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異世界の観測者 ~今度こそ、大切に生きていく~  作者: WE/9
スウィヤ編

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神竜の憂慮

漆黒の洞窟の奥深く、空気は冷たく湿り気を帯びていた。

クレドは単手で「天火のイグニス」を握りしめていた。赤い唐刀は暗闇の中で鞘に収まったままであったが、そこからは今にも爆発しそうな熱気が微かに漏れ出している。彼は普段、衆人の前で見せる傲慢な態度をかなぐり捨て、幽霊のように足音を消しながら、険しい岩の間を静かに進んでいった。

洞窟内は不気味なほど静まり返り、時折鍾乳石から滴り落ちる水音以外に聞こえるのは、奥底から響く吐息の音だけだ。その音は低く、重く、凡人の意志を容易に叩き潰すほどの威圧感を放ち、まるで地下空間そのものが巨大な生物の呼吸に合わせて脈動しているかのようだった。

「ふぅ……はぁ……ん……?」

疑惑を孕んだ低い鼻鳴らしに、クレドの背筋が凍った。彼は思考よりも早く反応し、巨大な石柱の影に身を隠すと、呼吸すら止めて気配を消した。

「現代の勇者よ。そこにいるのは分かっている」

洞窟の天辺から、神聖かつ荘厳な声が降り注いできた。それは空気を伝わる音ではなく、魂の深淵に直接響き渡る、いにしえの不可侵な威厳だった。

「ちっ、バレちまったか……」

クレドは低く毒づくと、堂々と影から姿を現した。しかし刀は抜かず、強大な魔圧の源を前にして、ゆっくりと片膝をついた。現代最強と謳われ、公式に救世の英雄と認められた男が、今は不敵な笑みを消し、その傲慢なこうべを垂れていた。

「大人の清らかな眠りを妨げぬよう、慎重に近づいたまでです。冒険の意図はありません」

クレドの声が空洞に響く。

「これより正式に請い願う。神竜大人しんりゅうたいじんへの謁見を」

暗闇の中で、二つの巨大な縦瞳じゅうどうが烈日のように開かれ、クレドの小さな姿を映し出した。

「手に負えぬ面倒事を起こし、私を怒らせるのが怖かっただけではないのか?」

神竜の声には微かな揶揄からかいが混じっていた。巨大な鼻息が突風となって吹き荒れ、クレドの赤い髪を激しく乱す。

「入れ。天火を携えて来たからには、ただ事ではあるまい」

クレドはもはや足音を殺すことなく、赤い短髪を揺らして奥へと進んだ。進むにつれ気温は急上昇し、岩壁から染み出した水分は地面に触れた瞬間に白い霧へと変わる。

最深部。そこに鎮座する巨大な赤き巨躯が全貌を現した。一つ一つの竜鱗は磨き上げられたルビーの盾のようで、暗闇の中でも内側から燃えるような鈍い光を放っている。

「神竜大人、単刀直入に申し上げます」

クレドはその巨大な瞳の前に立ち、神聖なる古の存在を見据えた。腰の刃を握る手に力がこもり、熱を帯びた空気の中で彼の声がはっきりと響く。

「竜の国で起きていること……ご存知のはずだ。竜王は謎の力への献身を画策し、あろうことか俺が推薦した若者にまで魔の手を伸ばそうとしている……」

「ふむ……」

神竜は長く低い唸り声を上げた。その感嘆だけで地下空間全体が微かに震える。呼吸と共に垂れ下がる竜の髭が、灼熱の余温をクレドの足元に撒き散らす。

「知っておる。だがクレドよ、私はもはやこの世界の運轉に干渉することはできぬ」

神竜の声には、数多の時を経てきた重苦しさと、深い不本意さが滲んでいた。

「たとえ悪意が我が愛しき子ら(民)を惑わそうとも、彼らが醜き魔物へと成り果てるのを見守ることになろうとも……私は爪を振るうことはできぬのだ」

「神竜大人!」

その言葉に、クレドの抑えていた感情が爆発した。彼は両手を広げて激しく一歩踏み出し、赤い瞳に怒りの火を灯した。

「あんたまで民を守れないと言うのか! ここに座って悲劇を見届けるだけなら、彼らが世代を超えてあんたを信仰し続けてきた意味は何なんだ? 災厄を前に、ただ傍観するあんたを見るためだとでも言うのか!」

クレドの声が絶望と憤慨を孕んで響き渡る。

神竜はゆっくりと首を下げ、その巨大な頭部をクレドに近づけた。灼熱の吐息が、彼の髪を焼き焦がさんばかりだ。

「世界中の人間が知っている。かつて勇者と神竜が手を取り合ってこの世界を救ったことを!」

クレドの声が弾けた。彼は窒息しそうなほどの魔圧を跳ね除け、さらに踏み込むと、闘気を纏った拳を鉄のように硬い赤鱗に叩きつけた。

「だが今、世界に再び亀裂が入ろうとしている! 俺一人の力ではもう限界だ。だからあんたが必要なんだ。この世界にあんたが必要なんだよ!」

神竜の巨大な縦瞳がクレドを凝視した。それは単なる懇願ではない。幾星霜を共に戦い抜いてきた戦友が発する、最後の手向け(たむけ)のような叫びだった。

「魔物の国は神竜を、人間は勇者を。この仕組みが八百年の平穏を支えてきた」

神竜の声は地底を流れる溶岩のように低く、その金紅の瞳に初めて激しい揺らぎが生じた。

「我ら……確かに、この世界を、それを支える信仰と共に崩壊させるわけにはいかぬな」

砂石を巻き上げるほどの長い溜息の後、神竜の巨躯から僅かに力が抜けた。それは重荷を下ろした老人のようでもあった。

「ふぅ……よかろう。お前がそのような顔をするならば、話を聞こうではないか」

神竜の歩み寄りに、クレドの肩の強張りが少しだけ解けた。彼は背後の隠しポケットから、半透明の結界に包まれた物体を慎重に取り出した。それは心臓のように脈打つ、幽暗な冷光を放つ紫色の種子だった。

「これは以前、あの子たち(希恩一行)と影の森の迷宮深部で手に入れたものです」

クレドはその種子を見つめ、複雑な表情を浮かべた。

「ただの魔物の暴走だと思っていた。だが、迷宮の最下層で、あそこの魔神が自ら姿を現し……俺に自分を討伐してくれと頼んできたんだ」

「何だと?」

神竜の頭部が猛然と下がり、赤い鼻息がクレドを包む。その声にはかつてない当惑が満ちていた。

「魔神が……勇者に討伐を願っただと? 滑稽な。奴は影を統べ、不朽の意志を持っていたはず。なぜ死を望む?」

「奴は、もう耐えられないと言ったんだ」

クレドが種子を握る指の関節が、白く浮き出る。

虚空そらから来る、この世界の物ですらない神秘的な力が、自分を執拗に誘惑し、腐食させていると。その力は奴に堕落を強いて、人間の街を襲うようそそのかしてくる。世界の破滅を招く罪人にはなりたくない。だから、自我が消える前に『勇者』の手で死ぬことを選んだんだ」

「この力が関わっている層はあまりにも広い」

クレドは神竜の鼻先で歩き回り、岩を踏みしめる音が響く。眉間の皺は深く、その推論は恐るべきものだった。

「もし、竜の国の王を誘惑している力と、魔神を腐食させた力が同一のものだとしたら? これは連環のれんかんのけいだ。魔神に人間を襲わせて混乱を招き、その隙に竜王に『災厄を鎮める』という名目で、強大なエネルギーを持つ異能者たちを献上させる……」

「ただ、魔神が俺に殺されたことで予定が狂い、竜王は強硬手段に出たわけだ」

彼は足を止め、神竜の溶岩のような双眸を射抜いた。

「神竜大人。これらすべては……まさか、魔王復活の布石ではありませんか?」

神竜はすぐには答えず、クレドの手の中にある紫の種子をじっと見つめた。やがて、その瞳から金色の光が閃き、至純なる神聖な波動が辺りを一掃した。

ジジッ――

種子にまとわりついていた粘着質な紫の魔気は、春の陽光を浴びた残雪のように消え去った。後に残ったのは、淡い霊光を放つ純粋で透明な結晶体だけだった。

浮かび上がった結晶を手に取り、クレドは狂気じみた決意を瞳に宿した。

「神竜大人。俺はあんたと肩を並べて戦ったこともなけりゃ、八百年前の世界を震え上がらせた『魔王』も見たことがない。だがな、世界が悲鳴を上げ、誰かが立ち上がる必要がある時、このクレドが必ず一番に応えてやる!」

それは八百年の時を超えた英雄の宣言だった。神竜は目の前の赤髪の男に、かつての初代勇者の面影を見た。

「素晴らしい覚悟だ、クレド」

神竜の声はかつてなく穏やかで、同時に深い諦念を孕んでいた。

「だがな、神霊が過度に世界へ干渉した末路……あの凄惨な『西世一年せいせいじゅうねん』を、私はこの目で見届けてきた。あの悲劇を繰り返すわけにはいかぬ。だから……すまぬな。やはり私はお前と共に戦場へ赴くことはできぬ」

神竜の巨躯はゆっくりと闇の奥へと退き、光る縦瞳だけが残った。

「だが約束しよう。闇が降臨する時、お前に適切な啓示を与えると。そして……」

その眼差しは幾重もの岩壁を突き抜け、ストラトス・ヴィアで眠りにつく一人の少年に向けられた。

「あの少年のことは、心に留めておこう。彼こそが……世界の鎖を断ち切る鍵となるかもしれぬ」

「神竜大人、最後に一つだけ聞かせてくれ」

去り際にクレドは足を止めた。灼熱の霧の中で、彼の眼差しは鋭い。それは勇者ですら閲覧を禁じられた禁忌の問いだった。

「言え」

「あんたはさっき、世界に干渉した神霊をこの目で見たと言ったな……」

クレドは拳を握り、声を絞り出す。

「その詳細を教えてくれないか? なぜ強大な力を持ち、衆生を守るはずの神が、干渉を禁じられたんだ? それこそが彼らの職責ではないのか?」

神竜は長い沈黙に入った。溶岩の流れる音だけが耳障りに響く。

「……知っていることは限られている。記憶すら風化しそうなほど昔のことだ」

神竜は瞼を閉じ、苦痛に満ちた回顧に沈んだ。

「魔王戦争の終盤、私と初代勇者では、到底勝ち目はなかったのだ。あの闇は生物の範疇を超えていた。我らは絶望の淵に立たされていた」

竜の髭が微かに震える。

「その最後の一瞬、ある存在が我らに『祝福』を授けた。それは魔力とも神聖力とも形容しがたい、震えるほど純粋なエネルギーだった。その祝福のおかげで我らは勝利し、世界は存続した」

「だが……」

神竜は首を振り、巨大な頭部が重々しい音を立てた。

「その後、その御方おかたからの応答は二度となかった。……いや、この世界が信仰し、寄り添ってきた『神』は、あの夜に完全に消失したのだ。竜と勇者が代わりの信仰の柱となることを余儀なくされ、古の造物主は……行方知れずとなった」

「世界に平和が戻ったのを見て、安心して去っていった……なんて可能性はないのか?」

クレドは残酷な歴史に温かな解釈を与えようとした。

「いいえ、クレド」

神竜が猛然と目を見開いた。その金紅の瞳には、かつてない戦慄が宿っていた。

「あの時、誰よりも天に近かったのは私だ。祝福が降り注いだ直後、私ははっきりと感じた。……去ったのではない。『放逐』されたのだ。この世界から強引に排斥され、駆逐された。まるで体が異物を拒絶するように」

神竜の声が、凍えるような寒さを伴って響く。

「我らを救った神は、その瞬間に、この世界に見捨てられたのだよ」

「それが世界の法則なのかもしれぬな……造物主ですら例外ではない」

神竜はゆっくりと目を閉じた。烈日のごとき縦瞳は闇に消え、洞窟には竜鱗の間から漏れる微かな余温だけが残された。

「分かりました。教えに感謝します」

クレドが低く応じると、次の瞬間、彼の全身の筋肉が爆発的に収縮した。

周囲の時間は凝固し、空気が激しく引き裂かれる。クレドの姿は一条の赤い電光と化し、静止した世界に残像を刻みながら、瞬きする間に洞窟の果てへと消え去った。

後に残されたのは、死のような静寂と、消えやらぬ熱い風圧だけだった。

神竜は溶岩のほとりで、クレドの自信に満ちた気配が遠ざかるのを感じていた。万物の興亡を見届けてきた孤独な守護者は、長く、重い溜息を漏らす。

「見どころのある若者よ……」

その巨躯が僅かに動き、地底の震動が長く続いた。神竜の視線は岩壁を超え、遠くで新しい一日を迎えようとしている希恩シエンたちを、そして世界の隙間で密かに増殖する紫の汚濁おだくを見つめていた。

「……未来など、見えねばよかったものを」

それは永生者として、傍観者としての、あまりにも無力な独白だった。

彼は希望の芽吹きを見た。しかし同時に、すべてを焼き尽くさんとする滅びの光景をも、見ていたのである。

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