旅立ち
馬車の車輪が回る音は、古びた時計のように規則正しく、俺の胸を一打一打叩いていた。
西世825年、初風の季節。
この時期の大陸は秋の気配を帯びて涼しく、微風が落ち葉を巻き上げると同時に、俺の子供時代をも連れ去っていった。
その朝、家の前の空気は糊を流し込んだように重く、一歩進むことさえ困難に感じられた。
シニィの抱擁は「壊滅的」だった。俺の肩に顔を埋める彼女からは、いつもの薪の火と小麦粉の香りが漂い、その力強さに肋骨が再構築されるのではないかと疑うほどだった。カイルは相変わらず沈黙を守っていたが、その厚い掌は長く俺の肩に留まり、瞳には「伝承」という名の光が宿っていた。
そしてリコ……彼女はその日、軽やかな淡い色のドレスを着て、衆人環視の中で再び俺を抱きしめた。冷たい空気の中で彼女の香りはより鮮明に、晩秋に咲く百合のように立ち上がった。
「私のこと、忘れないでね」
その言葉は刻印となり、馬車の揺れと共に今も脳裏に響いている。
馬車はゆっくりと村を離れ、南方へと進む。俺はカーテンを跳ね上げた。目の前に広がる景色に、インテリアデザイナーである俺も、大自然による「空間設計」の壮大さに圧倒されざるを得なかった。
それは果てしなく広がる北方のの大草原だった。
初風の季節。草原はエメラルドグリーンを脱ぎ捨て、眩いばかりの黄金色に衣替えしていた。草の波が風に揺れる様は、まるで流動する金の海のようだ。遠くの地平線には、数基の防衛塔がぽつんと立っている。その無骨な石造りの構造は、蒼茫たる天地の間でひどく小さく見えた。
空は高く、どこまでも深い青。羽毛のような白い雲が数片、気だるげに浮かんでいる。角羊の群れが遠くで草を食み、時折、馬車の気配に驚いた一、二頭が軽やかに跳ねて草むらの奥へと消えていく。
「はぁ、あの人たちはいいなぁ」
硬い木製の背もたれに身を預け、俺は苦笑した。
村の入り口での光景を思い出し、確信した。この温かな「初心者村」を出た先に待っているのは、カイルの木工教室でもリコの算数の練習でもない。権謀術数が渦巻き、命さえ落としかねない権力の中枢と魔法の殿堂なのだ。
馬車が荒涼とした草原の駅舎で止まり、木製のドアがギィと音を立てた。
一人の少女が軽やかに車内へ飛び乗ってきた。氷晶のように輝く淡いブルーの長髪。黄金の草原を背景に、彼女の存在はあまりに浮世離れしていた。もし普段の俺なら、美学を追求するデザイナーとして、まずその顔立ちやスタイルについてプロフェッショナルな(そして多少の青年的欲情を交えた)品評を始めたことだろう。
だが今の俺に、そんな余裕は一ミリもなかった。
【観測者】の視界の中で、目の前の少女はまるで「崩壊しつつある超新星」そのものだった。彼女の全身から放たれる、狂気じみたほど強力で、かつ不気味に安定した白い電光。それはレオン兄さんの雷電よりも純粋で、数段上の階層にあるエネルギーの奔流だ。俺の視線は制御不能なスキャナーのように、彼女の毛先から指先までを舐めるように走り、その驚異的な構造を解析しようとした。
「ちょっと! そこのあんた! 何見てるのよ?」
失礼なまでの凝視に気づいた少女は、清廉な顔を瞬時に朱に染めた。彼女は困惑したように両手で身体を隠し、警戒と憤りの混ざった視線を向けてくる。「……変態」
「あ……いや、すみません! ただ……君の魔力の流れに驚いただけなんだ!」
俺は慌てて【観測者】を閉じ、熱を持つ左目を押さえた。今世の両親から優れた遺伝子を継承し、かなりのイケメンに育った自負はあるが、初対面で鼻血が出るほど凝視するのは、確かに不審者の所業だ。
イメージ回復のため、俺は精一杯の紳士的な礼儀を尽くした。
「俺はシエン・スライ。こんにちは。さっきは本当に失礼した」
俺の誠実な態度と、いくぶん清らかになった瞳を見て、彼女はゆっくりと手を下ろした。
「……あなたも魔法学校へ行くの? 私はアイリン・フロモネッシュよ」
アイリン……やはり彼女から目を逸らすことができない。それは強大な力に対する、本能的な好奇心だった。
「よろしく、アイリン」俺は探るように口を開いた。「その……君の魔力は特別だね。何か特殊な属性なのかな?」
「え? 属性は雷よ」
彼女は簡潔に答え、指先を弾いた。小さな白い電弧が、一瞬だけ瞬いた。
「偶然だね。俺の副属性も雷なんだ。主属性は火だけど」
友好の証として両手を広げ、左手に温かなオレンジ色の火球を、右手に青い雷電を数条走らせてみせた。彼女の狂ったような白雷に比べれば、俺の雷は玩具のようなものだが、十二歳という若さで二属性を同時に操るのは、驚嘆に値するはずだ。
「二属性……」
俺の手の中の光を見つめるアイリンの瞳に、ふと寂しさがよぎった。彼女は小さく呟いた。
「羨ましいわね……」
「羨ましい?」俺は怪訝に問い返した。「君の雷のエネルギー密度は、俺が見た中で最強だ。どうして俺を羨むんだ?」
アイリンは窓の外を過ぎ去る黄金の草原に目を向けた。ブルーの髪が横顔を隠し、声が低くなる。
「シエン、あなたは全てのスキルの階級を言える?」
揺れる馬車の中で、俺は目の前の少女を見つめ、心拍数が上がるのを感じていた。それは美貌のせいだけではなく(少しはあるが)、彼女の内の強大なエネルギーのせいだ。
「階級? 簡単だよ。初級、中級、上級。これが一般的だ。その上が高位と王級。一つの都市を守れるレベルだね。そして最後が……」
「神級」
アイリンが静かに言葉を継いだ。その紺碧の瞳は、底の見えない海のようだった。
「ああ、そう。神級なんて伝説上の……」と補足しようとした俺を、彼女の次の言葉が凍りつかせた。
「私の生まれ持ったスキルは、神級の『蒼』と『穹』。それらは互いに感応し、表裏一体となっているわ」
俺の手の中で弄んでいた小さな火球が、一瞬でかき消された。より高次の威圧感によって、強制的に抹消されたのだ。
神級スキル。文献によれば、地形を書き換え、因果すら再構築し、「勇者」ですら畏怖するという力。それが今、目の前の少女の中に宿っているというのか。
「……本気で言ってるのか?」
生唾を飲み込む。左目の【観測者】が不安げに疼く。
「ええ」アイリンは俯き、白い電光が絶えず明滅する細い掌を見つめた。
「でも、上手く使えないの。今の私の魔力量じゃ、神級の出力構造を支えきれない。ほんの少し『蒼』の力を使っただけで、過負荷で意識を失うか、魔力回路が枯渇して丸一日魔法が使えなくなるわ」
ようやく理解した。なぜ彼女が、俺の二属性を羨望の眼差しで見ていたのか。
それは、世界を滅ぼす核のスイッチを握らされていながら、自分を守る護身用の拳銃すら満足に扱えない少女の苦悩。その不安定な力は、使用者にとって残酷な拷問に等しい。
「だから、ストルセヴィアへ行くんだね……」
俺の言葉から軽薄さが消え、同病相愛の理解が混じった。
「でも……」アイリンの憂鬱は消え、代わりに強情な活力が宿った。「いつか必ず、これを最強の武器にしてみせるわ」
そのしなやかな笑顔を見て、俺の中の「デザイナーとしての保護欲」が疼き始めた。
黄金の草原をしばらく進むと、御者の悲鳴が静寂を破った。激しい振動と共に、車輪が地面を削る鋭い音が響き、馬車が急停車した。
俺とアイリンは顔を見合わせ、即座に車外へ飛び出した。
「あれは……」
思わず息を呑む。行く手を阻んでいたのは、三メートルはあろうかという巨大な黒熊が二頭。筋肉が隆起した毛皮の隙間から、不気味な赤い光が漏れている。血走った瞳がこちらをロックオンし、腐食性の唾液が滴っていた。
地誌にも記されている、北方山脈の悪夢――高位魔物**「リツァオ・ベア(利爪熊)」**だ。
その皮膚構造は極めて硬く、物理攻撃は通用しない。反射的に左手を上げ、圧縮火球を放とうとした瞬間、淡いブルーの影が俺の前にふわりと立ち塞がった。
「どのみち、学校まではまだ距離があるものね」
アイリンの声は空恐ろしいほど静かだった。彼女の指先からは、肌が粟立つような純白の電光が溢れ出していた。
「――『蒼』」
華美な詠唱も、無駄な予備動作もない。
アイリンの囁きと共に、【観測者】の網膜を焼き切るほどの白雷が放たれた。それは時間の感覚を超越した速度で、二頭の熊の頭部を正確に貫いた。
爆発音はなく、極低温で金属が蒸発するような「シュッ」という音だけが響いた。先ほどまで威風堂々としていた魔物は、悲鳴を上げる暇もなく、直立不動のまま崩れ落ちた。焦げた傷口からは、一滴の血も流れていない。
これが……神級スキルの威力か。
放ち終えたアイリンの身体から、一気に力が抜けた。顔色は紙のように白く、呼吸も絶え絶えだ。
「アイリン! 大丈夫か!」
俺は駆け寄り、倒れそうになる彼女の身体を支えた。神級の過負荷を間近で見るのは初めてだったが、彼女の魔力回路は、焼き切れた電子基板のように混乱を極めていた。
「大丈夫……ただ……少し寝かせて……」
彼女は弱々しく微笑むと、鉛を流し込んだように瞼を閉じ、俺の肩に寄りかかって眠りに落ちた。
俺は彼女を馬車の中へ運び、その穏やかで疲弊した寝顔を見つめながら、複雑な思いに耽った。これが彼女の言う「代償」なのだ。
「(ねえ、ヒデヒコ)」
銀の声が脳内で幽かに響いた。「(見たかい? あれが未完成の神の欠片だ。今は驚異的な威力だけど、あの不安定な構造は、いつか彼女の身体を内側から引き裂くよ)」
(だから俺がここにいるんだろ?)
窓の外で冷たくなっていく魔物の死体を見ながら、俺は小さく答えた。
馬車は再び動き出し、遠くに見える学術の街――ストルセヴィアへとゆっくりと進んでいった。
馬車が草原の小道を揺られながら進む中、車内には白雷に焼かれた焦げた匂いと、アイリンの冷ややかな香りが混ざり合っていた。
肩に頭を預けて眠る少女を見下ろす。さっきの「蒼」の衝撃は今も脳裏に焼き付いているが、その衝撃は、次第に別の「感覚的衝撃」に取って代わられていた。認めよう、あの破壊的な力を抜きにしても、アイリンの容姿は「美少女」という肩書きに完璧に合致している。
氷晶のような髪が俺の襟元に散り、長い睫毛が微かに震える。馬車の揺れに合わせて、俺は無意識に、機能的なトラベルウェアに包まれたその曲線美を観察し始めていた。
視線はどうしても下がり、呼吸に合わせて上下する、柔らかく弾力がありそうな胸元へと釘付けになった。前世において素材に極限までこだわったデザイナーとして、ある危険な思考が脳内を掠めた。
(俺、二つの人生を合わせても、女の子の胸を触ったことがない……)
(今、ちょっとだけ触ってみても……バレないよな?)
俺の罪深い手は、磁石に引き寄せられるように、震えながら、ゆっくりとその領域へと伸びていった。
あと一センチで目標に触れるというその瞬間、空気中のイオンが激しく跳ねた。
アイリンの深いブルーの瞳が、予兆もなく見開かれた。そして、俺の「野心」に満ちた目と、正確に視線がぶつかった。
「……!」
時間が凍りついた。アイリンは、初対面の男の腕の中に自分がいたこと、そしてその男の魔の手が極めてデリケートな位置で止まっていることに気づいた。
「きゃぁぁっ!」
彼女は悲鳴を上げ、雷に打たれたように(実際、火花が散っていたが)弾け飛び、反対側の車壁に激突した。
「あんた……この、変態! その手で何しようとしてたのよ!」
アイリンの顔は爆発寸前の火元素コアのように真っ赤になり、瞳には羞恥と不信が入り混じっていた。「やっぱりそうよ! 最初から視線が失礼だと思ってたのよ!」
「あ……いや、これは誤解なんだ!」
俺は慌てて手を引っ込め、デザイナーの専門用語で言い訳を考えた。「君の魔力の流れが胸のあたりで滞ってる(デッドスペース)のに気づいて、『魔力引流』の手助けをしようとしただけなんだ! 本当に!」
「引流なんて、この大バカ変態!」
アイリンは座席のクッションを掴むと、俺の顔面に全力で投げつけた。魔力は回復しきっていないはずだが、その「神級」の威圧感だけで、俺は息が詰まりそうだった。




