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異世界の観測者 ~今度こそ、大切に生きていく~  作者: WE/9
選抜大会

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37/60

決勝戦・終

会場の観客は皆、死のような静寂に包まれた。呼吸の音さえも、あの漆黒の魔力に吸い込まれてしまったかのようだった。

ウォフは良奈リナがその場から動かないのを見て、瞳の凶光をさらに激しくした。彼は怒号を上げ、右腕の筋肉を鋼のさくのように引き締めると、暗金の鞭で巨石をも切り裂くような弧を描いた。

「フーッ――!」

耳を刺すような風切り音が空気を切り裂き、重苦しい圧迫感と共に、良奈の細い首筋へと襲いかかる。先ほどの威力からすれば、まともに喰らえばリングの縁ごと粉砕されるだろう。

しかし、良奈の対応は全員の予想を裏切るものだった。

彼女は瞬歩も使わず、華麗な剣技も見せなかった。ただ静かに、黒い魔力に包まれた刀を抜いた。その動作は、あえて遅いと感じるほど緩やかだった。彼女は斬りもせず、抜刀後の姿勢を保ったまま、漆黒の刀身を胸の前に横たえ、静かに鞭の到来を待った。

「良奈! 避けて!」アイリンが悲鳴を上げ、座席から身を乗り出した。

鞭と黒い刀身が接触した、その刹那――。

予想された激しい金属音は響かなかった。火花も、衝撃波も、先ほどまでの狂暴な風切り音さえも、黒い魔力に触れた瞬間にピタリと止まった。

「……っ」

リングの上に、ハサミで絹を裁つような、極めて微かな「スッ」という音が響いた。

ウォフは呆然と立ち尽くした。手に伝わっていた重量が突然消え、慣性で体が後ろへよろめく。彼が愕然として前方を見ると、数多の戦場を共にし、強靭さを誇った暗金の鞭の先端一メートルほどが、何の衝撃も受けていないかのように、滑らかに断裂していた。

切り離された鞭の先端は地面に落ちて鈍い音を立て、残された断面からは、残り火のような黒い魔力が揺らめいていた。

「な……何だよこれ?」俺は驚きで顎が外れそうになり、左眼の「観測者」が激しく震えた。「あの刀……あんなにデタラメな性能なのか?」

あの黒い魔力は鋭さを増したのではない。接触した瞬間に、対象の「構造強度」を完全に抹消しているのだ。魔法ですら傷つかないと言われたウォフの鞭が、良奈の黒い刃の前では、打ち立ての麺のように脆かった。

良奈は僅かに首を傾げた。面具の下の瞳には波風ひとつ立っていない。彼女はゆっくりと一歩踏み出し、漆黒の刀から逃れようのない威圧感を放った。

「これが……お前の覚醒か」俺は低く呟いた。

対するウォフは、手元の断たれた鞭を見つめ、野性的な笑みはうに恐怖へと塗り替えられていた。彼はようやく理解したのだ。目の前にいるのは「速い剣士」などではなく、純粋な破壊の力を操る「怪物」であることを。

リング上の攻守は、今この瞬間に完全に入れ替わった。

良奈はもう待たない。彼女が踏み出すたびに石板が黒い魔力の振動で震える。彼女が動いた。今度の突進には残像すらない。山が崩れるような圧倒的な圧迫感を伴い、正面からウォフへと激突した!

漆黒の刀が空中に重厚な弧を描き、不気味な黒い流光を纏って、良奈を苦しめたあの狼の盾へと叩きつけられた。

「カッ!」

それは金属音ではなく、骨が砕けるような鈍い響きだった。

観客が目を見開く中、中級魔法の直撃にも耐えるはずの厚い盾が、黒い刃に触れた瞬間、熱で溶ける蝋のように構造を侵食された。刀身は盾の深くまで食い込み、亀裂が打撃点からクモの巣状に広がっていく!

「力押しまで……バカげてる!」俺は手すりを強く掴んだ。あの黒い魔力に秘められた、魂を震わせるほどの重圧がこちらまで伝わってくる。

「ガァァッ!」

ウォフが恐怖に満ちた声を上げた。盾から伝わる振動に、巨獣の腕が痺れ、麻痺していく。黒い魔力が盾を伝い、彼の腕にまで這い上がろうとしていた。これ以上引かなければ腕ごと「虚無」に呑み込まれる――そう直感した彼は、無様に盾を捨て、半ば崩壊した精鉄を放り出した。

攻守万全だったはずの人狼戦士の手元には、今や千切れた鞭とひしゃげた鉄屑しか残っていない。彼の誇りは、この瞬間に完全に瓦解した。

良奈は次の一手を急がなかった。漆黒の刀身が空気を震わせ、さらなる破壊を渇望するように鳴っている。彼女はゆっくりと歩を進め、面具の下の視線は死神のように、狼狽するウォフの急所を捉えていた。

「観測者」が捉えたウォフの足腰は、過度の恐怖で完全に乱れていた。彼は後退している。それは荒野の人狼にとって最大の屈辱だが、それ以上に良奈が与える恐怖が深いことの証左だった。

良奈は深く息を吸った。刀を包んでいた黒い魔力が突如として収縮し、全ての破壊エネルギーが一センチの刃先にまで圧縮される。

「……終わりだ」俺は小さく呟いた。

良奈の姿が再び消えた。今度こそ、勝負を決める真の「機」を捉えた。

ウォフは破壊された盾を見つめ、瞳孔は屈辱と恐怖で細く裂けていた。だが、漆黒の魔力の威圧を前に、荒野の戦士としての自尊心が、ついに理性的な恐怖を塗りつぶした。

「……やってやるぁぁ!!」

彼は追い詰められた獣のような咆哮を上げ、断たれた鞭も廃材となった盾も投げ捨てた。目を閉じ、拳を固め、自らの胸を太鼓のように激しく叩く。

ドン! ドン!

その一撃ごとに、彼の中の魔力がガソリンに火をつけたように爆発し、暗紅色の気流が噴き出した。再び目を開けた時、その瞳は狂乱の血赤色に染まり、全身の灰色の毛が逆立ち、体格がさらに一回り膨れ上がった。

彼は武器を持つ戦士ではなく、完全な野獣へと変貌したのだ。

「ヴォォォォ――ッ!!」

競技場の結界を揺るがす咆哮と共に、ウォフは灰赤色の旋風となって良奈へ突っ込んだ。技も防御も捨て、ただ本能のままに、花崗岩を粉砕する利爪を狂ったように振り回す。

「まずい! 狂暴化バーサークしたわ!」アイリンが悲鳴を上げて立ち上がり、俺の腕を強く掴んだ。爪が食い込むほどに。

リング上の攻防は混沌を極めた。ウォフの一撃一撃が空気を引き裂く爆圧を伴い、地面の石板が踏み荒らされるたびに崩れ飛ぶ。論理を無視した、命と命の削り合い。精密なリズムを信条とする剣士にとって、最も対処しがたい狂乱だ。

良奈はその嵐のような爪撃の中を縫うように立ち回り、黒い制服の数箇所が鋭い気勁きけいで裂かれた。

「力が……あいつ、もう理性を失ってる」

「観測者」が視るウォフの魔力は、今にも暴発しそうな崩壊寸前の状態だった。威力は凄まじいが、全身が隙だらけだ。

良奈もそれに気づいたようだ。完全に野獣化した巨獣に対し、彼女は正面からぶつかるのをやめた。黒い刀を構え直し、荒波の中の小舟のように立ち回る。危うく見えるが、その一歩一歩は正確にウォフの死角を突いていた。

彼女は待っている。この獣の力が尽きる瞬間、あるいは致命的な隙を晒すその刹那を。

「シエン……良奈、笑ってる?」アイリンが呆然と呟いた。

俺が凝視すると、白い面具の縁、良奈の口元が確かに、極めて淡く、そして冷酷なまでに弧を描いていた。真の剣客にとって、このような無軌道な狂乱こそ、自らの「終焉」の技を振るう最高のキャンバスなのだ。

「ヴォォォォッ!!」

ウォフが鼓膜を震わせる咆哮を上げ、巨体がさらなる加速を見せた。血に汚れた利爪が恐怖の魔力衝撃波を纏い、相打ち覚悟の姿勢で良奈へ襲いかかる!

空気が裂け、砕石が飛び散り、リング全体が震える。それはウォフの最後のアがきであり、絶望的な一撃だった。

しかし、良奈は異常なまでに冷静だった。

黒い魔力を纏った刀を地へ向け、ウォフが飛びかかる瞬間、彼女の体はただ軽やかに、優雅に横へとスライドした。バレエダンサーのように軽快で、かつ究極に精密なその動きは、ウォフの狂暴な爪を紙一重でかわした。

シュッ――!

布が裂ける微かな音と、同時により重鈍な「プシュッ」という音が響いた。

すれ違いざま、良奈の持つ漆黒の刀は振るわれることはなかった。ただ体の移動に合わせ、ウォフの無防備な腹部を軽くなぞっただけだった。

激しい衝撃も、飛び散る血飛沫もない。ただ一条の、黒い霧に縁取られた痕跡が、ウォフの隆起した筋肉の上にゆっくりと現れた。それは傷というより、不可視の力で切り開かれた「亀裂」のようだった。

「……ぁ……」

ウォフの体が硬直した。喉の奥から、短い、しかし不快な唸り声が漏れる。それは、全てを呑み込まれようとしている魂の、最後の足掻きのようだった。彼はゆっくりと振り返り、紅に染まった獣瞳に一瞬だけ理性が戻った。そして、直後に深い絶望がそこを支配した。

「ストラトス・ヴィア代表、イン、勝利! 今大会の選抜戦――優勝だ!」

司会者の叫びと共に、ウォフの巨体は全ての支えを失ったように崩れ落ちた。その体は地面に触れた瞬間、目に見える速さで霧散し、青い魔力の粒子となって空気へと溶けていった。リングの上には、破壊された無残な跡だけが残された。

「うおおおぉぉ! やった! 勝ったわ!」

アイリンはこらえきれず跳び上がり、俺の肩を掴んで激しく揺さぶった。会場はかつてない歓声に包まれ、指笛、拍手、絶叫が重なり合い、耳をつんざくような海となった。誰もが良奈の最後の一撃の精密さと、その圧倒的な力に征服されていた。

良奈はリングの中央に立ち、漆黒の刀をゆっくりと鞘に収めた。黒い魔力も収束し、元の銀色へと戻る。彼女はこの大観衆の視線に慣れていないのか、面具を僅かに観客席の方へ向け、どこか決まり悪そうに佇んでいた。

「優勝おめでとうございます! 今の感想、あるいはチームメイトへ一言いただけますか?」

司会者が心からの崇拝を瞳に宿して駆け寄り、会場の隅々まで声を届ける拡声水晶球を差し出した。

全会場が静まり返った。誰もが固唾を呑み、あの戦慄を呼ぶ「神秘の剣士」から、どんな覇気に満ちた宣言が飛び出すのかと期待していた。

「えっと……チームのみんな、ありがとうございます! それと、皆さんも……応援ありがとうございましたっ」

良奈は少し俯いた。面具越しに響いたその声は、戦闘時の冷徹さとは無縁の、甘く、清らかで、どこか恥ずかしそうに震える可愛らしいものだった。その少女らしい柔らかな声は、鞭を断ち、盾を砕いた残虐な実力と究極のギャップを生んでいた。

「うおおおぉ! 可愛すぎるだろ!!」

「マジかよ!? あの『隠』って女の子だったのか!?」

一瞬の沈黙の後、会場は優勝が決まった時以上の狂乱に陥った。実力に圧倒されていた男子学生たちは、一斉にハートを射抜かれたような顔になり、スタンドが崩れんばかりの歓声が上がった。

俺とアイリンはもう座ってなどいられず、騒動に乗じて階段を駆け下り、選手専用の地下通路の出口へと向かった。

細い黒の影がゆっくりと通路から現れた時、俺の笑顔は凍りついた。良奈の足取りは覚束なく、刀を握る指先は震えている。強風に煽られる柳の枝のように、ふらふらと壁を伝いながら歩いていた。

「良奈!」

俺は胸を締め付けられる思いで駆け寄り、彼女が膝をつく寸前で、両腕を広げてその体をしっかりと抱きとめた。

「良奈、大丈夫か? どこか怪我したのか?」

俺は焦って彼女を見つめた。左眼の「観測者」が反射的に起動したが、彼女の魔力の流れはひどく乱れ、激しい嵐が過ぎ去った後のようだった。

良奈は俺の胸に寄りかかり、力なく俺の肩に頭を預けた。先ほどの鋭い剣気は消え失せ、代わりに虚脱した後のような冷たさが伝わってくる。

「シエン……ちょっと、気持ち悪い……」

蚊の鳴くような、ひどく疲れた声だった。白く小さな手が、俺の胸元の服をぎゅっと掴んでいる。溺れる者が唯一の浮木を掴むかのようだった。震えるその身を見て、俺の心は張り裂けそうだった――あの神秘的な黒い魔力は、威力と引き換えに、彼女の体に想像を絶する負荷を与えたに違いない。

「大丈夫だ、俺がいる。もう安心しろ」

俺は腕に力を込め、彼女をより深く抱きしめた。そして心配そうな顔のアイリンを見た。「アイリン、彼女の刀を頼む。まずは保健室だ!」

保健室の中は、消毒液の匂いと微かなハーブの香りが混ざり合い、カーテン越しに柔らかな日の光が差し込んでいた。

「おそらく、高強度の魔力に体が慣れていなかったのでしょう。経絡がまだその圧力に対応できず、一時的な拒絶反応を起こしたようです」

保健室の先生は眼鏡を押し上げ、検知器の数値を記録しながら静かに言った。

ベッドに横たわる良奈は、呼吸こそ安定しているが顔色はまだ青白い。俺とアイリンは不安な面持ちで丸椅子に座っていた。俺は無意識にシーツの端を握りしめ、「観測者」で彼女の魔力流が落ち着いていくのをじっと見守っていた。

良奈の面具は外され、サイドテーブルに置かれている。普段、冷たい金属と黒い制服に隠されていた彼女の素顔が、今は無防備に晒されていた。

「心配いりません。安静にしていればすぐに目を覚ましますよ」

先生は振り向き、良奈の陶器のようになめらかな横顔を見て、感嘆したように微笑んだ。

「それにしても……『隠』さんがこんなに可愛い子だったなんて。学校にいる時も、素顔を見る機会はありませんでしたからね」

今の良奈は、魔力の拒絶反応による微熱のせいか、白い頬に誘い込むような朱が差していた。熟れた桃のようだ。長い睫毛が影を落とし、小さな鼻が微かに動いている。普段の人を寄せ付けない剣客の気配はなく、代わりに守ってあげたくなるような脆さが漂っていた。

「この子、極度の恥ずかしがり屋ですから。いつも自分を隠してるんです」

アイリンは親友の寝顔を見て少し安心したのか、いたずらっぽく良奈の赤い頬を指でツンと突いた。

「ほら見て、これが私たちのチームの最強のエースで、一番可愛い女の子なのよ」

俺は良奈の赤い頬を見つめながら、さっき通路で抱きしめた時の、柔らかくて軽い感触を思い出していた。賭けには勝ったし、頭の中では意地悪な祝勝計画を練っていたはずなのに。今の彼女を見ていると、そんな考えは全て愛おしさと心配にかき消されてしまった。

「先生、本当にこれ以上の魔力循環の手当ては必要ないんですか?」

俺がまだ心配そうに聞くと、先生はおかしそうに俺を見た。

「君、なかなか甲斐甲斐しいわね。彼女の魔力は自己修復中です。魔法よりも今は静かな休息――そして、彼女が目覚めた時のチームメイトからの『お疲れ様』の一言が必要なんですよ」

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