ずっと好きだった
文化祭明けの学校は、何もかもまるでなかったかのように、日常という名の服を着ていた。
昇は、窓の外をぼんやりと眺めながら、開人とチャドだけが、あの熱狂の中にまだ取り残されているのだろう、と考えていた。
教室の隅では、男子生徒たちが文化祭のハイライトについて、下世話な噂話に花を咲かせているのが聞こえてきた。
「おい聞いたか? さっき中庭で、チャドと甲谷さんが二人きりで話してたらしいぞ!」
「マジで!? やっぱチャドがリア充確定? 金持ちイケメンは正義!」
「開人、完全に玉砕じゃん! 可哀想に!」
昇は、その会話を耳に入れながら、チャドの空席を、少しだけ心配そうに見つめていた。
放課後。夕焼けの光が微かに差し込む、2年7組のがらんとした教室で、昇は一人、チャドの帰りを待っていた。
5時間目も6時間目も、チャドは教室に戻って来ず、かばんが主人の帰りを待っていた。
なんとなく、放っておけない気がしたのだ。
やがて、教室の戸が静かに開き、チャドが力なく入ってきた。
その顔からは、いつもの自信過剰なオーラは消え失せ、まるで抜け殻のようだった。
昇は、すぐに結果を悟った。
「チャド。どこ行ってたんだよ」
昇が声をかけると、チャドは力なく答えた。
「……保健室。ちょっと、気分が悪くてな」
「大丈夫か?」
「大丈夫に見えるか?」
チャドは昇をギョロリと睨みつけた。その目に涙が滲んでいるのを、昇は見逃さなかった。
「この、歴史的な大失恋を喫した男が! 振られたんだぞ、僕は!」
ドカッと音を立てて、チャドは昇の前の席に座り込んだ。
「……そうか」
昇は静かに相槌を打った。
「ああ! コテンパンに、だ! あの女! なんて言ったと思う!? 『チャドくんの気持ちは、すごく嬉しかった。でも、応えられない』だと! ふざけるな! 僕は茶戸建設の次期社長だぞ!? スタイルだって、そこらのモデルより上等だ! 何が不満なんだ!? って聞いたらな!」
「……なんて返されたんだ?」
「『不満じゃない。でも、今の私の気持ちで応えるのは、チャドくんに不誠実だと思うから』だとよ! クソがつくほど真面目なんだよ、あの女は! で、聞いたんだ! 核心をな! 『じゃあ、開人を選ぶってことか?』って! そしたら……!」
チャドの声が震えている。
「……頷いた、と」
昇が静かに言うと、チャドは机を拳でドンと叩いた。
「……うん、って!」
チャドは悔しそうに叫んだ。
「ちっさく! でも、はっきりと! 信じられるか!? この! パーフェクトな僕が! あの、脳みそお花畑の小橋に! 負けたんだぞ! どこに! いったいどこに負ける要素があったっていうんだ!? 教えてくれよ、昇!」
「……甲谷さんは、開人のどこがいいって言わなかったのか?」
昇が尋ねると、チャドは吐き捨てるように言った。
「なんか……『最初はよく目が合うから、気になってた』……それは僕が命令したからだっつーの! で、『小橋くんは、誰にでも壁を作らずに話しかけて、自分の気持ちに正直で、すごい行動力がある。私には真似できないことを、簡単にやってのける。そういうところに、惹かれた』だとよ! ケッ!」
「……なるほどな。お前には無い部分だな」
昇は思わず本音を漏らした。チャドが睨んできたが、構わなかった。
「で! 小橋にはどうやって伝えるのか聞いたら、『手紙を渡す』ってぬかしやがった!」
「手紙? 今どき、手紙って」
昇も少し驚いた。
「そうだよ! しかも、下駄箱に入れとくんだと! 昭和か! 面と向かって言えってんだ! まあ、もう関係ねえけどな! ……そんな事すら言えず、彼女の前から立ち去ったのさ」
そう言うとチャドは口元に歪んだ笑みを浮かべ、ポケットからクシャクシャになった便箋を取り出した。昇は、嫌な予感がした。
「……チャド。まさかとは思うが」
「……見てたんだよ、柱の影からな。そしたら、本当に開人の汚ねえ下駄箱に、手紙を入れやがった。律儀にお辞儀までして! …ムカついたね。最高に。あの開人が! あんな清純な子を手に入れるなんて! 天地がひっくり返っても許せん! だから……」
チャドは便箋をヒラヒラさせた。
「…回収してやったのさ」
「おい、チャド!」
昇の声が、思わず鋭くなる。
こいつ、なんてことを。
「そして、さらに最高のアイデアを閃いた!」
チャドは、まるで悪戯が成功した子供のように目を輝かせ、ポケットからレターセットと、ペンを取り出した。
「最高の復讐劇だ!」
チャドは、下書きだと言う紙を、昇に渡してきた。
『昨日の突然の告白には、心底驚きました。友人が勇気を振り絞って告白しているところに、土足で踏み込んでくるなんて、どういう神経をされているのでしょうか。正直、信じられません。そして何より…あなたの口、とても臭かったです。もう二度と、私に話しかけないでください。』
昇は、その文を読んで、言葉を失った。
最低だ。
「そう書いた手紙をあの泥棒スパイ野郎の下駄箱に入れてやったんだ……どうだ? 完璧だろ? これで、あの二人の間に、百万年経ってもラブが生まれることはない! ゼロだ! フハハハ! あの時の達成感! まるで、ラスボスを倒した勇者のような気分だったね!」
チャドは勝ち誇ったように笑い、本物の、甲谷の手紙を憎々しげに見つめ、机の中からハサミを取り出した。
「あとはこいつを、八つ裂きにするだけだ。」
「待て、チャド」
昇は、咄嗟にチャドの手首を強く掴んだ。
「離せ! これは僕の正当な権利だ!」
チャドが抵抗する。
「気持ちは痛いほど分かる。ムカつくよな。横からかっさらわれて。好きな女と友人、同時に失ったんだもんな。だがな、お前がその手紙を切り裂いたら、多分…お前が甲谷さんを本気で好きだったっていう、この世で最も美しいピカピカの心まで、ドロドロに汚しちまうことになる。それって、一番悲しいことじゃねえか?」
昇は、チャドの目を見て、静かに、しかし強く言った。チャドの動きが止まった。
ハサミを持つ手が、微かに震えている。
「……もう、後悔してる。あんな女、好きになったこと自体を! 僕を振るだけじゃなく、わざわざ、小橋を選ぶって直接言いに来たんだぞ!? 残酷過ぎると思わないか!?」
チャドが怒号混じりに叫ぶ。
「……逆じゃねえか?」
昇は静かに続けた。
「それは、彼女の誠意なんだろ。恐らく告白された時点で、答えは決まってたはずだ。それでも、お前の真っ直ぐな告白に、どう応えるべきか、真剣に考えたんだよ。お前に対して、死ぬほど言いにくい言葉だ。普通なら、逃げる。でも、彼女はちゃんと、お前の目の前で、自分の言葉で伝えた。それは、お前の勇気に対する、最大限のリスペクトであり、優しさなんだよ…」
チャドの目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙は、悔しさだけではないように、昇には見えた。
「……優しさ……だと…?」
「お前は、どうしようもないお坊ちゃんで、ナルシストで、バカだけど」
昇は言葉を続けた。
「根っこの部分まで腐っちゃいないんだろ? …本当は、止めてほしくて、俺に洗いざらい話したんじゃないのか?」
チャドは、ハッとしたように、涙に濡れた顔で昇を見上げた。図星だったのかもしれない。
「……」
「今なら、まだ間に合う。チャド」
昇は、チャドの目を見つめ、右手を差し出した。
「まだ、取り返せる。その手紙、俺に託してみ。」
チャドは、しばらくの間、激しく葛藤しているようだった。
やがて、わなわなと震える手で、本物の、甲谷愛の気持ちが詰まった手紙を、昇に渡した。
昇は、その少し皺の寄った封筒を、しっかりと握りしめた。
空が茜色と紺色のグラデーションに染まる時間を、マジックアワーと呼ぶらしい。
窓から見えるそんな美しい景色を見る余裕もなく、昇は全速力で昇降口に向かっていた。
開人の下駄箱を開けると、主の登校を待つ上履きがあるだけ。手紙も見当たらなかった。
「……やっぱり、遅かったか!」
昇は舌打ちし、校舎を飛び出した。夕暮れ時の校庭を駆ける。
運動場では、野球部が練習をしており、威勢のいい金属音が響いていた。
その脇にある古びたコンクリートの階段に、見慣れた後ろ姿が力なく座り込んでいるのを見つけた。
「開人! こんな所で何してんだ。 黄昏れるにはまだ早いぞ。」
昇が声をかけると、開人は、振り向きもせず、ぼんやりとグラウンドを眺めている。
「……昇か。いや、ちょっとな。……野球のボールになりてぇなぁなんてな」
「はあ? 何言ってんだ、急に」
「だってさ、ボールって、バットでガツーン!って、思いっきりぶん殴られたら、その力の分だけ、うわーって遠くまで飛んでいけるじゃん? なんか、潔いっていうかさ。めちゃくちゃ素直だよな、ボールって。…俺も、もう、どっか遠くに飛んで行きてぇな……」
その弱々しい声に、昇は偽の手紙を読んだのだと確信した。
「……相当キてるな。…って、感傷に浸ってる場合か! おい、下駄箱に、変なラブレターみたいなの、入ってなかったか?」
開人は、力なく笑って立ち上がった。その笑顔は、ひどく痛々しかった。
「ああ、入ってたよ。甲谷さんからの、ありがたいお返事がな。……いやー、見事なまでのダメ出しだったわ。俺って、本当に、どうしようもなく最低なヤツなんだなって、心底思い知らされた。なによりあんな優しい子に、キッツい文章を書かせちまった自分が、本気で嫌になった。マジで、消えてなくなりたい気分だよ、今」
「その手紙!」
昇は開人の肩をガシッと掴んだ。
「それ、偽物! いたずらだ!」
「……へ?」
開人の目が点になる。
「廊下でさ、ゲラゲラ笑ってるバカどもがいたんだよ。『開人のヤツ、あの手紙読んで、今頃どんな顔してっかなー、あげぽよー』とか言ってやがったから、ちょっと、しめてやったら、全部ゲロった。で!」
昇は、チャドから託された、少しシワのよった本物の封筒を開人に突きつけた。
「これが! 正真正銘! 本物! 甲谷愛さんからの、ガチもんの手紙だ!」
昇は続けた。開人の驚きと混乱が入り混じった顔を見ながら。
「中身は読んでねえ。お前らの恋バナなんざ、俺には1ミリも関係ない。だがな、これは、お前がちゃんと読むべき手紙のはずだ」
「えっ…? いたずら…? 誰が、そんな…? うそ…だろ……?」
開人は、震える手で、恐る恐るその封筒を受け取った。
夕陽の最後の光を頼りに、便箋3枚にわたって綴られた、丁寧な文字を、食い入るように目で追っている。
絶望に彩られていたその表情が、みるみるうちに変化していくのを、昇は黙って見ていた。
驚き、戸惑い、信じられないといった表情を経て、やがて、こらえきれない喜びが顔中に広がった。
「昇ぅぅぅぅぅ!」
開人は手紙を宝物のように胸に抱きしめ、昇に飛びつかんばかりの勢いで叫んだ。
「俺! 俺! 甲谷さんと! 付き合えることになったぁぁぁぁぁ!」
「……だろうな」
昇は、口の端にわずかな笑みを浮かべて、短く答えた。肩の荷が下りたような、安堵感があった。
「やべえ! 信じらんねえ! 夢じゃねえよな!? ちょっと、甲谷さん探してくる! どこいるかな!?」
開人は、手紙を制服の内ポケットに大切にしまい込むと、弾かれたように階段を駆け上がっていった。
「昇!」
走り去りながら、開人は振り返って叫んだ。
「クソッタレども、とっちめてくれて、マジで! マジでサンキューな!!!」
夕焼けに染まる校庭を、希望そのものみたいな勢いで駆けていく開人の背中が、どんどん小さくなっていく。
昇は、その姿が見えなくなる間際に、声を上げた。
「…ボン・ボヤージュ! アミーゴ!」
いつになく大きな声で叫んでしまった事に、昇は少ししてから気づき、小さく苦笑した。
やれやれ、と空を見上げると、一番星が遠慮がちに瞬き始めている。
ポケットからくたびれたピックを取り出し、親指の爪でカチリと小さく音を鳴らした。
自然と口をついて出たのは、斎藤和義のいつもの能天気なメロディーではなく、どこか物悲しく、それでいて優しい、少しだけ切ないラブソングだった。
やがて一つ、夜空に届くような長い息を吐くと、ゆっくりと校舎に背を向け、アスファルトを踏みしめて歩き出した。
なぜか滲む視界のせいで、点き始めた外灯の光が、やけに目に沁みた。




