スクウィタン
この世界に来て三年。奇妙な音節を持つこの国の言葉で、ようやくこの若い夫婦の名前を正確に呼べるようになった。
「カイル・スライ」
「シニィ・スライ」
その音を発するたび、目の前の二人はどこか抜けたような、純粋で温かい笑顔を浮かべる。この家庭で、俺には新しい名前が与えられた――シエン・スライ。
手作りの木製ベビーチェアに座り、ぷにぷにした顎を手に乗せて、俺はカイルが汗だくで壊れたベンチを修理するのを眺め、シニィが台所で軽快な民謡を口ずさむのを聞いていた。
「カイル、シニィ……」
心の中でその名を反復すると、脳裏には前世の、青図と模型材料に埋もれた冷たいデスクが嫌でも浮かんでくる。
数えてみれば、この夫婦は今、二十五歳前後。
「二十五歳か……」
俺は自分の短くて肉のついた指を見つめ、自分にしか聞こえない溜息を漏らした。
前世のその歳、俺は業界の新人賞を獲ったばかりで、クライアントに追われながらコーヒーで命を繋ぐ毎日だった。それがどうだ、彼らはすでに結婚して子供を育て、日昇とともに働き、日没とともに眠る生活を送っている。
この強烈な人生進度のギャップは、何とも奇妙な体験だ。東京では二十五歳なんて「新米」の代名詞だが、ここでは一家庭を支える大黒柱であり、俺の「世界のすべて」なのだ。
その時、カイルが俺の視線に気づき、鋸を置いて額の汗を拭った。そして俺に、太陽のような笑顔を向けた。
「シエン、やりたいのか? これはスライ家伝来の職人技だぞ!」
タコだらけだが異常に安定した彼の手を見て、俺の中の「デザイナーの職業病」が疼き出す。
(父さん、切り口が三ミリ歪んでる……あと、その木の繊維密度は荷重を支える点には向かないよ)
もちろん、今の俺に言えるのは「あー、うー」という声だけだ。俺は適当に手を叩いて彼を応援した。
床に座り、拳を握るのさえ精一杯な小さな手を見つめながら、年齢に似つかわしくない野心が燃え上がる。
「いやいや、せっかく神様に転生させてもらったんだ。もっと違うことがしたい」
俺は怠い足を叩いた。前世の、数センチの空間のためにクライアントと口論し、夜通し図面を引く日々はもう御免だ。インテリアデザインも空間比率も、今世では触れたくもない! 俺が欲しいのは、常識を足蹴にするような力だ。
「この世界に……魔法はあるのか?」
その考えは、一度浮かぶと野火のように止まらなかった。俺は屋根裏部屋へと続く狭くて高い階段を見上げた。二十五歳の若い両親は滅多に俺を上げさせてくれないが、あそこはこの家で唯一「文字の記録」が眠る場所だ。
俺は深く息を吸い、三歳の人生で最も過酷な遠征を開始した。不器用な蟹のように、木製の階段を這いずり回る。重心を崩して転げ落ちそうになりながらも、頭の中は「魔法」の二文字でいっぱいだった。
ようやく最後の一段を越え、埃を被った木の扉を押し開ける。
屋根裏には乾燥した木と古い紙の匂いが充満していた。よろよろと低い本棚まで辿り着き、分厚い革装丁の本を引き抜く。
「……全然、読めねえ」
ミミズが這ったような異世界の文字を前に、俺は打ちひしがれた。喋ることはできても、識字は別次元の挑戦だった。
諦めかけたその時、ページの間から一枚の羊皮紙が滑り落ちた。慌てて床に広げると、それは手描きの地図だった。
前世、図形に極めて敏感だったデザイナーとして、俺は一目でその異質さに気づいた。
「これが、この世界の本当の姿か?」
地図の輪郭は記憶にある地球とは全く異なっていた。日本のような細かな島国は見当たらず、代わりに巨大で歪な形をした超大陸が鎮座している。大陸間は深い色の海で隔てられ、地図の端には巨大な海獣のトーテムが描かれていた。
東京もマンハッタンもない。ただ絶望的なほど広大な地平線が広がっている。
「島国がないということは、純粋に陸の資源と領土拡張で成り立つ世界か……」
俺は指で地図の中心、複雑な紋章が記された地点をなぞった。「つまり、権力も魔法も、この大陸の核心部に集中している」
地図を凝視する俺の心臓は、激しく鼓動していた。
見惚れていたその時、左眼に鋭い刺痛が走った。内側から針で視神経を突かれるような痛み。反射的に目を閉じ、再び開いた時、地図のインクが淡い青色のエネルギーの脈動として発光し始めた。
「これは、まさか……」
異変を追求する間もなく、階下からシニィの焦った声が響いた。
「シエン? どこなの、坊や! カイル、シエンがいなくなったわ!」
木の床を叩く急な足音が近づき、屋根裏に飛び込んできた彼女の顔には焦燥が張り付いていた。だが、俺が床に座って分厚い本を抱えている姿を見るや否や、驚きと喜びに変わった。
「カイル! 来て、シエンが本を読んでるわ!」
シニィは俺を抱き上げた。その力に、俺が築き上げた「冒険者気場」が崩れそうになる。
カイルも駆け上がり、広げられた地図を見て一瞬呆気に取られたが、すぐに豪快に笑って俺の頭を撫でた。「さすが俺の息子だ。三歳で世界の広さを知ろうっていうのか?」
彼は俺の隣に座り、大人に対するように大陸を指差して説明を始めた。
「見ろ、この広大な大陸を『スクウィタン』と呼ぶ。伝説では竜の脊椎(背骨)に支えられた土地だ」
カイルの指が北方の草原エリアで止まった。「俺たちの家はここ、北方大平原の最南端だ」
俺は方位のマークを死守するように見つめた。
座標と方位に病的な執着を持つデザイナーとして、俺はこの世界の製図ロジックが驚くほど親切であることに気づいた。
(東、南、西、北……方位角の方向が完全に一致している)
これは天の助けだ。つまり、俺の脳内にある三角関数や建築方位学、太陽観測による座標計算といった知識が、この世界でも「共通の公式」として通用することを意味する。この地図はもはや落書きではなく、数値化可能な空間座標系となった。
「スクウィタン大陸……スライ家?」
俺はカイルを真似て、北方平原の地点を小さな手で押さえた。
「おお! シエン、お前も行ってみたいか?」
カイルの目が少し潤んだ。「大きくなったら王都へ行ってみるといい。そこがスクウィタンの中心だ」
王都。その言葉を胸に刻む。この大陸が一つの巨大な建築物だとしたら、王都はその核となる主柱であり、魔法エネルギーが最も密集する「配電室」だ。
(……ねえ)
沈思黙考していると、左眼の奥からかすかな囁きが聞こえた。
それは言葉ではなく、脳髄を走る電流のような刺激。左眼の視界の中で、「王都」と記された場所が他よりも深く、重い深紫色の光を放っていた。
「シエン? どうしたの、お目々が痛いの?」
シニィが異変に気づく。
「あー、うー」
俺は慌てて目を閉じ、熱を持った左眼を擦りながら、眠くなったふりをして彼女の胸に潜り込んだ。
方位が通じるなら、次にすべきことはこの世界の「エネルギー供給システム」――すなわち魔法の論理を解明することだ。
四歳になった。
この一年、俺はただベビーカートでぼーっとしているガキではなかった。両親の世間話や屋根裏での「探検」を通じて、スクウィタンの真の姿をパズルのように繋ぎ合わせた。
さすがは伝説の「竜の地」。社会構造は想像以上に成熟し、奇妙な均衡を保っている。
(まるで完璧な建築平面図だ)
俺は門限を気にしながら、村の先に広がる麦畑を眺めて分析する。
外周は俺たちの家のような広大な農業地帯。大陸の基礎となる「構造支持(食料)」を担う。そしてすべてのエネルギーの合流点は、世界の経済中心地、中央都市「スウィーヤ」を指している。
カイルの話では、スウィーヤは前世の東京、ロンドン、マンハッタンを合わせたような場所らしい。商業の発展ぶりは、大陸どころか世界の経済を左右するほどだという。
「商業と魔法の結合か……」
俺は顎を突き、左眼の視界をよぎる微かな魔力の光点を見た。スウィーヤが核なら、そこは金の流れる場所であると同時に、高度な魔法術式、稀少な素材、そして頂点に立つ「建築技術者(魔導師)」が集まる場所だ。
正確さと効率を求めた前世の人間にとって、スウィーヤという名は、無限の可能性を秘めた巨大なプロジェクトのように聞こえた。
「シエン! またぼーっとして。スープが冷めるわよ!」
「今行くー!」
四歳の俺。体は不自由だが、脳内にはすでにスウィーヤへ、そして世界の頂点へと続く設計図が描かれ始めていた。
ようやく言葉を不自由なく操れるようになった。心の中で何度も練習した「魔法は使えるの?」という問いを握りしめ、俺はカイルの元へ走った。
「父さん! 魔法って……」
言いかけるより早く、カイルの指先に小さな光球が凝結した。彼がそれを軽く弾くと、鋭い風が薪を無数の破片へと切り刻んだ。
絶句した。喉まで出かかった問いが、その鋭い風に切り裂かれたようだった。
手品でも、俺の知る物理現象でもない。
カイルは工房の中央に立っていた。詠唱も派手な構えもなく、呼吸をするように自然に、青い光を放った。その風は恐ろしいほど正確で、薪の切り口は高精度レーザーカッターで加工したかのように滑らかだった。
これが……この世界の「施工方法」なのか?
「どうした、シエン? 何か言いかけたか?」
カイルが振り返る。指先に残った微かな風元素が渦巻き、大気へと溶けていく。
「父さん……どうやったの?」
声を絞り出し、整然と並ぶ薪を指差した。デザイナーとしての職業病と、魔法への狂熱が混ざり合う。
「ああ、これか?」
カイルは無造作に木屑を払った。「ただの基礎的な風属性操作だ。スライ家は名門じゃないが、木材加工に使うくらいのコツは心得てる。手鋸じゃ遅すぎるからな」
薪を見つめる俺の左眼が、熱を持ち始める。
視界の中で、何もないはずの空気に「風」と呼ばれるエネルギー粒子が螺旋構造を描いて跳動していた。カイルの動作の本質は、魔力で気圧を干渉し、極薄・超高速の「真空刃」を形成することにあった。
(構造が……完全に組み替えられた)
息を呑む。これだ。これこそが俺の求めていたものだ。
この「構造干渉」の力を掴めば、釘も接着剤もいらない。原子レベルから、望むままの空間を構築できる!
「父さん、俺も学びたい。それ、教えて」
四歳の体に三十歳の魂を宿した俺の瞳は、異常なまでに据わっていた。
カイルは一瞬呆気に取られたが、すぐに高笑いして俺を抱き上げた。
「ハハハ! さすが俺の息子だ! だがシエン、その前にまず『感じる』ことを覚えなきゃな。魔法は目で見るもんじゃない、心で対話するもんだ」
彼は俺を柔らかなおが屑の上に座らせ、真剣な表情を作った。
「さあ、目を閉じろ。風の音以外に、何を感じるか教えてくれ」
「あら、シエンが魔法を習うのね!」
ラベンダーの香りを纏ってシニィが近づいてきた。驚きと期待に満ちた瞳で俺を見つめる。
「シエン、目を閉じて。体の中の温度を感じるの。手の平に当たる太陽のように……それを、形にするイメージよ」
俺は素直に目を閉じた。世界は柔らかな闇に包まれる。呼吸を整え、製図板に向かう時の集中力で、体内の不可解な「エネルギー」を捉えようとする。
「シエン、手伝ってやろう」
カイルの分厚く温かい手が、俺の腹部に置かれた。その瞬間、冬のホットココアのような暖流が、掌から俺の体内へと流れ込んできた。それは俺の力ではないが、鍵となって、体内で眠っていたスイッチを叩き開けた。
眠っていた力が狂ったようにうねり始め、脊椎を伝って螺旋状に上昇していく。
「そうだ、いいぞシエン。呼びかけてみろ……」
カイルの声が遠のき、厚いガラスの向こう側のように曇り始める。
(待て、方向が違う……!)
デザイナーの直感が叫んでいた。エネルギーの「配線」が間違っている。カイルの導く指先ではなく、それは制御不能な高圧電流のように、乱暴な勢いで喉を通り、脳へと突き抜け、最後にある一つの出口へとロックオンした。
俺の左眼。
暗黒だった視界が、瞬時に無数の銀白色の幾何学模様へと炸裂した。温もりは極限の冷徹さと鋭利さに取って代わられる。左眼が内側から弾け飛ぶような衝撃。数万台のサーバーが同時に稼働するような轟音が耳を劈く。
それは、神の視点が四歳の子供という「ハードウェア」を強制的に読み取ろうとする負荷だった。
父の最後の言葉も、母の驚愕の表情も届かない。
世界を解析し尽くすほどの膨大なエネルギーの荒波に、俺の脳は過負荷を起こした。
最後の電子音が響き、俺の意識は強制終了の闇へと墜ちた。
俺はそのまま、カイルの腕の中へと崩れ落ちた。




