幕の内サディスティック
「♪報酬は入社後~並行線で ~♪東京は愛せど~何も無い♪」
横須賀千鶴の、ハスキーで、しかしレーザービームのように鋭い歌声が響いた瞬間、会場の空気が爆発的にヒートアップした。
それは、「余興」という枠を遥かに超えていた。
プロの、本物の歌声。
数万人の観客を沸かせてきた若者のカリスマが、この小さな会場で、たった二人のためだけに全霊を込めて歌っているのだ。
その迫力は、マイクを通さずとも肌をビリビリと震わせるほどだった。
千鶴の歌声は、樹のタイトなドラム、昇の直実なベース、照井の鋭利なギター、有谷の彩り豊かなキーボードと完璧に融合した。
かつて同じ夢を追い、一度はバラバラになった魂たちが、今ここで再び一つになり、凄まじいエネルギーの奔流となってゲストたちに襲いかかる。
新婦側のエリートたちも、もう澄ました顔ではいられなかった。
ネクタイを緩め、手を叩き、体を揺らす。新郎側のバンドマンたちは、椅子の上に立ち上がらんばかりの勢いで拳を突き上げている。
見えない境界線は、もうどこにもない。
会場はこの上ない熱狂を持って、一つの巨大な「塊」となっていた。
高砂席で、開人は震えていた。
視界が滲んで、ステージの上の友人たちが光の粒のように見える。
頬を、熱いものが伝った。一筋、また一筋。
拭っても拭っても、溢れてくる。
次々と過去の記憶が駆け巡る。
独善的だった自分。
「音楽のため」という大義名分を振りかざし、愛を何度も振り回し、傷つけた自分。
夢に破れ、バンドが崩壊し、全てを投げ出して空っぽになった自分。
吉祥寺の路上で、彼女の気持ちを考えずに独りよがりなプロポーズをして、決定的に拒絶された自分。
俺は、どうしようもないダメな男だった。
なのに。
ステージを見る。
樹が、黙々と、しかし誰よりも力強くリズムを刻んでいる。「迷ったらワシのビートに乗れ」と言ってくれた時のように。
照井が、職人の顔でギターをかき鳴らしている。かつて俺にギターのイロハを叩き込んでくれた師匠の音だ。
有谷が、満面の笑みで鍵盤を叩いている。どん底の俺を拾い上げ、新しい生き方を教えてくれた恩人。
千鶴が、俺たちの青春を、あの頃よりも強く、美しく歌い上げている。
そして、昇が……俺の無二の親友が、額に汗を滲ませながら、必死にベースを弾いている。
そんな自分を、それでも信じ、見捨てずに支え続けてくれた友人たちが、今、目の前で最高の音楽を奏でてくれている。
俺の愛した音楽が、こんなにも美しい形で帰ってきた。
俺が一番大切にしたかった人との、最も幸せな場所で、こんなにも祝福されている。
胸が熱くて、張り裂けそうだ。
感謝、後悔、喜び、愛おしさ。色々な感情が濁流の様に押し寄せ、制御不能な涙へと変わっていった。
「……うッ、ぐ……」
隣を見ると嗚咽を漏らして、愛が号泣していた。
いつも気丈で、感情を露わにすることの少ない彼女が、ハンカチで顔を覆い、肩を震わせて泣いている。
大粒の涙を、止めどなく流している。
開人は初めて見る愛の、子供のような泣き顔に、驚き、戸惑った。
そして、肩を抱き、その手を強く握りしめた。
愛は、自分からあふれ出る大量の涙の意味を、はっきりと理解していた。
悲しさでも寂しさでもない。感極まったわけでもない。
これは、「誇らしさ」の涙だった。
嬉しかったのだ。
自分が心の底から愛した人の歩んだ道に、間違いはなかったのだと、証明されたことが。
この10年、愛は孤独な戦いを続けてきた。
「なんであんな男と付き合ってるの?」「バンドマンなんて将来性ないよ」「もっといい人がいるのに」。
親からも、友人からも、職場の上司からも、何度そう言われたか分からない。
高学歴、高収入の男性からのアプローチもあった。
それでも、愛は開人を選んだ。
彼の奏でる音が好きだったから。
彼の無茶苦茶だけど真っ直ぐな生き方が、私の背中を押してくれたから。
でも、心のどこかで不安はあった。
私の選択は、ただの意地なんじゃないか。
私は彼の夢を壊して、平凡な枠に押し込めてしまったんじゃないか。
けれど今、目の前で鳴り響く音が、全ての迷いを吹き飛ばしてくれた。
見て。聞いて。
これが、私の愛した小橋開人が生きてきた世界よ。
こんなにも熱くて、こんなにもカッコよくて、こんなにも温かい仲間たちがいる世界なのよ。
彼の目指した夢は頓挫したかもしれない。でも、彼が積み上げてきたものは、決して無駄じゃなかった。
彼が見ていた世界は、こんなにも美しく、尊いものだったのだ。
彼の凄さ、素晴らしさが、この音を通じて、ここにいる全ての人に認められた気がして、物凄く、どうしようもなく嬉しかったのだ。
ありがとう。
最高の景色を見せてくれて、ありがとう。
曲は2番を終え、間奏へと突入する。
ここからは、スペシャルバンドの見せ場、各楽器のソロパートだ。
「ギター! 照井幸太郎!」
千鶴のシャウトと共に、照井がステージ中央へ出る。
ギャンッ! と歪んだギターが唸りを上げる。テクニカルな速弾きと、むせび泣くようなチョーキング。
プロ顔負けの技術に、会場から「おおっ!」と歓声が上がる。
次は有谷だ。ジャズの香り漂う、軽快でお洒落なピアノソロ。
彼らしい、サービス精神旺盛なフレーズが、会場の手拍子を誘う。
そして樹。派手なソロではない。だが、腹に響くバスドラムと、空間を支配するスネアの音色が、音楽の土台を強固にする。
「このビートについて来い」という、無言の説得力。
そして、最後。
「ベース! 栗栖昇!」
昇にスポットライトが当たる。
彼はプロではない。超絶テクニックがあるわけでもない。
だが、彼は今日この瞬間のために、指の皮が剥けるほど練習してきたのだ。
ブン、ブン、と太い音が響く。
必死な形相だ。額には玉のような汗が浮いている。普段の冷静な彼からは想像もつかない、鬼気迫る表情。
その一音一音に、込められた想いが聞こえるようだった。
『おめでとう』『幸せになれ』『俺たちが支えてやる』。
不器用な親友からの、魂のメッセージ。
周りのメンバーたちが、昇を盛り上げるように音を重ねる。
樹がシンバルで煽り、照井が優しいバッキングを入れ、有谷が笑顔で見守る。
その光景は、あまりにも美しかった。
愛は、開人の手を強く、強く握りしめた。
開人も、その手を力強く握り返す。
二人の体温が、掌を通して混ざり合う。
愛は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、ステージを見つめながら呟いた。
「……ブルージャムだね」
その言葉に、開人はハッとして、そして深く頷いた。
「うん……。ああ、これぞブルージャムだ」
不完全な人間たちが集まって、ぶつかり合って、傷つけ合って。
それでも音を重ねれば、こんなにも美しい響きが生まれる。
憂いを含んだ人生も、即興で混ざり合って、世界は鮮やかに彩られていく。
俺たちが歩んできた10年間は、間違いじゃなかった。
この最高のセッションこそが、俺たちの人生そのものだ。
♪~
永遠に続いて欲しいと皆が願った演奏にも、終わりの時が訪れた。
千鶴のフェイクが空高く舞い上がり、全員の音が一点に収束する。
ジャァァァァァァァン……!
最後のシンバル音が響き、残響が式場の高い天井へと吸い込まれていく。
深く、長い静寂。
誰もが、その魔法が解けるのを惜しむような一瞬の間。
ワアアアアアアアアッ!!
爆発音のような拍手と歓声が、会場を包み込んだ。
スタンディングオベーション。
新婦側のテーブルからも、新郎側のテーブルからも、惜しみない拍手が送られている。
「開人! 愛ちゃん! 結婚おめでとー!!」
かすれた声で、千鶴がマイクを通して叫ぶ。
ステージ上のメンバーたちが、肩で息をしながら、汗まみれの笑顔で二人に手を振っている。
有谷が親指を立て、樹がスティックを掲げ、照井が会釈し、昇が、泣きそうな顔で、でも誇らしげに笑っている。
それに続いて観覧席の人々も、手を振ったり、拍手をしたり、指笛を鳴らしたり。
「最高だったぞ!」「お幸せに!」「カッコよかったぞ!」
それぞれに祝福の笑顔や声がけをくれている。
開人と愛は、涙で濡れた顔を見合わせ、どちらからともなく、ふはっと笑い合った。
もう、言葉はいらなかった。
この会場に不協和音は、どこにもない。
格差も、偏見も、過去の痛みも、全てが音楽の中に溶けて消えた。
ただ、温かな愛と祝福のハーモニーだけが、二人を、そしてこの空間を優しく包み込んでいた。
それは、多くの愛に支えられ、挫折を乗り越えてきた一人の男の成長と。
その男の可能性を信じ続け、共に歩んできた一人の女の愛が。
最高の形で結実した、奇跡の瞬間だった。




