いろはにほへと
開人くんの受験勉強は、私の予想通り…いや、予想以上に迷走していた。
彼の部屋を訪れるたびに、私は新たな発見と、新たなため息を強いられることになる。
「えーっと、源氏物語…登場人物が多すぎるんだよなぁ。これ、なんかバンドみたいだな。光源氏がボーカルで、紫の上はキーボード?それともコーラス?いや、ドラムっぽいな、影で支える感じ⋯⋯。で、葵上は…⋯ベース?なんか地味だけど、いないと困る、みたいな」
彼は真剣な顔で、ホワイトボードに複雑なバンドメンバー構成図を描いていた。
受験勉強計画と書かれたタイトルの下には、五線譜と意味不明な歌詞がびっしり。
(画期的っていうか、ただの現実逃避でしょ…。受験期に、五線譜とバンドメンバー構成図でホワイトボードを埋め尽くす人がどこにいるのよ…。)
差し入れのおにぎりを机に置きながら、私は心の中でツッコミを入れる。
彼は得意げに「三角関数を音楽で理解しようとしててさ!画期的だろ?」と言う。
三角関数を叫びながらギターをかき鳴らす姿は、近所迷惑以外の何物でもなかった。
「サイン!コサイン!タンジェント!ラッタッタ~!青春の角度は何度だー!」
「…それで何が理解できるの?」
呆れた声でそう言うのが、私の精一杯の反応だった。彼はすぐにギターを止め、照れ臭そうに笑う。
私の「ちゃんと勉強してるの?」という問いに、彼は慌てて参考書を手に取るが、逆さまに持っている。
その様子を見て、私は深いため息をつくしかなかった。
「…もういいわ。私は私の勉強をするから。ちゃんと、ね」
ドアノブに手をかけた私に、彼は新たな歌詞が浮かんだと聞かせてくる。
「サイン・コサイン・タンジェント、君への想いは無限大!」
「…数学的に間違ってるから」
私はドアを閉めた。
彼の行動は、いつだって私の思考の斜め上を行く。
呆れる事もあるけれど、彼のその無邪気さと情熱には、どこか惹かれるものがあった。
夏の模試の結果が出た日。開人くんからLINEが来た。
『まあ、これから!って感じかな!笑』という、いかにも彼らしい能天気なメッセージ。
私は具体的に教えてほしいと返信した。
そして、送られてきた『早稲田大学文学部 E判定でした…。テヘペロ』という、絵文字付きの潔い(?)敗北宣言。
既読スルーしてしまったのは、どう反応すればいいか分からなかったからだ。
心配?同情?それとも、やっぱりね、という諦め?数分後、彼から電話がかかってきた。
「…E判定、ね。まあ、予想はしてたけど」
少しだけ、正直に言いすぎたかもしれない。電話越しの彼は、明らかに落ち込んでいるのが分かった。
でも、夏模試なんて、まだ始まったばかりだ。ここから、どれだけ伸ばせるかが勝負なんだから。そう、私だってそうやって努力してきた。
「でも、大丈夫よ。ここからが勝負なんだから」
「え…愛?なんか、励ましてくれてる?」
別に励ましているわけじゃない。ただ、事実を言っているだけ。
でも、開人くんには、私にはない、不思議な力があるように見える時がある。
彼の真っ直ぐな情熱は、不可能を可能にするんじゃないか、という気にさせる。
「開人くんなら…やれば、できると思うわ。やれば、ね」
最後の「やれば、ね」に、少しだけ私の本心が混じってしまったかもしれない。彼はそれに気づいたのか、電話越しに少しムッとした気配がした。
でも、すぐに「よし!見てろよ、愛!次の模試で、絶対D判定くらいに上げてやる!いや、C判定だ!CだC!コンプリートのCだ!」
と叫んだ。
「…C判定は、コンプリートじゃなくて、キャッチよ」
またしても、彼のズレた目標設定にツッコミを入れてしまう。
電話を切った後、私は彼の「やれば、できる」という言葉が、彼にとっての希望の呪文になることを願った。
10月になり、開人くんから興奮した様子のLINEが届いた。
『見て見て!模試!D判定!愛のおかげだ!』
D判定。EからD。たった一つのアルファベットだけど、彼にとっては大きな進歩だったのだろう。
添付された画像には、確かにD判定の文字があった。
私の「やれば、ね」という言葉が、少しは彼の背中を押せたのだろうか。
『見たわ。…ふふ。』
そう返信しながら、私は笑いが抑えられなくなっていた。彼の頑張りが、少しだけ報われたことが、純粋に嬉しかった。
彼はすぐに『ふふだって!愛が笑ってる!やっべ、テンション上がる!』と返信してきた。
この人は、本当に単純だ。でも、そういうところが、彼の良さなのだ。
彼はこの勢いでC判定、さらにA判定を目指すと言う。オールマイティーのAだとか言っている。
『…A判定は、エースよ。』
お決まりで訂正を入れる私。
彼の目標設定は、いつもどこかズレている。
でも、そのズレた目標に向かって、彼は彼なりに必死に努力する。
その姿を見ていると、私ももっと頑張らなくちゃ、と思うのだった。




