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Blue Jam Colors the World  作者: シムラ ミケ
第八章

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24/31

Forbidden Colours

 有谷大輔にとって、『Wind texture multi-headed』――通称WTMHは、三十路を前にして人生のロスタイムに舞い込んだ、最後の、そして最高の「夢」そのものだった。


 かつてプロのキーボーディストを目指し、挫折した過去がある。  

 才能の限界、生活の不安、そして何より「売れる音楽」と「やりたい音楽」の狭間で摩耗していった情熱。逃げるように楽器を置き、タワーレコードに就職したのは、せめて大好きな音楽のそばにいたいという、未練がましい執着からだった。   

 エプロンを着け、誰かが作った流行歌のCDを棚に並べる日々。それは安定していたが、魂が少しずつ干からびていくような感覚もあった。


 そんなある日、バイトの小橋開人から「マネージャーになってほしい」と頭を下げられた時、有谷の中で止まっていた時計の針が、再び動き出した音がした。  

 プレイヤーとしては立てなかったステージに、裏方としてなら、もう一度夢を見られるかもしれない。  

 二つ返事で引き受けたその日から、有谷の毎日は激変した。


 本業との二足のわらじは、想像を絶する過酷さだった。  

 日中は店舗で在庫管理や接客に追われ、休憩時間にライブハウスへ営業の電話をかけ、退勤後はスタジオに駆けつけてリハーサルに立ち会う。深夜に帰宅してからは、フライヤーのデザインやSNSの更新、経理処理に追われ、睡眠時間は三時間を切ることも珍しくなかった。  

 だが、不思議と疲れはなかった。むしろ、CDを並べるだけの指先が、再び「音楽を創る」熱を帯びていくことに、有谷は生きる喜びを感じていた。


 実際、有谷がマネジメントに入ってからのWTMHの快進撃は、目を見張るものがあった。  

 メンバーの個性はバラバラだが、それが一つのグルーヴとして噛み合った時の爆発力は凄まじい。

 特に2018年のフジロックフェスティバル『ROOKIE A GO-GO』への出演は、バンドを取り巻く空気を一変させる決定的な潮目となった。  

 深夜の苗場で彼らが鳴らした轟音は、早耳のリスナーたちの度肝を抜き、SNSで拡散された。

 それ以降、インディーズチャートではトップ10の常連となり、ライブ会場の動員も右肩上がりで推移していった。


 そして、2019年、冬。  

 有谷は、ついに一つの到達点に手をかけていた。  

 本業で培ったコネクションをフル活用し、何度も頭を下げて回り、ようやく大手レコード会社「アイビーレコード」の制作部長をライブに呼ぶ約束を取り付けたのだ。  

 今日のライブが成功すれば、メジャーデビューへの契約交渉が始まる。  

 インディーズから、光の当たる場所へ。これは、バンドの未来を決定づける運命の一夜になるはずだった。


 渋谷、ライブハウス『WWW X』。  

 楽屋の空気は、成功への期待と、心地よい緊張感で満ちていた。  

 ソールドアウトした会場の熱気が、分厚い扉越しにも伝わってくる。


「オレっち、先方にご挨拶してくるから! みんな、いつも通り! いつも通りやれば絶対大丈夫だから!」


 有谷は興奮を隠しきれず、何度も楽屋と関係者席を往復していた。  

 メンバーの状態は悪くない。  

 小橋開人は、愛用のリッケンバッカーを入念に磨き上げ、いつになく真剣な表情でセットリストを確認している。  

 ドラムの樹は、スティック回しをしながら、瞑想するように目を閉じている。彼の安定感がバンドの心臓だ。  

 ベースの凪沙も、いつも通り静かに精神を統一している。このバンドの調和という聖域を誰よりも大切にしている彼女のことだ。今日のステージの重要性は、痛いほど理解しているはずだった。


 ――不安要素があるとすれば、あとの二人だ。


 有谷は、楽屋の隅で談笑する声に、神経を尖らせた。  

 ボーカルの黒羽デイヴと、今日招待したレーベルの若手女性担当者だ。彼女はデイヴのファンらしく、挨拶にかこつけて楽屋に入り浸り、必要以上に距離を詰めて話している。  

 デイヴは天性の人たらしだ。悪気なく、その甘いマスクとハスキーな声で、相手を魅了するような会話を楽しんでいる。


「ユーの今日の服、似合ってるね。終わったら飲みに行こうよ」


 デイヴが女性の耳元で囁く。その手慣れた仕草に、有谷はヒヤリとした。  

 その瞬間、視界の端で、キーボードの楽未が持っていたペットボトルが、ミシミシと音を立てて歪んだのが見えた。


 楽未の表情が、凍りついている。  

 彼女がデイヴに好意を寄せていることは、メンバー全員が知っている公然の秘密だ。

 だが、有谷は薄々勘づいていた。それが単なる片思いではないことに。二人の間の空気感には、時折、すでに一線を超えた者同士特有の、生々しい湿度が混じることがあったからだ。


(まずいな……)


 有谷は慌てて割って入った。


「あ、あのー、そろそろ本番なんで! 関係者の方は客席の方へお願いできますかー!?」  


 努めて明るく振る舞い、女性担当者を追い出す。  

 張り詰める空気。  有谷は楽未に歩み寄った。


「楽未ちゃん、大丈夫? 今日は大事な日だからね。音楽に集中しよう、ね?」


 有谷は屈み込んで声をかけたが、彼女は小さく頷くだけで、その瞳は焦点が合っていなかった。  

 一抹の不安が、有谷の胸に冷たい影を落とした。


 19時、開演。  

 SEと共にメンバーが登場すると、満員のフロアから割れんばかりの歓声が上がった。  

 一曲目、二曲目。滑り出しは上々だった。  

 開人のカッティングギターが空間を切り裂き、樹と凪沙のリズム隊が重厚なうねりを作る。その上を、デイヴのカリスマ性溢れるボーカルが泳ぐ。  

 心配していた楽未も、多少タッチが荒いものの、なんとかアンサンブルに食らいついているように見えた。


 関係者席の最前列で、有谷は祈るようにステージを見つめていた。

 隣に座る制作部長は、腕を組み、厳しい目でステージを値踏みしている。まだ表情は硬いが、時折リズムに合わせて指を動かしている。

 いける。このままいけば、必ず契約できる。  

 有谷が築き上げてきた夢のタワーは、あと少しで完成するはずだった。


 事件が起きたのは、ライブ中盤。  

 このバンドの代名詞とも言える、長尺のジャムセッション・パートでのことだった。


 合図と共に、楽曲の構成が解体され、即興演奏インプロビゼーションへと突入する。  

 開人のギターソロが火を噴き、チョーキングでむせび泣くような高音を響かせる。呼応するように、樹のドラムが手数を増やし、会場のボルテージを一気に引き上げる。  

 デイヴがマイクスタンドを蹴り上げ、シャウトした。


「Show me your soul!!(お前らの魂を見せろ!)」


 最高潮に達した熱狂。  

 その刹那だった。


 ギャアアアアアアアンッ!!!


 耳をつんざくような、鋭利で、神経を逆なでするような不協和音が、スピーカーから放たれた。  

 楽未のキーボードだった。  

 それはミスタッチなどという生易しいものではない。まるで、鍵盤を拳で叩きつけたような、憎悪と悲鳴が入り混じった暴力的なノイズだった。


 会場の空気が、一瞬で凍りついた。  

 グルーヴが断ち切られる。開人が驚いて振り返る。樹のスティックが一瞬止まる。  

 有谷は自分の顔から、サーっと血の気が引いていくのが分かった。


(やめろ……! 頼むから、やめてくれ……!)


 だが、楽未は止まらなかった。  

 彼女はデイヴを、いや、デイヴが見ている客席の「誰か」を睨みつけながら、狂ったように不協和音を連打し始めた。


 隣の制作部長が、眉をひそめ、あからさまに不快そうな顔で耳を塞いだ。その仕草が、有谷には死刑宣告のように見えた。


 凪沙が、必死にベースのボリュームを上げ、ルート音を強調してアンサンブルを立て直そうとする。

 彼女の指先は血が滲むほどのスラップ奏法で、楽未の暴走を音楽的に包み込もうとしている。  

 だが、一度狂った歯車はもう戻らない。  

 一方は「剥き出しの情欲と嫉妬」を叫び、もう一方は「隠蔽した関係と調和」を守ろうとする。  

 噛み合うはずのない二つの音は、互いを殺し合い、有谷の期待をよそに、無惨に契約書を引き裂いていった。


 ライブ後の楽屋は、氷点下の沈黙に支配されていた。  

 壁の向こうからは、まだ興奮冷めやらぬ客のざわめきが聞こえるが、この部屋だけは別世界のように重い。  

 レーベルの重役たちは、挨拶もそこそこに、逃げるように帰っていった。


「……デビューはまだ早いな」  


 去り際に部長が吐き捨てた言葉が、有谷の胸に深く突き刺さったまま抜けない。


 有谷は、パイプ椅子に座り込み、頭を抱えていた。  

 開人はギターをケースにしまう手を止め、壁を見つめている。

 樹はタバコを吸いに外へ出たまま戻らない。

 デイヴはしかめっ面で、スマホをいじっている。  

 楽未はメイクが崩れるほど泣き腫らし、ソファの隅で震えていた。


 そんな窒息しそうな静寂を破ったのは、普段一番口数の少ない、凪沙だった。


「……なあ、楽未ちゃん」


 その声は、凪いだ海のように静かだった。だが、その深淵には、底知れない怒りのマグマが煮えたぎっているのを感じさせた。


「一つだけ、聞かせてくれへん?」


 凪沙がゆっくりと、楽未の前に立つ。


「なんで、あんな音出したん? 今日が、ウチらにとって、どないな日やったか、わかってたやろ」


「……わかってるよ!」


 楽未が、弾かれたように顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で、逆ギレするように叫ぶ。


「わかってるからだよ! 偉い人たちの前だからって、何食わぬ顔で、嘘の音なんか弾きたくなかった! あの瞬間、あたしの心はあの音だったの! リアルな私の音!」


 その言葉が、凪沙の心の、最も深く、誰にも触れさせてこなかった傷口を抉った。  

 凪沙の肩が、わなないている。


「……リアル? 嘘?」


「そう、デイヴがレーベルの女といちゃついてるの見て、嘘ついてハッピーな音なんて出せるわけないじゃん」


 凪沙の声が震える。


「あんたは、ウチらが今までやってきたこと、嘘やったって言うんか? ……ウチかてな、気持ちはあんたと同じなんやで!」


 プツン、と。 凪沙の中で、何かが決壊する音が、有谷にも聞こえた気がした。


「うちはこのバンドが好きやから! この5人で鳴らす音が、何よりも大事な宝物やから! ……デイヴへの、気持ち押し殺してきたんや!」


 凪沙の告白に、楽未が息を呑む。デイヴがバツが悪そうに視線を逸らす。  

 有谷も言葉を失った。まさか、凪沙までもが。 一人の男を共有し、音を重ねていたのか。


「リズムが崩れんように、みんなが気持ちよく演奏できるように、支えてきたんや! それが……あんたに言わせれば、『嘘』なんか!」


 楽未はショックと、それを上回る激しい怒りで顔を歪めた。


「なんで……なんでよ! 平気な顔して! ずっと騙してたの!? そっちの方が、よっぽど嘘つきじゃん! 凪沙ちゃんのベース、ずっと澄ましてて、何考えてるか分かんなかったけど……そういうことだったの!?」


「そうや! でもな、それはバンドを守るためや! あんたみたいに、自分の感情だけで全てを壊すような真似は死んでもせん!」


 決定的な価値観の断絶。  

 衝動的な感情こそが真実だと信じる楽未と、調和のために感情を滅することこそが愛だと信じる凪沙。  

 二人の正義は、デイヴという歪なピースを介して、最悪の形で衝突した。


 有谷は、止める言葉が見つからなかった。

 もう以前のような関係には戻れない。音を合わせるたびに、互いの肌の記憶と嫉妬が蘇るだろう。  


 凪沙は、ふらりと一歩下がった。  

 楽未から視線を外し、呆然と立ち尽くす開人、スマホを置いたデイヴ、そして有谷の顔を、ゆっくりと見渡した。  

 まるで、愛した場所の最後の景色を目に焼き付けるように。


 そして、静かに、しかし判決を下すようにはっきりと告げた。


「……あかん。もう、あんたとは、同じ音は出されへん」


 それは、楽未個人への怒りだけではなかった。

 守りきれなかった聖域への、深い絶望の言葉だった。


 有谷は天井を仰いだ。  

 積み上げた積み木が、音を立てて崩れ去っていく瞬間だった

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