卒業
俺は寄宿舎のベッドに横たわり、後頭部で手を組みながら、天井に揺れる斑な月影を見つめていた。体は極限まで疲れ切っているというのに、脳は止まらない映写機のように、ここ数時間の光景を狂ったように再生し続けている。
龍の国の血生臭い祭壇、龍王の歪んだ紫の魔圧、クレドさんの絶望的なまでの紅い瞬獄……。そして、戦火の隙間で跳ねるように感じた、少女たちの体温。
すべてが、あまりにも荒唐無稽でいて、けれど生々しい夢のようだった。俺はもともとただの内装設計士だったはずなのに、今は世界の構造を解析する「神の左眼」を手にしている。
泣きすぎて真っ赤になったアイリンの鼻の頭が脳裏に浮かぶ。彼女が俺に寄り添った時の柔らかな感触が、まだ胸に残っている。次に、画面はテラスへと切り替わる。面を外した時の、羞恥と凛々しさが同居した良奈の横顔。戦場では修羅のごとく冷酷な「隠」が、顔を赤らめて俺に贈り物をすると言ったのだ。
「良奈が渡したいものって……一体何なんだ?」
俺は自分の左眼に触れた。強者がひしめき、神すら存在するこの世界で、俺のこのちっぽけな力で、あのアリンや良奈の笑顔を守り抜けるのだろうか。
窓の外を風が吹き抜け、後山の土の香りを運んでくる。俺は目を閉じ、呼吸を整えようとした。けれど、口角は無意識にわずかに上がっていた。
良かれ悪しかれ、明日はやってくる。
翌朝。寄宿舎の廊下に斜めの陽光が差し込み、空気には淡い朝露の香りが混じっていた。
――コン、コン、コン!
威勢のいいノックの音が響く。
「誰だ……?」
俺は眠い目を擦りながらドアを開けた。朝食の催促に来たアイリンかと思ったが、そこに立っていたのは意外にも良奈だった。
今日の彼女は面をつけていない。磁器のように滑らかで繊細な小顔が、朝日の中に完全に晒されていた。面は頭の横に無造作に掛けられ、数筋の黒い長髪が肩に垂れている。何より驚いたのは、普段は氷のように冷徹な彼女の瞳が泳いでおり、頬には夕焼けのような紅潮が耳の付け根から首筋まで広がっていることだった。
「シ、シエン。……これ、あげる」
良奈が背後に隠していた両手を、勇気を振り絞るようにして、勢いよく俺の前に突き出した。
その瞬間、俺は完全に言葉を失った。
目の前に差し出されたのは、一振りの「打刀」だった。銀色の輝きを放つ鞘は内側から光を放っているようで、刀身の反りは優美かつ鋭い。良奈の持つ刀と酷似しているが、細部には鮮やかな対比があった。良奈の刀が純粋な銀白であるのに対し、この刀の柄は深夜のごとき漆黒で、鍔には細やかな流雲の紋様が刻まれている。
「……ありがとう、良奈」
俺は無意識に手を伸ばした。指先が鞘に触れた瞬間、冷たくも重厚な質感が伝わってきた。
「べ、別に、ただ……」
良奈は顔を逸らし、俺と目を合わせようとしない。震える声で言い訳を紡ぐ。「あなたは私の剣術を学んでいるのに、まともな武器も持っていないなんて……それは剣術に対する侮辱だわ。……別に、プレゼントをしたいから贈ったわけじゃないんだからね!」
最後の方は顔が真っ赤を通り越していた。その「ツンデレ」な口調と、地面に穴を掘って入り込みたそうな表情が相まって、殺傷能力の高い可愛さを放っている。
俺はずっしりと重い黒柄の銀鞘刀を握りしめた。胸の内に温かいものがこみ上げる。これは単なる武器ではない。彼女からの「信頼」の証のように思えた。
「ひとまず、中に入って座れよ」
俺は少し身を引き、良奈を部屋に招き入れた。
このありふれた男子寮の部屋が、これほど狭く感じたのは初めてだった。良奈はどこか緊張した様子で俺のベッドの縁に腰を下ろした。黒い制服のスカートを丁寧に整え、両手を膝の上で重ねる。頭の横に掛けた面の隙間から見える耳が、血が出るのではないかと思うほど赤くなっている。
俺は深く息を吸い込み、漆黒の柄を握って、ゆっくりと引き抜いた。
――キィィィン。
清らかで長い鳴響とともに、俺は硬直した。銀色の鞘に納められていた刀身は、伝統的な鋼の色ではなく、深淵のごとき純粋で透き通った「漆黒」だったのだ。黒い刃紋には幽かな光沢が流れ、周囲の光をすべて吸い込みながらも、刃先には極限の鋭さを持つ銀の冷芒が閃いている。
「……すげぇ、かっこよすぎる!」
思わず感嘆の声が漏れた。前世の男としての本能、冷兵器に対するロマンが、この瞬間に完全に火を噴いた。この黒と銀が織りなす極限のコントラストは、俺の感性を完璧に射抜いていた。
俺の驚嘆を聞いて、良奈の肩が微かに跳ねた。彼女は窓の外をじっと見つめたまま、蚊の鳴くような、けれど芯のある声で囁いた。
「大事にしてね……。その刀の名は『墨淵』……。二度目は、ないんだから……」
「ああ、約束する。命と同じくらい大事にするよ」
俺が真剣な眼差しで答えると、良奈はこちらを振り向いた。俺の熱い視線と目が合った瞬間、彼女は驚いた小鹿のように身を竦ませ、それから口角をほんのわずかに――注意深く見ていなければ見逃してしまうほど微かに――上げた。
俺はずっしりと重い「墨淵」を銀色の鞘に納めた。納刀の澄んだ音を聞きながら、良奈の視線を感じる。彼女の勧めもあり、俺は彼女のような剣客スタイルの横背負いではなく、長刀を背中に斜めに背負うことにした。この方が俺の癖に合っているし、銀の鞘に包まれた漆黒の武器が、より内向的で神秘的に見える。
俺たちは連れ立って部屋を出た。廊下の空気は清々しいが、俺と良奈の間に漂う妙な空気のせいで、空間が少しだけ熱を帯びている気がした。
「シエン! おは……よぅ?」
廊下の角から、アイリンが嬉しそうに駆け寄ってきた。手に何かを持っていたようだが、俺たちが同じ部屋から並んで出てきたこと、そして普段は氷のような良奈が顔を赤らめて目を泳がせているのを見て、彼女の足がピタリと止まった。
特に、俺の背中にある良奈と「色違いお揃い」の武士刀に目が留まった瞬間、アイリンの瞳が鋭く光った。それは縄張りを侵された時の警戒そのものだった。
「りーなー!!」
アイリンは一足飛びに駆け寄ると、主権を主張するように良奈の肩を抱き寄せた。身長は良奈より少し低いが、その威圧感は凄まじい。
「本名を教えてくれたからって、いい気にならないでよね!」
アイリンは良奈の顔にわざと顔を近づけ、嫉妬と問い詰めが入り混じった口調で迫る。「言いなさい! 昨日の夜、部屋で何をしていたの!? ――したの? それともしてないの!? シエンの背中の刀は一体何なのよ!」
突然の「直球」に、良奈は狼狽した。引くはずだった赤みが一気に爆発し、首筋まで真っ赤に染まる。彼女は必死に頭の横の面を下げて顔を隠そうとし、声を震わせた。
「ア、アイリン! 何を言ってるの……。私たちはただ、武器の適応性について話し合っていただけで……」
「話し合うのにドアを閉める必要があるわけ?」
アイリンは食い下がらず、今度は俺を睨みつけてきた。蒼い瞳には「私にも説明して」という不満と好奇心が満ち溢れている。「シエン、あんたって人は……龍の国から死に物狂いで帰ってきたばっかりなのに、そんなに体力があるの?」
俺は冷や汗をかきながら苦笑いした。この場面、昨日の龍王戦よりもプレッシャーが重い。
アイリンの脳内補完はすでに現実の軌道から外れていた。彼女は「すべてお見通しよ」と言わんばかりの表情で、指先には激しい感情のせいで小さな蒼い電弧すら走っている。
「へぇー。つまり武芸を競い合って、ついでにベッドの上でも競い合ったってこと? 良奈が面をちゃんとつけられないのも、そのせいね? シエン、責任、取らなきゃいけないんじゃない?」
「ア、アイリン! や、やめなさいってば!」
良奈は羞恥で爆発寸前だ。手元の面をつけ直そうとするが、手が震えすぎて落としそうになっている。普段の冷静沈着な「隠」はどこへやら、今の彼女は秘密を暴かれた小学生のようだ。
俺はこめかみの痛みを感じながら、これがただの「純潔な贈刀儀式」であることを説明しようとした、その時――。
「若いうちから『した』の『しない』のとうるさいね。……全員、事務室へ来なさい」
芯まで凍りつくような女の声が廊下に響き渡った。抗いがたい魔力の波動を伴ったその声は、アイリンの電弧も現場の甘ったるい空気も一瞬で粉砕した。
三人は硬直したまま、ゆっくりと首を巡らせた。
廊下の突き当たり。幻理先生が腕を組んでドア枠に寄りかかっていた。夜の闇のような黒髪が静かに垂れ、その深淵のごとき瞳は「全部聞いていた」と告げていた。俺たちを見るその眼差しは、先ほどの良奈の刀よりも冷たかった。
「せ、先生……」
アイリンは即座に首を竦め、借りてきた猫のようになった。
「龍の国での死闘を経て、有り余るエネルギーのぶつけ所がないようね」
幻理先生は背を向けて事務室に入り、その冷ややかな声が流れてきた。
俺と良奈は目を合わせた。彼女はすでに面を装着し「隠」に戻っていたが、面から覗く真っ赤な耳がすべてを台無しにしていた。
事務室内の空気は鉛のように重かった。俺たちの足音以外に聞こえるのは、ソファの隅から聞こえる不自然な寝息だけだ。
そこには、アウグストゥスとクレドさんが、極めてだらしない姿勢で椅子に沈んでいた。ひどい有様だった。目の下のクマは誰かに殴られたように濃く、クレドさんの赤髪も乱れている。
どうやら昨夜の狂乱の祝勝会で、この二人の強者はアルコールに完敗したらしい。今は激しい二日酔いの真っ最中だ。
そして、事務机の向こう側には、仕立ての良い軍服に身を包み、胸に勲章を並べた男たちが厳格な面持ちで座っていた。戦場で磨かれた殺気が、宿酔の二人と強烈なコントラストを成している。
「全員揃ったわね」
幻理先生は俺たちを一瞥すると、軍人たちを指し示した。
「この方たちは、スウィヤ中央軍とストラトス・ヴィア守備軍の将軍よ」
紹介を受け、男たちがゆっくりと立ち上がる。先頭の男は小山のように筋骨隆々で、顔には一本の凄惨な傷跡があった。その眼差しは凶悪なまでの鋭さを放っているが、口を開いた瞬間のトーンは外見に反し、奇妙なほど優雅で繊細――どこか文学青年のような憂いすら含んでいた。
「少年英雄の諸君、おはよう」
スウィヤの将軍は微かに頷いた。声は玉のように滑らかだが、無視できない威厳が隠されている。
「私はスウィヤ中央軍のレドノだ。諸君が朝露の詩情を楽しんでいる最中に集めてしまったことを詫びよう。だが、龍の国の、夕映えの残滓のごとく崩落した現状は、我々に影に潜む真実を日の下に晒すことを強いたのだ」
彼は金色の封印が施された書類を広げ、口調を重くした。
「我々の調査によれば、龍王とその騎士団は長きにわたり、極めて不当な計画を企てていた」
レドノの長い指が机上の機密書類を軽く叩く。「諸君が知る通り、落龍禁地の異変と王女の病は事実だ。だが、その動機は『星の花』の採取などという生易しいものではなかった。彼らの真の狙いは、アイリン君の体内に宿る神級スキルの雷電エネルギーを強引に奪い取ること。そして諸君を祭壇への供物とし、その『近道』によって龍の国の衰退した国勢を再興することだったのだ」
それを聞き、俺は拳を握りしめた。やはり、最初から最後まで、これは依頼という名の「殺人計画」だったのだ。アイリンは先ほどまでの眠気が吹き飛んだようで、自分が「電池」や「供物」にされようとしていた事実に顔を青ざめさせ、俺の傍に寄り添った。
「だが……」
レドノ将軍は初めて、困惑したような表情を浮かべた。傷のある顔が灯火の下で歪む。
「なぜ龍王が、これほどまでに過激で自壊的な手段を選んだのか、我々にも理解しかねている。神霊学の専門家によれば、龍の国を守護する神龍は高潔な霊魂体であり、生贄など決して受け入れない。強引な霊魂エネルギーの注入は、諸君が見たような紫色の『魔力汚染』を引き起こすだけだからだ」
レドノは深く息を吐き、ソファでこめかみを押さえているクレドさんと、沈黙を守る軍人たちと視線を交わした。その視線の交換には、すでに合意に達している重い決意が含まれていた。
「諸君四名が今回の件で示した、年齢を超越した実力。そして事態の緊迫性を鑑み……」
彼は立ち上がり、憂いを含んだトーンから、鋼のような果断な口調へと切り替えた。
「シエン、アイリン、良奈、アウグストゥス。……諸君は、ただいまこの瞬間をもって、正式に『繰り上げ卒業』とする」
「えぇ――っ!?」
アイリンが叫び声を上げ、隣でうとうとしていたアウグストゥスは驚きのあまり椅子から転げ落ちた。
俺も硬直した。卒業? 俺たちはまだ何歳だと思っているんだ。背中の「墨淵」が低く共鳴した。まるで、学生時代の平穏が完全に終わることを予見するかのように。
「疑う必要はないわ」
幻理先生が立ち上がる。その黒髪が空中で冷たい弧を描く。
「学校は、諸君に『深淵』との戦い方を教えることはもうできない。今日から諸君は学生ではない。スウィヤ中央軍直属の『特種執行官』よ」
部屋の空気が、その言葉一つで変質した。
「同意いただけるなら、我々から保護者の方々へ連絡する」
レドノ将軍は文学的な憂いを捨て、実務的な口調になった。
「彼らの同意も得られれば、来週にはスウィヤ中央都市へ移っていただく。軍が諸君専用の住居と開発研究所を提供する」
俺は心の中でツッコミを入れずにはいられなかった。13歳で首都圏に一戸建て? 前世の俺からすれば、夢にすら見ない「人生の勝ち組」シナリオだ。だがすぐに、重い圧力が肩にのしかかる。これは無料の豪邸ではない。命と引き換えの対価だ。今の俺たちの実力で、龍王すら狂わせる「外の世界」に本当に対応できるのか?
「……同意します」
沈黙を破ったのは、アウグストゥスだった。普段は臆病に見えるが、今の彼の瞳には、滅多に見せない野心が宿っていた。彼にとって、これは平凡から抜け出し、己の天賦を証明する絶好の機会なのだろう。
「私も、同意するわ」
アイリンが続いた。俺を見つめる蒼い瞳にはまだ怯えがあったが、それ以上に俺への信頼が勝っていた。混乱したこの世界で一緒にいられるなら、彼女にとってそれが最善の選択なのだ。
「……私も、そうするわ」
良奈は面越しに、低く、けれど確かな声で言った。面の縁が月光のような冷たい光を反射する。
最後に、全員の視線が俺に集中した。ソファで沈黙していたクレドさんまでもが顔を上げ、二日酔いの赤い目で俺を興味深そうに見つめていた。
「――同意します」
俺は静かに、その二文字を口にした。
これは首都圏の不動産のためだけじゃない。俺の左眼のためだ。レドノ将軍が話している間、ずっと疼いていたこの熱い感覚が教えてくれている。自ら進んで立ち向かわなければ、この世界の構造は、いつか俺にも観測できないほど崩壊してしまう。
「よろしい」
幻理先生は、今日一番の誠実な(そして最も恐ろしい)笑みを浮かべた。
「全員同意ね。……それじゃ、クレド。こいつらガキどもの来週一週間は、あんたに『職前訓練』を任せるわよ」
クレドさんのこめかみを押さえていた手が止まった。彼は「勘弁してくれよ」と言わんばかりの苦笑いを浮かべた。
俺たち三人と、二日酔いからようやく覚めつつあるアウグストゥスは、のろのろと事務室を出た。外の朝日はすでに眩しくなりつつあったが、身に受ける光も「強制卒業」させられた虚脱感を拭い去ることはできない。
「それじゃ、私たちこれからずっと兵士になるの?」
アイリンが不安そうに指を弄んだ。雷元素が彼女の髪先で小さく跳ぜている。「卒業したら大陸を旅して、各地の美味しいものを食べ歩こうと思ってたのに……」
「いや、おそらく成人に達するまでの保護名目だろうね。身分を与える代わりに保護し、十六歳になったら自由選択させるつもりだよ」
アウグストゥスが冷静に分析する。「今の僕らの潜在能力を考えれば、軍は僕らを消耗品にするより、将来の『戦略兵器』として安全に育てたいはずだからね」
俺たちは寄宿舎のロビーに戻った。俺は柔らかい革のソファに深く腰掛け、手に入れたばかりの「墨淵」を膝に横たえた。指先で冷たく滑らかな銀の鞘をなぞると、中の漆黒の刀身から幽かな振動が伝わってくる。それは良奈の想いであり、俺がこの世界で生きていくための拠り所だ。
二人の議論を聞きながら、俺の心にはかつてない確かな実感が湧き上がっていた。
「……とにかく、お前らと一緒にいられるなら、それでいいよ」
俺は俯いたまま、誠実に、静かに本音をこぼした。
その言葉が落ちた瞬間、空気が三秒間、完全に凍結した。
「……何言ってんだよ、気持ち悪いな」
アウグストゥスが最初に立ち上がってツッコんだ。全身に鳥肌が立ったような、嫌そうな表情をしている。「シエン、あんた事務室で幻理先生の幻覚に洗脳されたのか? そんな歯の浮くようなセリフ、よく平気で言えるね」
アイリンは一瞬呆然とした後、顔を真っ赤にして、所在なさげに俯きながらつま先で地面を蹴った。
「……す、すっごく気持ち悪いけど、嫌いとは言ってないわよ……」
隣で沈黙を守っていた良奈は、白い面越しに表情は伺えなかったが、自身の刀を握る手が強く締まるのを俺は見逃さなかった。面の下の呼吸が、明らかに乱れていた。




