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Blue Jam Colors the World  作者: シムラ ミケ
第三章

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Change the World

 バッテリーを結成して8か月、季節は巡り、2015年の新年を迎えていた。


 開人の演奏技術は、飛躍的どころではない、まさに覚醒と呼ぶにふさわしい向上を遂げ、今や照井に勝るとも劣らない輝きを放っていた。

 照井はこの奇妙で、心地よい師弟関係にもいつか終わりが来ることを予感してはいたが、それはもう少し先であってほしいと願っていた矢先のことだった。


 二人の路上ライブは新宿駅前に足を延ばすようになっていた。寒風が頬を刺す中、二人のギターが熱を帯び始めたその時、一人の男が彼らの前に足を止めた。

 派手なシルバーアクセサリーをじゃらつかせ、自信に満ち溢れた不遜なオーラを纏う男。

 黒羽デイヴと名乗るその男は、開人のギタープレイを食い入るように見つめ、ニヤリと笑って一言、「いいね、YOUのギター。MEとバンド組まない?」と言った。

 有無を言わせぬ口調で開人を引き抜こうとしてきたのだ。ハーフ面したその男は、揺るぎないスター性と、どこか危険な香りを漂わせていた。


 照井の耳は、その頃から開人の音に新たな響きが混じり始めているのを感じ取るようになった。

 それは、照井が丹精込めて注ぎ込んできたクラプトン由来のブルージーな滋味とは異なる、もっとギラギラと攻撃的で、ラウドで、前に出ようとする衝動。

 黒羽デイヴという強烈な触媒が開人の内に眠っていた何か――照井が耕し、育てた豊かな土壌の上に、開人自身が知らず知らずのうちに蒔いていた未知の種子――を、強制的に目覚めさせたのだろうか。

 それは、照井が教えたくても教えられなかった、開人自身の魂の叫びにも似た音だった。


 開人は黒羽の誘いを、戸惑いながらも断っていた。


「…⋯ダメよ~ダメダメ、なんてね。まだまだ照井先輩から教わりたいんだよね」


 冗談交じりではあったが、その言葉は、照井にとって何よりも嬉しいものだった。

 だが、黒羽の執拗なまでの勧誘と、彼から聞かされる新しい音楽のヴィジョン――それは照井の愛するブルースとは対極にあるような、もっとヘヴィで、もっと挑戦的なサウンドの様だった――に、開人の心は日に日に揺れ動いているのが、音を通して痛いほど伝わってきた。


 開人の中で、別の音楽が、彼自身もまだ気づいていない本当の欲求が、マグマのように芽生え始めている。自分が教えてきた世界とは違う、もっと広くて、もっと自由で、彼が本当に求めているであろう、新たな地平線が見えて来ている。


 寂寥感が、鋭い針のように照井の胸を深く刺した。開人の目覚ましい成長を心から喜ぶ気持ちと同時に、彼が自分の手の届かない場所へ羽ばたいていくという確かな予感。

 開人との「バッテリー」は、照井にとって単なる暇つぶしではなかった。

 それは、孤高を気取っていた自分が唯一、音楽という共通言語で魂を交わせた、かけがえのない時間だったのだ。


 開人の音楽が新たな方向へ舵を切ろうとしていること。そして、今の自分にはもう、彼に教えられることは多くないこと。何よりも、開人自身が、その新しい世界の扉を、心の底から叩きたがっていること。その扉の向こうにこそ、彼が本当に焦がれる何かが待っているのかもしれないということ。


 加えて、照井には「就職」という、逃れられない冷厳な現実がすぐそこまで迫っていた。

 音楽で身を立てるなど、ハナから考えていない。堅実に、社会の歯車の一つとして生きていく。それは彼がとうの昔に自分自身に下した結論だった。

 開人のように、「音楽で東京を震わせたい」などという青臭くも眩しい夢は、現実という分厚い壁の前に心の奥底にしまい込んで久しい。


 だから、決めたのだ。いや、決めるしかなかった。


 部室で、開人と二人きりで向き合う。

 照井は努めて冷静に、最近の開人の音の変化、黒羽デイヴという男の存在、そして開人の隠せない心の揺らぎを、一つ一つ言葉を選びながら指摘した。

 開人の顔がみるみるうちに動揺で歪んでいく。

 そして、照井は静かに、しかしはっきりと告げた。


「ちょうどよかったんだ。俺ももうすぐ四年生、就職活動で本格的に忙しくなる。バッテリーは、今日で終わりにしよう」


 それは、半分は紛れもない真実で、もう半分は、苦渋に満ちた建前だった。

 開人の新たな可能性の芽を、自分がこれ以上縛り付けるべきではないという痛切な想い。彼の稀有な才能を、何の曇りもない状態で、新しい世界へと解き放ってやりたかった。

 そして…⋯ほんの少しだけ、辛かったのだ。自分が決して選ばなかった、選べなかった眩しい光の中へと、弟子であり、相棒であった開人が進んでいくその背中を見ることが。


 だから、最もらしい物理的な理由をつけて、自ら身を引くという、臆病な選択をした。

 そこには、彼が真に求める場所へ向かうのを後押ししたいという、師としての、そしておそらくは唯一無二の友人としての、歪で純粋な愛情が複雑に絡み合っていた。


 開人はショックを受けながらも、必死に引き止めようとした。


「まだまだ先輩から学ぶことが山ほどあるんす! 俺、先輩みたいな超絶ギター、弾けるようになりたいんすよ!」


 その言葉は、温かく照井の心を濡らした。嬉しかった。だが、もう照井が教える事は、開人がこれから求める音楽の糧にはならない。


「お前は、お前自身の音をもう見つけ始めている。それを何よりも大事にしろ。そして、お前を待っている世界へ行け。お前のその音は、まだ原石だ。これから出会う連中と、死ぬほどぶつかり合って、磨き上げろ。馴れ合うなよ。自分の音にだけは、絶対に嘘をつくな。 」


 これが、師として、そして一人の友人として、愛する後輩に贈れる最後の、そして最高の餞の言葉だった。

 開人は何も言えず、ただ深々と、長い時間、頭を下げ続け、観念したかのように言った。


「照井先輩…⋯本当に、本当に、ありがとうございました! 先輩から受けた数々のご恩は、一生忘れません!先輩は俺にとって、永遠の師匠です。」


 心の奥底から絞り出すような、深くて淡い涙声だった。


 その言葉を聞きながら、照井は初めて開人に出会った日のことを思い出していた。

 やかましくて、馴れ馴れしくて、でもただひたすらにギターが大好きだった、あの春の日の開人。

 生意気な後輩の隣でギターを弾いた、濃密な日々。

 二人の音が奇跡のように重なり合った瞬間の、言葉にならない高揚感。

 そして、愛の事を話している時の、彼の全てをなぎ倒すような、弾ける笑顔。

 それら全てが、温かく、そして少しだけ切ない塊となって、照井の胸の奥深くにゆっくりと広がっていった。


「…⋯元気でやれ。お前のギターで、東京を震わせろ」


 そう言って、照井は開人に背を向け、部室のドアに手をかけた。一歩、また一歩、開人と過ごしたかけがえのない日々から遠ざかる。

 パタン、と部室のドアが閉まる乾いた音を聞きながら、照井は一人、薄暗い廊下に立ち尽くした。


 その時初めて、ほんの少しだけ、熱いものが目頭に込み上げてくるのを感じた。

 師弟関係は、今日、ここで終わった。でも、開人との「バッテリー」で過ごした魂の時間は、彼の心の中に、これからもずっと力強く、そして温かく灯り続けるはずだ。


 心を整えた後、部室に戻ると、深い静寂が支配しているように感じられた。

 照井は壁に立てかけてあった自分のギターケースを、慈しむようにそっと撫でた。


 さあ、自分の現実に戻ろう。就職活動。そして、これからの自分自身の音楽との向き合い方。

 開人のように、がむしゃらに、無防備なまでに夢を追いかけることは、もうできない。だが、開人との日々を通して得たものは、確実に自分の血肉となっている。照井幸太郎という一人の人間の音に、深みと、新しい色を加えてくれた。


 開人は、あの黒羽デイヴという男と、一体どんな音を東京に叩きつけるのだろう。

 それは照井には想像もつかない。でも、きっと、彼らしい、自由で、情熱的で、聴く者の魂を揺さぶるような、そんな音楽になるに違いない。

 そして、その音楽が、彼の「愛」という女神の心に、深く、強く響き渡ることを、心から願っていた。


 少しだけ顔を上げ、照井はもう一度、固く閉ざされた部室のドアに別れを告げた。

 一歩踏み出すと、窓から差し込む春の陽射しがやけに眩しかった。キャンバスは、相変わらず人で溢れ、騒がしい。

 でも、ほんの少しだけ、昨日までとは違って見えた。

 それはきっと、自分の心の中に、確かな熱を持った「バッテリー」が、今も力強く鼓動しているからだと思った。

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