ここでキスして
11月の夜、紅葉した木々に相反して、公園のベンチは冷たい。
開人くんの隣に座り、私は少しだけ緊張していた。
模試でD判定を取って以来、彼は少し自信をつけたようだった。
「いやー、それにしてもさ、D判定だよ?D判定!人生でこんなに、自分の可能性を感じた事は無かったね!」
「そうね。頑張ったみたいね」
控えめな私の褒め言葉に、彼はもっと言ってほしいと駄々をこねる。
そういう子供っぽいところも、彼の魅力の一つだと、最近は思うようになった。
彼の言葉はいつも真っ直ぐで、時に私の心を射抜く。
「でも、余り調子に乗らない方がいいよ。まだ早稲田は遠いんだし。」
こういう時、望み通り優しい言葉をかけてあげればいいのだけれど、どうしても現実から目をそらすことができない。
「くっ…手厳しい!でも、そういうところも好きだけど!」
好きだけど。その言葉に、私の心臓がドクンと跳ねた。
彼は事あるごとに、私の事を好きだと言ってくれる。それは、私が嫌いな部分も含めて、彼が受け入れてくれているということなのだろうか。
私は開人くんを見つめた。彼の目は、街灯の下でもキラキラしている。
時々、彼のことを分からないと思う。何を考えているのか、どうしてそんなに能天気なのか。
私の感覚からすると、理解できないことばかりで、イライラすることさえある。
(こういう、まっすぐなところ。言葉を選ばないで、自分の気持ちをぶつけてくるところ。私にはないものだから…惹かれるのかもしれない。でも、同時に…危なっかしくて、見ていられない。)
私の心の中の思考回路は複雑だ。彼の魅力と、彼の危うさ。その両方が、私を惹きつけて離さない。
彼が私の視線に気づき、照れ臭そうにする。
「…な、なんだよ、愛。そんなに見つめて。俺の顔に何かついてる?のりとか?」
「…何もついてないわ。ただ…」
言葉を詰まらせる私に、彼は先を促す。私は意を決して、自分の正直な気持ちを口にした。
「…⋯時々、開人くんのこと、分からないなって思うの。何を考えてるのか、どうしてそんなに能天気なのか。私の感覚からすると、理解できないことばかりで…⋯」
少し落ち込んだ様子の開人くん。やっぱり、私たちの間には、埋められない溝があるのだろうか。
「そっか…⋯やっぱり、愛とは違うのかな」
「…⋯でも、開人くんのそばにいると、自分が今まで知らなかった世界があるような気がするの。予測不能で、面白くて」
彼の能天気さ、思いつきの行動。それは、私の計画的な世界にはないものだ。
彼のそばにいると、まるで新しい本を読んでいるような、予想外の展開に満ちた世界が広がるような気がする。
「俺はさ、愛のこと、全部分かりたいって思ってるよ。愛が何を考えてるのか、何に悩んでるのか。全部知りたい。そして…⋯愛に、俺の歌を届けたい。この気持ちはあの文化祭からずっと変わらない。東京に行っても、どこに行っても」
彼の言葉に、胸が締め付けられる。知りたい。隣にいたい。東京に行っても、どこに行っても。
それは、私が一番欲しかった言葉だった。
沈黙が流れる。遠くで、猫の鳴き声が聞こえる。ミャ~オ…⋯。少し間抜けな響きだ。
開人くんが、ゆっくりと私に顔を近づけてくる。私は目を閉じたまま、身を任せた。
彼の唇の感触。初めてのキス。柔らかくて、少し冷たい。
(⋯⋯キス、ね。意外と、開人くんの唇って柔らかいのね。でも、ちょっと緊張してるのかしら。それにしても、この角度…⋯もう少し右に3度くらいずらした方が、安定するんじゃないかしら?)
私の心の中は、意外なほど冷静だった。初めてのキスなのに、どこか客観的に分析している自分がいる。
そして、さっき聞こえた猫の鳴き声が、頭の中でリフレインする。あの猫、オスかしらメスかしら。なぜ、こんな時に、どうでもいいことが頭をよぎるのだろう。
開人くんが、ゆっくりと唇を離した。顔が真っ赤になっている。ぜぇぜぇと息切れしている。
「…⋯あ、あの…⋯愛…⋯」
私はゆっくりと目を開けた。何も言わずに、彼の顔を見つめる。
「…⋯今、俺たち…⋯その…⋯」
彼は、自分たちが何をしたのか、改めて確認しているようだった。
「…⋯キス、したわね」
私の言葉に、彼は当たり前のことを言われた、という顔をした。
「…⋯うん。そうだね。キスしたね」
そして、私は思いもしない言葉を続けてしまった。
「…⋯で。どうするの?」
どうするの?と聞かれた彼の動揺に、私は思わず笑ってしまいそうになった。せっかく甘い雰囲気になったのに…⋯。
「え!?どうするって!?えーっと…⋯これからも、その…⋯キス…⋯する?かな?」
彼の戸惑った、どこか自信のない答えに、私は小さく「ふふ」と笑った。
こういうところだ。こういう、彼の不器用で正直なところが、どうしようもなく愛おしいと思ってしまう。
(このズレた反応…⋯。でも、それが開人くんなのよね⋯⋯。)」
私は彼の目を見て、少しだけ優しく微笑んだ。
「…⋯またね」
そう言って、私は立ち上がり、歩き出した。彼は慌てて私の名を呼ぶ。
「あ、待って!愛!どこ行くの!?」
「家に帰るのよ。もう遅いから」
「送るよ!」
「大丈夫。一人で帰るわ。…ありがとう」
彼の顔を見ずに、私は公園を出た。
背後から、「東京!俺、やるぞー!愛のためにも!そして、この微分方程式みたいな複雑な気持ちを、歌にしてやる!」という叫び声と、また猫の鳴き声が聞こえてきた。
彼は、初めてのキスを、微分方程式と共に記憶したらしい。
私は、彼の微妙なキスのアングルと、猫の鳴き声と共に記憶した。
甘いのか、シュールなのか。真面目なのか、ふざけているのか。それが、私たちの関係性なのだと、私は悟った。




