自由へ道連れ
計測史上二番目の記録的な猛暑を記録した2022年の夏も終わり、暑さ寒さも彼岸までの言葉通り、少し涼しくなり始めた夜。
テレビからは武道館で開かれる元総理の国葬についてのニュースが流れていた。
甲谷愛は思い出したかのように、本棚から高校時代のアルバムを取り、ソファの上で開いた。
武道館でのライブを夢見ていた小橋開人。
その彼が私に愛の告白をしたのは、ちょうど10年前の今日だった。
アルバムをめくると、あの頃の二人がいた。
制服姿で、ギターを抱えて、満面の笑顔の開人。
隣には、少しだけ困ったような顔をした私。
あの頃の開人は、少しだけ痩せていて、髪も短かったけれど、そのキラキラした目は、何も変わっていないように見えた。
私たちはまだ、石川の高校生だった。
早稲田を目指す私と、私と一緒に東京へ行くと宣言していた開人。
未来は、希望に満ちているようであり、同時に、不確かなもののようにも感じられた。
写真の中の開人が、私に話しかけてくるような気がした。
あの頃の、少しズレていて、でもどうしようもなく真っ直ぐな彼の言葉が、耳の奥で蘇る。
(この時の開人はまさか10年後の私が、一人寂しくアルバムを見ているなんて、想像すらしてなかったでしょうね。)
私は、アルバムをめくる手を止めた。
ページいっぱいに写っている、桜の下でギターを掲げる開人の写真。
彼の能天気な「ピンク色の爆弾撒き散らしてやるぜ!」という言葉を思い出す。
そして、当時の不安が、ふと胸をかすめた。
東京に行ったら、私たち、どうなるんだろうね。
その不安は、10年経った今、形を変えて、私の心の中に潜んでいる気がした。
私はあの頃へと意識を飛ばした。私たちが将来を語った、あの春の日へ。
2013年4月。石川の春は、いつも少しだけ遅れてやってくる。
河川敷の桜は、盛りを過ぎて散り始めていたけれど、開人くんは相変わらず、世界の始まりを告げるかのように目を輝かせていた。
「いやぁ、春だねぇ。桜。ピンク色ってさ、なんか希望に満ちてると思わない?俺たちの未来みたいにさ!」
開人くんは、抱えたアコースティックギターを優しく撫でながら、隣で文庫本を読んでいる私に話しかけた。
彼の能天気な発言は、私の思考にズカズカと割り込んでくるのが常だった。
「…希望の色は黄色よ。風水的に」
私は視線を文庫本に落としたまま、淡々と答えた。
こういう、彼のふわふわした比喩には、現実的で正確なツッコミを入れたくなる。
彼の思考を、少しでも地上に引き戻さなくては、という義務感にも近い感情が、私の中にはいつもあった。
「え?そうなの?知らなかった!でも、桜も希望っぽいじゃん?なんかこう、始まりの合図っていうかさ」
「始まりもあれば、終わりを感じる人もいるかもね」
そう言ったのは、他でもない私自身の不安だった。
来年の春、私はこの石川を離れて東京へ行く。ずっと憧れていた早稲田大学へ進学するのだ。
東京。早稲田。それは、私にとって夢の場所だった。
でも、同時に、隣に座る開人くんとの関係を終わらせる可能性があるかもしれない、という不安も孕んでいた。
東京に行ったら、私たち、どうなるんだろうね。
その言葉は、開人くんに聞こえないように、心の中でだけ呟くつもりだったのに、うっかり口から漏れてしまったらしい。
「…え、何?どうしたの急に。なんか怖いよ、愛。今日、なんかあった?」
開人くんが心配そうな顔で私を覗き込んできた。彼の目は、曇り空の下でもキラキラしていた。
私は慌てて本を閉じた。
「別に。ただ、桜を見て思っただけ。綺麗ね、って。そして、すぐに散るのね、って」
「…ねえ、愛。東京、行くの、確定なの?」
開人くんの問いに、私は覚悟を決めて答えた。
「…ええ。早稲田に入る。だから、勉強、頑張る」
すると、開人くんは待ってましたとばかりに前のめりになった。
「よし!じゃあ俺も頑張る!俺も早稲田行く!愛とキャンパスライフをエンジョイする!そんで、東京でバンド組む!愛の隣でギター弾く!」
その勢いに、私は少し呆れた。東京は、彼が思っているほど甘くはないだろう。
私たちの関係だって、東京という大都会の喧騒の中で、今と同じ形でいられる保証なんてどこにもない。
「…開人くん。東京は、石川とは違うわよ。人も多いし、大学だってたくさんある。みんな、それぞれの人生がある。私だって、毎日必死なんだから…」
そう言って、私は彼の無邪気な「早稲田宣言」を少しだけ牽制したつもりだった。
でも、開人くんは立ち上がり、大袈裟にギターを掲げた。
「だからこそ!俺と愛が、東京でドでかい希望の花を咲かせんだよ!桜吹雪どころじゃない、ピンク色の爆弾撒き散らしてやるぜ!」
彼の底なしの楽天主義と、突拍子もない比喩に、私は小さくため息をついた。
(その爆弾、迷惑がられると思うけど。)
心の中でそうツッコミを入れる。開人くんはベンチに戻り、私の隣に座り直した。
「まあまあ。とにかく、俺は愛と一緒なら何でもいいんだ。石川でも、東京でも、宇宙の果てでも」
宇宙の果て?それ本気で言ってるの?っていうか、まず早稲田に受かることから考えなさいよ。
私がどれだけ頑張ってると思ってるの。でも、まあ、そういうところ、嫌いじゃないんだけどね。っていうか、むしろ……。
彼の真っ直ぐな瞳を見つめていると、私の心の中は複雑な感情でぐちゃぐちゃになる。
呆れ、心配、そして、どうしようもないくらい惹かれる気持ち。
その全てが混ざり合って、私はフッと小さな笑みをこぼしてしまったらしい。
「お!今、笑った!愛、笑ったね?なんかいいことあった?」
すぐに真顔に戻る。彼のこういう嗅覚だけは鋭い。
「気のせいよ。さあ、帰りましょう。もうすぐ日が暮れるわ」
立ち上がって歩き出す私に、開人くんが慌てて続いた。
「あ、待って待って!今日さ、いつものレコード屋寄ってかない?なんか掘り出し物ある気がするんだ!」
「また?さっき、もう閉店時間だって言ってたじゃない。」
私の心の中が唸る。
「大丈夫!俺の熱意で開けてもらう!」
あなたの熱意で開くのは、店のドアじゃなくて、私のため息の扉よ…。
私は彼の先を歩き続けた。
東京。早稲田。そして、彼との未来。
それは、桜のように儚いものかもしれない。
でも、彼の能天気な「ピンク色の爆弾」宣言には、少しだけ、本当に少しだけ、希望が持てるような気もしていた。




