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Blue Jam Colors the World  作者: シムラ ミケ
第五章

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15/31

熱情

 夏休みが明け、後期初めてのゼミが始まる直前にもかかわらず、隣の学生は昨日見てきた映画について語るのを止めなかった。

 男女や時空という概念を超えた、非論理的な恋物語らしい。

 高岸陽利は、そんな非論理的な現象には一切興味を示すことなく、いつものようにラウンジの窓から、秩序あるキャンパスの構造を分析していた。


 甲谷愛という存在が、彼の目に初めて映ったのは、そんなありふれた初秋の日だった。

 イギリス留学から帰国したという彼女は窓際の席で、静かに本を読んでいた。

 しかし、その内に秘めた芯の強さは、対象物を捉える深い目と、真っすぐに伸びた背筋から感じ取れた。


 完璧主義で、慈愛に満ちているが、自己表現は控えめ。


 高岸は人を知る時、まずその構造を分析する癖があった。

 彼女は、まるで精緻なガラス細工のように、脆さと強さを同居させていた。

 それはまるで、自身が愛して止まないベートーヴェンの楽曲の様だった。


 実に素晴らしい。

 人生で初めて、他者の存在にその様な感覚を抱いていた。


 そんな完璧な彼女にも、唯一と言える欠点があった。

 それは、しばしば隣に、得体の知れない如何わしい男を連れている事だった。

 小橋開人と名乗るその男は、自己開示欲の権化の様な人間であった。

 誰彼ともなく成り行きで会話を交わす為、決して社交的とは言えない高岸でさえも、彼に関する相応の情報を入手していた。


 高校からの愛の恋人。大正大学の三年生。バンドを組みギター演奏をしている。愛と昼食をとる為、昼休みになると早大キャンパスに通っている。レアポケモンを探している。


 彼に関する知識が日に日に増幅していく。

 何より驚かされたのは、他大学の学生と聞かされた時であった。

 周囲の誰よりも打ち解けたその立ち居振る舞いから、てっきり早大の先輩と勘違いしていた為である。


 楽観的で衝動的。思いつきで行動し、周りを振り回す。

 高岸から見れば、その存在は秩序を乱すノイズでしかなかった。

 特に、彼の無神経な振る舞いは、高岸の整然とした世界観を苛立たせた。


 その決定的な「断絶」を確認したのは、ある日の昼食時だった。

 早稲田キャンパスにある大隈ガーデンハウス。昼時の喧騒を避け、少し時間をずらして昼食をとるのが高岸のルーティンだった。

 窓際の席で、午後の講義の資料に目を通しながら箸を動かしていた時だ。


「よ! 高岸じゃん! 奇遇〜!」

 

 トレイがガシャンと置かれる音と共に、視界の端に茶髪が入り込んだ。

 小橋開人だ。

 彼はクラスメイトかの様な自然なふるまいで、高岸の対面の席に座り込んだ。


「……小橋君か。甲谷さんは一緒ではないのか」


「ああ、愛は急遽、教授に呼ばれてさ。だから俺一人! 一人で飯食うのも寂しいし、高岸がいて助かったわー」


 高岸は眉間に皺を寄せたが、開人は気にする素振りもなく、大盛りのカツカレーをスプーンで掬い始めた。

 高岸は箸を置き、以前から抱いていた疑問をぶつけることにした。


「小橋君。君は今、大学三年生だね。そろそろ就職活動の準備を始める時期だが、進路はどう考えているんだ?」


「あー、それね! 就活はしない! 俺、バンドで食ってくから!」


 即答だった。迷いも、不安も、一切ない。

 根拠は? 具体的な勝算は? 喉まで出かかった質問を、高岸は飲み込んだ。

 彼の表情を見れば分かる。そんなものは存在しない。

「いい感じ」という、定性的な感覚だけで人生の岐路を選択しようとしているのだ。


「音楽業界でプロとして生計を立てられる確率は、0.1%にも満たないと言われている。君は、その狭き門を通過できるという客観的なデータを持っているのか?」


「データ? んー、ないけど……でも、俺たちの音を聴けば分かるって! なんかこう、ビリビリくるんだよ! 運命的なやつが!」


 ビリビリくる。運命。高岸は頭痛を覚えた。

 この男は、人生という複雑な方程式を、「運」や「勘」という不確定な変数だけで解こうとしている。

 それは勇気ではない。無謀だ。

 自分一人が破滅するのは勝手だが、彼は甲谷愛という、将来有望な女性を巻き込もうとしている。


「『なんとかなる』というのは、計画を持たない人間の逃げ口上だ」


 高岸の声は、無意識に冷たくなった。


「君が夢に破れた時、そのリスクを背負うのは君だけじゃない。隣にいるパートナーの人生設計まで狂わせることになる。君には、その責任を負う覚悟があるのか?」


 スプーンが止まった。開人はキョトンとした顔で高岸を見つめ、それから、ニカっと笑った。


「高岸はすげーな! 真面目っていうか、先のことちゃんと考えてて。俺、そこまで考えてねーわ!」


「……は?」


「でもさ、愛が笑ってくれりゃ、それでいいんだよな。俺のギターで、愛が笑ってくれるなら、それが正解かなって! その為に、絶対ビッグになるよ、俺!」


 会話が、成立していない。論理のボールを投げても、彼はそれをグローブで受け止めず、バットで場外へ打ち返してくる。

 高岸は悟った。

 この男と言語による相互理解は不可能だ。住んでいる世界、見ている次元が違いすぎる。


「……ごちそうさん! 愛のとこ行ってくるわ!」


 嵐のように去っていった男の後ろ姿を見ながら、高岸は深く息を吐いた。

 嫌悪感ではない。危機感だ。

 あのような「カオス(混沌)」の側にいれば、愛の美しい精神構造はいずれ崩壊する。

 彼女を守れるのは、論理と秩序を持つ自分しかいない。


 その確信が「使命感」へと変わったのは、それから数日後のことだった。


 秋雨期特有の湿気で、ラウンジの窓は曇っていた。

 雨が降っているにも関わらず、小橋はものともせず愛のもとに現れた。

 いつもと違ったのは、その「ノイズ」が愛の表情を曇らせる瞬間を目撃した事だった。


 愛は、前日のゼミで発表したばかりの、まだ荒削りな企画書について、熱心に開人に語りかけていた。


「……だから、小説の行間に、そのシーンを象徴するような写真を差し込んで、さらにページをめくるとQRコードがあって、そこからオリジナルの楽曲が聴ける、みたいな……」


 開人は、スマホを色々な方向に向けながら、ろくに彼女の顔も見ずに相槌を打っている。


「へー、面白そうじゃん。超長いミュージックビデオみたいだな!それ、俺のバンドの曲、使えばいいじゃん!」


 その言葉を聞いた瞬間、高岸の中で、何かが音を立てて崩れた。


(……違う。全く違う)


 甲谷さんの独創的な着想を、この男は、自身の自己顕示欲を満たすための安っぽい道具に貶めた。

 彼女がやろうとしているのは、そんな薄っぺらなものではない。

 文学、写真、音楽という異なる芸術形式を、ベートーヴェンのソナタのように、緻密な構成で一つの作品へと昇華させようという、崇高な試みだ。この男には、その価値が1ミリも理解できていない。


 愛の表情が、失望でわずかに曇る。

 高岸は、それを好機と捉えた。

 彼は、最も知的で、信頼に足る協力者を演じるべく、静かに二人のテーブルに近づいた。


「甲谷さん」


 彼は、慎重に言葉を選んだ。


「昨日の企画、とても興味深かった。君の言う、メディアを横断する構成は、ワーグナーの楽劇におけるライトモチーフの手法にも通じるものがある。もしよかったら、参考文献になりそうな資料があるんだが……例えば、写真家のソウル・ライターの作品群は、君のイメージに近いかもしれない」


 愛の瞳が、驚きと、そして純粋な喜びに満ちた光で輝くのを見た。

 それは、開人が決して彼女に与えることのできない種類の輝きだった。

 開人は、突然現れた高岸と、専門用語を交えて語り始めた愛を、きょとんとした顔で交互に見ている。


 高岸は、その男を一瞥もせずに、続けた。


「僕の研究室に来てくれれば、いつでも見せるよ」


 小橋開人が与えられないもの――論理的な思考、計画性、そして夢を現実にするための具体的な道筋。

 それこそが、自分の武器だった。

  高岸は、愛の瞳の中に、確かな信頼の光が灯るのを確認した。


 彼にとって、これは甲谷愛という美しい構造物を、無秩序な破壊者から守るための、静かな戦いの始まりだった。

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