Tears In Heaven
薄暗く、どこか甘酸っぱい匂いがする大正大学軽音楽サークルの部室。
広すぎず、狭すぎず、まるで秘密基地のようなその空間は、照井幸太郎にとって外界の喧騒から逃れられる唯一無二の天国だった。
彼の指先から魔法のように紡ぎ出されるギターの旋律は、入学当初から異次元の輝きを放っていた。
その孤高の才能は当然のように注目を集め、数多のバンドから誘いの声がかかったが、照井の音に対するストイックすぎるまでの探求心は、誰とのアンサンブルも長続きさせなかった。
一年も経つ頃には、彼に声をかける者はいなくなったが、それが照井にとってはむしろ心地よかった。
他者との馴れ合いは最小限でいい。この薄暗がりの中で、魂を捧げるほどに愛するギターと対峙する時間こそが、彼にとっての至福。
エリック・クラプトン――ギターの神様。
そのブルージーで泣きの入った指遣い、魂を揺さぶる一音こそが、照井が追い求めるすべてだった。
ひと月前の来日ライブで、彼の耳に焼き付いた神様の一音一音が、もう誰にも理解されなくていいという諦念にも似た覚悟を纏わせた。
2014年4月。新入生歓迎の喧騒が、まるで遠い国の祭りのように部室の扉の向こうから微かに届いていた。
「やかましい」。照井は眉間に皺を刻み、いつものように愛器のギブソンを手に取り、年季の入ったアンプにシールドを差し込んだ。
真空管が温まり、ブルースの魂が指先に宿ろうとした、その瞬間――。
「失礼しまーす! 新入生です! 軽音サークル、見学させてくださいッ!」
部室のドアが、まるで嵐の到来を告げるかのように勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは、太陽を丸ごと飲み込んだような溌剌とした声と、小型犬のように人懐っこい笑顔を振りまく青年。
小橋開人と名乗ったその男の第一印象は、ただひたすらに「騒がしい」だった。
新入生? 知ったことか。
照井は外界の侵入者を遮断するように目を閉じ、クラプトンの深遠なるフレーズを爪弾き始めた。そこは、誰にも踏み込ませない、照井だけの世界のはずだった。
だが、小橋開人は、そんな照井の鉄壁のバリアをものともしなかった。まるで部室に住み着いたかのように毎日現れ、屈託なく誰彼となく話しかける。
完全に無視を決め込む照井に対しても、一方的に今日の出来事を報告し、照井のギターテクニックを子供のように目を輝かせて褒めちぎった。
「先輩のギター、マジ神っす!」。
その言葉に嘘がないこと、彼が心の底からギターを愛していることだけは、嫌でも伝わってきた。
そして、ある日のこと。照井が何気なく爪弾いたブルースリックに、開人が雷に打たれたように叫んだ。
「うわー! 今の音、シビれますね! ブルースってやつっすか? なんかこう…魂が、ギュンッて揺さぶられます!」。
その言葉に、照井の指がふと止まった。
こいつ、ただ騒がしいだけの男ではないのかもしれない。クラプトンが好きだと言っていたのは、新入生特有の社交辞令だと思っていた。だが、開人の瞳は、音に対する純粋な好奇心と渇望で爛々と輝いていた。
その日を境に、開人は照井につきまとう影のように、しかし太陽のように明るく存在感を増していった。
照井が黙々とギターの練習をする横で、開人は堰を切ったように自身のことを語り続けた。
「俺、石川から出てきたんすよ! 音楽で東京を震わせてやろうって! 早稲田目指してたんですけど、滑って大正で。でも、ここで先輩に出会えたから、結果オーライっす!」
「愛っていう彼女がいるんすけど、愛は早稲田でめっちゃ頑張ってて!来年に海外留学する気なんすよ! 俺も負けてらんないんすよ!」
「俺、タワレコでバイトしてて、生活カツカツで、消費税も8パーに上がって悲鳴あげてるんですけど、愛は親からの仕送りだけで学業に専念してて。やっぱ、育ちが違うんすよねぇ」
「俺ん家、いずみ荘っていう風呂トイレ共同、家賃4万のボロアパートなんすけど、愛はオートロック付きの超オシャレなマンションで。その名もフェアウィンド高田馬場ですよ。自転車で15分くらいの距離なんで、ほぼ毎日上がり込んでますけどね!」
その口ぶりは、少しばかりの自慢と、それ以上のコンプレックスがない混ぜになっているようだった。
大学の格差、住まいの違い、そして何より、愛する彼女に対する劣等感にも似た焦燥感。
それら全てが、この底抜けに明るい男を突き動かす原動力の一端なのかもしれないと、照井はぼんやりと感じていた。
そしてある日、開示するべき自己情報を一通り放出しきったのか、開人は唐突に、しかし真剣な眼差しで照井に頭を下げた。
「先輩、マジで神です! 俺に…俺にギターを教えてください! 弟子にしてください! お願いします!」
石川から、ギター一本で東京を震わせたい。その青臭いが真っ直ぐな夢。
そして、その根底には、ギターを極めることで、愛する彼女との「格差」を埋めたいという切実な想いがあるのかもしれないと、照井は勝手に推測した。
面倒だ。人に何かを教えるなんて柄じゃない。
だが、彼の曇りのない瞳、音楽への渇望、そして何より、自分に向けられた純粋な尊敬の念に、照井の中で何かがカチリと音を立てて動き始めた。
こいつなら、自分の音を、クラプトンへの狂おしいほどの愛を、ほんの少しでも理解できるのかもしれない。
そして、共に切磋琢磨することで、自分自身も新たな音を見つけられるのかもしれない。
「…わかった。ただし、条件がある。毎日ギターに触れろ。遊び半分のつもりなら、今すぐやめろ」
「押忍!もちろんです!」
開人は、体育会系の部活さながらの返事で深々と頭を下げた。
「じゃあ、まずはお前の音を聞かせろ。一番得意なフレーズでいい。全力で弾いてみろ」
照井が顎で促すと、開人は待ってましたとばかりに自分のギターを構え、得意げな顔でロック調のフレーズを弾き始めた。
勢いはある。指もそこそこ動いている。
だが、照井の耳には、その音はあまりにも薄っぺらく、魂のないものに聞こえた。
特に、音を歪ませて歌わせるはずのチョーキング(弦を押し上げるテクニック)が、ただの力任せの雑音にしか聞こえない。
演奏を終え、どうだと言わんばかりの顔でこちらを見る開人に、照井は静かに告げた。
「そのチョーキング、死んでるな」
「えっ…?」
「音が泣いてない。ただ、弦を無理やり引っ張り上げてるだけだ。それじゃギターは歌わない。悲鳴を上げてるだけだ」
照井は自分のギブソンを手に取り、開人が弾いたのと同じフレーズをなぞった。
そして、問題のチョーキングの箇所。照井の指が弦に触れると、まるでそれ自体が意志を持ったかのように、滑らかに、官能的に弦が持ち上がっていく。
ギュイーーーン。
その一音は、ただピッチが上がったのではない。人間の嗚咽のように、心の琴線に触れるような切ない響きを伴って、部室の空気を震わせた。
それは、まさしく「泣き」のギターだった。
「…⋯すげえ…⋯」
開人は、魔法でも見せられたかのように、呆然と呟いた。 照井は続けた。
「弦は、ただの鉄の線じゃない。声帯だと思え。お前が今やっているのは、その喉を力任せに締め上げているだけだ。そうじゃない。まず、頭の中で鳴らすんだ。お前が出したい『声』を。その音程を正確にイメージしろ。そして、その『声』に到達するために、指で、手首で、弦を優しく導いてやるんだ」
開人は、言われた通りに何度も試した。
だが、力みすぎたり、逆に弱すぎたりして、音程は定まらない。
指先はすぐに痛くなり、焦りから余計な力が入る。
「くそっ…! なんで…!」
悔しそうに顔を歪める開人に、照井は最後のヒントを与えた。
「お前が、その音を届けたい相手を思い浮かべろ。そいつの心に直接語りかけるように弾くんだ。ギターは、言葉よりも雄弁だからな」
その一言に、開人はハッとしたように顔を上げた。
彼の脳裏に、誰の顔が浮かんだのか。照井には手に取るように分かった。
開人は一度、深く息を吸って目を閉じると、先ほどとは全く違う、真剣な表情でギターを構え直した。
そして、祈るように、ゆっくりと弦を押し上げていく。
ギュイーン。
その音は、まだ拙く、震えていた。だが、先ほどまでの雑音とは明らかに違った。
そこには、切実な「想い」が乗っていた。音程も、ほぼ正確だ。
開人は、目を見開き、自分の指先から生まれたその「声」に、信じられないといった表情を浮かべていた。
「…⋯できた…⋯かも⋯⋯」
「…⋯まあ、入り口には立てたな」
照井は素っ気なくそう言いながらも、内心では驚きを隠せなかった。
こいつ、とんでもない集中力と、そして何よりも、音楽を自分の感情と直結させる天性の才能を持っている。
照井は、これから始まるであろう、この騒がしくて、面倒で、しかし途方もなく面白いであろう日々の始まりを、確かに予感していた。
こうして、照井と開人の、奇妙で濃密な師弟関係が始まった。開人はこのチームに「バッテリー」と名付けた。
「二人で、すんげぇ音出すんすよ! 野球のバッテリーみたいに!」
キラキラした目で嬉しそうに説明してきた。
照井は特に何も言わなかった。名前などどうでもよかった。
大事なのは、どんな音を奏でられるか、ただそれだけだった。




