決勝戦 1
「ストラトス・ヴィア代表――隠!」
実況の声が拡声魔法の加持を受け、雷鳴のように円形競技場に響き渡った。会場のボルテージは沸点に達し、無数のサイリウムと応援旗がうねる波のように交錯する。
俺は半ば転がるように席に戻ったが、腰を下ろす間もなく、隣からアイリンの不滿げな愚痴が飛んできた。
「シエン! 遅すぎよ! 良奈はもう入場しちゃったじゃない!」アイリンは怪訝そうな顔で俺を見つめ、山鳴りのような歓聲の中で、俺の耳元に顔を寄せて叫んだ。
「……さっき廊下で、あの人狼に會ったんだ」俺は額の冷汗を拭った。顔色は未だに青白く、心臓が肋骨を狂ったように叩いている。
アイリンはハッとして、胸の前で組んでいた手を解いた。海のような瞳に鋭い電光が走る。「あいつ、あんたに手出ししたの? もしあんたを傷つけたなら、今すぐ降りて行って炭にしてやるわ!」
「いや、違うんだ……」俺は深く息を吸い、死に直面したかのような圧迫感を鎮めようと努めた。「あいつ、うっかりトイレのドアを壊しちゃってさ。ドアが壁の中にめり込んでたんだ。俺が修理の手配を代わりにするって言ったら、律儀に禮を言われたよ……。多分、悪い奴じゃない」
「……それだけ?」アイリンは拍子抜けしたように固まり、次いで「バカを見る目」で俺を見た。「それで、あんたは腹ペコのガキみたいに震えてたわけ? シエン、あんた一応、修羅場をいくつも越えてきたでしょ?」
「いや、わかってないな、アイリン」俺はかつてないほど真剣な眼差しで彼女を見つめた。その聲の重さに、自分でも驚くほどだった。「冗談じゃないんだ。あいつから放たれる威圧感は……原始的で、純粹で、破壊そのもののような気配だ。クレド先輩やレドノ將軍よりも強く感じた。それはレベルの差じゃない。……生態系の頂點に立つ捕食者が、獲物に向ける絶対的な抑圧だ」
アイリンの顔から笑みが消えた。彼女は再びステージの中央へ視線を戻す。
そこには、細い黒の背中を見せる良奈と、小山のような灰色の巨塔が対峙していた。人狼の戦士・ウォフは首を鳴らし、骨が軋む音を響かせている。その吐息の一つひとつが、灼熱の白煙を帯びているかのようだった。
「あんたがそこまで言うなら……」アイリンは下唇を噛んだ。リラックスした姿勢は消え、指を強く組み合わせていた。「良奈、この試合……本当に苦戦するわね」
俺は頷いた。左眼の「観測者」が制御を離れて勝手に作動し始め、烈日のように眩しい人狼の魔力の中に、万分の一の隙でもないかと探し始める。
「さっき放送を聞き逃したんだけど、あいつの名前は?」
「ウォフ。西の荒原の部族出身らしいわ」アイリンが低く答えた。彼女の口調も先ほどのような軽快さはなく、場を支配する窒息しそうなプレッシャーを感じ取っているようだった。
リングの中央、ウォフと良奈はそれぞれ定位置についた。良奈はいつもの冷徹な構えで、銀色の刀の柄に右手を添えている。黒い制服の裾が強風に煽られ、激しくたなびく。対するウォフは、野性味溢れる笑みを浮かべ、腰から鈍い金属光沢を放つ長鞭をゆっくりと引き抜いた。
その鞭が地面を引きずるたびに、耳障りな摩擦音が響く。しなやかでありながら広大な攻撃範囲を持つその武器は、接近戦を信條とする剣士にとって、悪夢のような天敵だ。
「試合、開始!」
審判の合図が響いた瞬間、良奈はいつものように先制攻撃を仕掛けなかった。低く重心を沈め、体全体を限界まで引き絞られた弓のように保ち、静かに機を窺う。彼女は待っているのだ。ウォフが隙を見せるのを、あるいは第一撃を誘い出すのを。
パァァァン!!
爆発音に近い鋭い音が會場を席巻し、観客席から悲鳴が上がった。鞭が振るわれる速度は肉眼の限界を超え、空中にぼやけた暗金の残像だけを残す。
良奈の反応は極限に達していた。鞭が通り過ぎる瞬間に強引に体を捻ったが、その圧倒的な力と攻撃範囲の前に、完全には避けきれなかった。
「くっ……!」良奈が微かに呻き、たじろいで数歩後退した。
俺にははっきりと見えた。彼女の白く細い太ももに、五センチほどの鮮紅の傷が刻まれている。雪のような肌の上で、それはひどく痛ましく見えた。
だが良奈は退かなかった。むしろ、その瞳にはより冷徹な闘志が燈った。彼女は地を蹴り、銀色の閃光と化して、鞭が戻る一瞬の隙を突き、刀を振るって肉薄する。
しかし、ウォフは俺たちの想像以上に老練だった。彼は低く笑い、巨体に見合わぬ軽やかさで後方へ跳躍。同時に、広い背中の裏から狼のトーテムが刻まれた精鉄の盾を抜き出した。
「鞭で中・遠距離を抑え、盾で接近戦を防ぐ……」攻守共に完璧なその姿を見て、俺の心は沈んでいった。「これ、良奈には最悪の相性だぞ……」
「……信じましょう」アイリンは座席の肘置きを強く握りしめた。指の関節が白くなるほどの力だった。彼女にできるのは、祈りにも似たその励ましだけだった。
リング上の緊張感は頂點に達し、空気中には魔力の摩擦による焦燥感が漂っていた。
良奈の鋭い横一文字が精鉄の盾に激突し、鈍い衝撃音を上げた。火花が散る中、ウォフの山のような体は微塵も揺るがない。逆にその反動を利用し、右手の鞭が毒蛇のように盾の裏側から鋭く突き出され、良奈の喉元を狙う。
「っ!」
良奈は瞳孔を見開き、空中で強引に刀を引き戻して防御した。鞭が刀身に半周巻き付き、凄まじい力が彼女の重心を奪う。場外へ投げ飛ばされるのを防ぐため、彼女は着地の瞬間に不恰好な側転を打ち、暗金の鞭が再び振り下ろされる直前に、危ういところでリングの縁へと転がった。
彼女は片手で地面を支え、膝をついた。黒い制服には塵がつき、太ももの傷からは血が滲んでいる。
「戦況は、絶望的に悪いな……」
俺は膝を突き、上体を無意識に前傾させた。左眼の「観測者」がウォフの防御の死角を狂ったように演算するが、結果は残酷だった。あの盾は良奈のあらゆる接近ルートを封鎖し、あの鞭はウォフの意志の延長として、リング全体を良奈の禁足地へと変えていた。
今の彼女が剣術だけで、この完璧な盾と鞭のコンビネーションをどう打ち破るのか、俺の頭では想像すらつかなかった。
「良奈……」アイリンの手のひらは汗でびっしょりだった。場上のわずかな勝機を乱すことを恐れ、彼女は聲すら出せなかった。
良奈はゆっくりと立ち上がった。場外負けまで残り数センチという、白線のギリギリに立っている。彼女は退かなかった。呼吸を整え、節くれだった右手の指で柄を強く握りしめた。指の関節が白くなるほどの力だ。
彼女は俯き、黑い長髪が面具の縁を隠した。
その数秒の静寂の中で、彼女は喧騒に包まれた観客席も、狂暴なウォフも、全てを遮断しているようだった。内心深くの、静まり返った剣意の世界の中で、一筋の隙を狂おしく探している。流星のような捨て身の一撃か、それとも……。
「……まだ、終わってない」
リングの縁の白線は、今や斷崖絶壁だ。良奈の背後に退路はない。
場の中央に戻らなければ、遅かれ早かれウォフの鞭に追い詰められる。良奈は深く息を吸い込み、強張っていた肩を僅かに落とした。その瞳には、背水の陣を敷く者の冷徹さが宿っていた。
「來るぞ!」俺は拳を握りしめた。
良奈の動きは脫兎の如くだった。瞬時に黑い残像となり、ウォフへ真っ直ぐに突っ込む。ウォフは鼻で笑い、右手に力を込めて鞭を振り下ろした。だが、鞭が鼻先に触れる寸前、良奈は地を強く蹴り、極めて不自然な「溜め」を作った。
このコンマ数秒のリズムの変化が、ウォフの予測を完璧に狂わせた。鞭は良奈の目の前の石板を叩き割り、破片を撒き散らす。その隙を突き、良奈は盾を持つ左側の死角へと滑り込んだ。山を駆ける黑い羽のように軽やかに、戦場の中央を奪還したのだ!
「よし、いいぞ!」俺は思わず聲を上げた。
主導権を取り戻した良奈は休まない。地を蹴り、再び強襲をかける。ウォフもまた野性を剝き出しにし、鞭を旋回させて横一文字に薙ぎ払った。
その一撃が良奈の突進を真っ二つにするかと思われた瞬間、彼女は全校を驚かせる動作を見せた。地面を強く踏みつけ、凄まじい反作用でその場に急停止。そのまま高く跳躍し、しなやかな体が高空で広がり、唸りを上げる鞭を飛び越えた!
「懐に入った!」アイリンが興奮して立ち上がった。
鞭を越えた良奈は、墜落する隕石のようにウォフの胸元へ飛び込んだ。中・遠距離武器である鞭は、至近距離ではただの重荷だ。ウォフは重厚な精鉄の盾を掲げて防御するしかなかった。
キン! キン!
良奈の銀の刀がコンマ數秒の間に二度、盾を叩き、散った火花が面具の下の無感情な瞳を照らした。盾が衝撃で開いた一瞬の隙を突き、彼女は手首を返し、刃を銀の閃光へと変えてウォフの無防備な腹部を狙う!
だが、ウォフは荒原のトップ戦士だった。刃が肉を裂く寸前、驚異的な野性の直感で彼は左へ跳んだ。無様ながらも、致命傷だけは回避したのだ。
同時に、背後へ流れていた彼の鞭が、跳躍の回転力を受けてブーメランのように戻ってき、良奈の背中を強襲する。
良奈は追擊を諦めざるを得ず、振り返りざまに一擊を放って鞭を叩き落とした。しかし、その凄まじい衝擊に再び數歩後退させられ、ようやく縮めた距離はウォフによって殘酷にも引き離されてしまった。
「くそっ……また元の膠着狀態か」俺は歯を食いしばりながら舞台を見つめた。胸の内の挫折感は、戦っている良奈よりも重いかもしれない。
二人の距離は再び五メートル以上に。ウォフは荒い息を吐きながら、その瞳にはさらなる狂暴さが宿る。対する良奈は、銀の刀を斜めに構えたまま微塵も動かない。太ももの傷は疼いているはずだが、氷山のようなその闘志が揺らぐことは一瞬たりともなかった。
舞台の土埃が足元で渦を巻き、良奈の細い指先が太ももの傷口にそっと触れた。鮮血の温もりが指に伝わり、彼女の脳内を駆け巡る。
それはウォフの鞭が刻んだ証であり、彼女が誇るその速度への嘲笑のようでもあった。
「……本当に、勝機はないのか?」
観客席の俺は、良奈よりも強く拳を握りしめていた。心の底から深い無力感が湧き上がってくる。正直に言って、今日の良奈の運勢は最悪だ。俺の中での彼女は常に究極のタイマン特化型。相手が刀や剣、あるいは槍使いであっても、あの神速の瞬歩と精密極まる剣技で、瞬く間に首を取るはずなのだ。
だが、運悪く相手はウォフだ。野性の直感と山の如き防御、そして反則的な射程を持つ「天敵」と言える相手。
俺は脳内で高速のシミュレーションを繰り返す。もし俺なら、懐に入れずとも距離を取ってあの「電磁砲」を叩き込み、盾ごと粉碎して強制的に局面を打破できる。アイリンならなおさらだ。彼女の「穹」の領域が展開されれば、舞台はたちまち雷霆の地獄と化し、狼人だろうが巨人だろうが、あの狂暴な洗礼に耐えられる者などいない。
しかし、良奈にはそれがない。彼女の手にあるのは一本の銀の武士刀だけであり、その身に流れるのは純粹で凝縮された剣気のみなのだ。
これこそが、剣客として彼女が越えなければならない壁。接近戦で利がなく、力が強く、防御が厚く、その上およそ愚かではない巨漢を前に、純粹な「技」は果たして通用するのか?
「シエン……良奈の手が震えてる」アイリンの声が震えていた。親友の窮地を敏感に察したのだろう。
俺は下を見つめた。確かに彼女は震えていたが、それは恐怖によるものではなかった。
彼女はゆっくりと目を閉じ、長く重い溜息を吐き出した。再び目を開けた時、その清冷な瞳から「観測者」が与えた解析の光は消え去り、代わりに宿ったのは、光さえも吸い込みそうな未だかつてない漆黒だった。
彼女は再び、その銀色の柄を強く握り直した。
「……いや、まだ諦めてない」俺は低く呟いた。左眼に刺すような痛みが走る。「彼女は今……全ての雑念を切り捨てている」
「技」が防がれ、「力」でねじ伏せられたなら、唯一の勝機は肉体の限界を超え、理性すら超越した――「魔」にしかない。
良奈は再び腰を落とした。だが今度は、あえて刀を鞘に収めたのだ。それは抜刀術の構えであり、絶境に立つ剣士が魂の全てを次の一閃に賭ける、最後の足掻きでもあった。
「彼女……魔力を動かしているのか?」
俺は思わず立ち上がった。過負荷で左眼の「観測者」が悲鳴を上げる。俺の視界の中で、良奈の魔力の流れは川のような平穏さを失い、地底でうねる溶岩へと変貌していた。細かな魔力の脈絡が狂ったように右腕へと集まり、そして、俺たちが息を呑む中で異変が起きた。
寒光を放っていたはずの銀の武士刀が、柄から一寸ずつ、極限の「黒」に呑み込まれていく。
その黒い魔力は決して眩しくはなく、むしろ底知れぬ虚無のようだった。それは刀身に纏わりつき、燃え上がる黒炎のように、あるいは流動する影のように蠢いている。
「あれは……何?」アイリンが息を呑んだ。雷の魔力に敏感な彼女は、無意識に身を引いている。「鋭さを感じない……殺気すら感じないわ。なのに、震えるほど冷たい……」
俺は「変色」した刀を凝視した。観測者の眼をもってしても、その物理的な鋭さに変化は見られない。だが、魔力の感覚において、その刀の存在感は膨張を続け、もはや武器ではなく、良奈の意志そのものの延長線上にあった。
全ての属性変化を捨て、純粹な重圧のみを求めた魔力なのか。それとも、俺たちの知らない剣道の境地なのか。
「……ふぅ」
良奈は再び溜息を吐き、面具越しの視線をブラックホールのようにウォフへと固定した。
対するウォフも、その尋常ならざる気配を察知したのだろう。野性の本能が警鐘を乱打している。彼は低く咆哮し、もはや待つことはしなかった。右手を猛然と振り、暗金の鞭が空間を切り裂く勢いで良奈の頭部へ横一文字に放たれた。左手の盾は、鉄壁の構えで身を守る。
今度の良奈は、避けなかった。
彼女は一歩を踏み出した。瞬歩ではない、最も堅実で、最も重厚な踏み込み。石板を穿つその一歩一歩が、重い地響きを立てる。
「来る……!」俺は息を止め、爪を手のひらに深く食い込ませた。
俺たちは待っている。良奈が放つ、あの黒い魔力を纏った第一撃を。
それは精鉄の盾を断ち切る暴力か、それとも鞭の防御を無に帰す奇蹟か。全ての答えは、今まさに抜刀せんとする良奈の右手に集約されていた。




