愛に来て
開人の高校生活に「甲谷愛 観察業務」という新たなミッションが加わったのを、昇は呆れ半分、面白半分で眺めていた。
開人はほとんどの休み時間、窓際の席で静かに文庫本を読む愛を、文字通りガン見している。ノートの隅には、怪しいメモが増えていた。
『KA 観察レポート その7:本日も読書。カバー付きで中身不明。消しゴムを落とした隣の女子(日比野栞)に、光の速さで拾って渡す。天使か? ポイント+20』
そんな細かな情報いるのかとか、ポイントって何なんだとか、突っ込み所満載だったたが、昇はできる限り無関心を装っていた。
そんなある時、ふと愛と開人とバッチリ目が合っている瞬間を目にした。
開人がカメレオンもかくやというスピードで視線を逸らし、窓の外の雲を数えるフリをするのを見て、昇は思わず吹き出しそうになった。
(うおっ! 目、合った! 心臓が、なんか変なビート刻んでる! ドッドッドッ……これって、恋のBPM!? いやいやいや、違う! これは任務遂行に伴うアドレナリンの過剰分泌! そうだ、きっとそうだ! ……)
昇は開人の心の声を予想しながら、笑いをこらえつつ声をかけた。
「何ニヤニヤしてんだよ、開人。ついに頭のネジ飛んだか?」
いつの間にか隣に来ていた昇に、開人はギクリとした顔を向けた。
「ち、違うわ! これは瞑想! バンドの成功を祈願する、スピリチュアルな儀式!」
「ふーん。で、お告げはあったのかよ、教祖様」
昇がからかうと、開人は待ってましたとばかりにドヤ顔で胸を張り、昇にそっと耳打ちをしてきた。
「ビッグニュースだ! 甲谷さん、なんと、椎名林檎が好きらしいぞ!」
「林檎? へえ、あの物静かな子がねぇ。それは意外だな」
昇は純粋に驚いた。確かに、甲谷の雰囲気と椎名林檎の音楽性は結びつかない。
「だろ!? これ、チャドに報告したら、絶対『それ演るしかねえ!』って言うぜ! 文化祭は、俺たちの『本能』を爆発させるしかねえってな!」
「お前が本能爆発させたら放送禁止になるけどな。まあ、チャドのドラムなら、確かに林檎はハマりそうだ」
昇は冷静にツッコミを入れたが、開人の耳には届いていないようだった。
彼の頭の中ではすでに、文化祭のステージで巻き舌シャウトする自分の姿が、エンドレスで再生されているのだろう。
やれやれ、と昇は思ったが、椎名林檎をやる、というアイデア自体は悪くないかもしれない、とも感じていた。
チャドのテクニカルなドラムと、開人のエモーショナルなボーカル、そして自分の堅実なベース。意外な化学反応が起きるかもしれない。
夏休みに入ると、今までの淀みが嘘みたいに晴れ、バンド練習にも熱が入った。
チャドは、甲谷の情報提供という見返りのためか、あるいは純粋に音楽が楽しいのか、予想以上に真剣にドラムに取り組んでいた。
昇も、久しぶりにバンドらしい手応えを感じていた。3人のグルーヴが日を追うごとに一体化していく感覚は、悪くない。
それが、甲谷愛という一人の少女を介した、奇妙な友情(?)によって成り立っているという事実は、少し皮肉な気もしたが。
そして9月22日、運命の文化祭当日を迎えた。
体育館は、学生たちのむせ返るような熱気で満ちていた。
ステージ袖で出番を待つ間、昇は自分のベースのネックを握り、静かに集中力を高めていた。
隣では、チャドが落ち着きなくドラムスティックを回している。
「コバシ! ミューズはまだか!? 僕の晴れ舞台を見に来るんだろうな!? 打合せ通り、彼女が客席に現れたら、僕は愛を告白する! いいな!」
「わ、わかんねえって! それより、もうすぐ出番だぞ! 集中しろ!」
開人も客席をキョロキョロと見回している。
昇は内心、本当に甲谷さんは来るのだろうか、そしてもし来たら、この二人はどうなるのだろうか、と考えていた。
面倒なことになるのは避けたいが。
オープニングSEが鳴り響き、3人はステージへ飛び出した。
思った以上の歓声に、昇も少しだけ高揚する。
『林檎祭』と題した告知が効いたのか、女子生徒からの黄色い声援が多いようだ。
昇は冷静にベースラインを刻み始める。
1曲目『歌舞伎町の女王』、2曲目『本能』。練習の成果は出ていた。
チャドのドラムは正確でパワフルだし、開人のボーカルも、いつもよりは安定している。
体育館の空気が次第に熱を帯びていくのを、昇は肌で感じていた。
そして、開人が叫んだ。
「次でラスト! 俺たちのすべてを込めて! 捧げます!『丸の内サディスティック』!」
チャドが、あの気怠くも官能的なリズムを刻み始めようとした、その瞬間だった。
体育館の後方に少しの光が差し込み、そこに小さな人影が現れたのを、昇は視界の端で捉えた。
間違いない、甲谷愛だった。
その瞬間、開人とチャドの視線が、磁石のように愛に吸い寄せられるのがわかった。
「キターーーッ!」
チャドがスティックでシンバルを派手にクラッシュさせる。
うるさい、と昇は思った。
「女神降臨! 見ろコバシ! 愛のミューズが、この僕の勇姿を見届けに来てくれたぞ!」
「お、おう! 見えてる!」
開人の声も上ずっている。
昇は、二人の動揺が手に取るように分かり、内心おいおい、これから演奏だぞと呆れた。
そこからの演奏は、ある意味、伝説物であった。
チャドのドラムは明らかにテンポが走り、ハイハットの音量は異常にデカい。アドリブも入れすぎだ。
開人のボーカルは興奮で裏返り、「♪肺に落ちてトリップ〜」の部分はもはや悲鳴に近く、ある意味リアルだった。
唯一、昇だけが眉一つ動かさず、クールなベースラインを刻み続けていたが、内心(おいおい、学芸会かよ、これ)と毒づいていたのは言うまでもない。
それでも、必死にリズムをキープし、この崩壊寸前の演奏を最後まで支えようと努めた。
(やべえ、嬉しい! この気持ち、もう止めらんねえ!この思い、届けぇ! )
開人のそんな心の声が聞こえてきそうな、熱に浮かされたような表情を、昇は横目で見ていた。
最後の音が体育館に響き渡り、一瞬の静寂。
そして、意外にも嵐のような拍手と歓声がステージを包んだ。
熱量だけは伝わったのかもしれないな、と昇は思った。
「サンキュー、オーディエンス!」
チャドはスティックを高々と掲げ、叫んだ。
「そして……愛だ!」
次の瞬間、チャドはドラムセットから飛び出し、客席の愛のもとへ一直線に突き進んでいった。
昇は(あーあ、やっぱりやるのか)と頭を抱えたくなった。
「甲谷愛さん! 図書室の窓際で本を読む、その凛とした横顔! その美しさに! この茶戸心は! 心臓を撃ち抜かれました! 僕と! どうぞ! 付き合ってください!」
チャドは、右膝をつきエアで花束を差し出すポーズを決めた。
体育館中が固唾を飲んで、愛の返事を待っているのを、昇はステージ上から冷静に見ていた。
その時だった。
「ちょっと、まったーーーーっ!」
辛うじて裏返るのを堪えた様な、何とも言えない憂いを帯びた声が響いた。
声の主は、ステージに残っていたはずの開人。
いつの間にかマイクスタンドを放り出し、息を切らしてチャドの後ろに立っていた。
昇は(おいおい、お前もかよ!)と、もはや呆れる気力も失せていた。
「俺もだ! 俺も言わせてくれ! 誰もいない放課後の教室で、黙って花瓶の水を替えてる君! 誰かがぽい捨てした紙屑を、そっとゴミ箱に入れてる君! 職員室に、誰かの落とし物を、こっそり届けてる君! そんな、誰にも気づかれないような君の小さな優しさ! それを発見するたびに! 俺は! どんどん君から目が離せなくなった! いつの間にか、俺は君を追いかけてた! 甲谷さん! 俺と! 付き合ってください!」
再び、体育館は水を打ったように静まり返った。
チャドは開人を睨み上げ、開人は愛を真っ直ぐに見つめている。
愛は二人の男を、驚きと戸惑いの入り混じった表情で見ている。
昇は(さあ、どうする、甲谷さん)と、興味深く行方を見守っていた。
「……ありがとう、小橋くん、茶戸くん」
愛は、か細いながらも芯のある声で言った。
「二人の気持ち、すごく…驚いたけど、嬉しいです。あと……」
彼女はステージ上の昇に視線を送り、小さく会釈した。
「演奏も、すごく、かっこよかったです」
その一瞬、体育館の照明が嘘のように揺らめいた。心臓のあたりが、ほんの少しだけ熱を持つ。
……いや、気のせいだ。熱気のせいだ。
昇は、予想外の言葉に内心ドギマギしながらも、クールを装い頷き返した。どうせ社交辞令だ。
「あの……すぐには決められないから……答えは、次の登校日まで、待ってもらってもいいですか?」
「もちろんさ!」
チャドは勝利を確信しているかの様な笑みを浮かべた。どこからその自信が来るんだか。
「美しい君のためなら、僕は永遠にだって待つつもりだ!」
開人は、ただ黙って、力強く頷いた。
昇はまた面倒なことになるな、そんな予感がした。
祭りの後のステージ裏は、興奮の残滓と撤収作業の喧騒が入り混じっていた。
昇がアンプのケーブルを巻いていると、案の定、チャドが開人に詰め寄っていた。その顔は怒りに燃えている。
「おいコバシ! どういうつもりだ、テメェ! スパイがターゲットに横恋慕とか、三文芝居にも程があるぞ! 万死に値する! 裏切り者! この平成の明智光秀め!」
開人は、ライブと告白のダブルパンチで、魂が半分ほど体から抜け出た状態のようだ。
「……はぁ……」
「お前のその、KYさえなければ! 今頃僕は! 愛さんと二人きりで! 薔薇色のデートプランについて語り合っていたはずなんだ! お前のせいで! 僕の幸福な時間が、無駄になっただろうが! どうしてくれる! まあ、結果は見えているがな! 愛さんが選ぶのは、この僕に決まっている! フハハハハ!」
チャドの自信過剰な高笑いが響く。
「……届いたかな……俺の歌……」
開人は、チャドの罵声など耳に入らない様子で、ぽつりと呟いた。昇は、そんな二人を見て、深くため息をついた。
「お前ら、いつまで青春ごっこやってんだ。さっさと片付けるぞ」
うんざりした声で促すと、二人はようやく我に返ったようだった。




