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Blue Jam Colors the World  作者: シムラ ミケ
第九章

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某都民

 有谷からの電話を切った後、横須賀千鶴はしばらくスマートフォンの画面を眺めていた。  

 鏡に映る自分は、撮影用の濃いメイクをしている。

 ネット発の歌姫、「夜好性」、若者のカリスマ。それが今の自分の肩書きだ。

 だが、今の千鶴の顔は、どこか迷子になった少女のように頼りなかった。


 カレンダーアプリを開く。  

 2020年1月12日。登録された「開人の結婚式」という文字が、やけに眩しく目に映る。


(あたしがいた頃より下手だったら容赦しねえ、か……)


 有谷に啖呵を切った手前、無様な真似はできない。

 プロの技術を見せてやらなきゃいけない。  

 だが、彼女の胸に去来したのは、演奏へのプレッシャーとはまた別の、もっと古く、もっと複雑な感情だった。


『Wind texture multi-headed』


 口の中で、かつてのバンド名を転がしてみる。  

 苦くて、でも甘い、青春の味。  

 プロになるという夢を共有し、狭いスタジオで汗を流し、同じステージで切磋琢磨した日々。

 開人のひたむきで直情的なギター、凪沙のクールで正確なベース、楽未の天真爛漫なキーボード

 そして圧倒的な存在感でバンドを支配していた、あの男。

 黒羽デイヴ。


 千鶴は衝動的に連絡先リストを開き、指先をスクロールさせた。

 「D」の欄で指が止まる。  

 メッセージアプリの画面には、最初に出会ってから、一度も更新されていない彼のアイコンが表示されている。  

 ステージライトを浴びて、世界を見下ろすように不遜に笑うデイヴの姿だ。


(……このサプライズ、あいつがいたら、どうなるんだろ)


 千鶴は、この開人と愛のための晴れ舞台を、自分の力で「完璧なもの」にしたいという抗いがたい欲求に駆られていた。

 開人の心のどこかには、まだバンド解散の傷跡が、古傷のように疼いているはずだ。

 それを本当に清算できるのは、あたしの歌ではない。

 全ての元凶であり、全ての始まりだったデイヴが加わった時ではないだろうか。

 憎しみも嫉妬も乗り越えて、ただ「おめでとう」と言うために音を鳴らす。

 それこそが、最高の祝福になるはずだ。


 指先が震える。  

 何を送る? 謝罪? 勧誘? それとも罵倒?  

 入力フォームに文字を打ち込んでは、バックスペースで消す作業を繰り返す。


『アンタのせいで解散したんだから、罪滅ぼしする気ない?』  

 ……重い。これじゃ既読スルー確定だ。


『開人が結婚する。祝ってやりたいと思わない?』  

 ……くどい。あいつが一番嫌うやつだ。


『久しぶり。元気?』  

 ……元カノかよ。気持ち悪い。


 数分間、ため息をつきながら入力と削除を繰り返した後、千鶴は結局、最もシンプルで、最もかつての自分らしいメッセージを送ることにした。  

 余計な修飾はいらない。音楽の話だけでいい。


『開人の結婚式で、マルサディやる。ユーも歌わね?』


 送信ボタンを押す。  

 「シュッ」という送信音と共に、吹き出しが画面に吸い込まれていく。

 心臓が小さく跳ねた。 スマホをテーブルに置き、水を飲む。味がしない。

 既読が付くかどうかも分からない。ブロックされているかもしれない。

 あるいは、もう音楽なんて辞めてしまって、このアカウントすら見ていないかもしれない。


 だが、反応は驚くほど早かった。画面が光る。通知音。


『ミーがタダで歌うとでも?』


 絵文字の一つもない、素っ気ないテキスト。  

 だが、その文面を見た瞬間、千鶴の脳内にあいつのふてぶてしい声が鮮明に再生された。  

 思わず口元が緩む。相変わらずだ。相変わらず、どうしようもない「スター」様だ。


『ギャラは開人の満面の笑み。あとは愛さんの涙?』


 即座に打ち返す。これが一番効くはずだ。


『安っちいギャラだな』


『最高のギャラでしょ』


 数秒の沈黙。


『とりま詳細送れ』


 千鶴はガッツポーズをしたくなりそうな手を抑え、日時と会場の情報、そして有谷たちが考えたセットリストの構成を伝えた。

 しかし、それを最後に、デイヴからの返信は途絶えた。

 既読はついている。だが、スタンプ一つ返ってこない。


(……ま、ボールは投げたし)


 千鶴はスマホを伏せた。  

 これ以上、追い撃ちのメッセージは送らない。来るか来ないか、それは彼が決めることだ。  

 あたしたちにできるのは、最高のステージを用意して待つことだけだ。


 

 結婚式当日、雲ひとつない青空が広がる都内某所。  

 その光が届かない場所があった。


 高円寺、築四十年の木造アパート。その一室で、黒羽デイヴはカーテンを閉め切ったまま、使い古されたアコースティックギターを爪弾いていた。  

 部屋には、飲み干した缶ビールの空き缶の山、そして書き散らかした歌詞のノートが散乱している。

 きらびやかな結婚式場とは対極にある、停滞と混沌の空間。  

 だが、デイヴの指が奏でているのは、祝いの旋律だった。


『丸の内サディスティック』のコード進行。  

 千鶴からのメッセージを受け取ってから、無意識のうちに何度もこの曲を弾いていた。


(……開人の結婚、か)


 あの真っ直ぐで、お人好しで、音楽のことしか頭になかった男が。  

 そして、そんな彼の才能を誰よりも信じ、隣で支えていた、芯の強そうな彼女が。


 デイヴはギターを置き、天井を見上げた。  

 正直に言えば、嫉妬がないわけではなかった。  

 バンドを失い、プライドだけを抱えて、一人で小さなライブハウスのステージに立ち続けている自分。客はまばらで、ノルマを払うためにバイトをする日々。  

 それに比べて、開人は音楽とは違う道ではあるが、確かな「愛」と「生活」を手に入れた。


 壁にかかったステージ衣装を見る。  

 かつてWTMHのライブで着ていた、派手なジャケットだ。  

 デイヴは立ち上がり、そのジャケットに袖を通した。鏡の前に立つ。  

 そこには、まだ死んでいない「スター」の目が映っていた。


(ミーが行ったら、どうなる?)


 デイヴは想像する。  

 披露宴のクライマックス。バンド演奏が始まり、盛り上がったところで、扉を蹴破って自分が登場する。  

 悲鳴のような歓声。驚愕する開人と愛。  

 マイクを奪い、千鶴をコーラスに従え、圧倒的なパフォーマンスで会場の全てを自分のものにする。  

 主役であるはずの二人すら霞んでしまうほどの、強烈な光。  

 それは、いかにも「黒羽デイヴ」らしい振る舞いだと思えた。彼らを祝福する最高の形は、自分が今も最強のスターであることを証明し、その光を分け与えることだと。


 ジャケットの襟を正す。  

 行こうか。行って、全部奪ってやろうか。


 だが。  

 ドアノブに手をかけた瞬間、ふと脳裏に浮かんできた映像があった。


 狭いスタジオ。湿気た空気。  

 難しいギターフレーズが弾けた時、「デイヴ! 聞いてくれ! 今のすごくないか!?」と、子供のような笑顔で振り返る開人の顔。  

 ライブ中、背中合わせで歌う自分の声を、信頼しきった瞳で見つめてくる開人の顔。

 そこにあったのは、打算も嫉妬もない。ただ純粋な、音楽への愛と、ボーカリストへの憧憬だけだった。


「……はは。あいつ、泣き虫だからな」


 デイヴの手が、ドアノブから離れた。  

 自分がステージに上がれば、会場は盛り上がるだろう。  

 だが、それは「WTMHの再結成ライブ」になってしまう。  

 今日の主役は、バンドじゃない。俺でもない。  

 小橋開人と、甲谷愛だ。  

 二人が積み上げてきた月日が結実し、築く、新しい家族の物語の始まりだ。  

 そこに、過去の亡霊が土足で踏み込んで、スポットライトを奪っていいはずがない。


「……主役は、ミーじゃない」


 デイヴは自嘲気味に呟くと、ゆっくりとジャケットを脱いだ。  

 派手な衣装が床に落ちる。  

 それは、彼が「スター」という鎧を脱ぎ捨て、一人の友人として開人の幸せを願った瞬間だった。


 スマートフォンを手に取る。千鶴のトーク画面を開く。  

 文字を打つ指は、もう迷っていなかった。


『やめとく。今日はあいつらが主役だろ。ミーが行ったら全部持ってっちまうからな』


 強がりだ。精一杯の、虚勢だ。  

 でも、これが黒羽デイヴという男の、不器用な誠実さだった。


 送信する前に、一文を付け加えた。


『開人によろしく。心から、おめでとうってな』


 送信ボタンを押す。  

 そして、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを取り出した。  

 プルタブを開ける。プシュッ、という軽快な音が、静かな部屋に響く。  

 デイヴは、缶ビールの写真を撮り、メッセージに添付して送信した。


 画面には映らないが、デイヴは窓の外、開人たちがいるであろう空の方角に向かって、缶を掲げた。  

 誰にも見られない、たった一人の乾杯。


「……幸せになれよ、ブラザー!」


 一気に煽ったビールの味は、少しだけ塩辛かった。


 会場に向かうタクシーの中。  

 千鶴は、スマートフォンが震えたのを感じた。  

 通知には「Dave」の名前。  

 緊張しながら画面を開く。


 添付された安っぽい缶ビールの写真。  

 そして、『ミーが行ったら全部持ってっちまうからな』という、相変わらずのふてぶてしい言い訳。


「……ははっ」


 千鶴は思わず吹き出した。  

 まったく、どこまでカッコつけなんだか。  

 でも、最後の『心から、おめでとう』という一文に、彼が隠そうとした本当の想いが滲み出ている気がした。


「……臆病者」


 小さく悪態をつきながらも、彼女の口元には、安堵と、少しの寂しさと、そして確かな温かさが入り混じった、複雑な笑みが浮かんでいた。  

 彼は来ない。  

 それは逃げたのではなく、彼なりの美学で「花を持たせた」のだ。  

 かつてスポットライトを独占していた太陽が、今日は友のために影になることを選んだのだ。


 タクシーが式場に到着する。  

 千鶴はバッグから口紅を取り出し、気合を入れるように塗り直した。


 フロントマンは来ない。  

 だが、彼の魂は、確かにここにある。あたしが連れてきた。

 千鶴はそっと自身の左胸を叩いた。


「……任せときな。あんたの分まで、派手にやってやるから」


 スマートフォンをバッグにしまい、タクシーから足を踏み出した。  

 冬の澄んだ空気が、彼女のドレスを揺らす。  

 最高のステージを届けるために。  

 友の祝福と、ここに来られなかった不器用な男の想いを、その歌声に乗せて。  

 歌姫は、胸を張って華やかなステージへと歩き出した。

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