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Blue Jam Colors the World  作者: シムラ ミケ
第八章

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The Last Emperor

 張り詰めた空気は、飽和状態を超えていた。  

 凪沙の絶縁宣言に対し、楽未は嗚咽を漏らし、有谷はただ立ち尽くす。

 修復不可能。誰もがそう確信した、窒息しそうな沈黙の中だった。


「Whoa, whoa, whoa! My princesses! Stop this ugly catfight! みっともねえぞ!」


 間抜けなタイミングで、場違いなほど明るい声が割り込んだ。  

 デイヴだった。  

 彼はスマホをポケットに突っ込むと、両腕を大きく広げ、まるでオペラの舞台に立つテノール歌手のように、二人の間に割って入った。  

 その表情には、焦りも反省もない。あるのは、「また俺が何とかしてやらなきゃいけないのか」という、陶酔にも似た慈悲の笑みだけだった。


(頼む、デイヴ! お前しかこの場を収められない!)


 有谷は、藁にもすがる思いで彼を見た。  

 このバンドのフロントマンは彼だ。彼が誠心誠意、自分の非を認め、二人に頭を下げて関係を再構築するならば、あるいは、まだ首の皮一枚繋がるかもしれない。有谷は一縷の望みを託した。


 だが、デイヴの口から紡がれた言葉は、有谷の祈りを踏みにじり、粉砕するものだった。


「くだらねえことでギャーギャー騒ぐな! いいか? 今日のライブがクソだったとか、誰が悪いとか、誰と誰ができてるとか、そんなちっちぇー話はどうでもいいんだよ!」


 彼は、凪沙と楽未の肩を、左右の手で乱暴に抱き寄せた。二人の体が強張るのを無視して、顔を近づける。


「ミーはスターだぜ? スターってのはな、全部まとめて面倒見るってことだ! お前らの涙も、嫉妬も、未来への不安も、このミーが全部受け止めて、もっとデカい輝きに変えてやる!」


 デイヴは、二人の傷ついた心を置き去りにしたまま、自分自身の未来図だけを高らかに語り始めた。


「黙って信じればいいんだよ! 武道館も、グラミー賞も、全部この手で掴んでやるからよ! その時、お前らは俺の横で演奏してりゃいいんだ。最高の景色を見せてやる。……わかったな!」


 その言葉は、あまりに傲慢で、あまりに無責任だった。  

 彼は何も見ていない。凪沙がどれほどの想いで耐え忍んできたか、楽未がどれほどの不安の中で叫んだか。

 二人の女性の尊厳など眼中にない。あるのは、「スターである自分」と、それを彩る「付属品」としての彼女たちだけだ。  

 絶対的な自己肯定と、有無を言わせぬカリスマで、全ての面倒事をねじ伏せようとする、いつものやり方。  

 だが、その魔法は、今回ばかりは誰にも効かなかった。  

 凪沙は冷めた目で彼の手を振りほどき、楽未は絶望の眼差しで彼を見つめ返した。


「……茶番は、もう終わりじゃ」


 低い、地を這うような声が、楽屋の温度をさらに下げた。  

 いつからか壁際で腕を組み、全てを無言で観察していた樹が、静かに動いた。  

 その一歩一歩が、処刑台へ向かう死刑執行人のように重い。


「お前が全員を幸せにする? ……笑わせるな」


 樹は、デイヴの目の前で足を止めた。身長差はあるが、樹の纏う威圧感が、デイヴを見下ろしているように錯覚させた。


「お前は、お前自身が快感を得るために、この二人が必要なだけじゃ。お前のその無責任な傲慢さが、楽未の心を焼き、凪沙の心を凍らせた。元凶は、全てお前じゃ」


 樹の言葉は、淡々としていたが、研ぎ澄まされた刃物のようにデイヴの核心を貫いた。


「You don't understand...(ユーには分からな)」

「日本語で話せ。ええ恰好するな」


 デイヴが英語で逃げようとするのを、樹は一喝して遮った。


「お前はスターなんかじゃない。ただの臆病者のガキじゃ」


 樹の指摘は容赦がなかった。


「誰かと深く向き合う事から逃げとる。一人の人間と誠実に関係を築くのが怖いんじゃろ? だからスターという仮面を被って、音楽を利用し、女を利用し、ワシらを利用して、自分の空っぽな心を埋めとるだけじゃ」


 図星だったのだろう。デイヴの顔が引きつる。  


「そんな虚像のお前が、誰かを幸せにできるわけないじゃろうが!」


 それは、デイヴが心の最も深い場所に鍵をかけて隠してきた、剥き出しの真実だった。  

 彼のプライドと、最も触れられたくない弱点を、樹の言葉は抉り出した。


「……ふざけんじゃねえぞ、てめえッ!!」


 逆上したデイヴが、樹の胸ぐらを掴みかかった。

 だが、樹は微動だにしなかった。瞬き一つせず、血走ったデイヴの目を、哀れむように見据えていた。


「図星か?」


 樹の声は、どこまでも冷静だった。


「お前の声は、もう誰にも届かん。見せかけだけで、中身は空っぽじゃけぇ」


 樹が、胸ぐらを掴むデイヴの手を払い除け、強く胸を突き飛ばした。  

 デイヴは数歩よろめき、背中をロッカーに激しく打ち付けた。  

 ガシャン、と大きな音が響く。  

 反論の言葉が出てこない。樹の言葉が、呪いのように彼の全身を縛り付けていた。

 スターの仮面が、音を立てて砕け散っていく。そこにいたのは、ただの怯えた青年だった。


 樹は、凪沙と楽未の方へ顎をしゃくった。


「お前の弱さと身勝手さが、二人を振り回し、ここまで追い詰めたんじゃ。二人に土下座して謝れ。スターの前に、一人の男として、人として」


 命令だった。  

 デイヴは、唇を震わせ、助けを求めるように周囲を見た。だが、誰も彼を助けない。

 有谷も、開人も、ただ彼を見つめているだけだ。  

 カリスマという名の鎧を剥がされ、逃げ場を失った彼は、ゆっくりと凪沙と楽未に向き直った。  

 いつもは自信に満ち溢れていたその瞳が、狼狽えるように揺れ、輝きを失っていく。


 ガクリ。  

 崩れ落ちるように、その場に膝をついた。


「……悪かった」


 デイヴが、深く、深く頭を下げた。  

 その背中は、あまりにも小さく、惨めだった。  

 WTMHの絶対的エース。ステージの上で神のように振る舞っていた男の、成れの果て。


 その光景を、開人は信じられないものを見るような目で、ただ、じっと見つめていた。


「はは……なんだよ、それ……」


 開人の口から、乾いた笑いが漏れた。  

 有谷は、その声の響きに、本当の終わりを悟った。怒りでも、悲しみでもない。失望と嘲笑が入り混じった音だった。


「俺がここまでやって来れたのは……俺たちの音の真ん中にいるのが、絶対的なスターだって信じてたからだ」


 開人はギターケースに手を置き、独り言のように呟いた。


「何があっても揺るがない、道に迷ってる俺たちを照らしてくれる、たった一つのポーラスターなんだって。俺は……その光を信じて、毎日ギターを弾いてきたんだ。お前の横で弾くのが、俺の誇りだったんだよ」


 開人は、虚ろな目で地面に膝をつくデイヴを見下ろした。そこにはもう、かつての熱を帯びた視線はない。


「でも、お前がこうなっちまったら、魔法はもうかけられない。お前がスターじゃなくなったなら、俺たちが一緒にいる意味なんて、もうねえよ」


 有谷は、足元の礎がガラガラと音を立てて崩れていき、自身が沈んでいくのを感じていた。  

 開人は、ゆっくりと顔を上げ、メンバー全員を見渡した。そして、静かに告げた。


「……解散しよう」


 その言葉は、誰にも反論できない絶対的な宣告として、冷え切った楽屋に響き渡った。


「スターが死んだんだ。Wind texture multi-headedも、今、死んだんだよ」


 誰も、止めなかった。止める言葉を持たなかった。  

 最強の布陣だと思っていた五人の歯車は、最初から歪んでいたのだ。

 それが今、限界を迎えて砕け散った。ただそれだけのことだった。


 その夜、有谷は一人、渋谷のタワーレコードの薄暗い事務所に戻った。  

 営業終了後の静まり返った店内。  

 バックヤードの壁には、有谷が自腹で印刷し、手作りしたWTMHのポスターが、まだ誇らしげに貼られている。  


『THE MIRACLE JAM!! 5 Souls create Eternal Harmony!!』  


 有谷が考えたキャッチコピーが、空虚に踊っている。


 有谷は、震える手でそのポスターの端を掴んだ。  

 ビリッ、ビリビリッ。  

 紙が裂ける音が、やけに大きく響いた。


 そのポスターを引き裂き、丸めると、有谷は膝から崩れ落ちた。


 プロになる夢を諦めた自分。その夢を、あいつらに託した。  

 睡眠時間を削り、プライドを捨てて頭を下げて回った。  

 自分はステージには立てないけれど、彼らが武道館に立つ時、その袖で一緒に泣きたかった。WTMHの音楽で、世界を少しだけ彩りたかった。


 それが、こんな形で終わるのか。  

 情欲と、嘘と、エゴで、全てが灰になるのか。


「……チクショウ……」


 悔しさよりも、ただ虚しかった。  

 まるで、自分の人生の第二章が、乱暴に引きちぎられてしまったようだった。  

 手の中にあるのは、丸められた紙屑だけ。  

 オレっちが再び見た夢も、今、死んだんだ。

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