瞬獄の勇者
翌日、学院の訓練場は午後の陽光に焼かれ、熱を帯びていた。
アイリンは砂場の傍らにしゃがみ込み、細い指先に純白の微細な電弧を躍らせていた。彼女は眉をひそめ、魔力を枯渇させずに「蒼」の出力を精密にコントロールしようと試行錯誤している。一方で、もう片側の空気はどこか奇妙な緊張感に包まれていた。
「腰をもっと落として。重心が……違うわ」
良奈が木刀を手に、仮面越しにこもった声で告げる。口調は淡々としているが、俺とアウグストゥスへの指導は容赦がない。
アウグストゥスの高慢な顔は真っ赤に染まっていた。不本意ではあるだろうが、魔神殿で見せた良奈の神業に近い剣術を目の当たりにした後では、プライドを押し殺して構えを修正するしかなかったのだ。俺はと言えば、滝のような汗を流しながら、【観測者】を使って訓練着の下に見え隠れする良奈の下着をこっそり覗き見ていた。
「先日の迷宮任務の第一班、ちょっと来なさい」
幻理先生の、磁性はあるが気だるげな声が訓練場の端から響いた。今日の彼女は正式な黒の長袍を纏い、いつもは半開きにされている両眸には、異様なまでの厳粛さが宿っていた。
俺たち四人は視線を交わし、武器を収めると、古い書物と薬草の匂いが立ち込めるオフィスへと幻理先生に続いて入った。
一歩足を踏み入れると、息が詰まるほど重苦しい空気が漂っていた。幻理先生は椅子に座らず窓際に寄りかかり、黒い長髪を肩に垂らしていた。
「影の森で発見されたあの『魔神』は、階級が高すぎた。学院、あるいはスウィヤの正規軍の処理権限すら超えているわ」
幻理先生は振り返り、その深い眼差しで俺たちを射抜いた。
「封印構造の完全な破壊を防ぎ、そして奴が目覚めた真実を究明するために……『専門家』を呼んだわ」
「専門家?」アウグストゥスが眉を上げた。「まさか……」
「ええ、そのまさかよ」
幻理先生は半身になり、ソファの背後の影を指差した。
「勇者様。着いたのなら、かくれんぼはもうおしまいにしてちょうだい」
「ははは! 幻理、相変わらず鋭いなあ。これじゃあ楽しみがないよ」
清々しくも磁気のある笑い声が窓枠から響いた。
そこには一人の男がしゃがんでいた。炎のように鮮やかな赤い短髪、彫りの深い顔立ち。口元には自信に満ちた笑みが浮かんでいる。軽便な赤い軽装鎧を纏い、腰に差された大陸に名を馳せる赤刀【天火之刃】が、陽光を受けて寒気の走るような紅光を放っていた。
彼は豹のような優雅さで窓から飛び降りた。
だが、彼を見た瞬間、俺の全身の細胞がけたたましい警報を鳴らした。
「っ……」
心臓が不可視の巨手に握りつぶされたかのような窒息感に襲われ、視界がかすみ始める。
その時、周囲のあらゆる音、光影、さらには宙を舞う塵さえもが瞬時に凝固した。世界は死に絶えたような灰色へと変わり、俺の意識だけが激しく脈打っている。
(おい、ヒデヒコ。12歳の誕生日おめでとう)
銀の、茶化すような、だがかつてないほど厳粛な声が脳内の深淵で爆ぜた。
(忠告しておく。この男の前では、絶対に【観測者】を使うな)
(な……なぜだ?)俺は意識の中で必死に問いかけた。
(知る必要はない)
銀は冷たくそれだけを言い残した。
直後、世界の色彩が両眸に流れ込んできた。時間が再び動き出し、俺は慌てて左目の魔力流動を強制遮断した。瞳の奥が焼けつくように痛み、涙が溢れ出る。俺は俯き、クレドを直視することなど到底できなかった。
「こいつらが、あの混乱から生き残ったガキ共か?」
クレドが俺たちの前まで歩いてきた。笑ってはいるが、その鋭い眼光は瞬時に俺たちの魂までを解剖し、観察しているかのようだった。最後に、彼の視線は俺の上で止まり、顎に手を当てた。
クレドは何かを察したのか、わずかに表情を引き締め、俺に向かって眉を寄せた。
「雷と火……筋がいいじゃないか」
俺の心臓が跳ねた。この男、術式も介さずに他人の体内の魔力属性を見抜くというのか?
「さて、それじゃあ魔神様とやらを拝ませてもらおうか」
クレドは腰の刀を格好良く叩き、散歩にでも行くかのような気楽な口調で言った。
「分かりました、クレドさん。馬車を校門に――」幻理先生が言いかけた。
「いい、馬車は遅すぎる。俺が連れて行く」
クレドは先生の言葉を遮った。口角を狂気じみた笑みに吊り上げ、まだ状況を飲み込めていない四人のガキ共を見渡す。
「え?」アイリンが呆けた声を上げた。
クレドが突如として一歩踏み出した。その瞬間、周囲の空間構造が激しく歪み、重なり合うのを感じた。まるで平らな紙が一瞬で丸められるような感覚。
「準備はいいか……**【瞬獄】**を見る覚悟をな」
彼は無数の戦いによるタコが刻まれた大きな手で俺の肩を掴み、もう片方の手を空間の一点へと突き出した。
「しっかり掴まってろよ、ガキ共」
次の瞬間、視覚が完全に機能不全に陥った。速すぎるのではない。空間が強引に圧縮され、恐怖を覚えるほどの重力が内臓を押しつぶさんばかりに襲いかかり、耳元では大気が引き裂かれる鋭い爆鳴が轟いた!
再び地面を踏みしめた時、強烈な嘔吐感に襲われ跪きそうになった。顔を上げると、俺は完全に呆然とした。
目の前にあるのは学院の石畳ではなく、あのおどろおどろしい「影の森」だった。
一秒にも満たない時間で、彼は俺たち四人を連れて、馬車で半日はかかる距離を跳び越えたのだ。
「オエッ……」アウグストゥスが木に縋り付いて吐いていた。
良奈は仮面で表情こそ見えないが、震える両手が彼女の衝撃の大きさを物語っていた。
クレドは手の埃を払い、前方で微かに紫光を放つ裂け目を見つめ、淡々と言った。
「移動を楽にするために……茶髪のイケメン、お前は俺と一緒に迷宮へ来い。他の奴らは入り口を警戒してろ」
クレドの言葉には、否応を言わせない断固とした響きがあった。
俺はクレドの力強い手によって、仔猫のように摘み上げられた。
アウグストゥスは不服そうな顔をし、良奈は刀の柄を固く握りしめた。仮面の下の眼差しが焦燥と共に俺に向けられていたが、クレドの放つ真夏の日差しのような気場に、一歩も踏み出すことができなかった。
「名前は何て言う?」クレドが振り返り、大人の魅力と自信に満ちた瞳で俺を直視した。
「シエン。シエン・スライです」心臓を波打たせながら答える。
「シエンか……入るぞ」
彼は俺を連れ、再びあの紫の幽光が満ちる裂け目へと足を踏み入れた。今度は馬車の揺れも、長い探索もない。ただ、強大な魔力に包まれた絶対的な安全感だけがあった。崩壊した神殿の大ホールへと足を踏み入れると、周囲の紫結晶が震えているのが分かった――クレドが纏う極限の「熱量」に対する、本能的な恐怖だ。
俺は銀の警告を肝に銘じ、観測者を発動させたい本能を必死に抑え込んだ。今の俺は、ただの平凡な12歳の少年に過ぎない。この「最強の英雄」の背後に大人しく隠れているだけだ。
「魔神様! 在宅か?」
クレドは自分の家に帰ってきたかのように、大声で広間に向かって呼びかけた。その声が回廊に反響する。
静かだった紫の霧が、瞬時に沸騰した湯のように激しくうねり始めた。あの吐き気を催すような、馴染み深い威圧感が再び襲来し、重力が二倍になったかのように錯覚する。
やがて、あの巨大な紫の幻影が再び浮上し、無数の重瞳がゆっくりと開き、俺たちをロックオンした。
(勇者クレド……何をしに来た……)
魔神の声は、もはや単なる咆哮ではなかった。魂の深淵に直接響く、重苦しい振動だ。
「魔神様、あんたが迷宮の冒険者に無闇に手を出すような奴だとは、俺の記憶にはないんだがなあ」
クレドは相変わらず片手を腰に当て、刀すら抜かずに、近所の住人と世間話でもするような軽快な口調で続けた。「それに、こいつらも一線を超えた真似はしてない。……何か誤解があるんじゃないか?」
広間の紫光が激しく明滅し、魔神の気配が極めて不安定になった。憤怒、そして……困惑か?
紫光が激しく揺れ、人を押しつぶさんばかりだった威圧感の中に、鼻の奥がツンとするような、腐朽と疲弊の色が混ざり始めた。
クレドの背後に隠れながら、俺は観測者を使わずとも、一流の魔導師としての直感で感じ取っていた。周囲の「構造」が崩壊の悲鳴を上げているのを。
(助けて……助けてくれ、勇者よ……)
魔神の重なり合う声は、もはや氷のように冷たくはなかった。それは英雄の晩年のような、やるせない無力感に満ちていた。
「どう……どうしたんだ?」
常に自信満々だったクレドの背中が、微かに強張った。迷宮を千年守り続けてきた存在が、天敵である勇者に助けを求めるとは、流石の彼も予想外だったのだろう。
(いつからか……迷宮を通じて魔力を増やすことも修練することもできなくなった。それどころか極度に衰弱し、冒険者を襲いたいという飢えに苛まれている……)
魔神の巨躯が微かに震え、重瞳には葛藤の苦悶が滲む。
(内側に別の力が現れ……迷宮を出て大虐殺を行うよう、私を誘惑するのだ……)
魔神の訴えを聞くうちに、クレドの周囲の温度が急激に上昇し始めた。体内の魔力が制御を失いかけている前兆だ。彼の表情は次第に険しくなり、赤い瞳の奥には怒りと憐憫が混ざり合った火が灯った。
「別の力……まさか、『外』の連中か?」
クレドは低く呟き、柄を握る指が軋む音を立てた。
(ゆえに、勇者に私を討伐してもらいたい……)
魔神の巨大な身体がゆっくりと膝をついた。それは守護者としての最後の矜持。
(あの悪意の力ごと断ち切ってくれ。魔神として、私は迷宮の最深部で転生し、再び芽吹く。それが影の森を守る唯一の方法だ……)
「そうか……そうだったのか……」
クレドは頭を垂れ、赤い髪が彼の瞳を隠した。長い沈黙の後、彼は重い溜息を吐いた。
「シエン」クレドが突如俺の名を呼んだが、振り返りはしなかった。
「目を閉じてろ。これから先は、少々子供には刺激が強い画面だ」
俺は反射的に目を閉じた。
「【瞬獄・業火浄化】」
その瞬間、神殿ごと蒸発させんばかりの熱波が爆発した! 目を閉じていても分かる。太陽のように眩い紅の刀光が、時空を引き裂く爆音と共に広間を薙ぎ払った。
断末魔はない。ただ、重い何かが崩れ落ちる轟音と、魔力が霧散する「シュー」という音だけが響いた。
再び目を開けた時、あれほど濃密だった紫の霧は跡形もなく消え去り、空気には焦げた木の清々しい香りが残っていた。魔神の巨影は消え、代わりに掌に乗るほどの大きさの、透き通った紫の種が灰の中に静かに横たわっていた。
クレドは刀を鞘に収めた。その「カチリ」という澄んだ音が、この悲劇の終止符を打ったかのようだった。
「解決だ」
クレドは振り返り、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。だが、瞳の奥の感傷は隠しきれていない。彼は屈んで紫の種を拾い上げ、俺に向かって放り投げた。
「持ってろ、シエン。魔神の種だ。後で幻理に渡して、学校で保護させなさい」
「俺が……?」俺は種を受け取った。中から流れる清らかなエネルギーを感じ、複雑な思いが胸を去来する。
クレドは俺の側に歩み寄り、大きな手で俺の頭を無造作に掻き回すと、少しだけ神秘的な口調になった。
「ガキ、今日聞いたことは外の三人の仲間には言うな。特にあの青い髪の嬢ちゃんにはな。彼女の内の力が万が一揺り動かされると、厄介なことになる」
彼は言葉を切り、深い眼差しで虚空を見据えた。
「この世界で、ある種の輪廻がまた始まっちまったみたいだからな……」
夕日が学院の尖塔に長い影を落としていた。クレドの炎のような赤髪が夜風に揺れ、眩しく光る。
彼は馬車の傍らでアイリン、アウグストゥス、良奈に手を振り、その後で俺だけを脇へ呼び寄せた。彼は懐から黒い紐がついた赤いペンダントを取り出した。それは半透明の紅玉で、内部には消えることのない火種が封じられているかのようだった。空気越しでも、マグマのような熱い魔力構造が伝わってくる。
「持っておけ、ガキ」
クレドはペンダントを俺の手のひらに押し付けた。口調は相変わらずの先輩らしい余裕に満ちている。
「今後、お前にもどうしようもない問題が起きたら、これに魔力を込めろ。どんなに遠くにいても、俺が駆けつけてやる」
俺はずっしりと重いペンダントを握りしめた。掌から温かさが伝わってくる。困惑して彼を見上げ、思わず尋ねた。
「クレドさん……どうして俺に、そこまでしてくれるんですか?」
クレドは一瞬呆けた顔をしたが、すぐに世の中の全てを見通したような笑みを浮かべ、俺の耳元で低く囁いた。
「――なぜなら……お前、あいつにそっくりだからな」
そう言うと、彼は身を起こし、いつもの投げやりな態度に戻った。
「じゃ……そういうことで。バイバイ!」
言い終わるか否か、クレドの全身から眩い紅光が放たれ、周囲の空気が高温で激しく歪んだ。次の瞬間、彼は天を突く火紅の流星となり、一瞬で俺たちの視界の果てへと消え去った。淡い雲の跡だけが残された。
「本当に、勝手な人ね……」
幻理先生は毒づいたが、その深い黒眸には親愛と信頼が溢れていた。
俺は手の中の赤いペンダントを見つめ、何とも言えない感情に浸っていた。勇者の配慮、魔神の求救、そして良奈という故郷を思わせる名前。全ての断片が、俺にはまだ見通せない壮大な構造へと繋がっている。
「シエン、何を見てるの?」
アイリンが不思議そうに覗き込んできた。体力を回復した彼女の頬は、まだ少し赤らんでいる。
俺は慌ててペンダントを隠し、笑いかけた。
「なんでもないよ。今日の食堂のメニューは何かなって、考えてただけだ」
傍らにいた良奈は相変わらず仮面をつけていたが、ペンダントの気配を察したのか、袖に隠した手が微かに動いた。だが、結局彼女は何も言わず、沈黙のまま影の中に立っていた。




