挽回
俺は弾かれたように椅子から立ち上がった。顔には先ほどの涙痕が残っていたが、その瞳から退廃的な色は消えていた。デスクの上のチョコレートケーキを、まるで最後の一筋の希望であるかのように掴み取ると、部屋を飛び出し、静まり返った廊下でアウグストゥスのドアを軽く叩いた。
「アウグストゥス、起きているか?」
ドアはすぐに開いた。アウグストゥスはまだ整ったシャツ姿で、手には分厚い『魔力構造論』を持っていた。寝る準備をしていたのだろう。赤くなった目でケーキを差し出す俺を見て、彼は眉をわずかに寄せた。
「アウグストゥス、これを氷封してくれないか?」俺の言葉は切実で、哀願に近い響きさえあった。
「氷封だと?」彼は眼鏡を押し上げ、疑わしげな表情を浮かべた。「シエン、氷元素の極低温は食物の繊維と脂質を完全に破壊するぞ。明日には木屑を噛んでいるような食感になる。それでもいいのか?」
「『観測者』で温度を微調整し、内部の熱エネルギーの流動を制御する。冷蔵状態を維持させるんだ」俺は真剣に説明した。「これは明日の『考核』の、最も重要な……入場券なんだ。常温で腐らせるわけにはいかないし、この想いを無駄にしたくないんだ」
俺の揺るぎない眼差しを数秒見つめた後、彼は仕方なさそうに溜息をついた。
「いいだろう」彼は本を置き、長い指先をケーキ箱の上で軽く旋回させた。「だが言っておく。お前の魔力制御がミスして食べられなくなっても、俺は知らんぞ。その時は荷物をまとめてマキシ先生のオフィスにでも転がり込むんだな」
直後、彼の指先から冷徹な青い光が放たれた。極致の冷気がケーキ箱を正確に包み込み、内部を傷つけることなく、一瞬にしてパッケージを透き通った氷の立方体へと変えた。
「この赤い点に向けて火を放てば、ゆっくりと解凍できる」彼は氷の側面に記された小さな赤い印を指差し、俺を深く見つめた。
「ありがとう」俺は一歩下がり、普段は冷淡だが肝心な時に手を貸してくれるこの親友に、深く頭を下げた。
「礼には及ばん」アウグストゥスはドアを閉めながら、その隙間から声を漏らした。「明日、誰かの『不合格』のせいでこの家が雷撃の地雷原になるのを見たくないだけだ。寝ろ、スライ君」
俺は重みのある氷の塊を抱えて部屋に戻り、氷晶の中で静止したチョコレートケーキを見つめた。これはただのケーキじゃない。アイリンの信頼を取り戻すという俺の決意そのものだ。この長い二十時間、俺は一分一秒、こいつを守り抜くと誓った。
ベッドの縁に座り、氷封されたケーキを両手で包み込むと、指先から伝わる冷気が混濁した脳を冷静に保たせてくれた。
深夜の家は死んだように静まり返り、窓の外の虫の音さえはっきりと聞こえる。しかし、その静寂の中で、階下から微かな音が聞こえた。裸足で床を擦るような音、そして水がグラスに当たる音。
誰かが下にいる。
神経が張り詰め、俺は脳内で「生存指針」を高速でシミュレートした。
• もし良奈だったら:絶対に行かない。俺は今「審判待ちの罪人」だ。ここで彼女と接触すれば、たとえ謝罪であってもアイリンには「反省していない」と受け取られる。黒い影が見えたら即座にドアをロックする。
• もしセシルだったら:絶好のチャンスだ。スパイの接触のように、最小限の声で「お姉様の今の機嫌は何級震災だ?」と探りを入れる。彼女から情報を得られれば、勝率は三割上がる。
• もしマキシ先生だったら:最良の選択だ。あの食えない教師なら、この二十四時間のみんなの心理変化を完全に見抜いているはずだ。彼なら「クズ男」の負い目を感じずに、女性の怒りを鎮める方法を相談できる。
俺は意を決し、氷のケーキをデスクに置いて、泥棒のように慎重にドアノブを回そうとした。
「……待て」
回す直前、俺の手が止まった。掌に冷や汗が滲む。
普通の足音じゃない。「観測者」として、俺はエネルギーの流動に敏感だ。空気の中に、乾燥した、焦げつくようなチリチリとした感触が漂っている。極度に圧縮された雷元素が跳ねる予兆。
アイリンだ。彼女がドアの外にいる。
俺は呼吸を止め、ドア板に張り付いた。もし今、不用意にドアを開けて怒りに満ちた彼女の目と合ってしまえば、明日の「考核」は願書すら破り捨てられるだろう。
「一、二、三……」
心の中で秒数を数える。一秒が一世紀のように長く感じられた。やがて、針で刺すような雷電の圧迫感がドアの隙間から消え、彼女特有の冷徹な魔力の波動が遠ざかるのを確認して、ようやく俺は噛み締めていた奥歯を緩めた。
地雷原を生き延びた工兵のように慎重に首を出し、廊下に誰もいないことを確認してから、抜き足差し足で階段を降りた。
リビングには、月光が高い窓から差し込み、銀白色の冷ややかな世界を作っていた。ソファには小さな影が丸まっていた。セシルが自分より大きな抱き枕を抱え、グラスの水をちびちびと飲んでいる。
「……シエン?」セシルが振り返った。眠たげな瞳が暗闇の中で虚ろに揺れている。「あなたも、お水を飲みに来たの?」
俺は暗闇の中で救いの糸を見つけたかのように急ぎ足で近寄り、壊れ物を運ぶように、セシルを抱き枕ごとリビングの最も隅――二楼に音が漏れない死角へと「移動」させた。
「セシル、よかった!」俺は声を殺し、病的なまでの興奮を込めて囁いた。
「えっ? シエン? ついに狂っちゃったの?」セシルは目を丸くして俺を観察し、抱き枕をさらに強く抱え込んだ。今の俺は魔物より異常に見えるらしい。
「ああ、狂ってるかもしれないな」俺は彼女の前にしゃがみ込み、形振り構わず、試験の解答を乞う受験生のように聞いた。「頼む、これは重要なんだ。今日のアイリンの様子はどうだった? 『人を殺しかねない』雷雨状態か、それとも『無視し続ける』冷戦状態か?」
セシルはグラスの縁を噛み、首を傾げて記憶を辿った。その水面のような瞳が月光にきらりと光る。
「今日は……お姉様、私には優しかったよ。いつもより忍耐強い感じ」彼女は淡々と言い、それから少し首をすくめた。「でも、午後の任務の時は怖かった。黒影の魔物たちを見た瞬間、一言も喋らずに、あの広範囲スキルを……。郊外が一面、白い雷に覆われて、空気が焦げた匂いでいっぱいになった。怖かったなぁ」
心臓が大きく脈打った。
「蒼」か「穹」か……。あんな不安定な精神状態で、神級スキルを放ったというのか?
「それで……アイリンは大丈夫なのか?」俺の声は緊張で裏返り、無意識にソファの縁を掴んでいた。「以前のように、倒れたり……魔力の反動は?」
セシルは「やっぱり馬鹿だね」という憐れみの視線を俺に向け、小さく頷いた。
「倒れたよ。あの技の後、お姉様は立っていることもできなくて、最後は良奈お姉様が抱えて帰ってきたの。今は魔力の使いすぎで、酷い頭痛に襲われてるはずだよ……」
その言葉を聞いた瞬間、俺は氷の束縛呪にかかったように硬直した。
俺が外で魔物を狩り、罪悪感を発散させていた間、アイリンもまた自虐的な方法で戦場にその悲しみをぶつけていたのだ。俺のせいで心身ともに疲弊していた彼女が、無理な魔力行使で意識を失うまで……。それなのに俺は、まだ自分のプライドだの何だのを気にしていた。
罪悪感が再び潮流のように押し寄せ、俺は月光に照らされた自分の青白い手を見つめた。
「そうだったのか……」俺は震える声で呟いた。「それで……良奈は? 彼女とアイリンの関係は?」
息を呑んで答えを待つ。良奈は、俺とアイリンの間にある最も敏感な結び目だ。もし二人がこの件で決裂してしまったら、俺は一生自分を許せない。
「良奈お姉様なら……」セシルは小さなあくびをして、抱き枕に顎を乗せた。「あなたが出て行った後、お姉様の部屋でしばらく一緒にいたよ。雷の音も喧嘩の声もしなかった。和解したのかどうかは分からないけど……以前みたいにベタベタはしてないけど、良奈お姉様がお姉様の汗を拭いてあげたりしてたから、最低限は大丈夫なんじゃないかな」
少しだけ安堵したが、胸の重石は消えない。
「それで……二人は、俺の話をしていたか?」
死刑宣告を待つ囚人のような心地で問うた。
セシルは首を傾げ、その虚ろな瞳で俺の顔をじっと見つめると、無表情に一言を放った。
「ほとんど、してないよ。みんな自分のことをして、食べて、休んで。あなたの名前は、この家の『タブー』みたいになってる」
彼女は言葉を切り、突然眉を寄せて俺の情けない姿を嫌そうに見た。「っていうか、何なの? 顔色がスライムみたいに真っ青で、体もガタガタ震えて。おしっこでも漏れそうなの?」
「いや……大丈夫だ」俺は気まずそうに背筋を伸ばし、額の冷汗を拭った。話題に上がらないのは死刑宣告を受けていない証拠だが、この「存在の抹消」状態こそが最も恐ろしい。
「ありがとう、セシル」俺は立ち上がり、この「居候子猫」の頭を撫でた。「この情報は、俺にとって何よりも重要だ。お礼に、明日の朝の授業でマキシ先生に頼んでやる。お前が一時間余分に寝ていられるように」
「あ、それなら約束守ってよね」睡眠の時間が増えると聞いて、セシルの瞳にようやく微かな光が宿った。
俺は階段の方を向き直し、頭の中に一枚の設計図を描いた。アイリンが魔力透支で苦しんでいるのなら、そして良奈との間にまだわずかな緩衝地帯があるのなら、俺はただ明日の「考核」を待っているわけにはいかない。
残された十数時間を使って、彼女が「再び温もりを感じられる」ような回答を出さなければ。
「アウグストゥスに、少し出てくると伝えてくれ」俺はセシルに囁き、冷たいドアノブに手をかけた。
「馬鹿なの? 今、午前三時だよ?」セシルのまぶたが跳ね上がった。彼女の論理では、この状況で外出するのは、テスト前に自ら死刑台に登るような暴挙に映った。
(セシルの視点)
シエンは玄関で立ち止まり、ドアノブを握る指の関節が白くなるほど力を込めていた。彼は振り返らず、抑え込んだような低い声で言った。
「……戻ってくる」
「どこへ行くの?」セシルは、こいつはショックで逃げ出す気か、と訝しんだ。
「すぐに済ませる」
そこで、シエンが振り返った。その瞬間、リビングに残っていた月光が、ちょうど彼の顔を照らした。
それは、どんな瞳だっただろうか。普段は穏やかな棕櫚色の瞳には、砕け散った星屑のような光が満ちていた。目元は赤く、まつ毛には水晶のような涙が溜まり、月光を反射して痛々しいほどに輝いていた。それは弱さの涙ではなく、魂を一度粉々に砕き、再び必死に繋ぎ合わせようとする、決意と哀しみの色だった。
世界を失くしてしまい、命懸けでその破片を拾い集めに行こうとする子供のようだった。
「……勝手にすれば」セシルは抱き枕に顔を埋め、小さく呟いた。「明日、いなかったらアウグストゥスに本当に殺されるからね」
ドアが静かに開き、また静かに閉まった。そのカチリという音とともに、シエンの気配は凍てつく夜の闇へと消えていった。
俺はスウィヤの空っぽの通りに立ち、首元から入り込む冷風に身を震わせた。微かに明かりの灯る我が家、特に二階の魔法の光が漏れる窓を見上げた。
行くべき場所は分かっている。
俺は狂ったように街を走った。耳元で風が鳴り、自分の重い呼吸音だけが響く。この道は、その一寸一寸に思い出が刻まれている。
艾琳に失言して足を思い切り踏まれ、その直後に顔を赤らめて俺の裾を掴んできたあの角。アイリンと良奈が最後の唐揚げを奪い合って喧嘩していた、あの明るい光に満ちたレストラン。
ついさっきアウグストゥスと歩いたスイーツ店のショーケース。その前を通り過ぎ、バスリン大通りの最も奥まった路地の突き当たり、紫色の提灯が下がる店が見えた。店主が重い鉄門を下ろそうとしている。
「店主さん! 待ってくれ!」俺はスライディングするように門に滑り込み、鉄門を死守した。声は枯れ果てていた。
「雷魔石を……最高品質のものを、売ってくれ!」
汚れまみれの制服、乱れた髪、涙痕の残る顔で血走った目をした俺を見て、店主は呆気に取られた。彼は時計と俺の必死な目を見比べ、深く溜息をついた。
「あと一分で閉店だ……そんな死にそうな面をされちゃあ、断れん。少し安くしてやろう」彼は奥から、純粋な青い光を放ち、内部で稲妻が躍るような宝石を取り出した。
「最後の一つだ。持っていけ」
「ありがとう……本当に、ありがとうございます!」
震える手で受け取ったその魔石は、ただの宝石じゃない。今の俺にできる、最もささやかな「補修」の欠片だ。
午前三時のスウィヤを、俺は再び駆け抜けた。帰り道は足取りが重かったが、鼓動はこれまでになく確かだった。
俺は幽霊のように夜の闇を抜け、正門を避けて壁を登った。排水管とバルコニーを使い、二階の窓へと辿り着く。
「トントン」とガラスを叩く。
カーテンが開かれ、アウグストゥスの不機嫌そうな顔が現れた。彼は窓を開けると、冷風とともに俺を睨みつけた。
「シエン……一体、何を考えている?」
「アウグストゥス、済まない……」俺は息を切らしながら、彼の枕元にある本を指差した。「その本、『魔力構造論』を貸してくれないか?」
アウグストゥスは呆然とした。深夜に壁を登ってきた理由が「教科書を借りるため」だという荒唐無稽さに、彼の知性が追いつかないようだった。しかし、俺の手の中の魔石と、その決死の瞳を見て、彼は思考を放棄するように本を投げ渡した。
「狂って……いや、もういい。持っていけ。アイリンにバレたら俺まで同罪だからな。二度と来るな」
「恩に着る!」
俺は本を受け取り、そのまま屋根の上へと這い上がった。瓦には薄く霜が降りている。艾琳の部屋のちょうど真上、屋根の頂上に座り込み、俺は『魔力構造論』を広げた。
月光と魔石の光を頼りに、狂ったようにページをめくる。
「あった……魔力過多と反動の抑制。それに、透支時の対処法」俺は震える指で文字を追い、自分を鼓舞するように呟いた。「冷静になれ、シエン。お前はこの世界で唯一大学を出た男だ。理論なら負けないはずだ」
俺は「観測者」を開いた。魔力はもはや抽象的なものではなく、回路や流体のような精密なデータとして視界に展開される。
雷魔石の荒ぶる力を圧縮し、別の属性で包み込む。しかし、アイリンの「神級」の反動を抑えるには、火と雷だけでは不安定すぎる。もっと潤いのある、包容力のある力が必要だ。
「セシル……」
俺は再びアウグストゥスの部屋から家の中に侵入し、リビングで寝落ちしていたセシルを抱き枕ごと抱え上げた。そのまま再び屋根の上へ。
「んぅ……シエン? 私を売り飛ばすの?」セシルが目を覚ました。
「セシル、お前の全属性の魔力が必要なんだ。この力を調和させられるのはお前だけだ」俺は必死に頼み込んだ。
セシルは三秒間俺を見つめ、長く、深い溜息をついた。「……本当に、馬鹿なんだから。終わったらベッドに運んでよね。お昼まで寝るから」
彼女の白い手が俺の手に重なった。その瞬間、狂暴な雷元素は最強の調和剤に出会った。風、火、水、土――セシルの指先から奔流する純粋な元素が、荒ぶる雷魔石を幾重にも包み込み、飼い慣らしていく。
刺すような青い光は、やがて夢幻的な虹色の輝きへと変わった。
「ありがとう、セシル」階下のアイリンへ、穏やかな波動が伝わっていくのを感じ、俺の張り詰めていた弦が少しだけ緩んだ。
屋根の上で、魔石は静かになった。それはもはや狂暴な凶器ではなく、魂を養う「守護符」へと変貌していた。俺は用意していた紐を、麻痺した指で結び、ペンダントに仕上げた。
「できた……終わったんだ」
目標を達成した瞬間、二十時間の高圧運動に耐えてきた精神が限界を迎えた。視界が揺れ、屋根から滑り落ちそうになったその時、セシルが這い寄ってきた。
彼女の瞳には、年齢に似合わない優しさが宿っていた。彼女は俺の乾いた涙痕をそっと指で拭った。
「シエンお兄ちゃん、安心して寝ていいよ」
彼女の魔力によって、空気中の水元素が綿飴のような柔らかい「水床」を作り出した。俺はその温かなクッションの中に沈み込み、死んだように眠りについた。
早朝。太陽が昇る直前、俺は目を覚ました。体はトラックに轢かれたように痛むが、頭は冷徹に冴えていた。
俺は眠っているセシルを抱え、アウグストゥスの部屋(直したばかりの窓)から侵入して彼女を部屋へ戻した。本を返し、窓の分子構造を「観測者」で修復して、跡形もなく部屋を出た。
最後の一歩。
アイリンの部屋の前。ドアの隙間から、彼女の清らかな気配が漂ってくる。雷の暴動はもう収まっていた。俺は虹色の魔石と、一晩中かかって書いた手紙をドアの下からそっと差し入れた。
そして、俺はキッチンへと向かった。
考核の第一関門。それは、彼女の機嫌を直すための「朝食」から始まる。
キッチンの朝日がまな板を照らす。睡眠不足で脳が脈打つが、手は止めない。彼女は何が好きだったか。学校の朝、寒さに文句を言いながら、カリカリのベーコンを頬張っていた彼女の姿が浮かぶ。
ベーコンが焼ける音。パンの香ばしい匂い。マッシュポテトにパセリを添えた、クラシックだが記憶の詰まったプレートを、彼女の定位置に置いた。
その後、俺はシャワーを浴びた。冷水で、透支した肉体を無理やり叩き起こす。遭遇戦、クレドの「処刑」、深夜の奔走、屋根の上での融合、そして料理。極限状態が二十時間続き、俺の神経は限界を超えていた。
着替えを済ませて脱衣所を出た瞬間、世界が劇的に歪み、回転した。
「……シエン?」
二階から降りてきた良奈とアウグストゥスの姿が霞む。理知的なアウグストゥスの瞳が、驚愕に大きく見開かれたのが分かった。
いつものように「大丈夫、なんとかなったよ」と笑って手を挙げたかったが、腕は鉛のように重く、動かなかった。
鼓動が極端に遅くなり、耳鳴りが襲う。呼吸が浅くなり、胸が締め付けられる。
視界が急速にブラックアウトしていく。この感覚、東京で倒れたあの時とよく似ているな……感覚が一つずつ閉じていく、静かな終焉。
「シエン!」
「おい! シエン!」
二人の人影が駆け寄ってくるのを感じた。良奈の震える手が俺の肩を支える。アウグストゥスが叫んでいる。でも、もう聞こえない。世界が遠ざかる中で、俺の視界の隅に、テーブルの上で湯気を立てているあの皿だけが残った。
「テーブルの……あれ……アイリンに……」
最後の力を振り絞ってそう絞り出すと、意識は完全に断絶した。
底なしの深淵に落ちる直前、二階のあのドアが、ゆっくりと開く音が聞こえた気がした。




