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Blue Jam Colors the World  作者: シムラ ミケ
第七章

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なくもんか

 カラオケボックスの防音扉は、ほとんど意味を成していなかった。

 扉のガラス越しに見えるのは、まさに地獄絵図……いや、カオスという言葉が服を着て歩いているような光景だった。


 マイクを握りしめ、顔を真っ赤にしてMONGOL800の『小さな恋のうた』を絶叫しているのは、開人と、私の婚約者である栗栖昇だ。

 普段は「省エネ」を地で行く昇が、開人に感化されたのか、それともアルコールの魔法か、見たこともない形相で「ほら! あなたにとって! 大事な人ほどすぐそばにいるの!」と叫んでいる。


 そして、私の自慢の娘、萌歌の透き通った歌声が鼓膜を揺らす。

 五歳児とは思えないピッチの正確さで、いきものがかりの『茜色の約束』を歌い上げている。

 隣で踊る大人二人には目もくれず、モニターの歌詞を真剣な眼差しで追っているその姿は、すでに大物歌手の風格すら漂わせていた。


「……温度差で風邪ひきそう」


 喧騒から逃げるように避難した、少し離れたラウンジスペース。

 革張りのソファに深く腰掛け、私はハイボールのグラスを傾けた。隣には、ウーロン茶をストローで回している甲谷愛がいる。


「ふふ、すごいね。萌歌ちゃん、完全に仕上がってる。聖恵ちゃんのビブラート、憑依してるよ」


 愛の言葉に、私は「まあね」と鼻を鳴らした。これは親バカではない。事実だ。


「英才教育の賜物よ。お腹にいる時から聴かせてたからね。ていうか、私の青春、全部いきものがかりに詰まってるから。入学、失恋、歓喜、絶望、全部」


 ハイボールを一口煽る。炭酸が喉を焼き、少しだけ感傷的な気分にさせる。

 愛は、ストローから口を離すと、静かに私の方を向いた。

 その瞳は、昔から変わらない。すべてを見透かしているようで、それでいて決して土足では踏み込んでこない、深く、静かな湖のような瞳。


「……栞」

「ん?」

「大変だったでしょ、今まで」


 その一言は、あまりに不意打ちだった。  

 私はグラスを握る手に力を込めた。ハイボールの氷が、カラン、と寂しい音を立てて崩れる。


「……はは、何よ急に。湿っぽいなぁ」


 笑って誤魔化そうとしたが、頬の筋肉がうまく動かない。

 愛は目を逸らさない。

 彼女の前では、強がりなんて何の意味もなさないことを、私は高校時代から嫌というほど知っていた。


「……どこから話したもんかね」


 私は観念して、息を吐き出した。

 誰にも言えなかったこと。親にも、昇にさえも、カッコ悪すぎて言えなかった本音。

 でも、彼女になら、全部話してもいい気がした。


「まぁ、手短に言うとさ。……京都の大学入って、秒で妊娠したのよ」


 愛が息を飲む気配がした。


「相手はサークルの先輩、川崎英太って言うの。名前と見た目は爽やかイケメンだったけど、中身は腐った生ゴミ、ただのヤリチンよ。でもね、歌が上手かったの。悔しいくらいに。私はバカだからさ、それだけで好きになっちゃって」


 自嘲気味に笑うと、喉の奥が苦くなった。

 あの頃の自分を殴りに行けるなら、今すぐタイムマシンに乗りたいくらいだ。


「十九で萌歌産んで、二年休学。周りの友達が『レポート終わんねー』だの『オール明けできつい』だのってキラキラした悩みで盛り上がってる時、私は六畳一間のアパートで、エンドレスおむつ替え地獄と寝不足オール。……キラキラキャンパスライフ? は? 離乳食の人参ペーストのほうがよっぽどキラキラしてたわ」


 愛は何も言わず、ただじっと耳を傾けている。その沈黙が、私に次の言葉を促す。

 せき止められていた泥水が、決壊したダムのように溢れ出してくる。


「旦那は『付き合いだから』って家に帰ってこない。生活費も雀の涙。たまに帰ってきても『子どもが泣いててうるさい』ってキレる。……それでもね、私が選んだ道だから、私が我慢すればいいって思ってた。バカだよね」


 グラスの水滴が指を伝って落ちる。それは、あの夜の涙のように冷たかった。


「極めつけは、萌歌が一歳の冬。熱出して痙攣起こした時」


 思い出すだけで、指先が震える。あの夜の絶望は、今でも昨日のことのように鮮明だ。


「四十度近い熱が出て、痙攣してさ。パニックになって旦那に電話したら、後ろでバカ騒ぎしてる声がして、『今忙しい』って切られた。……財布見たら、千円札が一枚だけ。タクシー呼ぶ金も惜しくてさ。泣きじゃくる萌歌を毛布でぐるぐる巻きにして、夜間病院まで三キロの道を走ったの」


 真冬の京都の風は、刃物みたいに冷たかった。

 腕の中の命が、火のように熱い。このまま消えてしまうんじゃないかという恐怖。

 そして、世界中でたった一人、自分だけが暗闇に取り残されたような孤独。


「月だけが、意地悪なくらい煌々と光っててさ。……走りながら、月に向かって本気で叫んだんだから。『なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないの!』って。『神様なんてクソくらえだ!』って」


 病院に着いて、萌歌の無事を確認した瞬間、糸が切れた。そして同時に、私の中で何かが死んで、何かが生まれた。

 英太への未練も、甘えも、全部捨てた。私はこの子を守る。そのためなら、鬼にだってなってやる。


「で、お決まりのコースよ。旦那と喧嘩して離婚。大学も中退して、親に頭下げて石川に出戻り。……惨めだったよ。友達はみんな輝かしい未来に向けて歩んでるのに、私は高卒のシングルマザー。県庁でパートとして採用された時も、「ワケアリ女」って陰口叩かれて」


 そこからの数年は、記憶が曖昧だ。

 ただ必死だった。朝起きて、保育園に送って、働いて、迎えに行って、ご飯作って、寝かせて。

 自分の時間なんて一秒もなかった。鏡を見るのも嫌だった。疲れ切った顔をした女が、そこに立っていたから。


 全部、私が招いたことだ。  

 私が弱かったから。私が見る目がなかったから。私が、私が、私が。

 自分を責め続ける日々。出口のないトンネル。


「……そしたら、来たのよ。私の職場に。栗栖が。新採で」


 ふっと、声のトーンが和らぐのが自分でも分かった。


「最初はさ、ただの地味な元同級生だと思ってた。『ああ、いたなこんな奴』って。……でも、違った」


 上司に怒られて落ち込んでいた時、彼が黙って缶コーヒーを置いてくれたこと。  

 保育園からの呼び出しで早退する時、「ここは僕がやりますから」と背中を押してくれたこと。  

 そして何より、私の「過去」や「傷」を、腫れ物扱いせず、ただの「事実」として受け入れてくれたこと。


「……すごくない? この脚本」

「うん、本当に。神様の、粋な采配」


 愛が初めて口を開いた。その声は優しく、温かい。


「かな。……萌歌のこと、ホントの娘みたいに大事にしてくれてさ。この前なんか、二人で公園で、『おはロック』完璧に踊ってたんだよ。慎吾ママのやつ。本気で『おっはー!』とかやってんの」


 その光景を思い出すだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 萌歌が、お腹を抱えて笑っていた。私も、久しぶりに心から笑った。

 ああ、私、幸せなのかも。 そう思えた瞬間だった。


「……それ見て、なんか、全部報われた気がして。あんな泥だらけの道だったけど、歩いてきてよかったって。……まさかこんな日が来るなんて、十九の私は、一ミリも思ってなかっただろうな」


 だから、やめろって。

 視界が滲む。鼻の奥がツンとする。

 泣くな、私。今日のマスカラはウォータープルーフじゃないんだぞ。パンダ目になったら、せっかくの再会が台無しだ。

 心の中で自分を叱咤しても、涙腺は言うことを聞かなかった。


 その時だった。

 愛が、無言で私をぎゅっと抱きしめた。

 華奢な体。高級なブラウスの感触。そして、微かに香る香水。

 でも、その腕は驚くほど力強かった。彼女もまた、戦ってきたのかもしれない。


「……よく頑張ったね。栞」


 耳元で囁かれたその言葉は、どんな慰めよりも、どんな称賛よりも、私の心の深い場所に染み渡った。

 一番欲しかった言葉。一番認めてほしかった親友からの、肯定。


「本当に、栞は、強いね」

「……う、うん……」


 もう、ダメだった。

 私は愛の肩に顔をうずめ、声を押し殺して泣いた。

 強がりも、見栄も、母親としての責任感も、全部脱ぎ捨てて、ただの日比野栞に戻って泣いた。

 愛の手が、私の背中を優しく撫でている。そのリズムは、傷ついた心をゆっくりと縫い合わせてくれるようだった。


 このまま、もう少しだけ。

 この温もりに甘えていたい。そう思った、その瞬間。


 ドォォォォォン!!


 カラオケルームの扉が開き、鼓膜をつんざくような重低音が響き渡った。


「♪カーモンベイベーアメリカ! どっちかの夜は昼間!」


 開人が踊りながら、部屋から飛び出てきた。

 

 涙で濡れた顔を上げると、部屋の中ではさらにカオスな光景が広がっていた。

 昇と萌歌が、一列に並んで、あの「いいねダンス」を狂ったように踊っているのだ。

 片足で跳ねながら、親指を突き立て、満面の笑みでこちらを見ている。


「愛も! 栞も! カモンベイベー!」


 開人が叫ぶ。

 さっきまでの感動的な空気は、アメリカの竜巻に巻き込まれて消し飛んでしまった。


「……っ、ふ、あはははは!」


 私は、涙を拭うのも忘れて吹き出した。

 もう、何なのよ、この男たちは。

 最高の場面で、最高の邪魔をしやがる。

 でも、これでいいのだ。泥臭くて、騒がしくて、どうしようもなく愛おしい、私と私たちの人生。


「……行くわよ、愛!」

「えっ、私も!?」


 私は愛の手を引くと、涙を拭い捨てて、その馬鹿騒ぎの輪の中へと飛び込んだ。

 カーモンベイベー、どんと来い。

 どんな未来が待っていようと、私たちは、きっと飛びこえて行けるはずだから。

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