銀?
朝の光が掃き出し窓からダイニングテーブルに降り注ぎ、昨夜のアルコールとホルモンが混ざり合ったような粘り気は、ベーコンの香ばしい匂いと共に大半が消え去っていた。
「今日は! クリームチーズベーコンエッグ……二人前! いただくわ!」
ゲンリ先生は、トレードマークであるゆったりとした黒の長袍を再び羽織っていた。二日酔いの退廃的な姿はどこへやら、首元の湛青の魔石は穏やかな微光を放ち、本人は意気揚々、いや「興奮しすぎ」と言ってもいいほどだ。ナイフとフォークを握りしめ、食事を待つ子供のように椅子で足を揺らしている。
俺は少し痛む腰をさすりながら席に着き、この主客転倒な光景に溜息をついた。
「なあ、ゲンリ……なんでまだここにいるんだ? ウィルさんはとっくに帰っただろ。博覧会までまだ時間はあるはずだし」
「ん? 何バカなこと言ってるの?」ゲンリは皿を受け取り、リスのように頬を膨らませてベーコンを詰め込んだ。「ここには絶景があって、高級な料理があって……あんたたちっていう面白い素材がいる。ストラトス・ヴィアの退屈な寮より百倍マシよ。あんな冷え切った学院のオフィスになんて帰るもんですか」
「つまり……うちに居座るつもりか?」俺が呆れてアイリンを見ると、彼女は「お手上げ」といった苦笑いを返してきた。
「朝ごはん、できたわよ」
キッチンの入り口から、落ち着いた声がした。良奈とアウグストゥスがトレイを運んできた。今日の良奈は仮面を付けていない。黒髪を後ろでまとめ、白く滑らかな、少し冷ややかだが反則的に可愛い素顔を晒していた。
「ゲンリ、あんたは昔から研究院で凄かったとか、理論が超前的だったとか言ってるけど……」
アイリンが欠伸をしながら、皿のチーズを指でつつき、挑発的に言った。「だったら今、私たちに見せてよ。口だけじゃ、卒業生の私たちは納得しないわよ」
「見たい? いいわよ!」ゲンリの口角が危険な角度に跳ね上がった。「セシルの怠け者は、二階でまだ寝てるわよね?」
言い終わるか否か、ゲンリは二階に向けて軽快に指を鳴らした。そしてもう片方の手を、屋敷の閉ざされた大門へと優雅に向けた。
「うわあああああ——っ!」
門の外から悲鳴が聞こえ、激しく叩く音が響いた。
「開けて! 開けてよぉ! シエン! リナ! 助けて、中に入れて!」
セシルの声だ。異次元に飛ばされたようなパニックに陥っている。
「セシルが門の外に?」俺は呆然とした。さっきまで二階で寝返りを打つ音が聞こえていたのに。
ドアを開けると、セシルが砲弾のように飛び込んできた。黄色の長髪はぐちゃぐちゃで、顔面蒼白だ。「さっきまで……枕を抱いてたはずなのに、なんで噴水の前にいるのよぉ!」
「ふふん、見た?」ゲンリは勝ち誇ったように胸を張った。「私の感知範囲内なら、強制吸引、催眠、瞬間転送まで三・五秒。これが『幻影領域』と現実が重なる威力よ」
空間置換の凄まじさに圧倒されつつも、俺はツッコミを入れずにはいられなかった。「催眠? 彼女、ただ怖がってるだけにしか見えないけど」
ゲンリは俺の耳元に顔を寄せ、囁いた。「転送の瞬間、暗示を植え付けたわ——『今日、肉類を見たら腐ったスライムの粘液に見える』って。つまり、彼女は今日一日ベジタリアンよ」
見ると、セシルは大好物のベーコンを掴もうとして、触れた瞬間に感電したように手を引っ込めた。そしてえずきながらベーコンを全て皿の外へ放り出し、悲劇的な表情で生野菜を齧り始めた。
あの我儘な十四歳の天才を野菜だけで手懐けるとは。俺のゲンリに対する畏怖は頂点に達した。
後院の芝生で、ゲンリが俺たち五人の前に立った。
「博覧会のための専用訓練を始めるわよ。……訓練内容は、極端な環境下での戦闘!」
彼女の口調が冷たくなった。「人群れの中での暗殺、崩壊する建物での死闘……あるいは、最も親しい仲間が瀕死の重傷を負い、それでも任務のためにそれを見捨てて標的を追わねばならない状況。これら全てが極端な環境よ」
アウグストゥスが眼鏡を押し上げた。「心理的圧迫、複雑な環境、圧倒的な臨場感……。それらを完璧にシミュレートし、仮想の中で真実の傷を負わせる。そんなことができるのは、大陸中でゲンリ先生くらいでしょうね」
ゲンリが指を鳴らすと、魔法陣が芝生を飲み込み、世界は一瞬で無へと消えた。
「それじゃあ、一番キツいところから始めましょうか——**『心理的限界』**よ!」
彼女の瞳が冷酷に光った。「あ、言い忘れてた。脳を催眠して、これを『現実』だと徹底的に信じ込ませるわ。中で負った傷は、魂がそのまま受け取る。意志が耐えられなければ……本当に帰ってこれなくなるわよ」
パチン、と彼女が手を合わせる。世界が崩壊した。
温かい豪宅も、ベーコンの香りにない。
再び目を開けた時、肺に吸い込んだのは吐き気を催す血の臭いと、燃える木材の焦げた臭いだった。
「カイ……カイル!」
母さん、シニィの悲鳴だ。
そこは俺の故郷の村だった。燃え盛る木々。そして目の前では、温厚だった父、カイル・スライの胸を冷たい長刀が貫いていた。
「逃げろ……シエン……」
目の前に立っていたのは、黒い校服に白い仮面の影——「隠」。
俺は「墨淵」を抜き、獣のような咆哮を上げて突っ込んだ。だが、相手はあまりにも強すぎた。全ての斬撃がいなされ、カウンターを食らう。
「ぐああっ!」
肋骨の折れる衝撃。俺は倒れ、血を吐きながら、シニィへと歩み寄る仮面の影をただ見ていることしかできなかった。
無力感。大切な人が目の前で壊される絶望。それこそがゲンリが俺の心の奥底に植え付けた毒だった。
その時だ。左眼の「観測者」が、針で刺されたような激痛と共に暴走し始めた。
「ぐ……あああああ!」
俺の意志を無視し、観測者は狂ったように演算を始める。燃える村、父の死体、母の叫び——それらが左眼の視界の中で、無数の魔法術式へと分解されていく。指の間から溢れる白い光が、ゲンリの編み上げた現実を強引に引き裂いた。
「止まれ……止まってくれ!!」
パリン、という硬質な音が脳内で響き、焦土と鮮血の世界は砕け散った。
「……はぁっ! げほっ、ごほっ!」
俺は後院の芝生に膝をつき、虚脱状態で喘いだ。俺は最初の帰還者であり、自らのスキルで幻境を「蹴り飛ばして」脱出した唯一の人間だった。
「シエン? どうして……」
ゲンリが驚愕した表情で駆け寄ってきた。彼女は俺を支え、ソファへと運んだ。
「あの強度の催眠下で、自力で目覚めるなんてあり得ない。……どうやって出てきたの?」
「観測者……こいつが、俺以上に意地っ張りだったみたいだ」俺は自嘲気味に笑った。「絶望に飲み込まれそうになった瞬間、こいつが勝手に先生の術式を解析し、解体し始めたんだ。……それで、世界を見破ってしまった」
ゲンリの手が止まり、俺の左眼を覗き込んだ。その瞳には震撼と狂熱が入り混じっていた。
「私の領域を、力ずくで解体したというの……?」彼女は呟いた。「幻影領域の原理は、無数の高階魔法の積み重ねよ。実戦で間に合わせるために、私はその膨大な術式を極限まで圧縮し、魂に刻み込んだ『スキル』として体内に保存した。……それを、あんたは一瞬で見抜いたのね」
彼女は人差し指で俺の唇を制した。「これ以上は『営業機密』よ。知りたければ、私の特訓を最後まで耐え抜きなさい」
後院に戻ると、そこには地獄から這い上がってきたような仲間たちがいた。
アイリンは膝を抱えて泣き、良奈は胸を押さえて空虚な目をし、アウグストゥスは眼鏡を外して目を赤くしていた。
しかし一人だけ、芝生の上で大の字になって、満足げな笑みを浮かべて寝ている奴がいた。セシルだ。
「まさか、セシルだけがクリアするなんてね」ゲンリが驚きを隠せずに言った。
セシルは欠伸をしながら答えた。「夢の中で、誰かがこの家を壊して、みんなを追い出すって言うんだもん……。ここがなくなったら昼寝する場所がなくなっちゃうでしょ? だから全部の魔法を使って、そいつらをブチのめしてやったわ。簡単よ」
守るべきものが「昼寝の場所」という単純な執念が、最強の幻影を打ち破ったのだ。俺は妙な安心感を覚えた。
泣きじゃくるアイリンを抱き寄せた。
「シエン……ううっ……」彼女は俺の首筋に顔を埋め、涙で俺の服を濡らした。
どんな悲劇を見たのかと尋ねると、彼女はしゃくり上げながらこう言った。
「シエンが……シエンが急に狂って、この世のスイーツを全部壊そうとしたの……! ケーキ屋さんもチョコ工場も全部爆破して、最後の一つのプリンも許さないって……! だから、お菓子を守るために、私が泣きながらシエンを殺すしかなくて……うああああん! 怖かったよぉ!!」
「……」
同情心が一瞬で凍りついた。だが、彼女の絶望に満ちた顔を見て理解した。
アイリンにとって「愛する人」と「甘いもの」の究極の選択。それが彼女にとっての世界の終わりだったのだ。
「……わかった、もう泣くな。約束するよ、世界が終わっても君のプリンだけは守り抜くから」
「本当に……? カラメル三倍ね……」
深夜、俺はテラスで独り風に当たっていた。
そこにはゲンリがいた。薄い黒のシルクの寝間着を纏い、夜風に髪をなびかせている。
「シエン……あんたのその眼、今の私を観測してみてくれる?」
彼女は寝間着の襟元を少し開き、あの魔石のネックレスと、その下の白い肌を晒した。
「『観測者』の視界で、今の私はどう見える? 壊れた残骸? それとも修復された完成品?」
「ゲンリ、近すぎます……」俺は彼女を軽く押し戻した。
彼女は「いい男ね」と笑い、真剣な表情に戻った。「さあ、あんたの実力を見せなさい」
左眼を起動した瞬間、俺は驚愕した。彼女の体内には普通の魔力回路が存在せず、心臓の部分に底なしの「黒洞」のような魔力核が鎮座していた。
その黒い渦に視線を吸い込まれた瞬間、俺の意識は彼女の過去へと飛ばされた。
十四歳での研究院入り。
十五歳での「幻影領域」完成。
十六歳での魔法科学の最高殿堂。
だが十八歳で、彼女はそれら全てを投げ出し、「教師免許」を取った。
十九歳の夏。
彼女が教室のドアを開けた時、そこには不安げな茶髪の少年(一期生)がいた。彼女はその時、聖母のような、それでいて生硬な微笑みを浮かべていた。
彼女は「神」になる機会を捨て、子供たちの瞳の中に「人間」としての温度を探しに来たのだ。
俺が目覚めた時、後頭部には柔らかく温かな感触があった。ゲンリの膝枕だった。
「シエン、あんた私の過去を全部見ちゃったのね……」彼女は自嘲気味に笑った。
「教師になったのはね、私の魂がもう『愛情』を処理できなくなったからよ。対等な伴侶を愛せないなら、学生を愛しなさいって、ある人に勧められたの」
彼女は俺の顔を両手で包み込んだ。
「だからシエン、私の期待を裏切らないで。あんたたちは、私の壊れた魂を動かすための唯一の薬なのよ」
俺は膝から起き上がり、彼女の瞳を真っ直ぐに見た。
「ゲンリ、あんた……本当に頑張ったんだな」
その言葉に、彼女の虚勢が崩れた。彼女は俺を強く抱きしめ、肩に顔を埋めた。
「……あの人がいなくなってから、そんなふうに言ってくれる人なんて、一人もいなかった……」
「……その、あんたに助言した人って、誰なんです?」
「**銀**よ」
心臓が跳ねた。俺を転生させ、この左眼をくれた神の名も「銀」だ。
これは偶然か?
空気が妙に熱を帯び始めた。ゲンリの親近感が、師弟を超えた危険な方向へ傾きかける。
俺は一線を引かなければならなかった。「ゲンリ……俺には、アイリンがいます」
「わかってるわよ」彼女は瞬時に優雅な微笑みに戻り、俺を突き放した。「私の愛は『学生』へのもの。自意識過剰じゃないの、ギルド長?」
だが次の瞬間、彼女は再び顔を寄せた。
「……キスして」
熱を帯びた、逆らえないような声で彼女が言った。
俺がパニックになり、顔を真っ赤にして固まっていると、彼女は突然吹き出した。
「あはははは! シエン、その顔何よ! 熟れたリンゴ? それとも感電したスライム?」
彼女は腹を抱えて笑い、憂鬱な空気は一瞬で霧散した。
「……もう、笑い事じゃないですよ、ゲンリ先生!」
「はいはい、おやすみシエン。肩、貸してくれてありがとうね」
俺は逃げるようにテラスを後にした。あの女、魂を見透かす天才のくせに、いつも悪戯で本心を隠す。だが、最後のあの笑顔を見て、今夜の「癒やし」が少しは彼女の助けになったのだと確信した。




