9.雪どけのはじまり
本で勉強を始めてから、数日が過ぎた。私は貪るように本を読み、この世界の歴史や地理、そしてヴァイス家が抱える深刻な問題について、知識を深めていった。知れば知るほど、その状況の厳しさに眩暈がしそうだった。…ゲルラッハという政敵。…関係最悪の婚約者。…問題は山積みだ。
だが、それと同じくらい私の心を重くしていたのが、この屋敷の中で感じる、見えない壁の存在だった。
食事を運んでくれる侍女たち。廊下ですれ違う使用人たち。彼らは皆、私の姿を認めると一様にびくりと体をこわばらせ、慌てて壁際に寄って深々と頭を下げる。その瞳に宿るのは、敬意ではない。明確な恐怖の色だった。
エマとリリーもそうだ。最初の頃よりはましになったが、まだ怯えや戸惑いが残っている。
(…これじゃあ、ダメだ…。)
私は深くため息をついた。前世の会社でもそうだった。どんなに大きなプロジェクトも、現場で働く人たちの協力がなければ絶対に成功しない。信頼関係こそが全ての基本なのだ。
ヴァイス家の問題や、婚約者の問題も重要だ。でもその前に、まずは足元を固めなければ。この家で働く人々と良好な関係を築くこと。それが、今の私が最初にすべきことなのではないだろうか。
(…でも、どうすれば…?)
私がただ待っているだけでは、何も変わらない。私の方から、彼らに歩み寄るしかないのだ。
私は意を決した。そして、その日の午後。お茶を運んできたクラウスに、その思いを打ち明けることにした。彼がどう反応するか、少し怖かったけれど。
「…あの、クラウス。…少し、お願いがあるのですが。」
「はい、お嬢様。なんなりと。」
彼の青い瞳が、すっと私を見据える。
「…私、このお屋敷のことをもっと知りたいんです。…図書室や客間だけではなく、この家を実際に支えてくださっている皆様が働いている場所を、この目で見てみたいんです。」
私はそこで一度言葉を切り、まっすぐに彼の目を見つめ返した。
「…私が記憶を失っていることは、ご存知の通りです。ですがそれ以上に、私は皆さんの顔も名前も、そしてどんな仕事をしてこの家を支えてくださっているのかも、何も存じ上げません。…それはこの家の娘として、あまりにも恥ずべきことだと思うんです。」
「…もしご迷惑でなければ、案内していただけませんでしょうか。…厨房や騎士の方々の訓練場など…。…ご挨拶だけでも、させていただきたいんです。」
私の申し出に、クラウスはほんの一瞬、表情を揺るがせた。その青い瞳には驚きと困惑、そして鋭い光が宿った。
彼は数秒間沈黙した。その頭脳が、私の申し出の真意と、それがもたらすであろう影響を高速で計算しているのが分かった。
「……………かしこまりました。」
やがて、彼は静かに、深く一礼した。
「お嬢様が、この家を支える者たちの仕事にご興味をお持ちになるとは。…ええ、喜んでご案内いたしましょう。」
その言葉には、ただ忠実な執事が、主の要望に応える純粋な響きだけがあった。…いや、それだけではない。
彼の声の奥底に、かすかに期待に満ちた響きが感じられた気がした。
「では、明日のご朝食の後にでも。…まずは、厨房からご案内するのがよろしいかと存じます。」
◆
翌朝。朝食を済ませ、エマとリリーに手伝ってもらって動きやすいシンプルなドレスに着替えると、私はクラウスと共に屋敷の厨房へと向かった。
これまで案内された華やかで静謐な客間や書斎とは違い、そこへ至る廊下は、次第に実用的な雰囲気を帯びてくる。床は大理石から磨かれた石畳に変わり、壁の装飾は消え、時折盆を持ったメイドや、大きな荷物を運ぶ使用人たちとすれ違うようになった。
すれ違う誰もが、私の姿を認めると一様にびくりと体をこわばらせ、慌てて壁際に寄って、深々と頭を下げる。その反応は、まだ私への恐怖が根深いことを物語っていたが、私はただ一人一人に静かに頷きを返しながら、その後を通り過ぎた。私の隣を歩くクラウスは、そんな私の様子をただ無言で観察していた。
やがて活気のある声が聞こえ、美味しそうな匂いも漂ってくる。クラウスは大きな木の扉の前で足を止め、私の方を振り返った。
「お嬢様。こちらが厨房でございます。朝食の片付けと昼食の準備で、今は一日で最も忙しい時間帯でございます。…少々、騒がしいかもしれません。」
彼がそう言って扉を開けた瞬間。熱気と、様々な食材が混じり合った匂い、そして、活気に満ちた喧騒が私たちを包み込んだ。
そこは、まるで戦場のような場所だった。
何十人もの料理人たちが、白い制服を汗で濡らしながら、目まぐるしく動き回っている。大きな銅鍋からは湯気が立ち上り、薪が燃える竈の炎が、忙しく働く彼らの顔を赤く照らしていた。野菜を刻む小気味よい音、肉を叩く鈍い音、そして、料理長らしき恰幅の良い男が、朗々とした声で指示を飛ばす声。
私が入口に立っていることに気づいた者は、まだ誰もいない。皆、目の前の仕事に完全に没頭していた。
私はその光景に、ただただ圧倒されていた。この屋敷に来てからの食事は、前世に比べたら豪華なものばかりだった。それが、これほどまでの情熱と労力によって生み出されている。その事実を初めて目の当たりにしたのだ。
(…すごい…。…これがプロの仕事場…。)
連携の取れた動き、無駄のなさ、そして何よりも、仕事に対する熱量は本物だった。私は、素直に感動していた。
邪魔をしてはいけない。私はそう思い、声をかけるのをためらった。しかし、その時だった。
入口に立つ私たちの存在に、ようやく料理長らしき恰幅の良い男が気づいた。彼は一瞬鋭い視線を向けたが、それがクラウスと、この家の令嬢である私だと認識した瞬間、大きな体をびくりと震わせ、顔から血の気が引いていくのが分かった。
「ひぃっ!?お、お、お嬢様!?な、なぜこのような場所に…!?」
料理長の上げた素っ頓狂な声に、厨房の全ての音がぴたりと止んだ。先ほどまでの喧騒が嘘のように、しんと静まり返る。野菜を刻んでいた手も、鍋をかき混ぜていた手も、全ての動きが止まり、厨房にいた何十人もの視線が恐怖と困惑に満ちて、入口に立つ私一人に突き刺さった。
無理もない。以前の「アレクシア」が厨房に現れる時。それは決まって、料理に難癖をつけ、皿を投げつけ、料理人を罵倒するためだったのだから。彼らにとって私の登場は、嵐の襲来そのものだった。
クラウスが前に出て、何かを言おうとする。しかし、私はそれをそっと手で制した。そして、一歩前に踏み出した。
静まり返った厨房で、私はゆっくりと、深くそこにいる全員に向かって、頭を下げたのだ。
「皆様、お仕事中、大変申し訳ありません。」
「「「…………えっ?」」」
私のその行動と言葉に、厨房にいた全員が息を呑んだ。アレクシアお嬢様が頭を下げた…?謝罪を…?彼らの頭は完全に混乱していた。
「私が毎日いただくお食事が、これほどまでに皆様の心のこもったお仕事によって作られているのだと、今初めて知りました。」
私はゆっくりと顔を上げ、彼らの驚きに満ちた顔を一人一人見渡した。
「いつも、本当に美味しいお食事をありがとうございます。心より、感謝申し上げます。」
私はそう言うと、もう一度、深く頭を下げた。
静寂。誰も、一言も発することができない。ただ呆然と、信じられないものを見る目で、私を見つめている。料理長の口はあんぐりと開いたまま、塞がらなかった。
「お忙しいところ、本当に申し訳ありませんでした。どうぞ、お仕事を続けてください。…クラウス、参りましょう。」
私はそれだけ言うと、まだ呆然としている料理人たちに背を向け、クラウスを促して静かに厨房を後にした。
扉が閉まり、厨房の喧騒が遠ざかっていく。私の後ろを歩くクラウスの気配が、どうなっているのか。今は、振り返って確かめる勇気が私にはなかった。
静かな廊下を、二人分の足音だけが響く。先ほどからクラウスは一言も口を開かない。その沈黙が、私の心臓をじわじわと締め付けていた。
やがて、次の目的地である騎士団の訓練場へと続く中庭に差し掛かった、その時だった。
彼が、ふと足を止めた。私もつられて足を止める。
「…………アレクシア様。」
彼の静かな呼びかけに、私はびくりと肩を震わせた。そして、恐る恐る彼の顔を見上げた。
彼の無表情は相変わらずだった。しかし、その奥にある冷たい青い瞳の色が、これまでとは明らかに違っていた。
そこにはもはや、私を試すような冷たい観察者の光はなかった。その代わりにそこにあったのは―――。
純粋な感嘆と、次なる展開に心を躍らせている愉悦の色だった。
「…いえ。…失礼いたしました。」
彼はそれだけを言うと、再び何事もなかったかのようにすっと前を向き、歩き始めた。
「…え…?」
私は、その短い言葉の真意が分からず、ただ呆然と、彼の広い背中を見つめることしかできなかった。
しかし、その瞬間。私は、確かに感じ取っていたのだ。私と彼の間にあったあの分厚く冷たい氷の壁が、ほんの少しだけ溶け始めた予感を。




