共鳴
保健室の窓の外では、夕日の残光がストラトス・ヴィアの山々を赤く染めていた。暖かなオレンジ色の光が室内に差し込み、全てを優しい金の縁取りで包み込んでいる。
ベッドの上の良奈の睫毛が微かに震え、やがて清らかな瞳がゆっくりと開いた。寝起き特有の、ぼんやりとした光を宿して。
「お目覚めかな、可愛い優勝者さん」
俺は真っ先にベッドサイドへ顔を寄せた。声は抑えめに、茶化しながらも安堵の情を隠せない口調で。
良奈はまだ完全に意識が戻っていないのか、至近距離にある俺の顔を呆然と見つめていた。しかし、「可愛い優勝者」という言葉を聞いた瞬間、微熱で引いていた赤みが、首筋から耳の先まで一気に広がった。
「シ……シエン?」彼女は低く呟いた。声にはまだ眠りの中にあるような、微かな掠れがある。
「アイリンが会場に代わりに行ってくれたよ。今頃外は、『神秘の剣士・隠の正体は美少女だった』って話題で持ちきりだろうな」
俺はそう言いながら、温かい水の入ったコップを差し出した。「一時間くらい眠ってたぞ。気分はどうだ?」
「えっ……? そ、そんなに……」
一時間も眠っていたと聞き、良奈は悪いことをした子供のように身を縮めた。無意識にサイドテーブルの白い面具へ手を伸ばそうとして、自分が今、何の遮りもなくシエンの前に晒されていることに気づいたらしい。
彼女は白く細い手で薄い毛布をぎゅっと掴み、顔の下半分を埋めた。水飛沫を浴びたような潤んだ瞳だけを出し、困惑したように俺を見上げている。リングの上であらゆるものを断ち切った孤高の剣客は、今や極度の恥ずかしがり屋な女子生徒に戻っていた。
「みんな……見たの?」毛布の中から、消え入りそうな声が漏れる。どこか心細そうな、拗ねたような響きだった。
「何を見たって? お前が人狼をぶっ飛ばしたところか、それとも全校男子を虜にしたその顔のことか?」俺は椅子に座り直し、わざと意地悪く笑った。「安心しろよ。全校が暴動状態だけど、ここでこうしてお前の寝顔を見守れるのは、俺だけの特権だ」
良奈はさらに深く毛布に潜り込んだ。中から、くぐもった、そして羞恥に満ちた声が返ってくる。「……シエンの、変態隊長」
口では罵っているが、毛布を掴む指の力は少しずつ緩んでいった。魔力の拒絶反応による強張りが、静かな保健室の中で完全に溶けていく。
室内には壁時計の刻む音だけが響いている。良奈は俯き、視線を泳がせていたが、やがて大きな決心をしたように、蚊の鳴くような声で切り出した。
「……魔力、整えて」
言い終えると、彼女の白く細い腕が毛布からゆっくりと差し出された。指先は恥ずかしさから微かに丸まっている。夕日に照らされたその横顔は、精巧で脆い琥珀の像のようだった。
「わかった」
俺は冗談を止め、真剣な表情になった。差し出された彼女の手首をそっと握る。温かく、柔らかな感触。だが、指先が触れた瞬間、彼女の細い手首が小さく震えたのが伝わってきた。
右目を閉じ、左眼の「観測者」を全力で稼働させる。
視界がエネルギー態へと切り替わり、良奈の体内の魔力流が立体図のように脳内へ展開された。俺は眉をひそめ、驚きを隠せなかった。保健室の先生の言う通り、彼女の魔力経絡は極めて矛盾した状態にあった。
「良奈、緊張しないで深呼吸だ」
彼女を落ち着かせながら、俺の穏やかな雷系魔力を指先からゆっくりと浸透させていく。
「観測者」の視点から見れば、彼女の経絡は極めて純粋だが、驚くほど細く、幼い。それはこれまで見てきたどの戦士よりも、入学したての新生よりも「未熟」なものだった。しかし矛盾することに、その細い経絡の中には、恐ろしいほど高密度の漆黒の剣気が流れている。細いプラスチックの管に高圧の溶岩を流し込んでいるようなものだ。これでは戦いの後、体が耐えきれずに拒絶反応を起こすのも無理はない。
「お前、普段……魔力循環の訓練はしてないのか?」
暴走する黒い残滓を自分の魔力で包み込み、核へと押し戻しながら、俺は疑問を口にした。
「だって……痛いんだもん」良奈は下唇を噛み、恨めしそうに言った。
「あいつら……普段は静かなのに、動かそうとすると、体を内側から引き裂くみたいに暴れるから」
その細い腕から伝わる微かな鼓動に、俺は言いようのない愛おしさを覚えた。この少女は、普段どれほどの負担をこらえて、あの天地を揺るがす一撃を放っていたのだろうか。
俺は魔力を操り、優しい指先でなぞるように、経絡の中の亀裂や損傷を一つひとつ癒していった。俺が詰まりを取り除いていくにつれ、良奈の強張っていた体は次第に弛緩していき、微かで心地よさそうな鼻鳴らしを漏らした。枕に溶け込むように、その瞳もとろんと潤んでいく。
「シエン……熱いよ……」彼女は熱を帯びた吐息で呟き、海のように青い瞳で俺を見つめた。
保健室の空気は、その一瞬で極めて微妙なものへと変わった。
俺の魔力が流れ込むにつれ、単なる治療だったはずの行為は、いつしか奇妙な「共鳴」へと変貌していた。不可思議な感覚だった。良奈の中の狂暴で純粋な黒い魔力が、俺の雷系魔力に触れた途端、生き別れた家族に出会ったかのように、温順に混じり合ったのだ。その頻度、そのリズム。まるで一つの源から分かたれたかのようだった。
いつの間にか、俺が握っていた良奈の手首が回り、細い指先が俺の指の間へと滑り込んできた。十指を絡ませ、手を取り合う。境界線上で二つの魔力が激しく律動し、連動するように体温が上昇していく。
「シエン……」良奈の声が熱っぽく震える。清冷だった瞳は潤みに覆われ、顔は今にも血が滴りそうなほど赤い。
俺自身も、胸の奥から広がる得体の知れない熱気を感じていた。鼓動は早まり、「観測者」ですらリズムを追いきれなくなる。空気が自然発火しそうなほど甘美な空気に包まれた、その時――。
「シエン、良奈! ただいま……って」
保健室の扉が乱暴に開かれた。大きな優勝カップを抱えたアイリンが、意気揚々と踏み込んできた。しかし、目の前の光景に彼女の笑顔は瞬時に凍りついた。
夕日に照らされたベッドの上。衣類が少し乱れ、顔を真っ赤にした良奈が、俺と指を絡ませて至近距離で見つめ合っている。
「シ・エ・ン・ス・ラ・イ」
アイリンの声は雲の底でうねる雷鳴のように低く響き、青い瞳には小さな電弧が走り始めていた。
「は……はいっ!」俺の背筋に氷が走った。弾かれたように手を引こうとしたが、虚脱状態の良奈が反射的に指を絡ませたまま離さない。
「説明……してくれるわよね?」
アイリンが一歩、また一歩と近づいてくる。一歩ごとに重苦しい圧迫感が増し、手に持ったカップがみしみしと音を立てる。
「ち、違うんだ! これは彼女の魔力検査を手伝ってただけで! 本当に! 正当な医療行為であって、決して変なことじゃないし、ましてや浮気なんて断じて!」俺は冷汗を流しながら、生存本能を全開にして釈明した。
「私が保証するわ。この坊や、なかなかいい魔力誘導をしてるわよ」
絶体絶命のその時、屏風の裏で薬を整理していた保健室の先生が、のんびりと顔を出した。手には書類の束を持っている。
「ずっといたんですか!?」
俺は飛び上がりそうになった。今の甘い空気を先生に説明されるのは、羞恥心で爆発しそうなほど恥ずかしい。
「あら? アイリンさんとシエンさんはお付き合いしていたのね」
先生は興味深そうに俺たち三人を見比べ、楽しそうに微笑んだ。「どおりで、さっきからこの子が心配そうにしてたわけだわ」
先生の言葉を聞いたアイリンは、怒りの表情のまま固まった。そして顔を赤く染め、俺を見たり、ベッドで毛布を被って丸まっている良奈を見たりした後、ようやく優勝カップを置いた。
「本当に……治療だったのね」
アイリンは小さく呟いた。破壊的な電圧は消えたものの、その視線はまだ不満げに、俺と良奈が握っていた手の方をうろうろと彷徨っている。
拗ねながらもどこか独占欲を滲ませるアイリンの様子に、俺は内心苦笑した。だが、大人しく彼女に手を握らせてやり、雷系の少女特有の、微かな静電気の刺激を感じていた。
良奈は毛布を少し下げ、潤んだ瞳で俺とアイリンの繋がれた手を見つめていた。その瞳の奥には、彼女自身も気づいていないような一抹の寂しさがよぎったが、すぐにいつもの淡々とした表情に隠された。
「ところで、良奈」俺は慌てて話題を変え、この「密集した」空気を和らげようとした。「お前は正真正銘の優勝者だ。さっきの賭けの内容、覚えてるか? 『何でも一つ言うことを聞く』ってやつ。お目覚めのお願いは何だ?」
良奈は、このタイミングでその話を振られるとは思っていなかったのか、一瞬呆然とした。そして警戒と好奇心の混じったアイリンの顔を見、それから俺を見て、頬の赤みをさらに増した。
「わたし……」良奈は口ごもり、指先でシーツを弄った。
「言いなさいよ。シエンにできることなら、スウィヤの大噴水で踊らせるのだって、私が手伝ってあげるから!」
アイリンはまだ嫉妬していたが、親友の権利には気前よく加勢した。
良奈はしばらく沈黙していたが、やがて大きな勇気を振り絞るように、小さく、しかしはっきりと答えた。
「まだ……決まってない」
良奈は小声で言い、気まずそうに俺から視線を逸らした。「決まったら、その時に言う。このお願いは……取っておきたいの」
そう言うと、彼女は照れ隠しのようにベッドの端に手をついて立ち上がった。動きにはまだ病み上がりの硬さがあったが、細い手首や足首を素早く動かし、俺の誘導で整った魔力の感触を確かめた。そしてサイドテーブルから、神秘の象徴である白い面具を取り、手慣れた動作で装着した。
面具をつけた瞬間、先ほどの赤面していた少女は消え、全校の尊敬を勝ち取った「隠」がそこに戻った。
「行きましょう。お家に帰れるわ」
面具越しではあるが、その声にはこれまでにない活気が宿っていた。肩にのしかかっていた「優勝」という重荷から、ようやく解放されたのだ。
三人で保健室を出てストラトス・ヴィアの中庭に足を踏み入れると、騒がしかった周囲が数秒だけ静まり返り、直後にさらに熱烈な議論が沸き起こった。
「おい見ろ! あれが『隠』だろ?」
「さっきのステージの声、めちゃくちゃ可愛かったってマジかよ……」
「全校最強の黒制服が、あんなに可愛い後輩だったなんて……」
人込みのあちこちから、驚嘆と崇拝の混じった囁きが聞こえてくる。「隠の正体は美少女」という衝撃的な情報は、わずか一時間のうちに学者之城の隅々まで行き渡っていた。
脇目も振らず、しかし無意識に足早になる良奈を横目に見ながら、俺は心の中で毒づいた。
(……そんなこと、俺は二年前から分析……あと白い手の盗み見で突き止めてたんだけどな)
寮に戻り、この数日の荷物を手早くまとめた。再び学園山門の前に立った時、夕日は完全に沈み、代わりに満天の星が広がっていた。
「スウィヤ! 帰るわよー!」
アイリンが谷間に向かって叫び、待機していた馬車に飛び乗った。
御者の掛け声と共に、馬車のタイヤがスクウィタン大陸の石畳をリズミカルに叩く。良奈は窓際に座り、遠くでネオンが輝き始めた中央都市を見つめながら、腰の刀の柄にそっと手を添えていた。
この選抜戦は、彼女に優勝をもたらしただけでなく、面具の裏に隠れていた少女が、俺たちと共に「本当の姿」を見せるきっかけを少しずつ作ってくれたようだ。
馬車は月光に照らされた荒野を、一定の速度で進んでいく。車輪と地面の摩擦音が、心地よい催眠術のように響く。窓の外を流れる景色を見つめながら、俺の意識はスウィヤの家へと飛んでいた。
そこには、偏屈だが頼れるアウグストゥスや、いつも寝てばかりいる底知れない天才・セシルがいる。
「アウグストゥスとセシルのことも考えないとな……」
セシルが枕を抱えて「シエン、晩ご飯は?」と聞いてくる光景を思い浮かべ、同時に、帰宅後に待ち構えている最大のイベントに思い至る。
「帰ったら、あいつらにも正式に俺たちの付き合ってること、話さないといけないしな」
俺は隣のアイリンに、意地悪な笑みを向けた。
「っ……!」
アイリンはぼんやり外を眺めていたが、その言葉を聞いた途端、感電したように飛び上がった。熟れたトマトのように真っ赤になり、慌てて手を振りながら叫んだ。
「そ、そんなこと、あんたたちが勝手に話しなさいよ! 私の前で言わないで、恥ずかしすぎるから!」
彼女は叫び終えると、照れを隠しきれなくなったのか、開き直って俺の肩に頭を預けてきた。そのまま俺の懐に潜り込み、「もう知らない! 私は寝るから、家に着くまで起こさないで!」とむにゃむにゃ言っている。
肩に伝わる重みと、アイリンがまとう微かな雷の香り。俺は思わず吹き出した。
「まあ、そうだな。あいつらへの説明は、お前には刺激が強すぎるか」
俺は優しく応じ、彼女が眠りやすいように自然に肩を抱き寄せた。
良奈は向かいの席で、面具をつけたまま俯いていた。だが、その膝の上で少し強張っている指先を見て、俺は彼女が懸命に「新米カップル」のやり取りを見ないようにしているのを感じ取っていた。
馬車の中は狭く、三人の吐息が交じり合っている。片方には寝息を立てるアイリン、もう片方には静かに座り、勝ち取った優勝の栄光と秘密を守る良奈。
俺は左眼の「観測者」を閉じ、押し寄せる疲労感に身を任せた。ストラトス・ヴィアでの日々は短かったが、生死を懸けた博打と感情の昇華を経て、俺たちは少しずつ、確実に変わっていた。
馬車がスウィヤの境界に入り、遠くに街のシンボルである通天塔の輝きが見え始めた。




