影の森
早朝の陽光が廊下の高窓から差し込み、空気中には微かな塵が舞っていた。そこには戦闘前夜特有の、張り詰めた魔力の波動が漂っている。
「おはよう、シエン」
アイリンの深いブルーの長髪は少し乱れ、数本の毛先がいたずらっぽく跳ねていた。集合時間に間に合わせようと急いできたのだろう。だが、その活気に満ちた笑顔は、朝の光に負けないほど眩しかった。
「おはよう、アイリン。他のメンバーは?」
俺は彼女の肩で跳ねている毛先を整えてやりながら、周囲を見渡した。
「アウグストゥス君は早くからウォーミングアップに行っちゃったみたい。隠さんはまだ見てないわ」
真面目なチームメイトだな。俺は心の中でそっと感嘆した。アウグストゥスのあの性格さえどうにかなれば、あるいはあの選民思想に満ちた傲慢さがなければ、本当に優れたリーダーになれたかもしれない。
「おい、何か失礼なことを考えていないか?」
アウグストゥスの磁性はあるが傲慢さを孕んだ声が背後から響いた。仕立ての良い軽便な戦闘服に身を包んだ彼は、全身から活力が溢れ、すでに最高のコンディションに調整されているのが見て取れた。
「アウグストゥス、早いな」
俺は淡々と応じた。
「フン、強者とて油断は禁物だ」
彼は鼻で笑い、無意識に手袋を整えた。その言葉は全くもって正しい。戦場において、油断は死の始まりだ。だから俺は珍しく反論しなかった。
俺は廊下の奥へ視線を向けた。光と影が交錯する薄暗い場所から、あの見慣れた黒い人影がゆっくりと歩いてきた。
全校で唯一の黒い制服、そして氷のように冷たく神秘的な白い仮面。だが、どういうわけか【観測者】が彼女の歩き方のわずかな硬さを捉えた。昨夜、窓際で「観測」した際の後遺症だろうか。
驚いたことに、普段は影のように沈黙を守る「隠」が、俺たち三人の姿を見ると足を止め、その白い手をゆっくりと上げ、小さく振ってみせたのだ。
それは「隠」が初めて自ら見せた「社交」の仕草だった。ほんのわずかな動きだったが、アイリンの目には大きな進歩に映ったようだ。
アイリンは嬉しそうに駆け寄り、「隠」の手を取った。
「隠さんも、おはよう! これで班全員集合ね!」
「隠」の身体は明らかに硬直したが、アイリンの手を振り払うことはしなかった。仮面の下の視線がアイリンを越し、宙で俺の視線と一瞬だけ交わった。その瞬間、俺たち二人にしか分からない奇妙な空気が流れたような気がした。
「最高難易度攻略班、こちらに集合しなさい!」
幻理先生の声が、清々しい空気の中に響き渡った。彼女は学院の裏門に停められた特製の馬車の傍らに立ち、期待と品定めが混ざったような眼差しを向けていた。俺たち四人は指示に従い前へ出た。成績上位者で構成されたこのチームは、間違いなく今期で最も豪華で、そして最も不安定な組み合わせだった。
馬車が揺れる小道を進む中、狭い車内の空気はどこか微妙だった。
アウグストゥスは相変わらず天の寵児としての姿勢を崩さず、腕を組んで窓の外を飛ぶように過ぎる森を眺めていた。まるで、これからどう華麗に魔獣を狩るかを考えているかのようだ。
隣に座るアイリンは、昨夜の興奮か、あるいは初の実戦への不安からか、目を閉じて浅い呼吸を繰り返している。揺れに合わせて、彼女の頭がこっくりこっくりと俺の肩に傾いてきた。
正面に座る「隠」は、両手を銀色の刀の柄に重ねていた。冷たい仮面に遮られてはいるが、俺の鋭い感覚は、彼女の視線がずっと俺に張り付いているのを感じていた。背中が少し寒い。昨夜の「深夜観測」に対する、無言の抗議なのは明白だった。
俺はアイリンが眠りやすいように少し肩をずらしてやり、沈黙を破った。
「隠さん。迷宮に入ったら、君はアイリンと一緒に動いてほしい。彼女の遠距離魔法を護衛してやってくれ」
俺は声を潜めて言った。
「隠」は微かに首を傾げ、その役割の妥当性を考えているようだったが、すぐに小さく頷いた。彼女も分かっているはずだ。このチームでアイリンの殲滅力は最大だが、魔法の隙を狙われれば最も脆いということを。
「はぁ?」
横でアウグストゥスが冗談でも聞いたかのように顔を向け、不機嫌そうな視線を俺にぶつけてきた。
「リーダーである私とお前が一緒に動くだと? 私の攻撃リズムを乱すつもりか?」
傲慢さが滲み出るその顔を見て、俺の口角は皮肉めいた弧を描いた。
「フン、お前がリーダーなら、せめて『一応、副リーダー』の俺に、しっかり保護させてくれよ」
俺はわざと「保護」という言葉を強調した。
「保護だと? 大言壮語も甚だしいぞ、シエン!」
アウグストゥスは尻尾を踏まれた猫のように声を荒らげた。「魔狼に怯えて漏らすんじゃないぞ。助けてくれと泣きつかれても、せいぜい氷漬けにして命を繋いであげるのが関の山だ!」
俺が「副リーダー」を自称し、「アウグストゥスを保護する」と言った時、「隠」の刀に置かれた指先がピクリと動いた。仮面で表情は見えないが、今のは絶対に吹き出していたはずだ。
「影の森が最高難易度に指定されているのは、単に魔物が強いからではない」
紫色の瘴気が漂う森の境界に踏み入った時、アウグストゥスは珍しく不敵な笑みを収め、厳粛な面持ちで解説を始めた。
「影狼の一族は神出鬼没だ。奴らは影の中を自在に渡り歩く。実体を持つ個体もいれば、影元素そのもので構成された虚無の個体もいる。奴らを倒すには、光か雷の魔法が不可欠だ。強力な光は奴らを影から引き剥がし、現身させて弱体化させる」
彼はそう言いながら、暗にアイリンを見た。彼の中で、この戦いの核は自分とアイリンになるという計算なのだろう。
「俺たちの目標は迷宮中央にある信物の回収だ。あまり殺りすぎるなよ、リーダー」
俺は後頭部で手を組み、気楽な調子で茶化した。
「フン、余計なお世話だ。影に飲み込まれないよう、自分の身を案じることだな」
アウグストゥスは鼻で笑い、俺のからかいを無視した。
馬車は迷宮の入り口で止まった。
そこは無数の枯れ果てた巨木に囲まれた巨大な亀裂だった。底の見えない紫の霧が入り口で渦巻き、まるで何かが呼吸しているかのようだ。降り立った瞬間、陰鬱な魔力が足元から這い上がってきた。
俺は背後の二人を見た。アイリンは胸元の雷のペンダントを握りしめ、ブルーの髪が冷たい風に震えている。一方で「隠」は恐ろしいほど静かだった。銀色の刀は、いつでも弾かれるように抜刀できる状態にある。
「行くぞ」
俺は低く注意を促した。同時に左目をフルパワーで起動させ、紫の霧の中に無数の構造線を展開していく。
「――行くぞ!」
アウグストゥスの低喝と共に、彼は銀白色の残像を残して紫の霧の中へ突っ込んでいった。氷系の天才である彼が踏み出した場所は、瞬時に薄氷が張り、泥濘の中に強制的に道が敷かれた。
しかし、俺たち四人が迷宮に入った瞬間、背後の入り口がまるで眼を閉じるかのように、音もなく消失した。
周囲の木々の影が狂ったように歪み、無数の赤い瞳が、あらゆる影の中からゆっくりと開いていった。
「シエン、貴様の武器はどうした?」
アウグストゥスの豪華な装飾が施された長剣が紫霧の中で冷たく光った。彼は振り返り、嘲弄と気遣いが混ざった複雑な視線で、俺の空っぽの手を睨んだ。
それは確かに痛いところだ。この世界に来て12年、俺の生活はほぼ魔法に費やされてきた。刀剣のような「冷兵器」の修練は、せいぜい健康維持のレベルだ。
「……武器は使わない主義なんだ」
俺は「根っからの魔導師」であるという謎の自信を漂わせ、平然と答えた。
「なら、大人しく私の後ろにいろ」
アウグストゥスは俺の「慢心」に呆れたように吐き捨てると、再び顔を向け、豹のような速さで迷宮の奥へと突き進んだ。
最初の分岐点。影狼が現れるかと思いきや、迎えてきたのはゴブリンとスライムの群れだった。しかし、本来「初心者村」レベルの雑魚たちは、今や禍々しい紫の魔力を纏い、瞳を血に染め、尋常ではない速度で襲いかかってきた。
俺の【観測者】が瞬時に魔力の周波数を捉える。
(おかしい。空間構造が自己加速している)
視界の中で、紫の魔力がドーピングのように怪物の筋肉に注入され、その速度が目に見えて上がっていく。
「シャッ!」
銀色の閃光が、俺の側後方で爆発した。「隠」はいつの間にか刀を抜いていた。その動きは残酷なほど無駄がない。一撃ごとにゴブリンの魔力核を正確に断ち切り、スライムさえも再生不能なほどに両断していく。
アイリンは「隠」のすぐ後ろを追っていた。二人の連携は、想像を超えるほど噛み合っていた。
「雷弾、連発!」
アイリンが両手から交互に放つ湛藍の電球は、精密誘導ミサイルのように「隠」が撃ち漏らした個体を正確に爆破し、納刀の隙を埋めていく。
「シエン、見惚れている場合か! 早く来い!」
前方でアウグストゥスが叫ぶ。彼はすでに氷霜で第二の関門へと続く最短路を切り開いていた。
俺は後ろの二人を振り返った。仮面の下の「隠」が小さく頷き、任せて先へ行けと促してくれた。
俺は深く息を吸い、魔力を足に込めた。怪物の速度が極限に達する前に、アウグストゥスの背を追って第二の石門へと飛び込んだ。
「シエン、あちらは隠がいれば大丈夫だ。我々は第二段階へ行くぞ」
アウグストゥスの口調は相変わらず強引だが、彼もまた「隠」の剣術には信頼を置いたようだ。彼は光を放つ石門へと迷わず足を踏み入れ、俺もそれに続いた。
しかし、門を跨いだ瞬間、言いようのない違和感が背筋を走った。
迷宮などではない。ここは、砕け散った異次元だ。
壁も床も消失し、代わりにあるのは虚空に浮遊する無数の岩。足元の泥濘は不気味なほど白い石畳に変わっていたが、周囲の紫光は滴り落ちるほど濃密で、全てを死の色に染め上げていた。
「シエン! 気をつけて!」
アイリンの焦燥に満ちた叫びが、後方の石門から突き抜けてきた。
心臓が跳ね上がり、【観測者】を全出力で起動させる。
その視界に映ったのは、単なる紫の霧ではなく、俺たちの頭上の虚空から音もなく這い出してきた二本の巨大な半透明の紫の魔爪だった。そのエネルギー密度は、森全体の怨念を凝縮したかのように高かった。
「伏せろ!」俺は喉が裂けるほど叫んだ。
地面を蹴り、構造への本能的な感知で空中で強引に身体を捻った。魔爪の先が胸元を掠め、校服のボタンを引きちぎり、焼けるような痛みが走る。
俺はかわしたが、アウグストゥスは運が悪かった。
「なっ――?!」
彼が振り向いた瞬間、紫の爪が彼を正確にロックオンした。氷剣を振る暇もなく、彼は小さな雛鳥のように巨大な力で宙へ吊り上げられた。
「アウグストゥス!」
俺の目の前で、彼は上方の闇の裂け目へと引きずり込まれた。紫のエネルギーが閉じ、乱れていた重力場が何事もなかったかのように平穏を取り戻す。残されたのは、虚空で無言に揺れる浮遊石だけだった。
「シエン! アウグストゥス君はどこ?」
第一関門を突破したアイリンと「隠」が駆けつけ、空っぽの足場を見て顔を蒼白にした。
「隠」は即座に刀を抜き、俺とアイリンの前に立ちはだかった。白い仮面が微かに震え、その視線は彼が消えた虚空を睨み据えている。
俺はちぎれたボタンを見つめ、瞳を冷たく沈ませた。
「アイリン、『隠』。あいつは連れ去られた」
魔爪が伸びてきた、最も紫光の濃い場所を指差す。「これより指揮権は俺が執る。これは攻略じゃない、救出作戦だ」
「アイリン、頼めるか。これから『穹』を使ってほしい」
アイリンは一瞬、呆然と立ち尽くした。紺碧の瞳が微かに揺れる。幻理先生の加護がないこの迷宮の深部で、空間支配の禁忌を解けばどうなるか、彼女自身が一番よく分かっている。体内のエネルギーが根こそぎ奪われ、立つ力すら失う代償を。
彼女は俺を見つめた。やがて、その不安は絶対的な信頼へと書き換えられた。
「……分かったわ」
彼女は深く息を吸い、その声には不退転の決意が宿った。
「その代わり……帰ったら、ちゃんと介抱してね」
少しだけ甘えるような、頼るようなその言葉に、俺の心の一角が優しく触れられた。俺は小さく笑い、約束を込めて答えた。
「ああ、もちろんだ」
返事を聞くと、俺は隣で刀を構え、放たれるのを待つ矢のような「隠」に向き直った。
「隠さん、俺と君が先頭だ」俺は冷静に戦術を組み上げる。
「魔爪の本体構造を捉えた瞬間、アイリンが『穹』を発動して空間を封鎖する。あるいは『蒼』で粉砕する。その瞬間に、君が最大速度で繋がりを断ち切り、アウグストゥスを奪い返してくれ」
「隠」は微かに首を傾げ、仮面の下で俺とアイリンを交互に見た。彼女はこの二人が言う「穹」や「蒼」の真の威力を知らない。だが、超一流の剣士としての直感が、それが戦局を覆す力だと告げていた。彼女は何も問わず、沈黙のまま、深く頷いた。
そして「隠」は突如、冷たく光る刀を掲げ、浮遊する石段の上方に漂う空間の裂け目を指し示した。
俺は即座に観測者の視点を切り替える。案の定、その裂け目の周囲で空間が極めて醜悪に、獲物を消化する胃袋のように蠢いていた。
「そこだ。行くぞ!」
俺の号令と共に、俺と「隠」は不安定な浮遊路を蹴って駆け出した。
アイリンは後方で両手を胸に組み、紺碧の瞳に鋭い電光を宿らせる。周囲の空気が、来たるべき支配力によってひどく重く、密度を増していく。
「隠、準備しろ」俺は心の中で着地点を計算しながら、隣を走る黒い影を見据えた。
(これから、君は人生で最も壮絶な雷鳴を見ることになる)
「隠」は答えなかったが、刀を握る指先が興奮で微かに震えていた。俺たちが裂け目の範囲に踏み込んだ瞬間、上方の魔爪が再び空気を切り裂く咆哮を上げ、叩きつけられた!
アウグストゥスは鋭い痛みで目を覚ました。後頭部の鈍痛に、彼は思わず息を漏らした。
気づけば彼は狭い岩の窪みに横たわっていた。周囲の壁はただの岩ではなく、液状に近い紫の魔力結晶で構成されている。魔力の濃度は窒息しそうなほど高く、呼吸をするたびに焼けた鉛を飲み込んでいるような感覚だった。
「くそっ……動けん……」
抗おうとしたが、手足は半透明の紫色の触手に固く縛られていた。それらは彼の皮膚を突き刺し、彼が誇る氷の魔力をゆっくりと吸い出し始めていた。
「ここはどこだ……シエンの奴め、私を見捨ててはいないだろうな……」
彼は歯を食いしばった。自尊心が、恐怖を認めることを拒んでいた。
彼は無理やり首を動かし、窪みの外の空間を見た。迷宮の主がいると思った。だがそこにいたのは、彼の認識を遥かに超える絶望的な存在だった。
紫の広間の中心に、半透明の巨大な殻が浮遊していた。決まった形はないが、神の如き威圧感を放ち、無数の紫の糸を迷宮の隅々まで伸ばしている。それはスクウィタン大陸において禁忌とされ、古の文献にのみ記される悪夢そのもの。
アウグストゥスの瞳が激しく収縮し、顔色は氷よりも蒼白になった。
「――魔神……?」




