元気づける
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、空気中の塵を白く照らし出していた。アイリンは腫れぼったいこめかみを揉みながら、頭を雷魔法で撃たれたような鈍い痛みを感じていた。
「ふぅ……ん?」
アイリンがまどろみの中で目を開けると、腕に柔らかく温かな感触があった。
顔を向けると、そこには至近距離で、息を呑むほど美しい素顔があった。仮面を脱いだ佐藤良奈だ。彼女は血の気の失せた唇を固く結び、普段の冷徹な瞳は充血し、複雑極まりない表情を浮かべていた。その目元には、乾ききっていない涙の跡まである。
「えっ? リナ? なんで……なんで私をそんなに抱きしめてるの?」
アイリンは驚いて手を引こうとしたが、自分の足がリナの腰に絡みついていることに気づいた。
「……というか、あなたがずっと私を押し倒していたのよ……」
リナの声はひどく掠れており、魂を抜かれたような無力感が漂っていた。彼女には、はだけた肩を毛布で隠す気力すら残っていないようだった。
「私が押し倒してた?」
アイリンは茫然と起き上がった。スリップの肩紐が半分落ちている。「昨日、一緒に寝ようってなって……ゲンリ先生が残したお酒を一口飲んで……それから、何があったの? 全然覚えてないんだけど」
アイリンの完全に「断片(記憶喪失)」した無垢な様子を見て、リナの顔は耳の根まで真っ赤に染まった。昨夜、無理やりこじ開けられた感覚の記憶と、別人のようなアイリンの覇道的で侵略的な振る舞いが、濁流のように脳裏に蘇る。
「……知らないほうがいいわ!」
リナは猛然と毛布を引き寄せ、中にもぐり込んだ。布団の中から、羞恥と憤りに震える声が漏れる。
「もう、何よ。リナってば変なの」
アイリンが困惑して体を動かした時、太ももの付け根に冷たい感触を覚えた。見ると、整えられていたはずのシーツの中央に、はっきりとした濃いシミが広がっていた。
「あれ? おかしいな……なんでシーツが濡れてるの? 私、昨日の夜にお水こぼしたっけ?」
アイリンは天真爛漫に手を伸ばし、その水跡に触れようとした。
「触らないでっ!」
リナは驚いた猫のように布団の中で転がり、ベッドの隅へと縮こまった。その声は震え、もはや形を成していなかった。「アイリン……あなた、お風呂に入ってきて! 今すぐ! 早く!」
ダイニングに差し込む朝日は爽やかだったが、食卓の空気は「スロウ(鈍鈍)」の魔法でもかけられたかのように重苦しかった。
リナは例の白い仮面を付け直していたが、縁から見える耳の根は血が滴りそうなほど赤い。体は強張り、椅子に座っているというより、いつでも逃げ出せるよう硬直している。
アイリンは髪を掻きながら、粥をすすって存在感を消そうとしている俺と、隣の不自然なリナを交互に見つめ、不審げな視線を走らせた。
「おかしいわね……」アイリンが眉をひそめて呟く。「シエン、私の恋人はあなたよね? なんで朝起きたらリナがこんなに顔を赤くしてるの? まさかあなた、私に……?」
「ち、違う! 誤解よ!」リナは手に持ったスプーンをへし折りそうな勢いで、蚊の鳴くような声で答えた。
リナは周囲を見回し、新聞を読んでいるアウグストゥスと、ニヤニヤしているセシルが聞いていないことを確認すると(実際は全員聞き耳を立てていたが)、震えながらアイリンの耳元で小さく囁いた。
リナの囁きを聞くアイリンの瞳が、困惑から驚愕、そして瞳孔の収縮へと変わっていくのを俺ははっきりと見た。
「はぁっ!? 私が昨夜、ベッドであなたを、んぐっ——!!」
アイリンがその驚天動地の動詞を叫びそうになった瞬間、リナは剣士並みの反射神経でその口を固く塞いだ。
「んんっ……んんん!!」アイリンは目を見開き、信じられないという顔でリナを見た。
「ええ、そうよ。そういうことなの」リナは仮面越しに深く息を吐き、心中を決めたような絶望と決然とした口調で言った。白く滑らかな手は羞恥で微かに震えていたが、アイリンが余計な一言を発しないよう必死に押さえ込んでいた。
隣でアウグストゥスが黙って新聞をめくり、隠しきれない口元の笑みを隠した。セシルはフォークでベーコンを突きながら、「あらあら、うちのギルドの『求心力(向心力)』はすごいわね。体まで密接に結合しちゃうなんて」と独り言を漏らした。
俺はパンを口に詰め込み、何も聞こえないふりをした。リナが「誰かが防音結界を解除した」ことを暴露するつもりがないのなら、俺はおとなしく「鈍感な彼氏」を演じ続けるのが得策だ。
「やれやれ……朝から元気ねぇ、若いっていいわ」
鼻声の混じった、気怠い感嘆の声と共にゲンリが階段に現れた。普段の艶やかな黒髪は鳥の巣のように乱れ、数本の髪が赤らんだ頬に張り付いている。ぶかぶかの寝間着をまとい、二日酔いの疲労と退廃的な空気を漂わせながら、一歩一歩が雲の上を歩くような足取りで降りてきた。
「先生? 大丈夫ですか?」俺は立ち上がった。この姿を見ていると、ウィルが言っていた「魔法史を書き換えた天才」とは到底結びつかない。
ゲンリは力なく手を振り、椅子に崩れ落ちた。「何度も言ったでしょう……あんたたちはもう卒業生で、一人前の冒険者なのよ。こんな無様な格好をしてるんだから、もう先生なんて呼ばないで。ゲンリでいいわよ」
俺はこの気まずさが爆発しそうな食卓——二日酔いの元導師、記憶をなくしてパニックの恋人、そして「食べられて」羞恥死しそうな友人の顔ぶれを見た。これ以上この二人を一緒にさせたら、リナが切腹しかねない。
「セシル、リナと一緒にゲンリを……ゲンリ先生を整えてきてくれ。この格好でダイニングに置いておくわけにはいかない」
「えー、なんで私?」セシルは眉を上げ、俺とアイリンとリナを観察し、全てを見透かしたような邪悪な笑みを浮かべた。「っていうかシエン、この空気……あなたの彼女に『浮気』されたってこと? しかも相手は友達?」
「黙れ! さっさと行け!」俺は顔を赤くし、面白がるガキを階段の方へ追いやった。
数分後、表に漆黒の、鋭いラインに魔晶石が埋め込まれた馬車が停まった。優雅でありながら威圧感のあるこのスタイルは、ス威雅に一人しかいない。ウィル・ヘイズだ。予定より早い。
俺は家の中の惨状を思い浮かべた。新世界を見せられて羞恥死しそうなリナ、悪ノリするセシル、混乱と二日酔いのアイリン、そして衣類も乱れたままのゲンリ先生。
ここはギルドじゃない、精神病院だ。
「アウグストゥス、ウィルを足止めしてくれ! 君の弁舌で、ついでにアイリンを看板戦力として紹介して五分稼いでくれ!」
俺は二階へ駆け上がった。あの20万金貨の小切手に発信機でも付いていたのかと思うほど、正確にゲンリの居場所を特定している。
更衣室のドアを開けると、そこには衝撃の光景があった。
さっきまで心理戦を繰り広げていたセシルとリナが、悪いことをした子供のように壁際でガタガタ震えていた。
部屋の中央では、ゲンリが鏡に向かい、魔導櫛で整えられた黒髪を撫でていた。彼女が振り返ると、二日酔いの気配は消え、代わりに寒気のするような笑みを浮かべていた。
「よお、シエン。……さっきの二人がちょっとうるさかったから、心の中のトラウマを再現して『幻影領域』の小型空間にぶち込んであげたわ。少しトラウマになっちゃったかしら?」
「先生、相変わらず容赦ないですね……」
「アフターケアよ」ゲンリは平然と襟元を正した。
「そんなことより!」俺は声を潜めた。「大物が下に来ています。……ウィル・ヘイズです」
ゲンリの深い瞳が鋭く細められた。室温が氷点下まで下がったかのような沈黙。
「……あの男、よくもまあ私の前に。……シエン、もてなしなさい。『幻光』が礼儀知らずだと思われないようにね」
ウィルとゲンリがソファに向かい合って座った。
「ゲンリ……久しぶりだな。元気そうで何よりだ」ウィルの声は掠れていた。
「ふん。おじさん、その顔、反吐が出るわね」ゲンリは手すりに寄りかかり、鋭い言葉を投げた。「私の教え子の家に来て何の用? 勧誘ならお断りよ」
「……謝罪に来たのだ。八年前のあの事と、私が放った暴言について」
全場が静まり返った。
「謝罪? あなたらしくもないわね、ウィル頭取」ゲンリは冷笑したが、複雑な感情を隠しきれていないようだった。「シエン、彼に茶を。……もてなしてあげなさい」
俺は二十万金貨を(彼から)受け取ったギルド長だが、この二人のオーラの圧に負けて、完全に時給制の執事に成り下がっていた。
「どうせこれからの話、あんたたちには理解できないでしょうし」ゲンリが俺たちを見た。「前情提要を見せてあげるわ」
彼女が指を鳴らした瞬間、客廳の景色は砕け散り、八年前の学者の街へと移り変わった。
そこには十四歳のゲンリがいた。今のリナと同じように人を寄せ付けない鋭い眼光。
そして若き日のウィル。
「私はス威雅中央研究院の主幹、ウィル・ヘイズだ」
「で? 何の用? 実験の続きがあるんだけど」
ウィルは十四歳にして驚異的な魔力を放つ少女に、極秘印章の押された書類を差し出した。
「前代未聞の研究プロジェクトに招待したい。コードネームは——『永恆視界』。虚構の魔力を、現実の空間へと変える研究だ」
現実に戻った客廳で、ウィルは頭を垂れていた。
「救っているつもりだったが、君の唯一の夢を壊してしまった」
「おじさん、あの時のあなたの言葉は半分正解だったわ。私の魂は確かに一部壊れたもの」
ウィルは震える手で木箱を開けた。中には、あの銀のペンダントと水晶玉。
そしてその底から、一本のネックレスを取り出した。不格好な手作り感のあるそれは、温かく脈動する湛青色の魔石を宿していた。
「この魔石は……君が残した論文を毎晩読み込み、八年かけて作り上げたものだ。不完全だが、領域の強制起動で欠けた君の魂を修復してくれるはずだ……」
ゲンリの手が空中で止まった。彼女はその石に込められた理論が一目でわかった。それは彼女の最も狂信的で個人的な構想だったからだ。
「おじさん……これ、自分で作ったの?」
「ああ。君の『環境具象化』の概念を、空になった実験室で毎晩逆推した。資質が平凡な私には、これほど時間がかかってしまったが……」
沈黙の後、ゲンリはゆっくりと立ち上がり、ウィルの隣に歩み寄った。かつての毒舌はなく、外で傷ついて帰ってきた子供のような表情で。
「……もしこれがオークションで買った安物だったら、承知しないわよ」
彼女は背を向け、白く細い項を見せた。ウィルの震える手が、十年の遅れを伴ってそのネックレスをかけた。魔石が柔らかな光を放ち、彼女を包み込む。ゲンリは唇を噛んで涙を堪え、温かな魔石を握りしめた。それは医療品ではなく、ウィルが十年の歳月をかけて縫い合わせた彼女の夢そのものだった。
「……せっかくここまでしてくれたんだもの。機嫌を損ねたままだと、器が小さいと思われるわね」
ゲンリは弾けるように笑い、子供のようにウィルの肩にぶつかった。
「お返しはいらない。過去は過去だ」ウィルは頭取の顔に戻った。「今、私は銀行頭取として、正式に『幻光』に依頼をしたい」
「二十日後、ス克維坦で開催される『大陸横断魔導博覧会』。銀行専用エリアの警備、そして開幕式で、ゲンリ、君が教え子たちを率いて、世界に示してほしい。……本物の、完璧な『幻影領域』を」
「私に公開しろと?」ゲンリの目に興奮の光が宿る。
「違う。君を狂人だと笑った連中に、誰が頂点に立っているかを教え込むのだ。……そしてシエン、アイリン、君たちが彼女の最高の助手となる。これは『幻光』が世界の舞台に立つ始まりだ」
夜、二階のテラスでウィルと俺は星空を見ていた。
「シエン、先ほどの彼女の笑顔を見て、十年前を思い出したよ」
彼は俺の肩を叩いた。「あの魔石は魂を繕うが、失われた八年は戻らない。私はもう老いた。彼女に与えられるのは金と魔導具だけだ。だが、君たちは違う。彼女の今の、唯一の支えだ」
「……はい」
「彼女を二度と、酒浸りの廃人にはさせないでくれ。……何があっても、彼女とあの子供たちを守ってくれ。これはギルド長としての責任であり、敗北者である私からの、最後のお願いだ」
テラスの余韻をかき消すように、一階からアイリンの声が響いた。
「シエン! ちょっと助けてよ、先生がまた酔っ払っちゃった!」
俺は溜息をつき、一階へ降りた。ソファには酒瓶を抱えたまま寝入ったゲンリ。魔石が彼女の呼吸に合わせて明滅している。
俺は彼女を抱え上げた。
初めて間近で触れる、導師ではないゲンリの重み。黒髪から漂う冷たい香りと酒の匂い。俺は彼女をリナの部屋へと運んだ。
リナは黙って布団を敷いた。俺はゲンリをゆっくりと横たえた。
正直、絶世の美女がすぐそばにいるというのに、下卑た幻想は微塵も沸かなかった。
一つは、長年の「師弟モード」が骨の髄まで染み付いているせい。彼女の顔を見ると、明日のレポートの心配が先に立つ。
そしてもう一つは、彼女があまりにも「細かった」からだ。
アイリンの弾力ある曲線美に比べ、ゲンリの体は驚くほど軽く、シャツ越しに背骨の感触が伝わるほどだった。まるで精巧だが壊れやすい磁器のよう。その華奢な体が、ウィルの言っていた「十年の孤独」を物語っているようで、切なくなった。
「シエン……」ゲンリが寝言を言い、俺の袖を掴んだ。
「ここにいますよ、先生」
俺は部屋を出て、廊下でニヤニヤしながら待っていたアイリンの元へ歩み寄った。
ゲンリは確かに美しい。けれど、俺の心拍数を跳ね上げさせるのは、やっぱりこの真っ直ぐで熱いブルーの髪の少女だけだ。




