復學
朝の光が薄霧を突き抜け、別荘の赤レンガの壁を優雅に照らしている。この家は、帰国直後の迷いから「幻光」結成を決意したあの瞬間まで、僕たちのすべてを見守ってくれた。俺にとってここは単なる住処ではなく、この愛おしい時間の最も純粋な容器だった。
玄関先で足を止め、ゆっくりと手を伸ばす。木製の門枠に残る微細な紋理を指先でなぞった。インテリアデザイナーとして、これが俺なりの建築への愛情表現だ。一つ一つの傷跡や摩耗が、ここでの暮らしの断片を記録している。
「数年間、ありがとうな」
誰もいない、けれど温もりの残る家に向かって、俺は静かに呟いた。
そんな感傷に浸っていると、背後から軽やかで活気のある足音が聞こえ、静寂が破られた。
「ちょっと! シエン、いつまでも名残惜しそうにしてないでよ。馬車が出ちゃうわよ!」
アイリンの湛青色の長髪が陽光に輝き、彼女は荷物と夢を詰め込んだ小さな鞄を背負って現れた。首元にはあの虹色の魔石が揺れている。彼女の胸元で弾むその光を見ていると、俺の心にわずかに残っていた離愁も、彼女の笑顔と共に霧散していった。
「ああ、行こう」
思い出の詰まった我が家を最後にもう一度だけ見つめ、俺は門前で待つ馬車へと力強く踏み出した。
車内には、昨夜の資料整理で少しやつれてはいるが鋭い眼差しのアウグストゥスが座り、隅ではセシルが枕を抱えて半睡半醒の状態だ。そしてリナ――今は仮面をつけ「隠」としての姿――が馬車の傍らで静かに立ち、銀色の武士刀に手を添えていた。黒い制服が風に揺れる様は、まるで自らの帰るべき場所を待っているかのようだった。
馬車の車輪がゆっくりと回り出し、規則正しい軋み音を立て始めた。
校門に到着した瞬間、懐かしい書物の香りと魔力の波動が鼻腔をくすぐった。
「あら、アイリン! 相変わらず食いしん坊ね。パンの匂いが遠くまで漂ってるわよ! 隠も相変わらずミステリアスで格好いいし……アウグストゥス、セシルの面倒を見られるようになったの?」
ゲンリ先生が、まるで夜色に溶け込むような深い色の長袍を纏い、神出鬼没に現れた。彼女は活発にアイリンの肩を叩き、それから俺に向き直る。人の心を見透かすような瞳で、俺をじろじろと眺めた。
「ん? シエン……あなた、変わったかしら?」
「はは、変わってないと思いますよ」
俺は照れくさそうに後頭部を掻いた。数々の修羅場を潜り抜けてきた自負はあるが、この先生たちの前では、結局自分はただの教え子なのだと感じてしまう。
「ああ、そうだわ」ゲンリ先生がポンと手を叩いた。「卒業シーズンで人が多すぎて、準備が間に合わなかったの。寮の部屋が少し足りないみたいなのよ」
「それは構いませんよ、先生。数日だけなら、前まで住んでいたあの別荘に戻ってもいいですし、そっちの方が落ち着きます」
「でも、なんとか二人部屋を二つ用意したわ。でもそうなると……一人は一人部屋になっちゃうんだけどね」ゲンリ先生が茶目っ気たっぷりにウィンクした。
「二人部屋」と「一人部屋」というキーワードを聞いた瞬間、俺の脳内にはピンク色の妄想が駆け巡った。もしアイリンと同じ部屋になれば、この数日間は公然と深夜デートを楽しめるのではないか?
俺は「分かってるだろ?」という視線をアイリンに送ろうとしたが、彼女の反応は雷電よりも速かった。
「私、リナと一緒に寝るわ!」
アイリンは電光石火の勢いでリナの腕を掴んだ。俺を振り返った彼女の顔は赤らんでいたが、その瞳には勝利者の挑発が宿っていた。顔全体に『シエン、同棲なんて百年早いわよ!』と書いてある。
「じゃあ、残りは……」俺は諦めて他の二人を見た。
「アウグストゥスお兄様、もし私と同じ部屋になってくれないなら、私、食事を受け取りに行くのを忘れて餓死しちゃうわよ」
セシルは目を閉じたまま、正確にアウグストゥスの裾を掴んだ。気怠げだが、抗いがたい依存の色を含んだ口調だ。
アウグストゥスは溜息をつき、眼鏡を押し上げた。「全く、手のかかるお荷物だ」と口では言いつつも、体は正直にセシルの隣に並んだ。
俺は「女子コンビ」と「保護者コンビ」を見比べ、最後に自分の空っぽの両手を見つめた。
「ああ、いいさ。分かったよ。一人で寝るよ」
俺は三分の哀れみと七分の可笑しさを込めて長嘆した。まあいい、大きなベッドで一人で寝るのも静かでいい。夜中にアイリンの雷で叩き起こされたり、セシルに抱き枕にされる心配もない。
「あらあら、シエン君、そんなに落ち込まないで」俺の負けっぷりを見て、ゲンリ先生はさらに楽しそうに笑った。
「一人で寝るの、怖がっちゃダメよ!」
アイリンは去り際、あっかんべーをしながら計略が成功した少女のように無邪気に言い放った。
「余計なお世話だ!」
俺は吐き捨てるように言い返し、銀鈴のような笑い声を遮断するように「バタン」と力任せにドアを閉めた。
部屋の中は一瞬で静まり返った。重い荷物を壁際に投げ出し、鈍い音が響く。見渡せば、かつての学生時代の規格と変わらない臨時部屋だ。狭いシングルベッド、木目の剥げたデスク。ストラトス・ヴィアのキャンパス特有の、インクと防腐剤が混ざったような香りが漂っている。
俺は少し硬めのベッドに仰向けになり、天井の微細な亀裂を見つめた。
「午後は……あいつらと一緒に授業か。疲れるな……」
独り言をこぼす。一騎当千の戦士になっても、学校に戻れば模範生として教室に座らなければならない。好奇心に満ちた後輩たちの視線や、先生たちの「戻ってきたなら手伝え」と言わんばかりの圧力を想像すると、こめかみが疼く。
リラックスしに来たはずが、模範生としての振る舞いから卒業準備まで、仕事量は外で魔獣を討伐するより多いかもしれない。
左目に触れる。「観測者」が静かに脈動している。学内の魔力流動は安定しているが、その静寂の底に、新しい嵐が予感される。――これが「未来」という名の重圧なのだろうか。
「十分だけ……十分だけ休もう」
俺は目を閉じ、脳内に「幻光」の設計図を描いた。アイリン、リナ、アウグストゥス、セシル、そして俺。全員が安心して羽を休められる家。その未来のためなら、今の苦労くらいは許容範囲内だ。
母校に戻ってからの一週間、ストラトス・ヴィアの空気は俺たちという「異分子」のせいで常に騒がしかった。
アイリンは文句なしに全校の注目をさらった。彼女の青い髪が廊下を過ぎるたび、雷電の気配を含んだ微風が巻き起こる。圧倒的な美貌と、活発すぎるほど飾り気のない性格は、男子生徒の間に凄まじい数のファンを生み出し、女子生徒すらも彼女の自信に満ちた姿に憧れを抱いた。放課後の彼女のデスクは謎のお菓子やラブレターで埋め尽くされたが、本人はパンを齧りながら「お腹空いた」と零すばかりだった。
リナの人気は極めて神秘的な路線を辿った。唯一の黒い制服はそれだけで伝説であり、実戦講義での冷酷かつ正確な剣技は「強者崇拝者」たちを熱狂させた。しかし、皆が最も狂わされたのは、仮面の下に時折覗くギャップだ。食堂で目当てのメニューがなくて俯いたり、アイリンに揶揄われて戸惑う彼女の白い肌と恥じらう仕草に、「隠さん、実は超可愛いんじゃね?」という噂が瞬く間に広まった。
アウグストゥスとセシルは図書館を完全に支配した。今やそこは後輩たちの聖地だ。アウグストゥスは不機嫌に「近寄るな」というオーラを出しているが、難解な理論質問には毒舌ながらも一針見血の答えを返す。セシルはもっと凄まじい。彼女が机で寝ているだけで、周りには「天才飛び級生の瞑想」を観察しようとする後輩が群がり、彼女の落書きを神秘的な空間座標だと信じ込む者まで現れた。
そして俺は……相変わらずだ。
目立たない長袍を羽織り、校舎裏にある紫青色の葉をつける樹の下で一人過ごすのが日課だ。粗い樹肌に背を預け、風の音を聞きながら「観測者」で校内の魔力の糸を捉える。
通りかかる学生たちが俺を見て、小声で囁き合う。
「見ろよ、あの天才たちと一緒にいる先輩だろ? 隊長らしいけど……なんか地味じゃないか?」
「地味なのが一番なんだよ」
俺は自嘲気味に笑い、アイリンに貰ったおにぎりを齧った。
遠くの賑やかな校舎で、仲間たちが眩しく輝いているのを見る。俺には、世界から忘れられたようなこの静寂こそが贅沢に感じられた。
この樹の下にいる時だけ、俺は十六歳の少年ではなく、ただのインテリアデザイナーに戻れる気がしたのだ。
「あいつら、結構楽しんでるみたいだな」
目を閉じると、遠くから後輩に告白されて困惑するアイリンの声が聞こえ、思わず口角が上がった。
校舎の非常口の階段に腰を下ろす。石材の冷たさが伝わってくる。
「俺だけ……みんなから遠ざかってるみたいだな……」
おにぎりを飲み込み、誰もいない空間に溜息を吐く。
アイリンは後輩たちに囲まれて笑い、リナは演武場で神話のように崇められ、図書館の二人にも信奉者がいる。彼らは鮮やかなやり方で、再びこの世界と繋がり直している。なのに俺は、この熱いドラマの傍白のように、自ら縁側へ退いている。
人付き合いの面倒さを避け、「幻光」が始まればまた毎日会えると自分に言い聞かせている。
「でも……こうやって未来を想定して、大人しく収まろうとする性格が、俺の最大の欠点なのかもしれないな」
「創造主の視点」を持つ左目に触れる。風に吹かれた数枚の葉がお弁当箱に落ちた。俺の仲間たちがいるあの灯火を見つめながら、自ら引き開けたはずの距離感に感傷的になっている自分がいた。
「シエン、ここでサボりすぎじゃない?」
突然、聞き慣れた電気的な声が上から降ってきた。見上げると、アイリンが非常口の手すりに座って足を揺らしていた。
彼女は軽やかに飛び降り、青い髪が空中に優美な弧を描く。
「あれ? なんでここに?」
俺は動揺を隠そうと、平静を装って聞いた。
「こっちのセリフよ! あんたこそ、なんでこんなところにいるのよ!」
アイリンは呆れたように身を寄せ、隣に座った。当然のように俺の弁当からおにぎりをつまみ上げる。
「毎日お昼に姿を消して。人混みに囲まれるのがどれだけ大変か分かってるの?」
頬張ったまま不満を漏らすが、彼女に去る気配は微塵もなかった。
「だって、俺たちの関係が知れたら説明が面倒だろ」俺は苦笑して遠くを見た。
「理屈はそうだけど……」アイリンはおにぎりを飲み込み、海のような瞳で俺を射抜いた。「あんまり遠くに行かないでよ。一匹狼のつもり? それとも老後生活の予行演習?」
言い返せず、俺は空いた自分の掌を見つめた。守ることに慣れすぎて、未来を想定しすぎて、彼女たちの眩しい歩調に置いていかれるのを恐れている自分。そんな微妙な不安を、彼女は見抜いている。
「そんな顔しないでよ。昔も今もこれからも、私たちはあんたから離れないわ。これ以上隠れるなら、毎日リナをここに送り込んで『抜刀特訓』させるからね!」
「勘弁してくれ……飯が喉を通らなくなる」
隣から伝わる温もりに、胸の落差が少しだけ埋まった気がした。
アイリンの手を握ろうとしたその時。
景色に墨を零したかのように、校舎も非常口も正午の光も、濃稠な闇に飲み込まれた。
**【幻影領域】**だ。
現実を歪めるあの魔力波動に、俺たちは即座に警戒した。空間の中央に人影が浮かび上がる。ゲンリ先生だ。
五角形の空間の端に、俺たち五人が転送されていた。アイリンは驚き、リナは刀に手をかけ、アウグストゥスは厭世的な顔をし、セシルは寝起きの猫のように目を擦っている。
「ごめんなさいね、みんな」
ゲンリ先生は全く申し訳なさそうにない、悪戯が成功したような笑みを浮かべた。
「学校中を探しても大忙しのあなたたちが揃わないから、一気に引き込んじゃったわ」
「なんなんですか、先生! 敵襲!?」アイリンが叫ぶ。
「敵襲より大事なことよ」先生が着地する。「学校委員会が、今回の卒業生代表をあなたたち五人の共同代表に決めたわ。でも、スピーチができるのは一人だけ。だから今ここで話し合ってちょうだい。誰が『幻光』を代表して教壇に立つか」
「シエンに一票!」
アイリンとリナの声が重なった。二人は見つめ合い、「隊長が立つべきだ」という絶対的な共識を交わした。
「断る」
俺は一秒の猶予もなく、手をプロペラのように振って拒絶した。
「第一に、俺は学内で地味すぎて下の半分は俺を知らない。空気が凍るだけだ。第二に、これまでの数年間、交渉や決断は俺がやりすぎた。隊長として、今度は仲間にスポットライトを譲るべき時だ」
「それは……確かにそうね。いつもシエンが前に立ってたわ」アイリンの勢いが削がれた。
「なら、アイリンにお願いしたい」俺は畳み掛けた。「彼女は今や全校の女神だ。実力も誰もが認めている。彼女が『幻光』として話すのが、一番みんなを奮い立たせる」
「……賛成です」リナも仮面の下で頷いた。
「僕たちも異議はない」アウグストゥスは欠伸をした。「僕を教壇に上げないなら誰でもいい」
「え? わ、私!? 待って!」アイリンの顔が真っ青になり、震え出した。「シエン! 本気!? 私は緊張して、下の生徒たちをキャベツだと思って全部黒焦げにしちゃうわよ!」
「安心しろ、原稿は俺が書いてやる」
俺は計略が成功した悪い笑みを浮かべ、彼女の肩を叩いた。「伝説になるための第一歩だぞ、アイリンさん」




