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Blue Jam Colors the World  作者: シムラ ミケ
第五章

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17/31

運命

 プレゼン決勝大会の日。  

 晩秋の風が冷たく吹き抜ける中、会場となる大隈記念講堂には、独特の緊張感が張り詰めていた。


 開演30分前。  

 控室の重苦しい空気の中で、甲谷愛は青ざめた顔でスマートフォンを握りしめていた。画面は真っ暗なままだ。

 大切な人の晴れの舞台に、小橋開人は現れなかった。

 直前に届いたメッセージには、『ライブの打ち合わせが押してて、開始には間に合わないかも』という、ふざけた文面が並んでいたらしい。

 愚かで、独善的な男だ。彼は、愛がどれほどのプレッシャーの中で今日を迎えているかを知りながら、自己満足の発表会を優先したのだ。


 愛の指先が微かに震えている。

 彼女の精神構造は、今まさに崩壊寸前だった。企画書のページをめくる手も頼りなく、視線は定まらない。

 このままでは、彼女の本来のパフォーマンスは発揮できない。論理的に考えれば、失敗は明白だった。


 だが、高岸にとっては、これこそが待ち望んでいた「好機」だった。  

 彼は静かに愛の前に立ち、視界を遮るようにして、彼女と向き合った。


「甲谷さん」


 努めて低く、落ち着いた声を響かせる。

 愛が弾かれたように顔を上げる。その瞳は不安に揺れ、助けを求めていた。


「深呼吸をして。君の心拍数が上がりすぎている」


「で、でも……」


「不確定な変数のことは、今は排除するんだ」


 高岸は、彼女の手から優しくスマートフォンを取り上げ、机の上に伏せた。

 そして、前日に穴八幡宮で願掛けをした、勝守かちまもりを彼女の震える手に握らせた。


「大丈夫。全ての準備は整っている。僕たちは、やるべきことを全てやったはずだ」


 高岸は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、自身が愛するベートーヴェンの楽曲になぞらえて語りかけた。


「ピアノ協奏曲第5番『皇帝』を知っているかな。ピアノというソリストが華やかに輝けるのは、バックでオーケストラが盤石の基礎を築いているからだ」


 愛が、瞬きをして高岸を見る。


「今日の主役は君だ。君はソリストとして、ただ自分の信じる旋律を歌えばいい。もし君が言葉に詰まっても、機材がトラブルを起こしても、僕が全てカバーする。僕が君のオーケストラになる」


 それは、単なる慰めではなかった。

 膨大なシミュレーションと、彼女と共に積み上げた緻密な準備に裏打ちされた、絶対的な自信の表明だった。

 高岸の言葉は、魔法のように愛の震えを止めた。彼女の瞳に、少しずつ理性の光が戻ってくる。


「……私の、オーケストラ」


「そう。だから君は、前だけを見ていればいい。後ろには僕がいる」


 愛の頬に、赤みが差した。彼女は御守りを胸の前でぎゅっと握りしめ、高岸に向かって深く頷いた。


「……うん。ありがとう、高岸君。」


「ああ。行こう」


 その瞬間、高岸は心の中で静かに「チェックメイト」を宣言した。

 小橋開人の不在というマイナス要因を、自身の完璧なサポートでプラスへと転じさせたのだ。

 今、彼女の心の大半を占めているのは、開人への不安ではなく、自分への信頼だ。

 勝った。論理が、情動を凌駕した瞬間だった。


 入念な準備と、直前の完璧なメンタルケアの甲斐あって、愛のプレゼンは実に堂々たるものであった。

 凛とした立ち姿。説得力のある言葉。そして時折見せる、知的な微笑み。

 やはり彼女は素晴らしい。

 スポットライトを浴びて輝くその姿に、高岸は舞台袖で、自身の中の抑えきれない衝動と所有欲を感じていた。彼女という原石を磨き上げ、ここまで輝かせたのは自分だという自負が、胸を熱くさせる。


 プレゼン大会は成功裏に終わり、愛の企画は見事に「奨励賞」を獲得した。

 優勝こそ逃したものの、学生のビジネスプランとしては極めて高い評価だ。


 大会終了後のホワイエ。

 愛と喜びを分かち合っている時、高岸は勝利の美酒に酔いしれていた。

 奨励賞の賞状を嬉しそうに眺める愛の横顔。周囲の学生たちや教授からの賞賛の声。

 全てが、自分の計画通りに、完璧なハーモニーを奏でていた。


「高岸君のおかげだよ。本当に、本当にありがとう……! 私一人じゃ、絶対にここまで来れなかった」


 愛の瞳が潤んでいる。

 彼女からの感謝の言葉は、まるで『第九』の歓喜の合唱フロイデのように、高岸の鼓膜を震わせた。

 自分の知性と誠実さが、開人の無軌道な情熱に完全に打ち勝ったのだ。ここにはもう、ノイズが入る余地などない。

 この後、祝勝会と称して彼女を食事に誘い、そこで改めて想いを告げよう。そうすれば、今日という日は完璧なフィナーレを迎える――。


 その、完璧な調和に満ちた瞬間に、不協和音が叩きつけられたのは、突然のことだった。


 バンッ!


 重厚なホールの扉が、乱暴に開け放たれた。

 静寂な空間に、荒い息遣いが響き渡る。

 そこに立っていたのは、汗だくで、髪を振り乱し、安っぽい花束を抱えた小橋開人だった。


「愛っ! 遅くなってごめん!」


 場違いな大声。Tシャツにジーンズというラフすぎる格好。

 その姿を見た瞬間、高岸の中で何かが静かに、しかし決定的に決壊した。


 なぜ、今来る。 なぜ、終わった後に現れる。

 君の出番はもうないはずだ。君という変数は、除去されたんだ。


 高岸の脳内で、警報が鳴り響く。計画は最終楽章、それも予定外の「戦闘バトル」フェーズへと移行する。

 彼は、愛を背中に隠すようにして一歩前に出ると、不協和音の発生源を冷ややかに睨みつけた。


「遅いよ、小橋君。君はいつだって勝手だ」


 自分の声とは思えないほど、冷たく鋭い声がホールに響いた。

 ここからは論戦だ。感情で動く野蛮人に、知性の差を見せつける。自分の得意とするフィールドである。


「君の無秩序なエレキギターの騒音と、僕のベートーヴェン仕様の構築されたクラシックの美しさ、どちらが愛さんを幸せにできるか。君には分からないだろう」


 自分の持つ全ての論理と正当性をもって、この秩序を乱す男を断罪する。

 これは、甲谷愛という至上の価値を守るための、聖戦だった。


 開人の反論は、高岸の予想通り、表面的かつ感情的で粗野なものだった。

 彼は息を整えることもせず、血走った目で高岸を睨み返す。


「るっせぇな。お前に俺の音楽の何が分かるってんだ」


 まるで駄々をこねる子供だ。論理性のかけらもない。高岸は冷静に、事実という刃で圧倒した。


「音楽の話などしていない。生き方の話だ。君の行いは自己満足の押し付けだ。愛さんの心を、君は一度でも深く見つめたことがあるのか? 彼女が今日、どれほどの不安の中で戦っていたか。君が来ないことでどれだけ傷ついていたか、想像力を働かせたことがあるのか?」


 開人は言葉を詰まらせ、ぐうの音も出ない様子で唇を噛んだ。花束を持つ手が力なく垂れ下がる。

 勝てる。高岸はそう確信した。

 自分の言葉は全て正論であり、行動は全て愛のためだった。

 あとは、彼女自身が、論理的に正しい答えを導き出すのを待つだけだ。


 沈黙が落ちる。

 愛が、ゆっくりと顔を上げた。

 だが、女神の口から紡がれた言葉は、高岸が築き上げた論理の城を、根底から覆すものだった。


「……高岸君」


 彼女の声は震えていたが、その瞳には強い光が宿っていた。


「高岸君の言う通りだよ。私は振り回されてる。論理的じゃないし、効率も悪い。……でもね」


 愛は、開人の方を見た。その視線は、高岸に向けられた「信頼」とは質の違う、もっと熱く、切実な色を帯びていた。


「私は、開人の弾く、無秩序な青いギターの音色が好き。自分でも不思議なくらい。どうしようもなく大好きなの。だから……彼を責めないで」


 理解、できなかった。

 なぜだ。

 なぜ、不完全で、不安定で、自分を傷つけるだけの存在を選ぶ?

 僕のオーケストラは完璧だったはずだ。君を支え、輝かせたはずだ。それなのに、なぜ君は、ノイズまみれの雑音の方へ手を伸ばす?


 高岸の計算では、ありえない答えだった。論理的ではない。合理的ではない。

 まるで、ベートーヴェンの完璧な楽譜に、一滴落ちたインクの染みが、美しい旋律を黒く塗り潰していくような、受け入れがたいエラーだった。


 開人に頭を撫でられ、泣き笑いのような表情で嬉しそうにする愛の姿が、やけにスローモーションに見えた。

 方程式が、解けなかった。

 甲谷愛という最も重要な変数の値を、人の心という不確定要素を、彼は見誤っていたのだ。


 高岸は、静かに二人から視線を外した。

 胸にあったのは、嫉妬や怒りではなかった。計画が想定外の結果に終わった後の、奇妙なまでの静寂。そして、自分の力が及ばない領域が存在するという、厳然たる事実への諦念だった。


 その後、愛からかけられた感謝の言葉は、耳に届いてもいなかった。

 彼は天井を見上げ、自嘲ともとれるかすかな笑みを口元に浮かべた。


「……『苦悩を突き抜けて歓喜に至れ』か。難題だな」


 小さく呟くと、音もなく背を向け、会場を後にした。

 彼の背筋は、最後までまっすぐに伸びていた。

 ベートーヴェンは、決して人前で涙を流したりはしないのである。

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