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異世界の観測者 ~今度こそ、大切に生きていく~  作者: WE/9
学園編

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14/60

決算

王宮の大殿内、かつて燦然と輝いていたシャンデリアは、戦闘の余波ですでに粉々に砕け散っていた。クレドは紅蓮の炎を纏わせた【天火之刃イグニス】を手に、無数に割れた石磚せきせんと鎧の残骸を踏みしめ、高みにある王座へと一歩ずつ歩を進める。

周囲に横たわり、呻き声を上げる龍影衛りゅうえいえいや兵士たちを見ても、龍王は怒りも恐怖も見せなかった。むしろ、退屈な茶番を見透かしたかのように、長く、重い溜息をついた。

「ふう……クレドよ。お前は、いささかすぎるのだ」

龍王の口調には、毛が逆立つような遺憾の情が混じっていた。彼は王座からゆっくりと立ち上がり、両手を水平に掲げる。

俺は遠くの崖の上に座り、数里の距離を隔てていながらも、左目の【観測者】でその吐き気を催すようなエネルギーの流向を捉えていた。

龍の国の統治者として、神のごとき神聖で威厳ある龍神の力を見せるのかと思っていた。だが、視界に映し出されたのは、深淵のように禍々しい紫黒色の魔力だった。

「あれは……何なんだ……っ!」

思わず叫び声を漏らした。

倒れ伏し、かろうじて息のあった兵士たちの体内から、突如として悲痛な哀号が上がる。半透明の魂が、その紫色の引力によって強引に引きずり出されていく。兵士たちは目を閉じる暇もなく、一瞬にして乾ききった空殻へと成り果てた。それらの魂は精純なエネルギーへと変換され、龍王の掌へと吸い込まれていく。

「ふう……はぁ……」

龍王は陶酔したような吐息を漏らした。

彼の龍角は狂ったように成長し、漆黒に歪み、清らかだった金色の縦瞳は濁った紫色に染まっていく。血管が浮き上がり、俺の観測下にある彼の魔力構造は、単なる「空虚な魔力」から、極めて無秩序で暴虐的な闇へと膨れ上がった。

「あん?」

大殿の中央で、クレドが異変を察知した。炎のように安定していた彼の気配が、龍王から放たれる黒い重圧によって数センチ押し戻される。

龍王が力に満ちた拳を握りしめると、足元の王座は一瞬で粉塵と化した。彼は重なり合うような、掠れた声でクレドを見下ろした。

「この三百年、私はこの乾いた心臓を守り続けてきた。我が祭壇を壊した以上、貴様らの魂で、最後の一欠片を埋めてもらおうか!」

クレドの瞳が鋭く細まり、天火之刃が眩い紅光を放つ。彼はもはや一切の加減を捨て、瞬獄のオーラを全開にした。紫色の渦へと突き進む紅い閃光となるべく、その身を沈める。

王宮の大殿内、巨大な石柱が紫と赤の魔圧に挟まれ、悲鳴を上げるように軋む。大理石の床は、二つの相反するエネルギーに押し潰され、すでに粉々に粉砕されていた。

クレドの瞳から余裕は消え失せ、代わりに野獣のような鋭さと緊張が宿る。対峙する「怪物」の魔力量が、幾何級数的に膨れ上がっているのを肌で感じていた。

「チッ、これが龍の国の隠していた薄汚い手口かよ」

クレドは低く吐き捨て、右足を一歩踏み込む。

――ドォォォォン!

鼓膜を震わせる爆音と共に、クレドの姿が空間から完全に消失した。大殿内には数十の暗紅色の残影が刻まれ、その一撃一撃が山を断ち、海を割るほどの重みを持っていた。

百分の一秒の間に、クレドは重厚な紫の魔霧を突き抜け、万物を焼き尽くす烈火を纏って【天火之刃】を龍王の胸元へ突き出す。

だが、肉を断つ音は響かなかった。

「ギィィィィィン――!!」

鈍く重い金属音が激突し、発生した衝撃波が周囲十メートルの石床を全てひっくり返した。

龍王の紫黒の鱗に覆われた手が、間一髪のところで天火之刃の刀身を直接掴んでいたのだ。掌で狂ったように踊る高熱の炎も、不気味な紫の魔力膜を焼き切ることはできない。

「勇者の力……この程度か?」

龍王はゆっくりと顔を上げた。濁った紫の縦瞳に宿るのは、底冷えするような軽蔑だ。彼は剛力の一端を掌に込め、五指を強く曲げる。

「ぐっ……!」

クレドの顔色が変わる。龍王は冷鼻を鳴らし、無数の兵士の怨嗟えんさを伴った恐怖の魔圧を爆発させた。金剛不壊と思われたクレドの身体が、巨人の手に投げられた小石のように後方へ吹き飛ばされた。

――ドォォォォォン!

三本の巨石柱を粉砕し、クレドは大殿奥の壁に叩きつけられた。壁は一瞬で崩落し、彼を塵土の中に埋没させる。

「勇者など、弱者をなだめるために編み出された虚飾の嘘に過ぎん」

龍王が手を掲げると、背後に巨大な龍の影が形成された。その声はもはや人間の質感を失い、無数の魂が同時に咆哮しているかのようだった。

「今こそ、その偽りの栄光を深淵の前に滅ぼしてやろう!」

「偽りだろうが何だろうが知ったことか! 世界には俺が、勇者が必要なんだよ!」

クレドの咆哮が大殿に木霊こだまする。それは独りよがりな傲慢ではなく、万千の命を背負う者の覚悟だった。口端の血を拭い、瞳には長刀よりも熱い紅光を宿す。

「【瞬獄】――連放!」

大殿内に無数の気団が爆ぜる。クレドの姿はもはや一筋の線ではなく、数十の「紅い重影」となって同時に存在していた。体感時間を極限まで加速させ、一秒間に数百回の斬擊を繰り出す。

「天火――断罪!」

紅い刀芒とうぼうが蜘蛛の巣のように張り巡らされ、龍王を覆う紫の魔霧を削り取っていく。龍王は低い咆哮を上げ、紫黒の嵐を巻き起こして紅光を叩き落とそうとする。

「ギィン! ドォォォォン!!」

二人の衝突はもはや技術の域を超え、純粋なエネルギーと意志の死闘と化していた。クレドは【瞬獄】による凄まじい慣性を利用し、幾度となく全身の魔力を刀尖とうせんに注ぎ込み、龍王の鋭利な爪撃と正面からぶつかり合う。

衝突の余波は王宮を震わせ、瓦礫は雨のごとく降り注ぎ、柱は次々とへし折れていく。

膨大な魔力を誇る龍王も、捨て身のごときクレドの攻撃に焦燥しょうそうを募らせていた。真身を捕らえたと思った矢先、あり得ない角度から斬撃が返り、硬質な鱗の上に焦げ跡を刻んでいく。

「なぜ……なぜ倒れぬ!」

龍王が憤怒を込めて放った拳は、クレドの残した残像を虚しく貫く。

「勇者の名の裏にある代償はな、お前ら龍族のプライドよりも重いんだよ!」

空中で強引に身体を捻り、血紅の弧月を描く。二人の激突は大殿の中心に赤と紫が混ざり合う巨大なエネルギー球を形成し、地面は底なしに陥没していった。

肉弾戦の鈍い音は、やがて耳を刺すような魔力の轟音に取って代わられた。龍王は理性を失い、数メートルに及ぶ紫の光球を隕石のように周囲へ撒き散らし始めた。それらはクレドを狙うだけでなく、崩れた壁を越え、眼下の街へと降り注ごうとしていた。

「狂ったか龍王!」クレドは遠方の街に上がる煙を見て叫んだ。「王宮の外にはお前の民がいるんだぞ! お前が守ると誓った人々だろうが!」

「民だと? 私が永遠を手に入れれば、あんなものいくらでも再生できる!」

龍王は狂笑し、山半分を消し飛ばすほどの巨大なエネルギー球を練り上げる。

「きっ……さまぁ!」

過負荷により全身の筋肉から血を滲ませながらも、クレドは逃げなかった。自分が避ければ街が焦土になることを知っていたからだ。

「【瞬獄】――紅蓮円舞ぐれんえんぶ!」

高速回転する紅い旋風が、紫の弾幕を一点の隙もなく切り伏せていく。一刀ごとに腕が激しく震え、高熱が身を焼く。だが彼は退かない。斬撃の反動を利用し、さらに前へと突き進む。

「王の器じゃねえってんなら、俺がその傲慢ごと終わらせてやる!」

龍王の全身を覆う紫の魔力は、もはや固体に近い密度となり、冷徹な悪意を放っていた。歴戦の猛者であるクレドですら、その威圧感に本能的な戦慄せんりつを覚える。

だが、彼はクレドだ。

一瞬の震えを野獣のごとき咆哮でねじ伏せ、熱を帯びた刀柄を握り直す。

「【瞬獄】!」

龍王は避けることなく、あえて天火之刃を素手で掴み取った。

「捕らえたぞ」

龍王の濁った紫の瞳に、残酷な光が宿る。

「ぐっ……!」

その千鈞一髮せんきんいっぱつの瞬間、クレドは刀を捨て、後方へ向けて【瞬獄】を発動。同時に、龍王が掴んでいる刀に対しても加速の意志を叩き込んだ。

時間は静止した。

龍王が呆然とする中、主の手を離れた刀が物理法則を無視して自律加速し、龍王の手を振り切った。

「戻れ!」

クレドの指揮に従い、紅い神刀は超越的な速度で龍王の背後から迫る。

噗滋ぷしゅっ――!

最も防御の薄い後腰を紅い閃光が通り過ぎ、紫の鱗が飛び散る。

龍王の悲鳴が大殿に響き渡る。

クレドは砕けた石磚の上に着地し、手元に戻った刀を掴んだ。その顔は青白く肩で息をしていたが、瞳だけは恐ろしいほどに輝いていた。

「……来いよ。最後だ」

クレドは【天火之刃】の刀身を指で弾き、澄んだ音を響かせた。

「きっ……さまあぁぁ!」

龍王は残存する全てのエネルギーを圧縮し、巨大な紫の火塊を放つ。だが、死力を尽くしたその一撃は、クレドにはあまりに鈍く映った。

「【瞬獄】」

それは、俺がこれまで聞いた中で最も静かで、最も重い囁きだった。

世界が静止した。俺の【観測者】の視界の中で、あらゆる流れが灰色に固まる中、ただ一筋の鮮血のような紅い線が、光速を超えて紫の火光を真っ向から切り裂いた。

貫かれた龍王の胸には、紅蓮の炎を宿した完璧な「空洞」が穿たれていた。

龍王の巨躯は崩落する山のように倒れ伏し、王宮にようやく静寂が訪れた。

遠くの崖の上で、俺は安堵のため息をついた。

だが、その直後、俺の左目に刺痛が走る。

激動する感情によって【観測者】の視野が揺らぎ、次の瞬間、焦点はクレドの笑顔ではなく、その背後の光景に固定された。

そこにあったのは、無残な死体の山だ。吸い尽くされた兵士、切り裂かれた影衛。かつて高慢だった王のむくろ。王宮は今や巨大な墳墓と化していた。

これが「救世英雄」の代償。世界を守る代償として、彼は一国の頂点を躊躇なく殲滅した。

俺は硬直した手を上げ、あの紅い背中に向かって小さく手を振り返した。

この強烈なギャップに、胃の底がひっくり返るような感覚を覚えた――これが「最強」の代価であり、いわゆる「救世の英雄」というものの正体なのか。彼は俺たちを守ると同時に、一国の最高戦力をいとも容易く消し去ったのだ。

俺は顔を背け、遠くの地平線に舞い上がる砂塵を眺めた。スウィヤの軍勢だ。精鋭の重騎兵と魔道師団を率い、崩壊したこの王都へと最速で駆けつけている。

腕の中のアイリンがかすかな寝言を漏らした。どうやら目を覚ましそうだ。良奈りなは刀を杖代わりに突き、複雑な眼差しで迫りくる軍勢を見つめている。一方、アウグストゥスは額を押さえ、破壊し尽くされた王宮を信じられないといった面持ちで呆然と眺めていた。

「……あいつら、どう説明するつもりなんだろうな」

俺は小さく独りごちた。

一国の王は死に、騎士団長は無力化され、さらには神聖な祭壇までが破壊された。「同盟国」であるスウィヤの軍。彼らは英雄を迎えに来たのか、それとも、この外交的災厄を後始末しに来たのだろうか。

俺たちの元に戻ってきたクレドは、微光を放つ水晶球に向かって、まるで朝市の商談でもしているかのような軽い口調で話していた。たった今、一国の最高権力中枢を壊滅させた男とは到底思えない。

「ああ、そう。龍のドラゴニアの後はそっちで頼むわ。俺らはもう行くからな」

彼は無造作に頷くと、混乱と衝撃に陥っているであろうスウィヤ上層部へ一方的に最後通告を突きつけ、そのまま通信を遮断した。

彼がこちらを振り向いた時、その顔から凄まじい殺気は跡形もなく消え去り、いつものだらしない近所のアニキといった風体に戻っていた。

「よし、全部片付いたな。帰って休もうぜ」

「帰る」という言葉の意味を理解する間もなかった。クレドは俺とアウグストゥスの二人を、まるで仔猫でも運ぶかのような手つきで両脇に抱え上げ、良奈の肩をぐいと引き寄せた。

――ボッ!

聞き慣れた空間崩落の感覚が襲う。今回の転移は今までのどれよりも強烈で、一瞬のうちに内臓が揉みくちゃにされ、再構築されたかのようだった。歪んだ紅い光の中で視界が引き伸ばされ、龍の国の血生臭さと硝煙の空気が一気に引き剥がされる。

再び景色が静止した時、耳に届いたのは飛龍の咆哮でも魔法の爆発音でもなく、食器が触れ合う軽やかな音と、涙が出るほど芳醇なシチューの香りだった。

俺たちは、スウィヤ中央都市の見慣れた食堂に直接戻ってきていた。

「忘れ物、ねえよな?」

クレドはパンパンと手を叩き、乱れた赤髪を無造作にかき上げた。まるで先ほどの死闘が、ただの些細な用事であったかのように。

俺たち三人の、魂が抜けたような泥だらけの姿を見て、彼は豪快に笑い飛ばした。そして近くの長椅子を適当に引き寄せ、カウンターに向かって叫んだ。

「あ、そうだ。ここは俺の奢りだ! マスター! 旨いもん、一番高いやつを全部持ってきてくれ! 子供らが腹を空かせてんだ!」

食堂にいた冒険者たちは、この突如として「空から降ってきた」一団に驚きを見せたが、それがクレドだと気づくと、一様に敬畏と困惑の入り混じった表情を浮かべた。

湯気の立つ木のテーブルを眺め、腕の中でうとうとと目を擦りながら起きようとしているアイリンを見る。地獄から一瞬で日常に引き戻された落差に、椅子の背を掴む俺の手はまだ微かに震えていた。

良奈は黙って銀色の打刀を鞘に納め、俯き加減で俺の隣に座った。表情は見えないが、その力が抜けた肩が全てを物語っていた。

アウグストゥスはといえば、店主が運んできたエールを呆然と見つめ、うわごとのように呟いている。

「僕の……僕の豪華客室が……まだ龍の国にあるのに……」

「食えよ。食わなきゃこれからのことを考える力も出ねえぞ」

クレドが焼き立ての熱いパンを俺に差し出した。その瞳の奥には、どこか深い意味が宿っていた。

「シエン、これはまだ始まりだ」

周囲は大髭の冒険者たちの乾杯の声や豪快な笑い、そして肉が焼ける香ばしい煙に包まれていた。賑やかなこの食堂は、今この瞬間、世界で最も安全な避難所のように思えた。

俺は長椅子に座り、目の前に積まれた燻製肉の皿を見つめていたが、意識の全ては隣にいる青い髪の少女に向けられていた。アイリンは今、皿の上のハニーリブと格闘することに専念している。頬をパンパンに膨らませ、血色の戻った顔を見ていると、その「食いしん坊」な生命力にようやく俺の心のつかえも降りた。

俺はこっそりと彼女の方へ寄り、声を潜めて、隠しきれない心配を口にした。

「アイリン、どうだ? 少しは良くなったか?」

アイリンの動きが止まった。彼女はゆっくりとこちらを振り向く。

目が合った瞬間、咀嚼していた口が止まり、その澄んだ蒼い瞳にみるみるうちに涙が溜まっていく。縁が赤くなったその目は、見ていて胸が締め付けられるほどだった。その瞬間の彼女は、強力な雷電を操る天才少女ではなく、ただ大きな理不尽に遭った一人の子供だった。

「シ……シエン……」

鼻声で俺の名を呼ぶと、彼女はすがるように、勢いよく俺に飛びついて抱きしめてきた。

「……すっごく、怖かったんだから……」

アイリンは俺の肩に顔を埋め、こもった声で震えながら続けた。「寝てたら、急にあのサキュバスが飛び込んできて。速すぎて、指先に雷を集める暇もなかった。一撃で、気を失わされて……」

彼女の細い指が俺の服をぎゅっと掴んでいる。まるで、俺がまた消えてしまうのを恐れているかのように。

「目が覚めたら、変な鎖で祭壇に縛られてて……全身の力が吸い取られていくみたいで、すごく、すごく体が重くて。それでまた、眠っちゃって……」

彼女の声は次第に小さくなり、そこには依存と安堵が混じっていた。

「次に目を開けたら……シエンの腕の中だった。その時、分かったんだ。シエンなら、絶対助けに来てくれるって」

俺は手を伸ばし、彼女の背中を優しく叩いた。落ち着きを取り戻していく呼吸を感じる。その瞬間、王宮の惨状も、龍王の狂気も、遠い世界の出来事のように思えた。

「……ごめん。遅くなった」

俺は静かに言った。視線は無意識に、向かい側で豪快に酒を煽りながら他愛もない話を吹聴しているクレドと、その傍らで黙々とスープを飲み、未だに面をつけている良奈へと向けられた。

アイリンが次第に落ち着いていくのを見て、心の中で誓った。二度と、こんなことはさせない。

俺はアイリンの柔らかい青髪を軽く撫でた。自分でも驚くほど、決然とした口調で言う。

「大丈夫だ。二度とあんな思いはさせない。それに、今回はクレドさんがいたからな。彼が間に合ってくれたおかげで助かったんだ」

アイリンは鼻を啜り、俺の言葉に促されるようにテーブルの反対側へ視線を移した。

そこは、まさにカオスだった。クレドは豪快に片足を長椅子に乗せ、巨大な木ジョッキを掲げて隣のテーブルの冒険者たちと狂ったように乾杯している。「救世の英雄」としての殺気は霧散し、今はただの酒飲みにしか見えない。そして、その隣に座るアウグストゥスは、クレドから手渡された強い酒を一口舐めただけで顔を真っ赤にし、白目を剥いて「ゴンッ!」と音を立ててベイクドポテトの皿に突っ伏し、深い昏睡状態に陥っていた。

その滑稽な光景に、アイリンはついに堪えきれず、ふふっと笑い声を漏らした。蒼い瞳にはようやくいつもの輝きが戻っていた。

「シエン、みんなありがとう。……あなたも、ありがとうね」

彼女は頬を微かに赤らめ、俺の肩に頭を預けた。今度は衰弱からではなく、安心感からくるものだった。

食堂の喧騒、そして肩にかかる心地よい重み。一晩中張り詰めていた心の糸が、ようやく完全に解けていくのを感じた。

その時、酔っ払っているはずのクレドが、ふとこちらに視線を向けた。その瞳は一瞬だけ鋭い知性を光らせたが、すぐにまた酔いの中に隠され、彼は再び大笑いしながら酒を飲み続けた。

手元のアイリンを見下ろすと、彼女の呼吸は穏やかで深いものに変わっていた。度重なる災難を経て、この安心感が彼女を深い眠りへと誘ったのだろう。

深夜の微風がテラスを通り抜ける。遠くの森の冷気と、下の通りに残る賑やかな熱気が混じり合い、鮮やかなコントラストを描いていた。

アイリンは油ぎってはいるが温かい木のテーブルに突っ伏して、規則正しい寝息を立てている。金の灯火が彼女の絹のような青髪を照らしていた。彼女を起こして、せめて寄宿舎の柔らかなベッドへ運ぼうと思ったが、その時、ずっと隅で沈黙を守っていた良奈が、俺に軽く手招きをした。

その動きはしなやかで、夜陰に浮かぶ白く滑らかな手は、どこか現実離れした美しさを湛えていた。彼女は上方のテラスを指差すと、そのまま背を向け、黒い制服の裾を翻して角へと消えた。

アイリンを休ませ、俺は急いで後を追った。

テラスの重い木の扉を押し開けると、視界が一気に開けた。銀色の月光が地面に降り注ぎ、スウィヤの夜景が足元に広がっている。点在する灯火は、まるで砕け散った星々のようだった。

良奈は欄干に背を向けて立っていた。俺の足音を聞くと、彼女はゆっくりと振り向き、数々の死線を共にしたあの白い面へと手を伸ばした。

「カチッ」と軽い音がして、面が外され、彼女の指先にぶら下がった。

再び現れたのは、白皙で整った、息を呑むほど美しい素顔だった。激戦を終えたばかりのせいか、彼女の頬には微かに朱が残り、瞳からはいつもの鋭さが消え、少女らしい羞恥と柔らかさが滲んでいた。

「……災難だったな、良奈」

俺は彼女の隣に歩み寄り、冷たい石の欄干に手を置いた。少しでもこの妙な沈黙を和らげようと、努めて軽い口調で話しかける。

「……ええ、そうね」

良奈は俯き、蚊の鳴くような、それでいて鈴の音のように澄んだ声を出した。細い指が無意識に面の縁をなぞっている。「クレド先輩が間に合わなかったら……あなたが、あの祭壇を見つけてくれなかったら……」

彼女は言葉を切ると、顔を上げた。月光に照らされた清らかな瞳が微かに揺れ、真っ直ぐに俺を射抜く。

「シエン。……帰ったら、あなたに渡したいものがあるの」

良奈の声は耳元を撫でるそよ風のように軽やかで、けれどこれまでにない温かさを孕んでいた。突然の宣言に、俺は立ち尽くし、思考が完全にフリーズした。

「え? 何を……?」

思わず問い返したが、心臓が妙に早く鼓動を打つのを感じた。

彼女は顔を逸らし、月光が横顔の完璧な輪郭を浮き上がらせる。答えを教えてくれるのかと思ったが、彼女はただ悪戯っぽく眉を上げ、冷たい白い面を素早く顔に戻した。こぼれ落ちそうだった羞恥の笑みも、赤らんだ頬も、全てを面の下へと隠して。

「――内緒」

いつもの冷淡でどこか距離のある口調。けれど、その響きには確かな軽やかさが混じっていた。彼女は追及を許さぬまま、月光に制服のスカートを揺らして酒場へと続く階段へ足を向けた。残されたのは、想像を掻き立てるその後ろ姿だけだった。

俺は一人、静まり返ったテラスで涼やかな夜風に吹かれていた。

酒場内の喧騒もようやく静まり、床に残った酒の跡と、いくつかの薄暗いオイルランプが揺れているだけになった。空気には二日酔いの前触れのような、気怠い空気が漂っている。

クレドがふらふらと立ち上がった。その泥酔した姿からは、先ほど王宮で暴れ回った「救世の英雄」の面影など微塵も感じられない。彼は重いスーツケースでも運ぶかのように、とっくに前後不覚になり、鼻提灯まで出しているアウグストゥスをひょいと掴み上げた。

「ガキども、そろそろ帰るか……ふぅ、今夜の酒は効いたぜ」

彼は酒臭いあくびを漏らした。俺や良奈、そして叩き起こされてまだ呆然としているアイリンに向けられたその瞳に、一瞬だけ、極めて短い慈愛の色が浮かんだ。

「しっかりつかまってな。こいつは……最終列車だ」

――ボッ!

重苦しい時空爆裂の音と共に、視界は油まみれの酒場から、見慣れた学院の寄宿舎の廊下へと切り替わった。窓の外の月光は依然として静謐で、先ほどの国境を越えた死闘が、まるで荒唐無稽な夢だったかのように思わせる。

クレドはアウグストゥスを適当にドアの横へ立てかけると、早く中に入れと手を振った。

幻理げんりによろしく言っとけ……あの女の『幻影領域』、たまに懐かしくなるんだよな」

そう言い残すと、俺が応える間もなく、彼は再び**【瞬獄】**を発動した。紅い残像が一閃し、空気には微かな火の魔力だけが残された。

廊下は静まり返り、アイリンが目を擦りながら呟く声だけが聞こえる。「シエン……私たち、帰ってきたの?」

俺は頷き、無意識に廊下の突き当たりを見た。そこにはドアの枠を掴んで立つ良奈がいた。月光を浴びた白い面は冷たく孤独に見えたが、彼女は部屋に入る直前、微かに顔を向けて俺を見た。

その瞬間、俺はテラスで彼女が言った言葉を思い出していた。

――「あなたに渡したいものがあるの」。

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