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Blue Jam Colors the World  作者: シムラ ミケ
第九章

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幕の内サディスティック

「♪報酬は入社後~並行線で ~♪東京は愛せど~何も無い♪」


 横須賀千鶴の、ハスキーで、しかしレーザービームのように鋭い歌声が響いた瞬間、会場の空気が爆発的にヒートアップした。

 それは、「余興」という枠を遥かに超えていた。  

 プロの、本物の歌声。  

 数万人の観客を沸かせてきた若者のカリスマが、この小さな会場で、たった二人のためだけに全霊を込めて歌っているのだ。

 その迫力は、マイクを通さずとも肌をビリビリと震わせるほどだった。


 千鶴の歌声は、樹のタイトなドラム、昇の直実なベース、照井の鋭利なギター、有谷の彩り豊かなキーボードと完璧に融合した。  

 かつて同じ夢を追い、一度はバラバラになった魂たちが、今ここで再び一つになり、凄まじいエネルギーの奔流となってゲストたちに襲いかかる。


 新婦側のエリートたちも、もう澄ました顔ではいられなかった。  

 ネクタイを緩め、手を叩き、体を揺らす。新郎側のバンドマンたちは、椅子の上に立ち上がらんばかりの勢いで拳を突き上げている。  

 見えない境界線は、もうどこにもない。  

 会場はこの上ない熱狂を持って、一つの巨大な「グルーヴ」となっていた。


 高砂席で、開人は震えていた。  

 視界が滲んで、ステージの上の友人たちが光の粒のように見える。

 頬を、熱いものが伝った。一筋、また一筋。  

 拭っても拭っても、溢れてくる。


 次々と過去の記憶が駆け巡る。  

 独善的だった自分。  

 「音楽のため」という大義名分を振りかざし、愛を何度も振り回し、傷つけた自分。

 夢に破れ、バンドが崩壊し、全てを投げ出して空っぽになった自分。  

 吉祥寺の路上で、彼女の気持ちを考えずに独りよがりなプロポーズをして、決定的に拒絶された自分。

 

 俺は、どうしようもないダメな男だった。  

 なのに。


 ステージを見る。  

 樹が、黙々と、しかし誰よりも力強くリズムを刻んでいる。「迷ったらワシのビートに乗れ」と言ってくれた時のように。  

 照井が、職人の顔でギターをかき鳴らしている。かつて俺にギターのイロハを叩き込んでくれた師匠の音だ。  

 有谷が、満面の笑みで鍵盤を叩いている。どん底の俺を拾い上げ、新しい生き方を教えてくれた恩人。  

 千鶴が、俺たちの青春を、あの頃よりも強く、美しく歌い上げている。  

 そして、昇が……俺の無二の親友が、額に汗を滲ませながら、必死にベースを弾いている。


 そんな自分を、それでも信じ、見捨てずに支え続けてくれた友人たちが、今、目の前で最高の音楽を奏でてくれている。  

 俺の愛した音楽が、こんなにも美しい形で帰ってきた。  

 俺が一番大切にしたかった人との、最も幸せな場所で、こんなにも祝福されている。


 胸が熱くて、張り裂けそうだ。  

 感謝、後悔、喜び、愛おしさ。色々な感情が濁流の様に押し寄せ、制御不能な涙へと変わっていった。


「……うッ、ぐ……」


 隣を見ると嗚咽を漏らして、愛が号泣していた。  

 いつも気丈で、感情を露わにすることの少ない彼女が、ハンカチで顔を覆い、肩を震わせて泣いている。

 大粒の涙を、止めどなく流している。  

 開人は初めて見る愛の、子供のような泣き顔に、驚き、戸惑った。  

 そして、肩を抱き、その手を強く握りしめた。


 愛は、自分からあふれ出る大量の涙の意味を、はっきりと理解していた。

 悲しさでも寂しさでもない。感極まったわけでもない。

 これは、「誇らしさ」の涙だった。


 嬉しかったのだ。  

 自分が心の底から愛した人の歩んだ道に、間違いはなかったのだと、証明されたことが。


 この10年、愛は孤独な戦いを続けてきた。  

「なんであんな男と付き合ってるの?」「バンドマンなんて将来性ないよ」「もっといい人がいるのに」。

 親からも、友人からも、職場の上司からも、何度そう言われたか分からない。

 高学歴、高収入の男性からのアプローチもあった。  


 それでも、愛は開人を選んだ。  

 彼の奏でる音が好きだったから。

 彼の無茶苦茶だけど真っ直ぐな生き方が、私の背中を押してくれたから。


 でも、心のどこかで不安はあった。

 私の選択は、ただの意地なんじゃないか。

 私は彼の夢を壊して、平凡な枠に押し込めてしまったんじゃないか。


 けれど今、目の前で鳴り響く音が、全ての迷いを吹き飛ばしてくれた。

 見て。聞いて。  

 これが、私の愛した小橋開人が生きてきた世界よ。  

 こんなにも熱くて、こんなにもカッコよくて、こんなにも温かい仲間たちがいる世界なのよ。


 彼の目指した夢は頓挫したかもしれない。でも、彼が積み上げてきたものは、決して無駄じゃなかった。  

 彼が見ていた世界は、こんなにも美しく、尊いものだったのだ。  

 彼の凄さ、素晴らしさが、この音を通じて、ここにいる全ての人に認められた気がして、物凄く、どうしようもなく嬉しかったのだ。


 ありがとう。  

 最高の景色を見せてくれて、ありがとう。


 曲は2番を終え、間奏へと突入する。  

 ここからは、スペシャルバンドの見せ場、各楽器のソロパートだ。


「ギター! 照井幸太郎!」


 千鶴のシャウトと共に、照井がステージ中央へ出る。  

 ギャンッ! と歪んだギターが唸りを上げる。テクニカルな速弾きと、むせび泣くようなチョーキング。

 プロ顔負けの技術に、会場から「おおっ!」と歓声が上がる。  


 次は有谷だ。ジャズの香り漂う、軽快でお洒落なピアノソロ。

 彼らしい、サービス精神旺盛なフレーズが、会場の手拍子を誘う。  


 そして樹。派手なソロではない。だが、腹に響くバスドラムと、空間を支配するスネアの音色が、音楽の土台を強固にする。

 「このビートについて来い」という、無言の説得力。


 そして、最後。


「ベース! 栗栖昇!」


 昇にスポットライトが当たる。  

 彼はプロではない。超絶テクニックがあるわけでもない。  

 だが、彼は今日この瞬間のために、指の皮が剥けるほど練習してきたのだ。  

 ブン、ブン、と太い音が響く。  

 必死な形相だ。額には玉のような汗が浮いている。普段の冷静な彼からは想像もつかない、鬼気迫る表情。  

 その一音一音に、込められた想いが聞こえるようだった。  

 『おめでとう』『幸せになれ』『俺たちが支えてやる』。  

 不器用な親友からの、魂のメッセージ。


 周りのメンバーたちが、昇を盛り上げるように音を重ねる。

 樹がシンバルで煽り、照井が優しいバッキングを入れ、有谷が笑顔で見守る。  

 その光景は、あまりにも美しかった。


 愛は、開人の手を強く、強く握りしめた。  

 開人も、その手を力強く握り返す。  

 二人の体温が、掌を通して混ざり合う。


 愛は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、ステージを見つめながら呟いた。


「……ブルージャムだね」


 その言葉に、開人はハッとして、そして深く頷いた。


「うん……。ああ、これぞブルージャムだ」


 不完全な人間たちが集まって、ぶつかり合って、傷つけ合って。

 それでも音を重ねれば、こんなにも美しい響きが生まれる。  

 憂いを含んだ人生も、即興で混ざり合って、世界は鮮やかに彩られていく。

 俺たちが歩んできた10年間は、間違いじゃなかった。  

 この最高のセッションこそが、俺たちの人生そのものだ。


 ♪~


 永遠に続いて欲しいと皆が願った演奏にも、終わりの時が訪れた。  

 千鶴のフェイクが空高く舞い上がり、全員の音が一点に収束する。


 ジャァァァァァァァン……!


 最後のシンバル音が響き、残響が式場の高い天井へと吸い込まれていく。  

 深く、長い静寂。  

 誰もが、その魔法が解けるのを惜しむような一瞬の間。


 ワアアアアアアアアッ!!


 爆発音のような拍手と歓声が、会場を包み込んだ。  

 スタンディングオベーション。

 新婦側のテーブルからも、新郎側のテーブルからも、惜しみない拍手が送られている。


「開人! 愛ちゃん! 結婚おめでとー!!」


 かすれた声で、千鶴がマイクを通して叫ぶ。  

 ステージ上のメンバーたちが、肩で息をしながら、汗まみれの笑顔で二人に手を振っている。  

 有谷が親指を立て、樹がスティックを掲げ、照井が会釈し、昇が、泣きそうな顔で、でも誇らしげに笑っている。


 それに続いて観覧席の人々も、手を振ったり、拍手をしたり、指笛を鳴らしたり。


「最高だったぞ!」「お幸せに!」「カッコよかったぞ!」  


 それぞれに祝福の笑顔や声がけをくれている。


 開人と愛は、涙で濡れた顔を見合わせ、どちらからともなく、ふはっと笑い合った。  

 もう、言葉はいらなかった。


 この会場に不協和音は、どこにもない。  

 格差も、偏見も、過去の痛みも、全てが音楽の中に溶けて消えた。  

 ただ、温かな愛と祝福のハーモニーだけが、二人を、そしてこの空間を優しく包み込んでいた。


 それは、多くの愛に支えられ、挫折を乗り越えてきた一人の男の成長と。  

 その男の可能性を信じ続け、共に歩んできた一人の女の愛が。  

 最高の形で結実した、奇跡の瞬間だった。

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