意外
廊下の窓から朝の陽光が差し込み、本来ならコーヒーの香りとベーコンを焼く音で満たされているはずのギルド大広間は、今、不気味なほど静まり返っていた。
俺はあくびをしながら、だるそうに階段を下りた。アウグストゥスが用意した豪華な朝食が並んでいるだろうと思っていたが、目に飛び込んできたのは、魂が抜けたように疲れ果てた仲間たちの姿だった。アイリンはテーブルに突っ伏して空のフォークで遊んでおり、セシルは椅子の背もたれに軟泥のように引っかかっている。ゲンリでさえ、寝ぼけ眼をこすりながらぼんやりとしていた。
「あれ? 香りもしないし朝食もまだか?」俺はようやく異変に気づき、辺りを見回した。あの鉄壁の「副ギルド長」が席にいない。「……みんな、アウグストゥスを見かけなかったか?」
「あ、本当だ。今日、彼を見てないわね」アイリンがようやくハッと気づき、テーブルを叩いて皿をガチャンと鳴らした。「いつも早起きだし、彼が神出鬼没なのは慣れっこだったから、いないことに全然気づかなかった!」
不安が胸にこみ上げる。アウグストゥスは決して朝寝坊をするような男ではない。……とすれば。
俺は感傷や気まずさに構っている余裕もなく、二階にあるアウグストゥスの部屋へと急いだ。
「コン、コン、コン!」
「アウグストゥス? 入るぞ」
扉を押し開けると、室内は少し薄暗かった。いつも身なりを整え、一筋の乱れもないアウグストゥスが、今はベッドの中で丸まっていた。顔色は異常なほど赤らんでおり、呼吸は重く、短い。
「ん……シエン? どうした……今、何時だ……」彼は起き上がろうと抗ったが、その声は掠れてほとんど聞き取れなかった。
「ア……アウグストゥス、大丈夫か?」俺は慌てて駆け寄り、彼の肩を抑えて額に手を当てた。
指先から伝わる熱に、心臓が跳ねた。
「熱いな……」
「今日は……ギルド運営の初日だ……行かないと……」アウグストゥスは高熱で朦朧としながらも、頭の中では申請書類の束や皆の朝食のことを案じていた。
「いいから、今は起きるな。しっかり休むんだ、いいか?」俺は断固とした口調で彼を遮り、無理やり布団の中へ押し戻した。
「ここ数日、君は働きすぎだったんだ。博覧会に、俺の付き添いに……誰だって倒れるさ」
俺は彼の布団の端を整えてから部屋を出た。廊下の手すりに立ち、下でまだ給餌を待っている「生活能力ゼロ」な連中に向かって大声で叫んだ。
「良奈、ゲンリ! 朝食を作ってくれ! 俺たちの管理人が倒れた!」
階下から騒ぎが聞こえてきた。アイリンは悲鳴を上げ、セシルは奇跡的に真っ直ぐ座り直し、ゲンリは信じられないといった様子で俺を見上げていた。
「そんな緊急事態なら……」ゲンリが立ち上がり、長袍の袖を捲り上げた。その瞳には稀に見る闘志が宿っている。「天才学者の『魔導調理』がいかに精密か、拝ませてあげるわ」
「わ……私も手伝います」良奈も立ち上がり、手が腰の武士刀に伸びた——待て、彼女は刀で野菜を切るつもりか、それとも厨房で決闘するつもりか?
混乱の幕開けを見つめながら、俺は心の中で苦笑した。「アウグストゥス、早く治ってくれ。じゃないと、このギルドは朝食抜きどころか、厨房ごと消滅しかねないぞ」
厨房での忙しない光景を見つめながら、俺はふと物思いに耽ってしまった。
普段はゆったりとした導師の長袍を纏っているゲンリが、今は珍しく袖を捲り、リボンを手に取って墨のような長髪をポニーテールにまとめ上げ、白くしなやかなうなじを露わにしている。彼女はフライパンを凝視しており、その表情は古代魔法陣を解析する時よりも真剣だ。一方、傍らの良奈は包丁を握り、あの白く滑らかな手で、極めて精密かつリズム良く野菜を刻んでいる。
朝の光が二人の背中に降り注ぎ、冷え切っていたギルド大広間の空気に、瞬間に「家」という名の温もりが灯った。
「でも……」俺は顎をさすりながら、ある恐ろしい仮説を立ててしまった。もし、ゲンリが学院に戻り、良奈が遠征任務に出かけ、さらにアウグストゥスが病気になったとしたら。この家に残されるのは俺、アイリン、セシルの「家事ブラックホール」三人衆……。俺たちはきっと、缶詰を開けられないかお湯を沸かしすぎて焦がすかし、最後はソファで集団餓死するに違いない。
「朝ごはんできたわよ!」
ゲンリの元気な声が思考を遮った。彼女は自信満々に、湯気の立つ鶏肉の粥と緑鮮やかなサラダが載った大きなトレイを運び出してきた。その仕草は、完璧な学術発表を終えた時のように優雅だった。続いて、面具をつけた良奈が静かに小皿を運んでくる。表情は見えないが、少し早足な足取りからは、羞恥と期待が透けて見えた。
「セシル」俺はまだ眠気と戦っている黄髪の少女を少し厳しい口調で呼んだ。「アウグストゥスに恩返しする番だろ? 彼はいつも、君が寝てよだれを垂らしてても、綺麗に拭いてくれてるんだからな」
「むぅ……分かってるよぉ」
セシルは珍しく文句を言わず、ソファに倒れ込むこともなかった。彼女は寝ぼけ眼をこすりながら、おとなしく立ち上がってゲンリの用意した朝食トレイを受け取った。その細い背中で一歩ずつ二階へと上がっていく彼女の黄色い髪が、朝光の中で揺れていた。
その姿を見送りながら、俺の胸に感慨が込み上げた。指一本動かすのも面倒がるこの魔法天才が、おそらくこうした時にだけ、あの「全能管理人」に対する本当の依存と温情を見せるのだろう。
「よし、俺たちも食べよう」俺は視線を戻し、正面に座るアイリンとゲンリ、そして端然と座る良奈に向かってスプーンを挙げた。「管理人は不在だが、『幻光』の初日だ。しっかり食べて力をつけないと」
「シエン、早く食べてみて! ビタミンとタンパク質の比率を厳密に計算したんだから!」ゲンリが促してくる。その瞳は、褒め言葉を待つ期待に満ちて輝いていた。
アウグストゥスの部屋には、微かな解熱ハーブの香りと魔力の波動が漂っていた。
「アウグストゥスお兄ちゃん、来たよ……」
セシルはトレイを持って、小さく呟いた。戦場では複雑な水系複合魔法を精密に操る彼女だが、今は一杯の粥を前にして戸惑っている。普段は夢うつつの瞳を大きく見開き、不器用にスプーンを動かしては、冷ますべきかそのまま差し出すべきか悩んでいた。
「セシル……運んできてくれたのか、ありがとう」
ベッドに横たわるアウグストゥスが薄く目を開けた。セシルのたどたどしい様子、今にもトレイをひっくり返しそうな姿を見て、青白い顔に弱々しくも慈しみに満ちた苦笑を浮かべた。この「お嬢様」に食べさせてもらうのは災害になりかねないと察し、彼は意を決して熱い体を起こした。
彼はゆっくりと粥を受け取り、緊張したセシルの視線を浴びながら飲み干した。一口ごとに、セシルの表情が和らいでいく。
食べ終えると、アウグストゥスは最後の力を使い果たしたように枕に沈み込み、激しい呼吸を繰り返した。額にはびっしりと汗が浮かんでいる。
「アウグストゥスお兄ちゃん?」セシルは目の前の「保護者」の衰弱した姿を見て、胸を締め付けられるような感覚に襲われた。
彼女は数秒間立ち尽くしていたが、やがて決意を固めた。魔法の天才である彼女の頭脳はこの瞬間、複雑な計算を停止し、最も原始的な直感に従った——水属性の魔法を極めた自分の体質は、一般人よりも体温が低い。それを本で読んだのを思い出したのだ。
「私も、ついでに……」
セシルは小さく呟くと、驚愕するアウグストゥスの視線を余所に、布団の端を捲り上げた。そして、しなやかな子猫のように「シュッ」とベッドの中へ滑り込んだ。
「セ、セシル? これはマナーに反する……」アウグストゥスは熱で朦朧とし、思考が追いつかない。ただ、熱を帯びた腕のそばに、冷たくて柔らかい体がぴったりと密着しているのを感じていた。
「うるさいな。アウグストゥスお兄ちゃんは大人しく寝てればいいの」
セシルはいつものように甘えるように、アウグストゥスの肩口に顔を埋めた。冷たい額をアウグストゥスの熱い首筋に当て、両手で相手の腰を抱きしめる。そのひんやりとした感覚と少女の微かな香りが、体内の熱を一気に和らげ、アウグストゥスの乱れていた呼吸が次第に穏やかになっていった。
カーテンが朝風に揺れ、室内には至極温かくてプライベートな静寂が訪れた。普段は世話を焼く側が、今は世話を焼かれる側に。そして、歩くことすら嫌がる少女が、最も静かな「恒温枕」となった。
俺はそっと扉を細く開けた。蝶番がわずかな音を立てたが、静かな朝にははっきりと響いた。
中の光景に、俺は言葉を失った。「配膳」に来たはずのセシルが布団に潜り込み、温もりを求める雛鳥のようにアウグストゥスに寄り添っている。アウグストゥスの顔には病的な赤みが残っているが、セシルの冷たい体温に安らぎを得たのか、その眉間からはかつてないほどの力が抜けていた。
「……今日はマジで仕事にならないな。魔法使いまで一人欠員とは」俺は声を潜めて自嘲気味に呟いたが、その神聖ささえ感じる光景に、名状しがたい感動が込み上げた。
ギルド最強の後方支援が倒れ、魔法の主力までベッドの中に「陥落」してしまった。
俺は静かに扉を閉め、廊下の冷たい壁に背を預けて一階のリビングを見下ろした。
そこではアイリンが食器を片付け、青い長髪を揺らしながら時折イタズラな電弧を走らせていた。ゲンリは優雅に茶を啜り、その横顔は陽光の中で成熟した色香を漂わせている。そして良奈は、静かに銀の武士刀を磨き、黒い制服が彼女に落ち着いた神秘性を与えていた。
スタイルの異なる、実力派の美少女たちが三人も俺の「幻光」の下に集まっている。
本来なら、ギルド運営や依頼の選定、魔力訓練の計画を山ほど練っていたのだが、アウグストゥスが倒れた後のこの「意外な温もり」を見て、俺の頭脳は少しショートしてしまった。
下へ行って厳格に「今日は室内自主訓練だ」と宣言すべきか?
それともこの機に乗じて、普段はなかなか揃わない彼女たちと、魂に触れるような「面談」でもすべきか?
「後方支援と魔法主力が共倒れした」ことをまだ知らない階下の三人の少女を見つめ、俺は方針を失ったような混乱を感じていた。ギルド長として、世界のエネルギーの流れを観測するだけでなく、今は屋敷中に満ちる繊細な乙女心まで観測しなければならないらしい。
「あら、今日はシエンが一人でハーレムを独占する日になりそうね」
ゲンリが優雅に茶杯を置き、口角に悪戯な笑みを浮かべた。知恵に満ちたその瞳が、二階の閉まった扉を見て俺をからかってくる。
「変なこと言うな! 俺はそんな、人の弱みにつけ込むような情けない男じゃない!」
俺は図星を突かれた猫のように慌てて言い返し、顔をわずかに赤らめた。その気まずさを隠すように、扉に掛かっていた黒いロングコートを素早く羽織った。
「やるべきことはある。管理人と魔法使いがストライキ中でも、ギルド長として、どれだけの依頼が溜まっているか確認してくるよ」
「私たちは? 私たちは何をすればいい?」アイリンが大きな青い瞳を瞬かせ、拭いたばかりの小皿を手に俺を茫然と見つめた。
「君たちは……お互いに風邪を引いてないか検査でもしててくれ」
俺は適当な理由を投げ、彼女たちが反応する前にギルドの扉を押し開け、逃げるようにスウィヤの冷たい朝の空気の中へと飛び出した。
事務局のロビーは相変わらず慌ただしく、魔導タイプライターの音が響いていた。専用カウンターへ行くと、担当の秘書さんが俺の姿を見てパッと顔を輝かせた。
「わあ、シエンさん! ちょうどいいところに」彼女は背後の保管庫から分厚い書類の束を取り出した。
「ドンッ」とテーブルに置かれた書類から、埃が光の中に舞う。「昨日の登録ニュースが広まってから、『幻光』への依頼が数えきれないほど来ているんです。これは今朝届いた分だけですよ。選別はどうされますか?」
自分を埋め尽くしそうな依頼の山に、俺は思わず唾を呑み込んだ。風城博覽会の名声がこれほどのリターンをもたらすとは予想していたが、この数は異常だ。
「……確かに、少しばかり度を超しているな」俺は数枚をパラパラとめくった。古代遺跡の調査、高ランク魔獣の討伐……。「いいかい、今は中核メンバーが体調を崩していて、急ぎの高難度案件には対応できない。それ以外を……まずは見せてくれ」
俺は左目の「観測者」を起動し、紙面を素早くスキャンした。無意味な体力仕事を弾き、今の「半壊状態」のギルドでも対応可能で、かつ報酬の良い案件を探す。
その束の最下部に、深紫色のチューリップの家紋が押された封筒が俺の注意を引いた。その手紙からは、不安定で微かな魔力の波動が、声なき救いを求めるように漂っていた。
「これは何だ?」俺はその手紙を指差した。
「ああ、それですか……」秘書さんは少し妙な顔をした。「『伯爵』を自称する依頼主からのものです。庭に最近、『踊る』奇妙な人影が現れて、使用人たちが怯えきっているそうで」
踊る人影? 高難度とは思えないが、興味深い幻術かエネルギーの残滓のように思える。
「これにしよう」俺はその手紙をしまい、心の中で計算した。これなら暇を持て余しているゲンリの出番だし、良奈の体慣らしにもちょうどいい。
家の扉を押し開けると、屋敷の空気は朝の混乱が嘘のように落ち着いていた。アイリンはテーブルで暇そうに指をトントンと鳴らしている。
「戻ったぞ」俺は紫のチューリップの家紋が入った依頼書を振り、ソファに座った。「ゲンリ、良奈、ちょっと来てくれ。君たち二人にぴったりの依頼がある」
依頼書をテーブルに広げ、伯爵邸の庭に現れる「踊る人影」の異状を説明した。
「相手は未知の幻術の残滓か、特殊なエネルギー共鳴の可能性がある。アウグストゥスとセシルが『ストライキ中』だから、この件は学術と武力のコンビである君たちに頼みたい」
「ほう? 踊る人影ね……」ゲンリが優雅に歩み寄り、華奢な指先で家紋をなぞった。口角には楽しげな笑みが浮かんでいる。「面白そうじゃない。その程度の低階級なエネルギー残滓なら、食後の散歩にちょうどいいわ」
「わ……私、頑張ります」良奈も傍らに立ち、面具越しに真剣に頷いた。右手が無意識に銀の武士刀の柄を握っている。
「よし、そんなに硬くなるな。これが『幻光』の正式開業後の初仕事だ」ゲンリは軽やかに笑うと、極めて自然に手を伸ばし、良奈の白く滑らかな手を直接握った。
良奈はその突然の親密な動作に体を強張らせた。面具の下の耳たぶがみるみる赤く染まったが、彼女は振り解かなかった。
「行きましょう、良奈。踊り好きの小僧たちに会いに行くわよ」
ゲンリは自分の妹を連れて買い物にでも行くような足取りで、良奈を連れて家を飛び出していった。扉が閉まり、残されたのは俺とアイリンの二人だけになった。
「……アイリン」俺は三分ほどの困惑と七分ほどの嫉妬を込めて、不意に尋ねた。「なんで君たちは、みんな良奈の手を握ったり抱きついたりしたがるんだ? ゲンリ先生まで」
アイリンは一瞬呆気に取られたが、脳裏には良奈の普段の強さ、そして意外なほど初心な反応が浮かんでいた。最強の剣士でありながら、触れられると小鹿のように震えるあの反応……。
「だって彼女……可愛いんだもん。面具越しでも、いじめたくなるようなオーラが隠しきれてないでしょ?」
アイリンの答えに、俺も同意して頷いた。「……まあ、確かにそうだな」
「へぇー。ギルド長様も彼女のことを『可愛い』って思ってるんだ?」アイリンの目が細まり、手の中でパチッと白い電弧が弾けた。「私も面具、買ってきて着けてみようかな?」
背筋に冷たいものが走った。俺は知らず知らずのうちに、また新しい修羅場の罠に足を踏み入れてしまったらしい。
ギルド大広間は、かつてないほどの静寂に包まれた。
俺はソファに座り、誰もいない玄関を見つめていた。その時、脳内で「ピンッ」と音がし、冷や汗が流れそうになった。俺は今……家の中で唯一まともな料理ができ、床をピカピカに磨ける女子二人を同時に追い出してしまったのではないか?
俺はギクシャクと首を動かし、雷光で遊んでいるアイリンを見た。彼女は最も信頼できるパートナーであり、数々の危機を共に乗り越えてきた伴侶だ。だが、家事となると……。
「いや、ポジティブに考えよう。アイリンがいれば、少なくとも『温かい食べ物』には困らない。白い雷で直接撃ち抜かれたやつかもしれないけどな」俺は自嘲気味に呟いた。
この得体の知れない危機感を紛らわすため、俺は懐から残りの書類を取り出し、ぼんやりしているアイリンを手招きした。「アイリン、ちょっと来てくれ。スウィヤ市内の軽い依頼がまだあるんだ。今日の午後、片付けに行かないか?」
「シエン……」
アイリンはいつものように興奮して駆け寄ってくることはなかった。彼女は軽やかだがゆっくりとした足取りでテーブルを回り、俺のすぐ隣に座った。雨上がりの森のような、彼女の清々しい香りが鼻をくすぐるほど近い。
「二人きりになるの、久しぶりだね」彼女はうつむき、青い長髪が肩に流れて表情を隠した。
「え? そうか?」俺は一瞬呆気にとられたが、すぐに深い申し訳なさが込み上げた。
確かに、「幻光」の準備、風城博覽会への遠征、ゲンリの加入、アウグストゥスの多忙……ギルド長として運営に全精力を注いできた結果、この世界で長く寄り添ってきたアイリンとの時間が、単なる「戦友」のようなものに変わっていた。
「そうだよ。敵と戦うのに忙しくて、導師の相手に忙しくて、人を助けるのに忙しくて……私の甘える相手がいなくなっちゃった……」
アイリンの声には鼻声が混じり、捨てられた仔猫のようだった。彼女はそのまま俺の胸に頭を埋め、ロングコートの襟をぎゅっと掴んだ。
腕の中の温もりを感じ、忙しさで硬くなっていた心が瞬間に溶けていくのが分かった。俺は「依頼書」を放り出し、空いた手で彼女の細い手を優しく握った。時折小さな電気が走るその手は、羞恥のせいでわずかに汗ばみ、熱を持っていた。
「ごめん、アイリン」俺は頭を下げ、彼女のつむじに顎を乗せて囁いた。「俺の不注意だ。最高の家を君に作ると言ったのに、結局君を振り回してばかりだ」
アイリンは俺の胸に顔を擦り付け、一番落ち着く場所を探しながら、こもった声で言った。「振り回されるのは構わないよ。ただ、シエンの目の中に、魔法構造やエネルギーの流れだけじゃなくて、たまには私を映してくれれば、それでいいの」
俺は彼女の手を強く握り返し、この貴重な二人だけの静寂を噛み締めた。権力闘争と魔導テクノロジーが渦巻くスウィヤという都市において、この純粋な依存だけは、「觀測者」をもってしても解析したくない宝物だった。




