丸の内サディスティック
2020年、1月。
澄み渡る冬空の下、都内でも指折りの格式を誇る清楚な結婚式場は、幸福の光に満ち溢れていた。
窓の外には手入れの行き届いた日本庭園が広がり、冬の日差しが池の水面をキラキラと反射させている。
純白のウェディングドレスに身を包んだ甲谷愛と、少し緊張した面持ちのタキシード姿の小橋開人。
二人は、神の前で永遠の愛を誓ったばかりの、世界で一番幸せな新郎新婦であるはずだった。
しかし、披露宴会場を包む華やかな空気の中には、決して無視できない不協和音が混じっているのが見て取れた。
それは、会場の中央通路を境に、残酷なほどくっきりと分かれた「空気の断層」だった。
新婦側の招待席には、会社の役員や、出版業界の重鎮、そして愛の同僚であるエリート編集者たちが顔を揃えていた。
彼らの会話は洗練されており、グラスを傾ける所作一つにも品がある。
あちこちで名刺交換が行われ、さながら異業種交流会のような、ビジネスの場と化していた。
対して、新郎側の招待席は――率直に言って、動物園のようだった。
売れないミュージシャン、派手な髪色のバンドマン、バイト時代の仲間たち。
彼らはフォーマルな場に慣れておらず、どこか着せられているようなスーツ姿で、既に酔っ払ったように馬鹿笑いで盛り上がっている。
まるでここだけ、安い居酒屋がそのまま空間転移してきたかのようだ。
テーブルの間に横たわる、見えない境界線。
それは、開人と愛が歩んできた道のりの決定的な違いであり、現代社会が突きつける「格差」という現実の縮図にも見えた。
「……なんか俺、吐きそう」
高砂の席で、開人が引きつった笑みを浮かべて小声で呟く。その額には脂汗が滲んでいる。
新婦招待席から突き刺さる、「あんな男が、あの甲谷さんの夫なのか?」という好奇と値踏みの視線。
開人はそのプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
愛は、テーブルの下で、彼のこわばった左手をそっと自分の右手で包み込んだ。
氷のように冷たい手だった。
(大丈夫。ここにいるのは、みんな二人の門出を祝いに来てくれた人たちなんだから。胸を張って)
そう耳元で語りかけ、指を絡める。
開人のカチコチの心情とは逆に、宴はつつがなく進行し、友人代表のスピーチが始まった。
まず登壇したのは、新婦側の代表。
愛の大学時代のゼミ仲間であり、現在は文部科学省のキャリア官僚として働く、高岸陽利であった。
彼はマイクの前に立つと、会場全体を見渡すように一礼した。その堂々たる立ち振る舞いは、すでに何かの式典のようだった。
「只今ご紹介に預かりました、高岸です。新郎新婦、並びにご両家の皆様、本日は誠におめでとうございます」
彼は淀みない口調で、愛の大学時代の優秀さ、ゼミでの知的探求心の深さ、そして彼女の人柄の素晴らしさを、洗練されたエピソードと共に語った。
ベートーヴェンの楽曲構成になぞらえた論理的な祝辞は、新婦側のゲストを大いに唸らせた。さらに、中国で流行の兆しを見せている新しい風邪の話など、時事的な話題を巧みに織り交ぜながら、この結婚がいかに奇跡的で価値あるものかを証明してみせた。
「……正直に申し上げれば、私は当初、小橋さんの存在に懐疑的でした。しかし、愛さんが選んだ『予測不能な変数』こそが、彼女の人生をより豊かにするのだと、今は理解しています」
高岸はチラリと開人を見て、微かに口角を上げた。それは彼なりの、最大限の敗北宣言であり、祝福だった。
会場からは、その語り口の知性と構成の素晴らしさに、感嘆のため息が漏れる程であった。
愛は心から感謝を込めて深々とお辞儀をし、開人は高岸の不器用なエールを受け取り、笑顔でダブルサムズアップを送った。
会場の空気が、知的な緊張感で引き締まった直後。 次に登壇したのは、新郎側の代表。開人の幼馴染であり、無二の親友、栗栖昇だった。
彼は緊張の余り、ロボットのような動きでマイクの前に立つと、直角に近い角度で深々と頭を下げ、ポケットから仰々しく手紙を取り出し、震える手で広げた。
「おとうちゃん、がんばれぇー!」
静まり返った会場に、幼い子供の声が響き渡った。客席の萌歌だ。その純粋な声援に、会場の空気が一気に緩み、和やかな笑いが起きる。隣の席の栞は、祈るように指を組み、いつになく真剣な顔をしている。
「えー、本日は、開人、愛さん、誠さん……いや、誠におめでとうございます」
初っ端から名前と言葉を取り違えるというとんでもないミス。
新婦側の席からはクスクスという失笑が漏れたが、昇は逆に吹っ切れたかのように、マイペースに朴訥な語り口を続けていく。
語られたのは、高校時代の開人の姿だった。
文化祭での告白から、数々の愛に絡んだエピソードが披露される。新郎側の席からはドッと爆笑が起こるが、新婦側の席の人々は「なんてレベルの低い……」と呆れ顔だ。
しかし、昇は最後に、手紙から目を離し、真っ直ぐに開人を見て言った。
「……開人は、バカで、無鉄砲で、どうしようもない奴です。でも、こいつは太陽みたいな奴なんです。雨の日でも、こいつがいれば、みんなが笑えるんです。そして愛さんさえいれば、いつまでも燃え続ける事が出来るんです。愛さん、どうか、こいつのそばで、ずっと笑っていてやってください」
その言葉の端々には、開人への偽りのない友情と、愛への深い感謝が滲んでいた。
「さて、スピーチはこれくらいにして」
昇がようやくニコリと笑うと、合図を送った。
会場の前方、幕で覆われていたエリアが、式場スタッフの手によってサッと開かれる。
どよめきが起きた。そこに現れたのは、その場には似つかわしくない、本格的なバンドセットだった。
ドラム、キーボード、ギター、ベース。アンプと共にセッティングされている。
「今日というおめでたい日に、祝福の気持ちを、僕たちが一番得意な『音楽』で届けたいと思います! 本日限定のスペシャルメンバー、カモーン!」
昇の掛け声で、客席から三人の男たちが立ち上がった。
古水樹、照井幸太郎、有谷大輔。
招待席から特設ステージへと歩み寄る彼らの背中は、それぞれ違う人生の年輪を感じさせたが、楽器の前に立った瞬間、かつての「バンドマン」の顔に戻った。
開人がこれまでに出会い、共に音楽を奏で、支えられてきた仲間たちだった。
有谷がマイクを託され、悪戯っぽく笑った。
その表情は、マネージャーではなくかつてのパフォーマーのそれだ。
「新郎・小橋開人さんに、そして誰よりも、彼を支え続けた新婦・愛さんに捧げます。この日のためだけに集結した、一夜限りのスペシャルバンドによる、ジャムセッション!」
有谷が高らかにメンバーを紹介していく。
「まずは青山学院大学出身、当バンドの最年少にして心臓、ドラム古水樹!」
その言葉を合図に、樹がスティックを振り下ろす。
ドンッ! タンッ! ドンッ! タンッ!
腹の底に響く、重く、タイトなリズムが空気を震わせた。新婦側のゲストが驚いてグラスを置く。
「次は、石川県庁より愛を込めて、ベース来栖昇!」
そこに絡みつく、昇のグルーヴィーなベースライン。
ドゥダヅドゥ♪ドゥダヅドゥ♪
派手さはないが、樹のドラムと完璧に噛み合い、心地よい低音の絨毯を敷いていく。
「続いて、ギター制作職人やってます、俺たちの師匠! ギター照井幸太郎!」
ギャイーンッ!
照井が奏でるカッティングギターが、鋭く空間を切り裂いた。
その音色は研ぎ澄まされた刃物のように美しく、一瞬で場の空気を支配する。
「ラスト! NO MUSIC, NO LIFE、音楽を愛し、音楽に愛されなかった男! 今日は誰よりも愛を込めて弾きます! キーボード、有谷大輔でお送りします!」
有谷の指が鍵盤を走る。
ティロテロティ♪ティロテロティ♪
ジャジーで、少しセンチメンタルな鍵盤の旋律が彩りを添え、おもむろに前奏が始まった。
その瞬間、愛の心臓が大きく跳ねた。
忘れるはずがない。
高校時代の文化祭、二人にとって、全ての始まりであり、青春の象徴である曲――。
『丸の内サディスティック』
インストゥルメンタルの応酬。
けれど、それは言葉以上に雄弁な会話だった。
照井のギターが泣くように歌い、樹のドラムが力強く叫ぶ。昇のベースが優しく頷き、有谷のキーボードが楽しげに微笑む。
それぞれの人生を経て、傷つき、挫折し、それでも音楽を捨てきれなかった男たちが鳴らす音。それは、完璧に整えられたCD音源よりも遥かに分厚く、そして熱かった。
新婦側のゲストたちも、最初は「なんでボーカルがいないのか」と戸惑っていた。
だが、本物のグルーヴは、理屈を超えて人の体を揺らす。
厳格そうな年配の役員が、指先でリズムを取り始めた。エリート編集者たちが、ネクタイを緩めて体を揺らし始めた。
所得も、経歴も、立場も関係ない。
ただ純粋な音楽の力が、会場の中央にあった見えない境界線を溶かし、一つの熱狂で満たしていく。
高砂の開人は、涙を堪えながら、エアギターをかき鳴らしている。
愛は、手拍子をしながら、その横顔を愛おしそうに見つめていた。
曲がクライマックスに差し掛かり、会場の熱気が最高潮に達しようとしたその時、有谷が叫んだ。
「そしてここで! この最高のセッションを完成させる、最後のピース! スペシャルゲスト、カモーン!」
バーン!
勢いよく、会場後方の重厚な扉が開かれた。
逆光の中、そこに立っていたのは、場違いなほど派手な真紅のドレスを身にまとった、一人の女性。
その圧倒的なオーラに、会場がどよめきに包まれる。
だが、彼女はそのざわめきを一瞥もせず、カツカツとヒールの音を響かせて、レッドカーペットを我が物顔で歩いていく。
迷いのない足取りでステージに上がると、有谷からマイクをひったくった。
「わりぃわりぃ! ちょっと寝坊した! なーんつって」
ハスキーな、しかし会場の隅々まで通る声でそう言ってのけ、不敵に笑ったのは、われらの歌姫、横須賀千鶴だった。




