サルト
五歳という年齢を無視したレオンの「スパルタ特訓」のもと、一年という月日は瞬く間に過ぎ去った。
この一年は、俺の人生で最も神速の進歩を遂げた時期だった。毎朝裏山でレオンに鍛えられ、彼がいかに「暴力的」に魔力を練り合わせるかを観察し、俺はそれを【観測者】で精緻な「エネルギー配線図」へと変換していった。俺の火球はもはやただ爆発するだけではなく、溶接機のように一点を貫き、雷電はただ明滅するのではなく、電子回路のように正確に導流される。
生活面では、スライ家は相変わらず温かかった。真夜中に隣の部屋から聞こえてくるカイルとシニィの「愛に満ちた」親密な物音に、三十歳の魂を持つ俺は布団を被って「二十六歳の夫婦は元気だな」と感傷に浸るしかないが、彼らが無償の愛を注いでくれている事実は否定できない。
しかし、五歳の誕生日を迎えて間もなく、村の静寂を破る大きな出来事が起きた。
家の隣にある、長く空き家だった廃屋に新しい家族が越してきたのだ。ナビもなければ自給自足が基本のこんな辺境の農村に、外から人が移り住むのは珍しいことだった。
「シエン、早くおいで! お隣のサルトさんが挨拶にお子さんを連れてきたわよ!」
シニィが庭で元気に呼んでいる。
俺は手の木屑を払い、のそのそと外へ出た。庭の中央には気品のある女性と、その背後から顔を覗かせている、驚くほど整った容姿の少女が立っていた。
「シエン、こちらはリコ・サルトお姉ちゃんよ。リコちゃん、これが息子のシエン」
シニィが紹介する。
リコは十三歳くらいだろうか。思春期特有の少女らしさが溢れている。ピンク色の長い髪をなびかせ、その瞳は好奇心に満ちてキラキラと輝いていた。
「あなたがシエン君? こんにちは、ボク」
リコは屈み込み、細い手を差し出した。その笑顔は蜂蜜のように甘い。「これからお隣さんね。よろしくね」
礼儀としてその手を握り返したが、指が触れた瞬間、俺の【観測者】が不自然に跳ね上がった。
リコという可愛い隣人ができても、俺の早朝の裏山通いは変わらなかった。
リコは一見すると優しいお姉さんだが、親しくなってみると、その口の悪さは銀を凌ぐほどだと判明した。彼女はいつも俺の小さな企みを見透かし、優雅な微笑みを浮かべながら鋭い言葉を放つ。
「シエン君、また頭の中でつまらない力学公式でも計算してた? 五歳の子供がそんなに真面目な顔してると、シワが増えちゃうわよ」
そんな時、俺はただ苦笑いして誤魔化すしかない。これほど個性的で、一緒にいて心地よい幼馴染という存在は、前世のデザイナー人生にはなかった「夢のボーナス」だ。正直、このまま村で平凡に暮らすのも悪くない、なんて思う瞬間さえある。
(いかん! 流されてたまるか!)
俺は自分の頬を叩き、掌の熱を感じた。
(ここは魔法の世界だ。未知の構造がいくらでも俺の解析を待っている。穏やかな田舎生活に収まってどうする!)
「(へぇ、志が高いのはいいけど。デザイナーさん、その幼馴染がカゴを持ってこっちへ来るよ)」
銀の声が茶化すように響く。
振り返ると、清潔感のあるポニーテールを結ったリコが、摘みたての果物を入れたカゴを手に、木陰に立っていた。
「シエン君、今日はレオン兄さんに新しいエネルギー結合を教わるんじゃなかったの? どうして一人でぼーっとしてるの?」
リコが歩み寄り、果物を一つ差し出した。その口調は相変わらず鋭い。
「それに、さっきあなたの左眼……また光ってた?」
心臓が跳ねた。リコの感覚は非常に鋭い。【観測者】の正体までは見抜かれていないが、不自然なエネルギーの波動を察知しているようだ。
「……ううん、カイル父さんに教わった木工の構造を考えてたんだよ」
「ふーん?」
リコは身を乗り出し、顔を近づけてきた。その清澄な瞳は、俺の魂まで見透かそうとしている。
「嘘をつく時、魔力の流れが乱れるのよ。私には見えないけど、感じるの」
この少女、やはり只者ではない。
翌朝、俺はリコと丘の上で待ち合わせをした。
「おいシエン、お前はこの世界に来てから魂の形が歪んできてるんじゃないか? 前世の秀彦は、スケールだけ見つめてる実直なデザイナーだったはずだが」
銀の蔑むような声が脳内に響く。
(うるさい。俺は今五歳なんだ。子供の特権を享受して何が悪い)
心の中で開き直りながら、俺は息を殺した。視線の先は、木壁にある「工程誤差」程度の極細の隙間。
その向こう側には、部屋着に着替えようとしているリコの姿があった。
(ふむ……あの腰のラインの比率、ポニーテールを解いた時の髪の垂れ具合。デザイン学的視点で見れば、まさに芸術品だ……)
造物主の神業に感嘆していると、ふと脳内が不気味なほど静かなことに気づいた。
(あれ? 銀? どうしたんだ?)
毒舌の神様が俺の「学術研究」に呆れて回線を切ったのかと思った瞬間、背後の空気が凍りついた。雷火の気配を纏った威圧感が、泰山のようにのし掛かってくる。
「ゴッ――!」
正義の力に満ちた重い拳骨が、正確無比に俺の後頭部を直撃した。
「痛たたたた!」
前のめりに倒れ込み、額を壁にぶつけそうになる。
「へぇ、何を見てるんだ? このガキは」
強張った顔で振り返ると、腕を組んだレオンが立っていた。その赤髪は燃える怒りの火のようで、手にはさっきの衝撃の余韻が残っている。その目は「現行犯逮捕」のそれだった。
「えっ? ごめんなさい! 師匠、もうしません!」
両手で頭を抱え、顔をレオンの髪よりも赤く染める。
「お前の小さな頭には何が詰まってるんだ?」
レオンは溜息をつき、子猫のように俺を摘み上げた。
「リコのあいつは、針のように感覚が鋭いんだぞ。お前の小細工がバレないと思ってたのか? 俺が魔力の波動を遮断してやらなきゃ、今頃あいつの探査網に感電して黒焦げになってるところだ」
俺は首をすくめて言い返せなかった。リコの魔力感受性は異常に高い。もし【観測者】の光が漏れれば、即座に気づかれるだろう。
「いいか、精力が有り余ってるなら裏山へ行くぞ」
レオンが残酷な笑みを浮かべた。「今日は『魔力回路逆流激突』の特訓だ。女の子の影も思い出せないくらい追い込んでやる」
「師匠……もうちょっと優しく……」
「つべこべ言うな、走れ!」
「ドォォン!」
巨大な破裂音が裏山に響き渡り、赤と青の混ざった火光と純粋な紅蓮の炎が激しく噛み合った。俺は歯を食いしばり、左眼でレオンの火球の圧力と導流経路を解析し、精密な「構造干渉」でその出力を相殺しようとする。
だが現実は残酷だ。五歳の体の魔力総量には、超えられない物理的限界がある。最後の一撃と共に、俺の火球はレオンの横暴な出力に飲み込まれた。
爆風に吹き飛ばされた俺は、大の字になって草の上に転がり、荒い呼吸を繰り返した。
「進歩したじゃない。レオン兄さんの三割の出力を受け止めるなんて」
リコの鋭くも心地よい声が聞こえた。今日の彼女は爽やかな薄ブルーのワンピースを着て、足取りに合わせてポニーテールが揺れている。
疲れ果てて指一本動かしたくなかったが、その時、空気を読まない(あるいは読みすぎた)微風が吹き抜けた。
「……!」
地面に倒れ込み、ほぼ地表と同じ高さの視点にいた俺は、風にリコの裾がふわりと捲れ上がる瞬間を目撃した。その刹那、【観測者】の解像度は8Kレベルまで引き上げられ、布地の繊維構造と、その奥の清らかな「白」を克明に捉えた。
「あら? シエン君、急に顔が赤くなったわよ。どこを見てるの?」
リコが立ち止まり、不思議そうに俺を覗き込む。
「な、な……何でもない! 夕陽だ! 夕陽が赤すぎるんだ!」
俺は必死に声を張り上げ、後ろめたさから顔を背けた。
リコはくすくすと笑い、それ以上は追及しなかった。彼女はまずレオンに冷えた果物を渡し、それから俺の隣に優雅に腰を下ろした。そして懐から花の香りがするハンカチを取り出すと、細やかな動作で俺の額の汗と泥を拭ってくれた。
普段は刺々しい彼女だが、こういう時の「お姉さん」な優しさには抗い難いものがある。
(これが飴と鞭ってやつか……)
心の中で毒づきながら、至近距離にいる無防備なリコを見つめる。三十歳の魂と五歳の本能が一致した。俺は勢いよく寝返りを打ち、疲れ果てて甘えたいフリをして、そのままリコの腰に抱きついた。
「うう……疲れたよ、リコお姉ちゃん。レオン兄さんがいじめるんだ」
「あらあら、よしよし」
リコは一瞬驚いたが、すぐに苦笑して俺の頭を優しく撫でた。「頑張ったわね。もう少し抱っこしたら、果物を食べましょう」
隣で果物を齧っているレオンの目が、「このガキ、絶対演技だろ」という確信と、「俺にはそんなボーナスないのに」という複雑な感情を物語っていた。
「(ねえ、デザイナーさん)」
銀の無粋な声が再起動した。「君の心拍数、さっきの戦闘のピークを超えてるけど。冷却システムでも起動してあげようか?」
(黙れ銀! これは戦士の充電時間だ!)
心の中で吠える。
俺はリコの胸元に顔を埋め、ラベンダーと少女の体温が混ざった香りを貪欲に吸い込んだ。脳が極限までリラックスする「デザイン休暇」状態だ。
その時、突如として心臓を氷の手で掴まれたような感覚に襲われた。霊魂の深淵から冷気が炸裂する。
「え……っ!」
「シエン! 逃げて! とんでもないものが……!」
銀の声が初めて悲鳴に近い驚愕に染まった。しかし、言葉を言い切る前に、強力な力場に干渉されたかのように彼の声は脳内から消えた。
同時に、余裕のあったレオンが弾かれたように立ち上がった。全身の赤髪が巨大な脅威に反応し、微かな電火花を散らしている。その瞳には、かつてない戦慄が宿っていた。
「シエン、リコを連れて逃げろ! 早く!」
事態の深刻さを察知し、俺は心臓の震えを抑え込んで【観測者】を最大出力で解放した。
その瞬間、緑の森は視界の中で崩壊した。代わりに、妖しく粘り気のある、螺旋状の青い魔力が有毒な霧のように俺たちを包囲していた。最も恐ろしいのは、その魔力の流れが物理の常識を無視し、空間そのものを切り刻んでいることだった。
「お姉ちゃん、行くよ!」
リコの手を掴むと、彼女の手は死人のように冷たくなっていた。
「青蛇……」
リコの声が震えている。「嘘でしょ、あれが……」
周囲の景色が歪み、青い魔力が蛇のようなエネルギーの壁を形成していく。
(この構造……出口が見当たらない!)
冷汗が止まらない。俺の視界の中では、すべての方位が青い線によって乱され、「東西南北」の概念が完全に失効していた。
「おいチビ、分析してる場合じゃない!」
背後を向いたレオンの両手に、普段の三倍はあろうかという雷火球が凝縮される。
「この結界は感知力を吸い取る。自分の目を信じるな!」
粘り気のある青い霧の向こう側、暗闇の中で二つの不気味な緑の光が灯った。その高さからして、まるで揺れる引魂灯のようだ。
「あれは……灯り?」
「違う! あれは……奴の目だ」
レオンの声が氷のように冷え切った。
その言葉が終わるや否や、巨大な影が飛び出した。二人掛かりでも抱えきれないほどの太さを持つ巨大な青蛇。吐き気を催すような腥風と共に、工房を丸ごと飲み込めるほどの血沫を広げ、レオンへと食らいついた。
さすがは学院の天才、レオンは間一髪で横へ滑り込み、右手の高圧火球三発を蛇の側頭部に叩き込んだ。
「ドォォン!」
爆炎が晴れた後、俺の【観測者】は絶望的な数値を捉えた。青く光る鱗の上で、魔力の流れは微塵も乱れていない。火球の動能は、鱗の傾斜構造によって完全に受け流されていた。
この怪物は、移動する要塞そのものだ。
戦闘は数分続いた。レオンの機動力と雷火の結合技で辛うじて持ち堪えていたが、蛇の尽きることのない再生能力と結界内の妖気が、レオンの魔力を急速に削り取っていく。
(損耗率八十五%……出力低下中……!)
俺はレオンの体内で暗くなっていく紅と藍の光を見つめ、焦燥に駆られた。
「シエン!」
レオンが絶叫した。「いいか、今から『火葬砲』をぶち込む。後ろを向かずにリコを連れて行け!」
「師匠!」
レオンは振り返らず、両手に未曾有の巨大な火球を形成し、それを狂ったように握り潰した。指の間で雷電が咆哮する。それはもはや普通の雷火砲ではない。自分の体の許容負荷を超えた自爆覚悟の極大魔法だ。
「死ねッ! 畜生がぁ!!」
大気を引き裂く暴鳴と共に、赤と青が混ざり合った巨大な光束が青蛇の頭部を直撃した。強烈な閃光が森を照らし、衝撃波が青い結界に亀裂を入れる。
(今だ!)
歯を食いしばり、左眼で無理やり結界の裂け目をロックオンする。腰を抜かしたリコの手を引き、後ろを振り向かずに森の外へと走り出した。
レオンが命を燃やして、唯一の出口を「設計」してくれたのだと分かっていた。
「レオン兄さんのお父さんを呼んで!」
リコの泣き声混じりの声が響く。
心臓が胸を突き破りそうなほど激しく打つ。背後では、天地を覆すようなエネルギーの残滓が振動していた。レオンの「火葬砲」は確かに効いた。俺の視界の中では、大蛇の完璧な魔力循環に大きな穴が開き、片方の目は潰れ、黒焦げた鱗が飛び散っていた。
しかし、レオンのエネルギー反応も危険なレッドラインを下回っていた。彼は最後の手立てとして雷で筋肉を刺激し、蛇の牙の間を死に物狂いで立ち回っていた。
(レオン兄ちゃん、持ち堪えてくれ!)
前方に援軍の影を探す。突然、森の空気の流れが劇的に変わった。粘りつく死の青い妖気が、無形の巨刃によって一刀両断された。
「狂風よ、吾がために荒れ狂え」
「天嵐破!」
重厚で威厳に満ちた詠唱が林間に炸裂した。それはただの風ではない。大型の高位魔法「天嵐破」。
刃のような無数の風罡が四方八方から吹き荒れ、鉄壁だった青蛇の鱗を紙のように切り裂いていく。
一筋の影が流星のごとく霧を切り裂いた。速すぎて【観測者】でも残像しか捉えられない。
レオンの父親だった。華麗な法衣ではなく、簡素な猟師の格好。だがその手にある質素な長刀には、息の詰まるような青い流風が纏わりついていた。
彼は空中の風を踏み、逆襲しようとする青蛇の頭上に一瞬で現れた。
「地に伏せよ」
手起こしから斬り下ろしまで、薪を割るような自然な動作。その一刀は、最も鱗の厚い箇所を避け、青蛇の頭部の神経中樞へと深々と突き刺さった。
「ギャァァァ――!!」
青蛇は断末魔の叫びを上げ、崩れる山のように地面へと沈んだ。
「レオン!」
男は死んだ大蛇には目もくれず、虚脱して倒れるレオンを背中で受け止めた。
それを見て、俺の張り詰めていた神経はようやく半分ほど緩んだ。これがレオンの言う「隠居間際」の親の力か。流体力学を武学の頂点にまで高めたような、風属性の極致だった。
リコは力なく膝をつき、激しい呼吸を繰り返す。俺はその場に立ち、巨蛇の死体を見つめながら左眼を微かに明滅させた。
「スクウィタンにおいて、青蛇は森で最強の怪物だ。それを重傷に追い込んだお前は、立派に戦ったよ」
ラント――レオンの父は、気を失ったレオンの傷を包紮しながら、岩のように落ち着いた声で言った。その視線が蛇の黒焦げた傷跡をなぞり、僅かながら称賛の色を浮かべた。
俺たちは家へと帰り着いた。知らせを受けたシニィは顔を真っ白にして、問答無用で俺を抱きしめた。
「む、むぐぅ……っ!」
五歳の俺の顔面は、瞬く間に温かく弾力のある「柔軟」の中に埋没した。極度のパニックからくるシニィの「致命的な抱擁」により、俺は史上初めて「母性のオーバーロード」で窒息死する転生者になりかけた。必死にもがき、小さな手を空中で振り回して、ようやく隙間から新鮮な空気を吸い込んだ。
「シエン! あなたに何かあったら、お母さん生きていけないわ……!」
泣きじゃくるシニィの腕に、さらに力がこもる。
「シニィ、落ち着け。子供が死んじまう」
カイルが苦笑しながら彼女を宥め、森の方向を複雑な表情で見つめた。
「ラントの奴は相変わらずだな。普段は行方不明だが、危機の時にだけ現れる。あいつがいなきゃ、レオンは今頃……」
「ラントさん? レオン兄ちゃんのお父さんなの?」
「ああ、ラント・ロスクロフトだ」
カイルは椅子に座り、戦友への敬意を込めて言った。「俺が見た中で最強の猟師であり、この村の隠れた守護者だ。あいつの風の扱いは、王都の着飾った魔導師たちでも足元に及ばない」
「(ねえ、デザイナーさん)」
銀の弱々しい声がようやくリンクした。「柔らかい感触に浸ってる場合じゃないよ。あのラントって男の魔力構造……ただの猟師じゃない。『竜殺し(ドラゴンスレイヤー)』級の処刑者回路だよ」
俺は拳を握り、隣で怯える母を宥めるリコを見た。両家の空気は、この瞬間、極めて緊張感のある、それでいて奇妙なものへと変わっていた。
「レオン、気にするな。その歳で青蛇を仕留めかけたんだ、ロスクロフトの名に恥じることはない」
ラントがレオンの肩を叩く。ロスクロフト……それは辺境の村にあるまじき、古の貴族か戦士の家系を思わせる響きだった。
そんな親子の語らいを背に、俺は別の力に導かれていた。
「シエン君、行きましょう。今日はお母さんが特製のシチューを作ってくれたの。無事のお祝いよ」
リコの手は温かかった。彼女は当然のように俺の手を引き、彼女の家へと歩き出す。
(三十歳の社畜が十三歳の少女に手を引かれて歩いてたら、前世なら事案だよな……)
自嘲気味に笑ったが、その足取りはしっかりついていった。
深夜、月光が降り注ぐ。
俺は小さな木製のベッドの上で、炭筆を走らせていた。
「……まだ、こんなに鮮明に覚えてるんだな」
羊皮紙に描かれたのは、鶏の形をした地図、東南アジアの島々、そしてかつて住んでいた細長い島国。アジアの形。鉄筋コンクリートと残業、パソコンの製図板に支配されていた世界。
そして、この世界で買った簡易地図と見比べる。
大陸のプレートが環状に並び、魔力の交界が巨大な峡谷を形成している。全く別の世界だ。
「今のところ……科学文明のあっちを『主宇宙』、剣と魔法のここを『副宇宙』とでも呼ぼうか」
だが、魔法の練習でマメができた小さな手を見つめ、隣の部屋の父母の寝息を聞き、鼻先に残るリコの家のシチューの香りを思い出すと……。
その圧倒的な実在感が、かつてない重みで胸にのしかかる。
「でも……ここは、あまりに美しい」
温かな家族、心を通わせる「兄貴」のレオン、そして汗を拭いてくれる、鋭くも優しいリコ。ここでは納期に追われて健康を切り売りすることもない。
俺は疑い始めた。もしかしたら、こっちこそが「主宇宙」なんじゃないか? 浅蒼秀彦というデザイナーの、三十年の疲れ果てた人生こそが、長く切ない悪夢だったのではないか、と。
「(ねえ、デザイナーさん)」
銀の声が響いた。毒舌ではなく、世の理を悟ったような深みを持って。
「人間にとって、心が向かう場所こそが真実だよ。主副なんて論理上の執着に過ぎない。魂の刻度において、この五年の重みは……あの三十年に劣ると思うかい?」
俺は沈黙した。アジアを描いた地図を丸め、ベッドの底の一番深い隙間へと押し込んだ。
「……そうかもな、銀」
目を閉じ、体内に流れる火と雷のエネルギーを感じる。
「どちらの宇宙であれ、設計図は今この手にある。この家と、この美しさを、最後まで守り抜いてみせるよ」




