通して、『力』を求めている生徒を探そうとしたのだろう。その理屈は分かる。
だけど、そもそも日向が突然『力』を使いたいと言い出した理由は、私には分からなかった。
「そんなの昭美の思い込みでしょ。便利な『力』なんだし、それで人助けになるなら、使わなきゃ損じゃない」
日向は当然のように言う。まるで、その『力』を使うことによる負担なんて、何も無いかのように。
いやいや、待て待て。
「だって日向、これまで『力』を使うの嫌がってたじゃない」
そのせいで、今まで私は実験のために、あの手この手で日向が『力』を使うよう唆さなければならなかったのだ。
日向がこうも気まぐれに『力』を使おうと踏み切れる人間ならば、そもそも私の今までの努力の意味が無い。
「日向、嫌なんでしょ? これが」
私は唇をすぼめて、芝居がかった接吻の動作をしてみせる。――今までの日向なら、その私の仕草に不快感を抱き、「やめてくれない?」と真顔で言ってくるのが通常だ。
今の日向は――
「……嫌じゃないよ、別に」
驚愕する。
日向は少しだけ顔を赤らめながらも、平然とした顔でそう言ってのけたのだ。
「嫌じゃない」? あの日向が?
しかしそんな私の動揺をよそに、日向はずいっと顔を近づけてくる。
「それより、頼んでたこと、どうなったの? 見つかった? 見つからなかった?」
詰め寄ってくる日向の瞳には、明らかな期待が宿っている。私が、日向の『力』を必要としている相手を探し出したのかということに対する期待。
「う、うん。一応見つかりはしたけど……」
私はこくこくと頷く。瞬間、日向の顔が明るくなったのを私は見逃さなかった。
「誰?」
「そんなにがっつかないでよ。――私の後輩の、如月美緒ちゃん。一年のC組。言われた通り、放課後に校舎裏に来るように言っておいたけど――」
確かに日向に言われた通り、日向の『力』を必要とする人を探し出し、校舎裏に呼び出しておいた。勿論、日向の『力』を使わせてあげるためだ。ただし今回は、日向たっての希望で。
日向はその言葉に相好を崩す。
「ありがと昭美! それじゃ――」
「あ、待ってよ日向!」
私から離れて部室を出て行こうとする日向を呼び止める。
日向は少し苛立った表情で振り返った。多分(信じられないことだけど)、呼び出した相手の下に早く行きたいと思っているのだろう。
「ねえ、朝言ってたことだけど、本当に観察料は――」
「ああ、観察料? いらないいらない。それじゃ」
言い置いて、日向はさっさと部室を出て行ってしまう。それが本当にどうでもいいことのように。
取り残された私は、この解きがたいミステリィに頭を捻らざるを得なかった。
――いやはや、やっぱり信じられない。何の見返りもなく、日向が『力』を使おうとするなんて。
*
校舎裏に駆けつけると昭美の言っていた通り、一人の生徒――如月美緒さんが校舎の壁に寄りかかって所在無さげに佇んでいた。
彼女の前に進み出る前に、校舎の陰で大きく深呼吸をする。
焦ってはいけない。自分の本心のままに行動することは、相手に嫌われてしまうことに繋がる。
逸る心を抑え、頭が冷静さを得ることを待ってから――私は足元に視線を落としたままの彼女の前に、ゆっくりと進み出た。
「こんにちは、如月さん」
私の言葉に如月さんは振り返り、少しだけ驚いたような表情を浮かべる。そしてきょろきょろと辺りを見回してからとことこと近づいてくると、小動物のような仕草で私の顔を見上げた。
「あの……琴糸日向先輩、ですか?」
まるでテレビに出てくる子役のような、可愛らしい声だった。確かめるような口調で尋ねてくる如月さんに、私は頷いてみせる。
――ああ、もう。早くやってしまいたい。
頭をもたげるそんな願望を、どうにか理性で押さえ込む。
「うん、私が琴糸日向です。昭美から、大体のことは聞いてるよね?」
問いかけると、如月さんは言葉を発さずに何度も頷く。
「そう。それなら訊いていいかな? ――如月さんは、どんな願いを叶えたいの?」
私の質問に、如月さんはもじもじと身体を動かす。どういうわけか、如月さんは申し訳なさそうな面持ちで、私の顔を見つめていた。
「あの、実はお願いといっても大したことじゃないんです。願いを叶える『力』なんて正直なところ、昭美先輩の冗談だと思っていたので、本気にしていませんでしたから。なんというか、安請け合いしちゃって……」
如月さんはそう前置きしつつも、言葉を続けた。
「明日、小学生の妹が遠足に出かけるんです。でも明日の天気予報、雨になってたじゃないですか。それで、明日の天気が晴れになって、妹が無事に出かけられるようになったらいいな、くらいの気持ちで、昭美先輩に相談したんですけど……」
後は昭美が、如月さんに私の『力』を使うように誘導したというわけか。大方「おまじない」くらいに言い聞かせたのだろう。
――グッジョブ、昭美。
「妹さんのためか。如月さん、良いお姉さんだね」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。そんな動作がいちいち愛らしい。
ああ、もう。我慢が利かなくなってきた。
「それで、如月さん。私の『力』を使うための条件は聞いてるかな?」
私の言葉に、如月さんは肩を跳ね上げる。俯いた顔が、茹でられたみたいに真っ赤に染まっていた。
「……もう知ってるみたいだね。それで――如月さん、嫌じゃないかな?」
如月さんが緊張しない程度に距離をおいて問いかける。
何が、とは言わない。
それでも如月さんは聡くその意味にたどり着いて、あうあうと意味も無く口を動かす。
ああ……そんな姿も本当に可愛い。
そうしてたっぷりと恥じらいだ後、如月さんは極々小さく、一度だけこくりと頷いた。
「そう」
それが妹を想うが故のものなのか、それとも――私と似たようなものなのか。
それについて質問するのは、野暮というものだろう。
「あの、琴糸先輩」
如月さんは僅かに顔を持ち上げる。
「先輩の『力』の話って、本当――むぐ!」
けれども私は、その言葉を最後まで言わせない。
「嫌じゃない」という回答を得たのなら、もう私が躊躇をする理由は無い。
私は目を見開いたままの如月さんの唇に、自分の唇を押し付けていた。
如月さんが何か言葉を紡ごうとする。しかし私が唇を塞いでいるので、それを口にすることができない。
やがて観念したのか、如月さんは強く目を瞑って、その時間に身を預けた。私を突き飛ばしたりはしない。単にその行動が頭に浮かばなかっただけかもしれないけど、兎にも角にもあからさまな拒絶は無かった。
――ああ。
至福の瞬間だった。
自分のこの『力』を、一番好きになれる瞬間だった。
自分が幸せだと、実感できる瞬間だった。
――先輩には、その『力』を、嫌いにならないでほしいです。
――先輩にも私たちと同じように、幸せになってほしいです。
――そういう思いを全部、今のキスに込めました。
一之瀬さんがあの時『力』に込めた願いは、確かに私を救ってくれた。
救ってくれた、といっても、私にその実感は無い。というのも、あの時を機会に何かが切り替わったというよりは、私自身が最初から、「そういう」人間だったような気がするからだ。
同姓とキスをすることに、何の抵抗も無い。嫌悪感なんてあるはずもない。むしろ、その行為に喜びすら感じることができる。
女の子が好きだ。女の子のキスをすることは、とても嬉しいことだ。今の私は、そう思うことに何の疑問も抱かない。
だから、自分の『力』を嫌いになるはずもない。それどころか、その『力』で誰かが願いを叶えて幸せになってくれるのなら、私にとっては万々歳だ。これほど嬉しいことはない。
私は、女の子が好きで、女の子に歩み寄ることができる自分の『力』が好きで、その女の子の願いを叶えてあげることも好きで――
あれも好き。これも好き。好き、好き、好き。私にとって、『力』を使うことは、好きなことのバーゲンセールだ。
だから、幸せ。
私は自分の『力』を使うことが、何よりの幸福になっていた。
「――ふう」
押し付けていた唇を離す。長いように思えても、ほんの一瞬の出来事だ。
如月さんは呆然とした表情で私を見つめている。あまりこういう経験が多いようには見えないので、妥当な反応だと思う。
それほど重要でもない理由で私の『力』を借りようとしてくれたのだから、多分ファーストキスというわけではないのだろう。――私にそれをくれたというのなら光栄の極みではあるけど、流石に初対面の相手に対して、自意識過剰というものだ。
「大丈夫?」
私は言葉を失ったままの如月さんに声をかける。やや強引に事を運んでしまったので、彼女がパニックになっているのではないか、という危惧が、ふと頭に浮かんだ。
如月さんは、眠りかけの状態から起こされたように身体を一度小さく震わせると、尻餅をつきそうな勢いで慌てて二、三歩後ろに後ずさった。
「だ、大丈夫、です」
どうにか躓かずに足を止める。――うん、落ち込んではいない。動揺はしているけど、本人の言う通り、「大丈夫」の範疇ではあるのだろう。
如月さんは肩を上下させて息を整える。何度かそうしてから大きく息を吐くと、ようやく落ち着いたのか、胸に手を置いたままゆっくりと顔を上げた。
「先輩、その、今ので――」
「大丈夫。ちゃんと『力』は使えたよ。この首にかけて、明日は晴れること間違いなし」
私は笑みながら、立てた親指の自分の首の前に横切らせる。……よく考えたらこれは首を切る動作だな、と後になってから気づいた。
「そ、そうですか。よかった……」
如月さんは小さな声でそう言って、空を見上げながらはにかむようにして笑う。妹さんのことを考えているのだろう。
その仕草が本当に可愛い。思わず顔が緩みそうになるのを自制するのに、大分精神力を要した。
「そ、その、ありがとうございました先輩。それでは――」
「あ、待って!」
ぺこりと頭を下げて立ち去ろうとする如月さんの袖を掴んで、その場に引き留める。如月さんは困惑の面持ちで、袖を掴む私の手を見つめている。
如月さんとしては、早くこの場を立ち去りたいのだろう。一般的にはあまり正常ではないとされる女性同士のキスの後だ。私と顔を合わせるのも、気まずいに違いない。
だけど私としては、このまま彼女と別れてしまうのが惜しかった。
「如月さん。よかったらなんだけど、この後、お茶でもしない?」
私は勤めて淑やかな表情で、如月さんに誘いかける。――内心では彼女のことを強引にでもお持ち帰りしたかったのだということは、口が裂けても言えない。
節操が無いことは自覚している。何せ今の私は、可愛いと思った女の子ならば、誰であっても好きなのだから。
「この近くに、お洒落な喫茶店があるんだ。なんだったら私が奢るから、どうかな?」
キャッチセールスのような誘いかけになってしまったのは、後に是正すべき反省点だ。
如月さんは私の顔をじっと見つめている。興味を持ってくれたのかと思ったが――よく見るとその顔に浮かんでいるのは、まるで雌ライオンでも目の前にしたような、不安げな表情だ。
しまった、と思ったときには遅かった。
「あ、あの、結構ですので、またの機会に――失礼します!」
袖を掴む力が弱まった隙に、如月さんは身を翻して走り去ってしまう。
あっという間だった。如月さんは充分に距離をおいてから私の方に振り返ると、素早く頭を下げ、そして校舎裏から走り去ってしまう。
――そして、後には間抜けに右手を突き出した格好のままの、私だけが残された。
「…………」
腰に手を当てて、嘆息。長く長く息を吐き、肺の中の空気を全部入れ替えてから、私はぐっと顔を上げた。
まあ、仕方ないか。
夕陽の滲んだ空が目に入る。そのオレンジの輝きに、思わず目を細める。
如月さんと是非とももう少し時間を過ごしたかったという思いはある。だけど、そもそも私は彼女の願いを叶えてあげるためにここに来たのだ。如月さんも、それだけのつもりだっただろうし、それ以上を求めても彼女が望まないのならば、それは仕方の無いことだ。
如月さんの言う「またの機会」に期待しよう。――彼女がもう一度、私に会ってくれればの話だけど。
ああ、でも――本当に幸せだなあ。
心の底からそう思う。
自分の『力』を誰かのために役立てることができて、私自身、その『力』を使うことに喜びを感じられる。
決して遊び半分ではない。ただ私は、『力』を使う相手のことをいちいち好きになって、いちいち幸せになって欲しいだけだ。
そうすることで、私は自分の幸せを感じることができるのだから。
天に向けて、開いた右手の平を翳した。
私はこれから、いくらでも幸せになれる。
誰かが願いを抱えてきたのなら、納得がいくまでその人の願いを叶えてあげよう。誰かが不幸に嘆いていたら、幸せにたどり着く手段を一緒に模索してあげよう。
そうしてその人が笑顔になってくれれば、私はそれだけで満足できる。
そうするだけの『力』を、私は持っているんだ。
決意して、与えられたこの『力』に感謝して――私は宙に流れる幸せを掴み取るように、掲げた右手を握り締めた。