一日だけの破局
夜明けの光が微かに差し込み、スウィヤの清浄な空気が窓の隙間から入り込んで、深夜に残ったあの熱い魔力の余韻を散らしていった。
俺は微かな重量感と、規則正しい呼吸の音で目を覚ました。意識が戻るにつれ、この一夜の眠りの間に俺たちの姿勢が驚くべき変化を遂げていたことに気づき、愕然とした。どちらが先に動いたのかはわからない。良奈の細い体は今、俺の上に軽く覆い被さるように重なっていた。精巧な絵画のような小顔は少し横を向き、ちょうど俺の肩口に埋もれている。温かな鼻息が、規則正しく俺の首筋をくすぐっていた。
俺は硬直したまま動けなかった。視線を下ろすと、俺の手が彼女の白く滑らかな手にぎゅっと握られ、指先が愛おしそうに俺の掌をなぞっている。
その瞬間、俺の心の中の「実直な隊長」としての道徳心と、「今この時を楽しみたい」という下心が激しい葛藤を始めた。固く閉ざされたドアを一瞥する。アイリンはまだ隣の部屋でぐっすり眠っているはずだ。俺は結局、体の力を抜き、そっと深く息を吸い込んだ。彼女の髪から漂う、墨の香りと冷ややかな香気が混じり合った淡い匂いを嗅ぐ。
柔らかく、軽く、少女の体温を帯びたその感触は、眩暈がするほどリアルだった。手のひらの温度を感じながら、俺は心の中でため息をついた。リングの上で「墨淵」を振るい、冷酷に敵を討っていたあの「隠」がどこにいる? 今ここにいるのは、ただ隠して守ってあげたくなるような、小さな生き物じゃないか。
「ん……んん……?」
俺がそんな盗んだような安穏な時間に浸っていると、腕の中の少女が柔らかな寝言を漏らした。やがて長い睫毛が二度三度と震え、清らかな紫の瞳がゆっくりと開いた。
俺の視線とぶつかったその刹那、良奈の脳内は「再起動」から「オーバーロード」へと一気に加速した。
「あっ!」
彼女は短く、狼狽した声を上げると、弾かれたように俺の上から飛びのいた。その勢いであやうくベッドから転げ落ちそうになるほどだった。彼女は慌てて傍らの枕をひったくって胸に抱え込み、その顔は見る間に熟したザクロのように赤く染まった。言葉すらまともに紡げない。
その驚いた小鳥のような様子を見て、俺の中の気まずさは、むしろ悪戯心へと変わっていった。彼女に押しつぶされて痺れた肩をさすりながら、俺はわざと少し弱々しく、そして不敵な表情を作って彼女を見つめた。
「良奈……正直に言えよ。昨日のあの刀か、それともお前の魔力……まさか、媚薬かなんかの効果でもあったんじゃないか?」俺は声を潜め、三分の真面目さと七分の茶化しを込めて言った。
「じゃないと、俺がこんなに腰を抜かして、お前と一晩中こうして寝てた説明がつかないだろ?」
「なっ、何言ってるの!? そ、そんなのあるわけないでしょ! 絶対に!」良奈は羞恥に震えながら叫んだ。声は大きかったが、動揺を隠しきれずに震えている。彼女は枕に深く顔を埋め、くぐもった声で返した。「……それは、共鳴が強すぎたから……あなたが、耐えられなかったからでしょ……」
口では反論しているものの、今にも血が滴りそうなほど赤い耳が、朝日の中で鮮やかに輝いていた。
室内の空気には、目覚めたばかりの気怠さと羞恥がまだ残っていた。良奈はベッドの角で身を縮め、怯えた子猫のように毛布を掴んで体の大部分を隠している。昨夜の激しい共鳴のせいか、彼女の黒い制服の襟元は乱れ、呼吸に合わせて丸い肩先が露わになっていた。朝日を浴びたその白い肌の眩しさに、俺の視界が少し霞む。
「……みんなまだ起きてないだろうから、俺は先に行くよ」俺は平静を装って服を整えながら小声で言い含めたが、心臓は先ほどの残り香のせいで激しく脈打っていた。
物音を立てないようにドアノブを回す。心の中でアウグストゥスはまだキッチンで忙しく、アイリンは夢の中にいることを祈りながら。しかし、ドアの隙間から外へ出ようとしたその瞬間、俺の動きは完全に凍りついた。
廊下には、バスリン商圈で買ってきたらしい菓子袋を大事そうに抱えたアイリンが立っていた。みんなが起きる前に、こっそり部屋で楽しもうとしていたのだろう。
「えっ?」
「何してるの?」
俺たちはほぼ同時に視線をぶつけ、同じ言葉を漏らした。
一瞬にして空気が凝固した。アイリンが見ているのは、服を乱し、顔を真っ赤にして、朝一番に「良奈の部屋から出てきた」俺の姿だ。そしてドアの隙間の向こうには、肩を半ば露出させ、慌てて毛布に隠れる良奈がいる。
アイリンが抱えていた菓子袋がカサリと音を立てた。彼女の活気ある瞳が次第に見開かれ、やがて衝撃、裏切り、そして悲しみが混じった水霧に覆われていった。
「シエンの……浮気者(渣男)!」
彼女は顔を真っ赤にし、歯を食いしばってその言葉を絞り出した。声には隠しきれない泣き出しそうな響きがある。彼女は傷ついた小鹿のように背を向けると、廊下の突き当たりにある自分の部屋へと一目散に駆け出した。
「待っ……待て! 本当に誤解なんだ! アイリン!」
俺は絶望的な心地で叫んだ。これではスクウィタンの海に飛び込んでも身の潔白は証明できない。俺は慌てて彼女を追いかけた。静かな木造の床に、俺の足音が場違いに響き渡る。
「アイリン! 説明させてくれ! あれは魔力の点検をしていて――」
バタンッ!
激しい音と共に、アイリンの部屋のドアが俺の鼻先数センチのところで閉ざされた。その衝撃で廊下の天井から埃が数粒落ちてくるのが見えた。
「終わった……」
閉ざされた扉を見つめながら、室内から伝わってくる微かな雷元素の苛立ちを感じ、俺の心は冷え切った。昨夜付き合い始めたばかりだというのに、今朝にはもう「現行犯」だ。これは転生以来、最大の生存危機かもしれない。
廊下の空気は停滞し、俺はアイリンの部屋の前で石像のように午前中いっぱい座り込んだ。
階下からはアウグストゥスが焼くベーコンの香ばしい匂いや、茶を淹れる香りが漂ってくる。いつもなら真っ先に駆け下りるはずだが、今の俺には唾を飲み込むことすら重苦しい。途中で良奈がそっとドアを開けてこちらを見た。その瞳には申し訳なさと困惑が満ちていたが、俺は彼女に手を振って、先に食事に行くよう促すしかなかった。
どれほど時間が経っただろうか。ドアの向こうから、ようやく少し掠れた声の命令が聞こえてきた。
「……外にいる人、入りなさい」
俺は全身に電流が走ったように飛び起き、忠犬のごとくすぐさま姿勢を正した。長時間同じ姿勢でいたせいで足が痺れていたが、構っていられない。深呼吸をして、大人しくドアを押し開けた。
部屋の中では、アイリンがまだ少し赤い目元と鼻先をさせてベッドに座っていた。彼女の周りには先ほどの菓子袋の残骸――チョコの包み紙やマカロンの欠片が散らばっている。彼女は口いっぱいにイチゴのケーキを頬張り、心の内のわだかまりをすべて糖分で押し流そうとしているかのようだった。
「シエン」彼女はもぐもぐとしたまま俺の名前を呼び、鋭い視線を向けた。
「はいっ」俺は頭を下げ、両手をズボンの縫い目に沿わせ、カンニングが見つかった小学生のようにベッドの脇で直立不動になった。
アイリンはケーキを飲み込み、ティッシュで優雅に(だが怒りを込めて)口元を拭くと、恐ろしいほど平坦な口調で言い放った。
「一日だけ、別れるわ」
「えっ……」その言葉は晴天の霹靂となって、俺の胸に突き刺さった。
理智的には「永遠の別れ」や「雷に撃たれる」よりはずっとマシな慈悲だとわかっている。だが、ようやく思いが通じ合った少女と、これからの二十四時間「ただの友人」あるいは「他人」として接しなければならないと思うと、心がかきむしられるように苦しかった。
「……了解、しました」俺はうなだれ、乾いた声で答えた。千斤の重みを感じながら、重い足取りで一歩を踏み出す。
「ちょっと、どこ行くのよ?」アイリンの声が背後から届く。拒絶を許さない圧迫感があった。「まだ説明を聞いてないわ。いい? 納得いかなかったら、この期限を『無期限』に延長することも考えてるんだから」
背筋に冷たいものが走り、俺はぎこちなく振り返った。
生クリームが少しついた彼女の可愛い顔を見て、これが最後の申し立ての機会だと悟った。俺は思考を整理し、左眼の「観測者」の能力、良奈の体内の狂暴で未熟な漆黒の魔力、そして昨夜の不慮の魂の共鳴について、包み隠さずすべてを打ち明けた。
「だから……あれは本当に点検のための『魔力理学療法』で、共鳴が強すぎて二人ともシャットダウンしちゃっただけなんだ」俺は誠実な眼差しで彼女を見つめた。「アイリン、誓うよ。俺の心の中で一番大切な場所は、ずっと君だ」
俺の言葉を聞きながら、アイリンはフォークで最後のケーキを無意識に突ついていた。その瞳の冷たさが、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「行きましょう、スライ(スライ)君」
アイリンは立ち上がり、スカートについたクッキーの屑を払った。その口調はスクウィタン北端の氷河のように硬い。彼女が俺の横を通り過ぎる時、わざと一メートルもの距離を空け、衣の端すら触れさせてくれなかった。
「……はい」俺は小声で応じた。心臓をハンマーで殴られたような衝撃だった。
「スライ君」――その呼び名は、どんな軍規よりも冷たく響いた。普段は威厳に満ちたレドノ将軍でさえ、俺のことを「シエン君」と呼ぶ。なのに今、アイリンは俺たちの間に底知れない溝を自らの手で刻み込んだのだ。
俺たちは前後になって、沈黙のまま階段を下りた。木造の床が鳴るギシギシという音が、死んだような空気の中でひどく耳に障った。
食卓には良奈が座っていた。彼女はすでに面具をつけ直していたが、見えている瞳は俺たちの冷え切った様子を見て、申し訳なさでいっぱいになっていた。刀を握る時はあんなに安定している彼女の手が、今は不安げにテーブルクロスを弄っている。彼女は助けを求めるように俺を見たが、俺は苦い微笑みを返して、気にするなと合図することしかできなかった。
「ん?」
アウグストゥスがちょうど、焼きたてでジューシーな音を立てるベーコンの皿を手にキッチンから出てきた。彼の鋭い観察眼は、リビングに漂う異様な圧迫感を瞬時に捉えた。アイリンが俺から最も遠い対角線の位置に、冷めた顔で座っている。
「喧嘩か?」
磁器のように滑らかだが、どこか軽薄な声が背後から響いた。俺は飛び上がりそうなほど驚いて振り返ると、いつの間にかマキシ先生が俺たちの家のソファに座り、どこから持ってきたのかリンゴを片手に、興味津々な様子でこちらを眺めていた。
「……はい、そうです」俺は枯れ草のように意気消沈して認めた。
「ほう? 珍しいねぇ。出来立ての優勝チームが、家に帰った初日にして痴話喧嘩の危機かい?」マキシはリンゴをかじり、シャリリと小気味よい音を立てた。その視線は俺とアイリンの間を行き来し、最後に良奈のところで止まった。口元に含みのある笑みを浮かべる。
「どうやらこの喧嘩、なかなかに『中身の濃い』理由がありそうだ」
「マキシ先生、なんでここに?」俺は話題を変えて、アイリンの氷のような視線から逃れようとした。
「いや何、君らガキどもが家を壊してないか見に来ただけだよ」マキシは適当に手を振ると、俺に向かって声を潜め、眉を動かした。
「だがスライ君、先輩として助言しておこう。女心ってのは魔法回路と同じでね、一度ショートしちまったら、単純な『魔力理学療法』じゃ直せないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、アイリンの持つフォークが「キンッ」と音を立て、危うく皿を貫通しそうになった。俺の背中にまた一本、雷撃のような寒気が走った。
食卓の空気は、極端なまでに分裂していた。
「ん……アイリンお姉様……柔らかい……」
セシルは相変わらず「移動式ぬいぐるみ」としての本能を発揮し、骨のない子猫のようにアイリンの懐に潜り込んでいた。小さな顔をその温かな膨らみにすり寄せている。
一瞬前まで、アイリンは春の陽だまりのような笑みを浮かべていた。彼女は優しくセシルの長い髪を撫で、その瞳はとろけるように穏やかだ。その慈愛は食卓から溢れんばかりだった。だが、次の瞬間、彼女の視線が向かい側に座る俺を掠めた時、その暖流は瞬時に凍結した。
彼女の表情筋は何らかの精密な指令を受けたかのように一瞬で無表情になり、海のような青い瞳は混じり気のない氷晶のように冷たくなった。平然と俺を視界から外すと、また何事もなかったかのようにセシルにスープを飲ませ始めた。
俺は彼女と目を合わせることすらできず、自分の皿の上でバラバラに切り刻まれたベーコンを凝視するしかなかった。
ベーコンは香ばしく、アウグストゥスの料理は相変わらず完璧だ。なのに、口に運んでも砂を噛んでいるような味しかしない。正直に言えば、このわずか数分の間に、これまでの彼女との思い出が脳裏に溢れ出していた。馬車で寄り添ったこと、学園で交わした笑顔、昨夜俺の肩にかかっていた彼女の重み。
今の氷のような「スライ君」という呼び方との落差は、鈍いナイフで心を抉られるようだった。鼻の奥がツンと熱くなり、転生者のくせに、食卓で涙をこぼしてしまいそうだった。
俺はなんてクズなんだ。
心の中で自分に強烈なビンタを浴びせた。アイリンの立場からすれば、付き合って間もないのに、朝一番で別の女のベッドにいるのを目撃されたのだ。「点検」のためだとは言っても、付き合い始めてからも俺は良奈や他の女性に対して、距離感の近すぎる接触を繰り返してきた。動機が善意であれ、その無防備な振る舞いは、俺を信じ切っていたアイリンにとっては裏切り以外の何物でもない。
俺はうなだれ、影に目を伏せた。失意と愧死の念が入り混じり、顔を上げることすらできなかった。
マキシの面白がっていた表情がふと消え、懐から取り出した水晶球が不吉な赤い光を激しく放ち始めた。彼はさっきの空気に乗じて茶化そうとしていたが、アイリンの凍てついた顔と、今にも砕けそうな俺の落胆ぶりを見て、言葉を飲み込んだ。
「……おっと、本端から任務だ。シエン君と……」
マキシは言葉を切り、セシルにスープを飲ませることに集中して目も向けないアイリンに視線をやった。彼は肩をすくめ、「よそう、これ以上は危険だ」という顔をした。
「……アウグストゥス君に処理してもらおうか。体力と冷静さが必要な仕事は、男連中に任せるのが一番だ」
「はい……行きましょう……」俺は震える乾いた声で応じた。今の俺は穴があったら入りたいか、あるいは任務で魔物に叩きのめされたい気分だった。そうすれば少しは罪悪感が紛れるかもしれない。
アウグストゥスはため息をつき、優雅にナプキンを置いて立ち上がった。彼は俺の後ろに回ると、故障したロボットを押すように、俺の肩を押して外へと連れ出した。家を出る直前、俺はたまらず振り返った。アイリンはまだうつむいたままで、青い髪が彼女の横顔を隠し、その表情を読み取ることはできなかった。
任務地へと向かう馬車の中は静まり返り、馬蹄が石畳を叩く音だけが響いていた。アウグストゥスは腕を組み、その冷静な瞳で俺をじっと見つめていた。その視線に耐えきれなくなるまで、長い時間が流れた。
「……一体、何をしたんだ?」アウグストゥスはようやく口を開いた。口調には三分の困惑と七分の軽蔑が混じっていた。
「あのいつもベタベタしてくるアイリンが、お前を避雷針にでも変えてやりたいって顔をしていた。ただの喧嘩には見えなかったが」
「俺は……」俺は硬い背もたれに力なく寄りかかり、昨日の魔力点検がどうやって共鳴に至り、夜の「魂に響く」感覚の中でどうやって眠りこけてしまったか、そして今朝、服の乱れた良奈といるところをアイリンに見られた惨状を、とぎれとぎれに説明した。
「……だから、本当に誤解なんだ。でも気づいたよ。俺、女の子との距離感が絶望的にガバガバなんだな」俺は苦痛に顔を覆った。「アウグストゥス、俺って本当にクズなのか?」
アウグストゥスは話を聞き終えても、怒ることも笑うこともなかった。ただ、窓の外を流れるスウィヤの街並みを見つめながら、一言だけ吐き捨てた。
「シエン、自業自得だ」
その言葉はアイリンの「スライ君」よりも重かった。俺は馬車の隅で身を縮めた。家事も実力も品性も兼ね備えた「完璧超人」からの批判に、反論する勇気すら持てなかった。
「シエン、現状を理解しているか?」アウグストゥスの口調は静かだが、年長者が教えを説くような威厳に満ちていた。
「知り合ってどれくらいだ? 二年だ。学校に来てからたったの二年。彼女の心を掴むのに、半年や一年かけて積み上げてきたんだろう。それをなんだ? お前はたったの二日で、お前を信じ切っていた彼女の心に、出力全開の雷火砲を正面からぶち込んだんだぞ。お前を馬鹿と呼ぶことすら、馬鹿という言葉への侮辱だ」
俺はうなだれ、自分の手を握りしめた。喉の奥に鉛を詰め込まれたように苦しい。
「それに、前の魔力交流の時点で問題があったんだろう?」アウグストゥスは鼻で笑い、その眼光は鋭い刃のようだった。
「あの快感と共鳴が尋常でないと気づいていながら、お前は止めず、手を引かず、深夜にわざわざ彼女の部屋へ行ってまた繰り返した。お前の『観測者』は魔法構造を見通せるんじゃなかったのか? 大層立派なものだな。三歳児でもわかる『過度の共鳴は意識を失う』というリスクすら見えなかったのか? それとも、見たくなかっただけか? あの感覚に溺れていたかっただけか?」
彼の言葉は一つひとつが俺の曖昧な境界線を正確に突き刺した。
「シエン、よく聞け」アウグストゥスは身を乗り出した。その圧迫感に息が詰まる。「普段、人を慰める時に一番よく使われる言葉は『お前のせいじゃない』だ。だがこれに関しては、完全にお前のせいだ。百分の一百、お前が悪い」
彼は姿勢を戻し、近づいてくる任務地を見つめた。口調はいつもの冷淡さに戻っていたが、それは絶対的な命令だった。
「明日、あるいはこの任務から戻ったら、おとなしく、平身低頭で謝りに行け。魔法の原理なんて説明するな。彼女の心を傷つけたことに対して謝るんだ。それだけの自覚も持てないなら、俺たちの隊長なんて名乗るな」
俺は座席で凍りついた。アウグストゥスの言葉が脳内で激しく反響する。俺が誇りに思っていた「優しさ」や「特殊技能」は、責任感という自制心がなければ、ただ人を傷つけるだけの刃に過ぎなかったのだ。
馬車がゆっくりと止まり、車外から魔物の耳障りな咆哮が聞こえてきた。
「降りろ、スライ君」アウグストゥスはドアを開け、「君」という言葉を強調した。「アイリンに許してもらう前に、その余ったエネルギーを戦場で全部吐き出してこい」
スウィヤの北側外壁。冷たい風が砂礫を巻き込み、石畳を吹き抜ける。数十体の半透明で不気味な紫黒色を帯びた巨大スライムが、粘りつく体を引きずりながら、ゆっくりと、しかし確実に街の結界へと迫っていた。奴らが通った後の草木は瞬時に枯れ果てる。高度に濃縮された魔力汚染だ。
「後ろで監視してやる。馬鹿な真似はするなよ」
アウグストゥスは冷たく言い捨てた。彼が片手を空に構えると、空気中の水分が瞬時に凍りつき、鋭く冷気を放つ氷柱が数本、彼の傍らに浮遊した。口調は厳格だが、彼が後ろに控えているのは、俺が心ここにあらずで魔物に呑まれないよう、いつでもフォローするためだとわかっていた。
俺は深く息を吸い、腰にある見慣れた刀の柄に手をかけた。
「シャキィィィィィンッ!」
墨淵が鞘から抜かれた。漆黒の刀身は鈍い日光の下で微塵も光を反射せず、光そのものを飲み込んでいるかのようだ。良奈から贈られたこの刀。銀色の鞘の感触はこんなにリアルなのに、俺の心はさらに深淵へと沈んでいく。
この刀には、彼女の俺への信頼が込められている。なのに、俺はその純粋な信頼を、アイリンを傷つける刃に変えてしまったのだ。
「……ごめん」俺は小さく呟いた。その言葉が、家にいるアイリンに向けたものか、手の中の墨淵に向けたものかは自分でもわからなかった。
「来いよッ!」
俺は猛然と顔を上げ、左眼の「観測者」を起動させた。視界の中でスライムのエネルギー核が鮮明に浮かび上がる。だが、俺の瞳にいつもの余裕はない。代わりにあったのは、自虐に近い狂気だった。
足元の石畳が雷電の激しい噴出によって砕け散る。俺は蒼い閃電と化し、一切の回避を捨てて魔物の群れへと突っ込んだ。
墨淵を振るい、漆黒の刃で墨のような半月を描く。先頭のスライムの魔核にそれを叩き込んだ。紫黒色の粘液が俺の服に飛び散る。鼻を突く魔力汚染が肌を侵食しようとするが、魔力シールドを張る気にもなれなかった。この痛みが、俺に今の醜態を思い出させてくれる。
アウグストゥスは後方でその自殺志願者のような戦い方を見つめ、眉をひそめながら氷柱を構え直していた。
この戦いだけが、「一日だけの破局」の最中に許された、唯一の救いだった。
両脇から巨大な氷の壁が轟音と共にそびえ立ち、日光を反射して冷たく輝いた。アウグストゥスのこの技はスライムの粘液拡散を防ぐためだけでなく、俺のために処刑場のような死闘の舞台を用意してくれたのだ。
彼はわかっている。
今の俺の胸中が、親友に罵倒された惨めさと、アイリンが背を向けた時の血を流すような痛みで溢れかえっていることを。この内側で荒れ狂う火を吐き出さなければ、自分が粉々に砕けてしまいそうだった。
「シエン、好きなだけ荒れろ」アウグストゥスが氷壁の向こうから冷たく告げた。「だが倒れる前に、一匹たりともこのラインを越えさせるな」
手にした墨淵が、主人の狂乱に呼応するように低い唸りを上げた。
俺は華麗な戦術をすべて捨てた。「観測者」による構造分析も、最も効率的な出力比も、知ったことか! 防御を一切取り払い、体内の雷と火の魔力を極限まで滾らせた。電弧はもはや制御された射線ではなく、狂暴な雷雨となって俺の周囲で荒れ狂う。
俺は石畳を踏み砕き、一筋の黒い残像となった。
墨淵を横に一閃する。漆黒の刀光が破滅的な力を伴い、スライムを真っ二つに切り裂いた。噴き出した紫黒色の粘液が俺の顔と衣を汚す。粘りつく腐食性の熱さを感じるが、痛みは感じない。心の中の痛みの方が、その百倍も強烈だからだ。
「……なんで、あんなに馬鹿だったんだ俺はッ!」
一刀振るうたびに、心の中で叫んだ。目を赤くして菓子を食べていたアイリンを。突き放すような「スライ君」という声を思い出す。
スライムの群れに突っ込み、左手で極限まで圧縮した火球を爆発させる。その推進力を利用して、狭い氷壁の間を高速で跳ね回る。通り過ぎるたびに、魔核が砕ける硬質な音が響く。
俺は狂った機械のように、斬撃と爆破、突撃を繰り返した。
アウグストゥスは氷壁の上で腕を組み、眼下で狂ったように殺戮を続ける棕櫚色の髪の少年を見下ろしていた。泥塗れになり、充血で真っ赤になった俺の目を見ても、彼の声に揺らぎはない。
「まだ足りないぞ、シエン。その程度で罪悪感が洗えるなら、アイリンの涙は安すぎる」
俺が魂すら刀身に焼き尽くそうとしていたその時、空気が極限まで張り詰め、大気が強引に圧縮されたような感覚が走った。
一筋の赤い閃光が、何の前触れもなく氷壁の中に割り込んできた。俺の「観測者」ですら残像しか捉えられないほどの速度。
ドォォォォォンッ!
鮮やかで鋭い爆鳴と共に、周囲を取り囲んでいた粘りつく魔物たちが、千分の一秒の間に整然と切り裂かれ、狂暴な高熱によって虚無へと蒸発した。
クレドが刀を鞘に収めると、炎のように赤い「天火之刃」が最後の清らかな唸りを上げた。赤い短髪を風になびかせ、その深い瞳が、泥と粘液に塗れて立ち尽くす俺を見つめる。
彼は振り返り、氷壁の上でため息をついているアウグストゥスを見た。
「シエン……? どうしたんだ、これは」
最強の冒険者、救世の英雄は眉をひそめ、負け犬のように目を赤くした俺の姿を怪訝そうに見つめた。
アウグストゥスは軽やかに氷壁から飛び降り、俺のそばに歩み寄った。その声は平坦だが、どこか呆れ果てたような響きを含んでいた。
「勇者様。彼は……男なら誰もが直面する『小さな問題』にぶつかり、絶賛自責の念に駆られているところです」
クレドは一瞬呆気にとられたが、俺の落胆ぶりを見て察したのか、先輩としての余裕を感じさせる苦笑いを浮かべた。
「そうか……どうやら、少し頭を冷やす場所が必要なようだな」
ゴンッ!
俺が反応する間もなく、クレドの手が俺の肩に置かれた。「瞬獄」が発動し、体感時間が無限に引き延ばされる、あの息の詰まるような感覚が全身を包み込んだ。
目の前の重影(二重に見える景色)が消えたとき、鼻を突くような生臭さは消え失せ、代わりに高所の凍てつくような、しかし清々しい風が吹き抜けた。
俺たちはスウィヤで最も高い鐘楼の頂上に立っていた。ここから見下ろすと、中央都市のすべてが一望できる。密集した通りは発光する血管のようであり、遠くのストラトス・ヴィア学院は山々の雲海に隠れていた。
クレドは鐘楼の縁に腰掛け、足を宙に放り出すと、隣を叩いて座るよう促した。
「ここから見ると、世界がとても小さく見えるだろう?」彼はスウィヤの繁栄しながらも矮小な夜景を見つめ、静かに言った。
「シエン、知っているか? この街を揺るがすほどの力を手に入れた時、最も難しいのは怪物を倒すことじゃない。ほんの少しの誘惑や混乱で揺らいでしまう、自分自身の心を律することだ」
俺は疲れ果て、まだ微かに震える体を引きずって隣に座った。下を行き交う蟻のような人々や馬車を眺めていると、アイリンの冷たい顔が脳裏をよぎる。胸の中で暴れていた怒りの炎は、スウィヤの高空を吹く寒風の中で、ようやく少しずつ冷えていった。
鐘楼を吹き抜ける冷風が、体に染み付いた魔物の粘液の臭いをいくらか散らしてくれた。大鐘が重々しく時を刻む音が、まるで俺の無残な恋のカウントダウンをしているかのようだった。
「さて、話してみろ。何があった?」クレドは足を組み、自然体でありながら、人を安心させるような厚みのある佇まいで問いかけた。
俺は心の中で自嘲した。さすがは「主人公陣営」だ。周りには美女ばかりかと思えば、残りは三観(価値観)が正しすぎて壁に頭を打ちつけたくなるような、実力も外見も完璧なイケメンばかりだ。アウグストゥスの冷徹な批判の次は、この勇者様による直々の尋問か。
俺は顔を拭い、記憶から消し去りたい「深夜の魔力点検」と「早朝の修羅場」のすべてをありのままに話した。
「ふむ……自業自得だな、シエン」クレドは聞き終えると、アウグストゥスと全く同じトーンで断じた。彼は少し首を傾け、より楽な姿勢で遠くを見つめた。
「はぁ……俺は 84 年生きてきて、村で後ろをついて回っていた幼馴染から今のカミさんまで、四、五回はパートナーが変わったがね。こんな『極刑』に処されたことは一度もないよ」
俺は驚いて彼を凝視した。どう見ても二十歳そこそこ、俺よりも「美形」で若々しい顔立ちだ。伝説の英雄であることは知っていたが、「84 歳」という数字と豊富な恋愛経験からくる時空を超えた哀愁に、圧倒されてしまった。
「84 歳……」俺は呟いた。それに比べれば、俺の十五年の異世界生活なんて幼稚園の砂遊びみたいなものだ。
クレドの若々しい顔に、その外見に似合わない老練な影が差した。彼は自嘲気味に笑った。
「力というものはな、シエン。人を欺くんだ。特にお前のように、経験が不足していながら強大な魔力を持つ者は、無意識のうちにすべてをコントロールできると思い込んでしまう。他人の魂や感情さえもな」
彼は俺に向き直り、その眼差しを鋭くした。
「お前は良奈を『点検』しているつもりだったかもしれないが、実際にはその魂の共鳴による快感に溺れ、それがアイリンにとってどれほど残酷な疎外感を与えるかを無視していたんだ。彼女が求めているのは、皆を導く英雄なんかじゃない。自分だけのシエンなんだよ」
俺は羞恥にうなだれた。鐘楼の下の灯りが、涙で滲んで一つに溶けていった。
「死にそうな面をするな」クレドは立ち上がり、ズボンの埃を払った。口調はいつもの余裕を取り戻している。
「自業自得だが、84 年の経験から言わせてもらえばね。本気で取り戻したいなら、そこで自虐的に魔物を狩るよりも、彼女に『お前にしか与えられない』約束をどう伝えるかを考えるんだな」
鐘楼の風はさらに冷たくなったが、クレドの「84 年の恋愛史」による衝撃で、俺の頭は氷水に浸かったように冷え切っていた。
「睡眠時間を含めて、破局期間の終了まであと 20 時間弱だな」
ずっと後ろで氷像のように立っていたアウグストゥスが、ここで容赦のない追撃を放った。懐中時計を正確に確認する彼の声には温度がなく、実務主義者らしい残酷なリマインドだった。
二十時間。ストラトス・ヴィアの山岳地帯を重荷を背負って十周走るよりも長く感じるだろう。今の俺にとって、一呼吸ごとにアイリンが背を向けた時のあの冷気が入り込んでくるようだった。
「聞いたか? お前にはあと 20 時間、じっくり懺悔する時間がある」クレドも立ち上がり、俺の肩を叩いた。その手は重く、俺の未熟な境界線を叩き潰そうとしているかのようだった。
「言うべきことは、仲間に言いつくされただろう。俺から付け加えることはない。シエン、力が大きい者ほど、心は定まっていなければならない。魔力だけを見るな、隣にいる者の心を見ろ」
俺は黙って頷いた。胸の奥に重い鉛を流し込まれたようだった。
ドンッ!
再び赤い光が炸裂した。「瞬獄」の力が重力と距離を無視し、視界が戻ったとき、俺たちはスウィヤの賑やかな街角に戻っていた。先ほどの騒動はクレドによって鎮圧されていたが、空気中にはまだ微かな硝煙の臭いが漂っている。
「じゃあな。レドノが報告を待っているんだ」クレドは俺たちに手を振り、腰の赤い唐刀がカチャリと音を立てた。彼は背を向けて歩き出し、軽やかな口調で最後の一言を残した。
「次に会う時は……仲直りしていることを祈るよ。さもないと、次は俺がアイリンの代わりに君を『処分』することを考えるかもしれないからね」
彼は颯爽と去っていった。その炎のような後ろ姿は夕映えの中に溶け込み、俺とアウグストゥスだけがその場に取り残された。
俺はスライムの粘液で汚れた制服と、銀の鞘に収まった「墨淵」を見つめ、深い疲労感に襲われた。
「行くぞ、スライ君」アウグストゥスはわざとアイリンのあの他人行儀な呼び方を使い、皮肉を込めて言った。
「はぁ……俺が悪いとはいえ、男とデートすることになるなんて……」
俺は肩を落としてスウィヤの街を歩いた。無意識に右側を盗み見る。本来ならそこには、俺の腕を組んだり、どの店のアクセサリーが可愛いかと喋り散らしたりする青い髪の美少女がいるはずだった。だが今、右側には冷たい風が通り抜けるだけだ。左側を向けば、アウグストゥスの絶世のイケメンながら無表情な顔が、スイーツのショーケースに向けられていた。
「妙なことを言うな。さっさと選べ」アウグストゥスは冷たく返し、長い指先でショーケースのガラスを叩いた。
棚に並んだ色とりどりのスイーツ。ストロベリータルト、モンブラン、そして誘惑的な光沢を放つザッハトルテ。普段ならどれが一番美味しいか悩むところだが、今の俺の頭にあるのはアイリンのことだけだった。怒った時にフォークを強く噛む癖。好きな甘いものを食べた時に、海のような青い瞳が三日月のように細まるあの笑顔。
結局、俺は彼女が最も愛する濃厚なチョコレートケーキを選び、壊れ物を扱うように大切に手に下げた。
夕日が空を壮麗なオレンジ色に染めていた。俺とアウグストゥスはスウィヤの古く重厚な城壁の縁に並んで座り、足を宙に浮かせて、街に灯り始めるオレンジ色の街灯を眺めていた。俺はいまだに家に帰る勇気が出ず、手の中のチョコレートケーキだけを、唯一の希望であるかのように死守していた。
「アウグストゥス……今日は、ありがとう」俺は足先を見つめた。声が夜風に溶けて低く響く。
「正直に言うよ。入学したての頃は、お前のこと、鼻持ちならない傲慢なクソ野郎だと思ってたんだ」
「ふん、お互い様だ」アウグストゥスは遠い地平線を見つめ、口元を極めて微かに緩めた。「俺も、お前のことは小賢しい真似ばかりする、目立ちたがりのガキだと思っていたよ。……あの日、あの迷宮で俺を救うまではな」
「そうだな、時間はあっという間だ」俺は感慨深く溜息をついた。記憶が夕日に引かれて長く伸びていく。
「それから一緒に龍の国にも行ったよな。あの時、お前は騎士団長にノックアウトされて、あんなにぐっすり寝てたのに」
「……あれは不覚だっただけだ」アウグストゥスの顔が少し引き攣り、すぐに反撃してきた。「お前だってクレドの加勢がなければ、今頃まだ龍の国の牢獄で丸くなっていたはずだ。こんなところで色恋沙汰に悩む余裕もなかっただろうな」
「はは、違いない」俺は思わず笑い声を上げた。今日、初めて心から笑えた瞬間だった。
俺たちは夕闇の中で、スクウィタン大陸を冒険して以来の出来事を語り合った。最初は反目し合っていた二人が、やがて命を預け合う仲間になった。隣に美少女たちの笑い声はないけれど、アウグストゥスの変わらぬ頼もしい背中を見ていると、この長い二十時間の「破局期間」も、それほど絶望的なものではないような気がしてきた。
「忘れるなよ。俺たちが思い返したすべてに、お前の隣にはアイリンがいたんだ」アウグストゥスが振り返った。夕日の余韻が彼の髪に踊り、その知性的な瞳が、一瞬だけ優しく和らいだ。
「そういえば、君たちは入学前から知り合いだったんだろう?」
彼の問いかけが、俺の意識を二年前へと引き戻した。
「ああ……」チョコレートケーキの袋を手に、俺の脳裏には初対面の光景が浮かび、口元が自然と綻んだ。
「ストラトス・ヴィア学院へ向かう馬車の中で会ったんだ。あの時は気まずかったよ、車内には俺たち二人きり。俺は村を出たばかりのガキで、何も知らなかった。彼女は俺の向かいに座って、あの綺麗な青い髪を揺らしながら、自分の雷電のスキルのことを教えてくれたんだ」
俺は言葉を切り、虚空を見つめた。自信に満ちたあの少女の姿が見えるようだった。「指先で踊る電光を指差して、いつかこれが私の最強の武器になるんだって言ってたよ。……結局、あの日は彼女の雷に救われたんだ。なのに今、俺は彼女の心を傷つけてしまった」
アウグストゥスは考え深げに聞き入り、やがて小さく頷いた。彼は立ち上がり、ズボンの埃を払った。その動作は相変わらず嫉妬を覚えるほど優雅だった。
「行くぞ。家に帰る」彼は空の色を確認し、俺に向き直った。「だが忠告しておく。焦るなよ。アイリンの性格だ、今も頭の中で今朝のお前の姿をリピート再生しているはずだ。それに、家には三人の女性が住んでいるが、今のお前の味方をしてくれるのは……」
アウグストゥスは少し言葉を切り、同情と諦めの混じったトーンで言った。
「……面白がっているマキシ先生くらいだろうな。良奈は罪悪感で顔を出せないだろうし、セシルはおそらくアイリンと一緒に怒っているはずだ。君が、彼女の『お姉様』の機嫌を損ねたんだからな」
「……四面楚歌ってわけか」俺は苦笑し、ケーキの入った袋を握りしめた。
俺たちは城壁を降り、街灯の灯り始めたスウィヤの街を歩いた。夜風が白昼の熱を奪っていくが、俺の心にある不安を吹き飛ばすことはできなかった。
我が家の前に着き、固く閉ざされたドアを見つめて深く息を吸った。手の中のチョコレートケーキから、かすかに甘い香りが漂う。これが俺の最後の「降伏文書」だ。この二十時間がどれほど長くても、馬車で出会ったあの少年前は、彼女の最高の笑顔を一度も忘れたことはないと、アイリンに伝えなければならない。
「た……ただいま」
俺がドアを開ける声は、泥棒のように小さかった。自分でも嫌になるほど弱々しい声だ。
リビングの低気圧は夜になっても消えるどころか、むしろ重さを増していた。ソファの光景が真っ先に目に飛び込んでくる――良奈はすでに面具を外しており、その精巧な小顔には不安が滲んでいた。そしてその隣にはアイリンが座っている。どうやら良奈はさっき、昨夜の「魔力共鳴」の始末をアイリンに正直に打ち明けたらしい。アイリンはうつむき、青い髪が顔の半分を隠していた。パジャマの裾を両手でぎゅっと握りしめ、一言も発さない。
セシルはもう寝たのだろう。現場には、俺の心をかき乱す二人の令嬢だけが残されていた。
駆け寄りたい衝動に駆られたが、アウグストゥスの「焦るな」という忠告が脳裏に響く。俺は首をすくめ、助けを求めるようにアウグストゥスを見たが、彼は「自業自得だ」と言わんばかりの視線を投げると、そのままキッチンへ夕食後の片付けに入ってしまった。
俺は敗残兵のように、チョコレートケーキの箱を抱えて自分の部屋へと逃げ込んだ。
部屋に入ると、メインの明かりをつける勇気すらなく、デスクのライトだけを灯した。ケーキを置こうとしたその時、デスクの真ん中に置かれた一枚の白いメモ紙が目に留まった。紙の端は、俺が普段練習に使っている魔力石で押さえられている。端正だが、どこか鋭い力強さを感じる文字。アイリンの筆跡だ。
俺は紙を手に取った。心臓が跳ねた。そこにはこう書かれていた。
「言い忘れたけど、明日の正午に、もう一通手紙を書くわ。正式に別れるかどうか、そこで決めるから。――アイリン」
「正式に、別れる……」
俺の力が抜け、紙がデスクにひらりと落ちた。この二十時間を耐え抜けば温かな懐に戻れると思っていた俺にとって、天が崩れ落ちるような衝撃だった。これは単なる一日の破局じゃない。留置場送りからの執行猶予つき判決だ!
俺は椅子に崩れ落ち、乱れた棕櫚色の髪をかきむしり、力なくうめいた。今すぐ左眼の「観測者」を発動して時空構造を強引に観測し、昨夜の深夜、良奈の手を握ろうとして悦に浸っていた自分を叩き殺してやりたい気分だった。
「シエン、シエン……お前は史上最低で、最高に愚かな給料泥棒(冗員)だ……」
俺はチョコレートケーキを見つめ、暗闇の中で深い思索に沈んだ。
室内は、壁の時計が刻むカチコチという音だけが響いていた。そのリズムは、俺の「隊長人生」のカウントダウンのように聞こえた。
華麗な逆転劇なんて思いつかない。
頭の中はぐちゃぐちゃで、最悪のシナリオばかりを想像してしまう。もし明日の「審査」で失敗したら。もしアイリンのあの海のような瞳に、これから一生、冷たさしか宿らなくなったら。俺は彼女を失う。そして良奈も、ようやく心を開いてくれたあの少女も、きっとこの罪悪感から心を閉ざし、再びあの冷たい面具をつけて俺から遠ざかってしまうだろう。
セシルのあの純粋な瞳に「シエンは最低な人間」だと刻まれてしまったら、俺はどう向き合えばいい? アウグストゥスだって、俺を「信頼できる仲間」のリストから外すことを考えるだろう。
俺は椅子にもたれかかり、ぼんやりと天井を見つめた。
あと半年で、俺たちはストラトス・ヴィア学院を卒業する。卒業すれば、同じ屋根の下に住むチームメイトではなくなる。もしその前にこの亀裂を修復できなければ、その時みんなバラバラになり、俺たちを繋いでいた絆は切れた弦のように二度と戻らない。
俺は、本当に一人になってしまう。
そう思うと、言いようのない恐怖が心臓を掴んだ。目元が熱くなり、熱い液体が頬を伝って、デスクの上の冷たいメモ紙にポツリと落ちた。
「くそっ……」俺は手の甲で乱暴に目を拭った。
前世で読んだライトノベルの主人公の周りには、代わりの仲間や好感度稼ぎのイベントが溢れていた。まるで誰もが替えのきく道具であるかのように。でも俺は違う。両親と離れ、あの温かな家を離れてストラトス・ヴィアに来てから、俺の生活も、冒險も、喜怒哀楽のすべてが、この仲間たちと結びついているんだ。
彼らは「便利な仲間」なんかじゃない。この世界で唯一の、かけがえのない家族なんだ。
俺は拳を握りしめた。日中の戦闘でついた手のひらの小さな傷跡を見つめる。彼らを失うわけにはいかない。絶対に。
「シエン、この大馬鹿野郎……」鏡の中の自分に低く毒づいた。「失うのがそんなに怖いなら、迷宮で命を懸けた時のあの根性を見せろよ。一人ひとり、もう一度勝ち取ってみせろ」
俺は深呼吸をして、無理やり自分を落ち着かせた。前世の「インテリアデザイナー」であり、万物のエネルギー構造を見抜く「観測者」を持つ俺が、ここで泣いているだけでいいはずがない。何か、アイリンの心の奥底に触れるような、この凍りついた空気を再び温め直せるような何かを、俺はしなければならない。




