なくもんか
カラオケボックスの防音扉は、ほとんど意味を成していなかった。
扉のガラス越しに見えるのは、まさに地獄絵図……いや、カオスという言葉が服を着て歩いているような光景だった。
マイクを握りしめ、顔を真っ赤にしてMONGOL800の『小さな恋のうた』を絶叫しているのは、開人と、私の婚約者である栗栖昇だ。
普段は「省エネ」を地で行く昇が、開人に感化されたのか、それともアルコールの魔法か、見たこともない形相で「ほら! あなたにとって! 大事な人ほどすぐそばにいるの!」と叫んでいる。
そして、私の自慢の娘、萌歌の透き通った歌声が鼓膜を揺らす。
五歳児とは思えないピッチの正確さで、いきものがかりの『茜色の約束』を歌い上げている。
隣で踊る大人二人には目もくれず、モニターの歌詞を真剣な眼差しで追っているその姿は、すでに大物歌手の風格すら漂わせていた。
「……温度差で風邪ひきそう」
喧騒から逃げるように避難した、少し離れたラウンジスペース。
革張りのソファに深く腰掛け、私はハイボールのグラスを傾けた。隣には、ウーロン茶をストローで回している甲谷愛がいる。
「ふふ、すごいね。萌歌ちゃん、完全に仕上がってる。聖恵ちゃんのビブラート、憑依してるよ」
愛の言葉に、私は「まあね」と鼻を鳴らした。これは親バカではない。事実だ。
「英才教育の賜物よ。お腹にいる時から聴かせてたからね。ていうか、私の青春、全部いきものがかりに詰まってるから。入学、失恋、歓喜、絶望、全部」
ハイボールを一口煽る。炭酸が喉を焼き、少しだけ感傷的な気分にさせる。
愛は、ストローから口を離すと、静かに私の方を向いた。
その瞳は、昔から変わらない。すべてを見透かしているようで、それでいて決して土足では踏み込んでこない、深く、静かな湖のような瞳。
「……栞」
「ん?」
「大変だったでしょ、今まで」
その一言は、あまりに不意打ちだった。
私はグラスを握る手に力を込めた。ハイボールの氷が、カラン、と寂しい音を立てて崩れる。
「……はは、何よ急に。湿っぽいなぁ」
笑って誤魔化そうとしたが、頬の筋肉がうまく動かない。
愛は目を逸らさない。
彼女の前では、強がりなんて何の意味もなさないことを、私は高校時代から嫌というほど知っていた。
「……どこから話したもんかね」
私は観念して、息を吐き出した。
誰にも言えなかったこと。親にも、昇にさえも、カッコ悪すぎて言えなかった本音。
でも、彼女になら、全部話してもいい気がした。
「まぁ、手短に言うとさ。……京都の大学入って、秒で妊娠したのよ」
愛が息を飲む気配がした。
「相手はサークルの先輩、川崎英太って言うの。名前と見た目は爽やかイケメンだったけど、中身は腐った生ゴミ、ただのヤリチンよ。でもね、歌が上手かったの。悔しいくらいに。私はバカだからさ、それだけで好きになっちゃって」
自嘲気味に笑うと、喉の奥が苦くなった。
あの頃の自分を殴りに行けるなら、今すぐタイムマシンに乗りたいくらいだ。
「十九で萌歌産んで、二年休学。周りの友達が『レポート終わんねー』だの『オール明けできつい』だのってキラキラした悩みで盛り上がってる時、私は六畳一間のアパートで、エンドレスおむつ替え地獄と寝不足オール。……キラキラキャンパスライフ? は? 離乳食の人参ペーストのほうがよっぽどキラキラしてたわ」
愛は何も言わず、ただじっと耳を傾けている。その沈黙が、私に次の言葉を促す。
せき止められていた泥水が、決壊したダムのように溢れ出してくる。
「旦那は『付き合いだから』って家に帰ってこない。生活費も雀の涙。たまに帰ってきても『子どもが泣いててうるさい』ってキレる。……それでもね、私が選んだ道だから、私が我慢すればいいって思ってた。バカだよね」
グラスの水滴が指を伝って落ちる。それは、あの夜の涙のように冷たかった。
「極めつけは、萌歌が一歳の冬。熱出して痙攣起こした時」
思い出すだけで、指先が震える。あの夜の絶望は、今でも昨日のことのように鮮明だ。
「四十度近い熱が出て、痙攣してさ。パニックになって旦那に電話したら、後ろでバカ騒ぎしてる声がして、『今忙しい』って切られた。……財布見たら、千円札が一枚だけ。タクシー呼ぶ金も惜しくてさ。泣きじゃくる萌歌を毛布でぐるぐる巻きにして、夜間病院まで三キロの道を走ったの」
真冬の京都の風は、刃物みたいに冷たかった。
腕の中の命が、火のように熱い。このまま消えてしまうんじゃないかという恐怖。
そして、世界中でたった一人、自分だけが暗闇に取り残されたような孤独。
「月だけが、意地悪なくらい煌々と光っててさ。……走りながら、月に向かって本気で叫んだんだから。『なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないの!』って。『神様なんてクソくらえだ!』って」
病院に着いて、萌歌の無事を確認した瞬間、糸が切れた。そして同時に、私の中で何かが死んで、何かが生まれた。
英太への未練も、甘えも、全部捨てた。私はこの子を守る。そのためなら、鬼にだってなってやる。
「で、お決まりのコースよ。旦那と喧嘩して離婚。大学も中退して、親に頭下げて石川に出戻り。……惨めだったよ。友達はみんな輝かしい未来に向けて歩んでるのに、私は高卒のシングルマザー。県庁でパートとして採用された時も、「ワケアリ女」って陰口叩かれて」
そこからの数年は、記憶が曖昧だ。
ただ必死だった。朝起きて、保育園に送って、働いて、迎えに行って、ご飯作って、寝かせて。
自分の時間なんて一秒もなかった。鏡を見るのも嫌だった。疲れ切った顔をした女が、そこに立っていたから。
全部、私が招いたことだ。
私が弱かったから。私が見る目がなかったから。私が、私が、私が。
自分を責め続ける日々。出口のないトンネル。
「……そしたら、来たのよ。私の職場に。栗栖が。新採で」
ふっと、声のトーンが和らぐのが自分でも分かった。
「最初はさ、ただの地味な元同級生だと思ってた。『ああ、いたなこんな奴』って。……でも、違った」
上司に怒られて落ち込んでいた時、彼が黙って缶コーヒーを置いてくれたこと。
保育園からの呼び出しで早退する時、「ここは僕がやりますから」と背中を押してくれたこと。
そして何より、私の「過去」や「傷」を、腫れ物扱いせず、ただの「事実」として受け入れてくれたこと。
「……すごくない? この脚本」
「うん、本当に。神様の、粋な采配」
愛が初めて口を開いた。その声は優しく、温かい。
「かな。……萌歌のこと、ホントの娘みたいに大事にしてくれてさ。この前なんか、二人で公園で、『おはロック』完璧に踊ってたんだよ。慎吾ママのやつ。本気で『おっはー!』とかやってんの」
その光景を思い出すだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
萌歌が、お腹を抱えて笑っていた。私も、久しぶりに心から笑った。
ああ、私、幸せなのかも。 そう思えた瞬間だった。
「……それ見て、なんか、全部報われた気がして。あんな泥だらけの道だったけど、歩いてきてよかったって。……まさかこんな日が来るなんて、十九の私は、一ミリも思ってなかっただろうな」
だから、やめろって。
視界が滲む。鼻の奥がツンとする。
泣くな、私。今日のマスカラはウォータープルーフじゃないんだぞ。パンダ目になったら、せっかくの再会が台無しだ。
心の中で自分を叱咤しても、涙腺は言うことを聞かなかった。
その時だった。
愛が、無言で私をぎゅっと抱きしめた。
華奢な体。高級なブラウスの感触。そして、微かに香る香水。
でも、その腕は驚くほど力強かった。彼女もまた、戦ってきたのかもしれない。
「……よく頑張ったね。栞」
耳元で囁かれたその言葉は、どんな慰めよりも、どんな称賛よりも、私の心の深い場所に染み渡った。
一番欲しかった言葉。一番認めてほしかった親友からの、肯定。
「本当に、栞は、強いね」
「……う、うん……」
もう、ダメだった。
私は愛の肩に顔をうずめ、声を押し殺して泣いた。
強がりも、見栄も、母親としての責任感も、全部脱ぎ捨てて、ただの日比野栞に戻って泣いた。
愛の手が、私の背中を優しく撫でている。そのリズムは、傷ついた心をゆっくりと縫い合わせてくれるようだった。
このまま、もう少しだけ。
この温もりに甘えていたい。そう思った、その瞬間。
ドォォォォォン!!
カラオケルームの扉が開き、鼓膜をつんざくような重低音が響き渡った。
「♪カーモンベイベーアメリカ! どっちかの夜は昼間!」
開人が踊りながら、部屋から飛び出てきた。
涙で濡れた顔を上げると、部屋の中ではさらにカオスな光景が広がっていた。
昇と萌歌が、一列に並んで、あの「いいねダンス」を狂ったように踊っているのだ。
片足で跳ねながら、親指を突き立て、満面の笑みでこちらを見ている。
「愛も! 栞も! カモンベイベー!」
開人が叫ぶ。
さっきまでの感動的な空気は、アメリカの竜巻に巻き込まれて消し飛んでしまった。
「……っ、ふ、あはははは!」
私は、涙を拭うのも忘れて吹き出した。
もう、何なのよ、この男たちは。
最高の場面で、最高の邪魔をしやがる。
でも、これでいいのだ。泥臭くて、騒がしくて、どうしようもなく愛おしい、私と私たちの人生。
「……行くわよ、愛!」
「えっ、私も!?」
私は愛の手を引くと、涙を拭い捨てて、その馬鹿騒ぎの輪の中へと飛び込んだ。
カーモンベイベー、どんと来い。
どんな未来が待っていようと、私たちは、きっと飛びこえて行けるはずだから。




