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8.この国の歴史と現状

ピアノ室から戻ってきてから、どれくらいの時間が経っただろう。不意に、部屋の扉が静かにノックされた。びくりと肩が跳ねる。


コン、コン


「お嬢様、クラウスでございます。お約束の品をお持ちいたしました。入室してもよろしいでしょうか。」


扉の向こうから聞こえる声は、ピアノ室を出る前と何一つ変わらない、落ち着き払ったものだった。それがかえって、不気味にさえ感じられた。


「…はい、どうぞ。」


私がそう答えると、扉は静かに開き、クラウスが入ってきた。その手には銀の盆が掲げられ、数冊の分厚い革張りの本と、真新しいノート、そして羽ペンとインクのセットが整然と並べられている。


「失礼いたします。」


彼は室内に入ると、私の近くにあるテーブルの上に、盆をそっと置いた。その一連の動作には、先ほどの動揺など微塵も感じられない。まるで、ピアノ室での出来事など、初めからなかったかのように。


「ご要望の品でございます。こちらの三冊はそれぞれ『王国建国史』、『主要貴族名鑑と紋章学』、そして『王国地理と産物』。まずは、この世界の概要を…いえ、記憶を呼び覚ます一助となるかと存じまして、私の判断で選ばせていただきました。」


彼は一冊ずつ、本の題名を淡々と告げた。その声は平坦だったが、「この世界の概要を」と言いかけて、「記憶を呼び覚ます一助に」と言い直したところに、彼の明確な意図が隠されているように思えた。彼はもう、私が「記憶喪失のアレクシア」ではない可能性を、はっきりと視野に入れている。


「ノートと筆記用具も、こちらに。インクがドレスに飛ばぬよう、お気をつけくださいませ。」


「ありがとうございます。」


「もし、お一人で読み解くのが困難な箇所がございましたら、いつでも私をお呼びください。分かる範囲であれば、ご説明いたします。では、ごゆっくり。」


氷のような礼儀正しさに、私は息を詰める。彼は私に背を向けると、来た時と同じように静かに部屋を退出していった。重厚な扉が閉まる音が、まるで監獄の扉が閉ざされる音のように、私の心に重く響いた。


パタン。


彼の気配が完全に消えたことを確認すると、私は張り詰めていた全身の力を抜き、そばにあった椅子にどさりと座り込んだ。心臓が、まだ早鐘を打っている。怖い。あの執事は、間違いなく私の正体に気づき始めている。


でも、怯えてばかりはいられない。彼が用意してくれたこれらの本は、今の私にとって唯一の武器であり、生きるための道標なのだ。


私は意を決して立ち上がり、テーブルに置かれた本に手を伸ばした。ずしりと重い革張りの装丁。指先でなぞった金の箔押しが、この本の価値を物語っている。


最初に手に取ったのは、『王国建国史』だった。まずは、この世界の成り立ちを知らなくては始まらない。


私は近くのソファに腰を下ろし、固唾を飲んで、その重い表紙をゆっくりと開いた。古びた羊皮紙の匂い。そこに記された、私の知らない歴史。私はソファに深く腰掛け、膝の上で『王国建国史』の重いページをめくり始めた。


幸いなことに、この世界の文字は、なぜかすんなりと頭に入ってきた。まるで、元々知っていた知識を思い出すかのように、文章を読むことができた。これが、この身体に残された本来の記憶の断片なのだろうか。理由は分からないが、今はただ、この幸運に感謝するしかなかった。


私は貪るようにページをめくり、クラウスが用意してくれたノートに、羽ペンを走らせた。カリ、カリ、というペン先が紙を긁く音だけが、静かな部屋に響き渡る。窓の外では太陽がゆっくりと傾き、部屋に差し込む光の色がオレンジ色に変わっていくのも忘れるほど、私は没頭していた。


数時間が経過し、ノートの数ページが私の拙い文字で埋め尽くされる頃には、この世界の歴史の骨子が、ぼんやりとではあるが、私の頭の中に形作られていた。


この国は、建国から約800年の歴史を持つヘルデンライヒ王国。ヴァイス公爵家は、北方に位置する強大な軍事国家「アイゼンマルク帝国」との国境線を代々守り続けてきたことから、「王国の北の盾」と称される、屈指の武門の名家のようだ。


約50年前、アイゼンマルク帝国が大規模な侵攻を開始し、王国史上最大の大戦が勃発した。10年にも及ぶ激戦の末、王国は辛うじて勝利を収めた。しかし、国土は疲弊し、多くの貴族や騎士、国民が命を落とした。ヴァイス公爵家も、当時の当主(私のお爺様にあたる人だろう)がこの戦争で英雄的な活躍を見せたが、同時に多くの犠牲を払ったらしい。


ペンを置き、ノートにまとめた事実を改めて読み返す。心臓がどくん、と大きく脈打った。


私が転生したこの身体は、ただのわがままな金持ちの令嬢ではなかったのだ。この国を守る重責を担い、多くの血を流してきた「王国の盾」、ヴァイス公爵家のたった一人の跡継ぎ。


クラウスが私に向ける、あの冷徹なまでの観察眼。公爵夫妻の、どこかよそよそしく、厳格な態度。その理由が、少しだけ分かった気がした。彼らは、ヴァイス家の令嬢として、私に大きな期待と、それ相応の役割を求めているのだ。


そして、そんな家にふさわしくない、贅沢三昧でわがまま放題の「アレクシア」は、彼らにとってどれほどの頭痛の種だったのだろう。


私はごくりと唾を飲み込んだ。自分がとんでもない立場に立たされていることを、今、改めて実感している。これは、ただ生き延びればいいという話ではない。私は、この「アレクシア・フォン・ヴァイス」として、この家と、この国の歴史の中で、生きていかなければならないのだ。



 ◆



私は次の日も、本を貪り読んでいた。次に手に取ったのは、『王国地理と産物』の本だ。そこには、この国の経済と、人々の暮らしの根幹が記されていた。


北部に位置するヴァイス公爵領は、険しい山脈と深い森に覆われ、冬は雪に閉ざされる。気候が厳しく、大規模な農業には不向きのようだ。食料自給率が低く、その多くを南からの輸入に頼っているらしい。


しかし、山脈からは鉄鉱石や希少金属など、質の良い鉱物資源が豊富に産出される。これが、ヴァイス家の軍事力の源泉だろう。


そして、南部に位置するのはゲルラッハ公爵領。温暖な気候と広大な平野に恵まれ、王国最大の穀倉地帯で、小麦やワインの産地として有名のようだ。王国の食料庫を握っていることが、ゲルラッハ家の絶大な権力の源泉だろう。


王都がある中央は、北の鉱物資源と南の食料が集まる物流と商業の中心地だ。様々な文化や情報が行き交っている。


私はここまで読み、この世界の力関係を理解した。我がヴァイス家の強みと、そして致命的な弱点を。


ゲルラッハ家は、食料の供給を盾に、いつでもヴァイス家の喉元に刃を突きつけることができる。だからこそ、父は武力で圧倒し、北の国境を守ることで、その存在価値を示し続けてきたのだ。



 ◆



最後に手に取ったのは、『主要貴族名鑑と紋章学』と題された分厚い本だ。


ページをめくると、そこには美しい装飾と共に、王家に連なる主要な貴族の家名、その当主と家族構成、そして各家が掲げる紋章の図案と、その由来が詳細に記されていた。


しかし、この本だけでは、人物像や家同士の複雑な関係までは把握できない。また、母が先日「婚約者」と口にしていたが、それが誰だかも分からなかった。


ふと、クラウスの言葉を思い出す。彼は、何か分からないことがあれば呼べと言っていた。


彼と話すときは、いつも試されているような緊張感で息が詰まる。その青い瞳は、私の心の奥底まで見透かしてくるようだ。しかし、分からないままにしておく方が、もっと危険だ。私は意を決すると、枕元にあったベルを鳴らした。


しばらくすると、クラウスが部屋までやってきた。相変わらず、隙のない所作だ。


私が質問内容を端的に話すと、彼は丁寧に解説を始めてくれた。


「まず、このヘルデンライヒ王国を治める現国王は、アルフォンス陛下でいらっしゃいます。先代の王が終結させた大戦後の復興と平和維持に尽力されており、国民からの信頼も厚い御方です。」


私は、彼の言葉をノートにまとめていく。私の様子を見ながら、クラウスは淀みなく続けた。


「次に、我がヴァイス公爵家について。当主は、アレクシア様の父君であるゲオルグ・フォン・ヴァイス閣下です。歴戦の猛将として知られ、北の国境守備の全権を握っています。」

「ヴァイス公爵家の軍事力は王国随一で、領地の大きさも王都に次いで二番目です。しかし、領地が北の辺境にあり、ゲオルグ閣下も貴族的な駆け引きより実利と軍事を重んじることから、王都での政治的影響力が他の大貴族に比べて弱いという欠点がございます。」


彼はヴァイス家の強みと弱みを、淡々と的確に語っていく。武門の名家であることや食料の弱点などはすでに学習済みだが、政治力も弱いのか。


ふと、本に描かれた紋章が目に入る。吹雪の中の剣を抱く白狼。北の厳しい地を武門の誇りで守る、まさにヴァイス家らしい紋章だった。


「続いて、南を治めるゲルラッハ公爵家について。当主は、オズヴァルト・フォン・ゲルラッハ卿です。南の広大で肥沃な土地を支配し、王国の食料供給を牛耳っています。」

「先の大戦では後方支援に徹し、ほとんど犠牲を出さずに戦後の復興事業で莫大な利益を上げた模様です。現在、王都の社交界と政界で最大の発言力を持つ派閥を形成しており、我がヴァイス家とは敵対しております。」


ゲルラッハ公爵家。ヴァイス家の食料問題を握っている政敵。常に危機的なこの状況を打破するには、ヴァイス領の食料自給率を上げる、またはゲルラッハ以外から食料を輸入するルートを新たに開拓するしかない。


正直、頭が痛かった。私がこの世界で生きていくなら、食料問題は避けて通れない。しかし、問題を解決する方法はあるのだろうか?


そんな私の考えを知ってか知らずか、クラウスが静かに声をかけた。


「お嬢様、続けてもよろしいでしょうか。」


「あ、はい。お願いします。」


「…では。次にご紹介するのは、アレクシアお嬢様の婚約者に関係するヴァルトフォーゲル公爵家についてです。」


私はその言葉に、ペンを走らせていた手を止めた。婚約者。いったいどんな人物なのだろう。少しだけ胸がざわついた。


「ヴァルトフォーゲル公爵家は、代々王国の司法を司ってきた名門です。当主はエトムント・フォン・ヴァルトフォーゲル卿ですが、病気がちで派閥争いには関与しておりません。」

「ご令息は嫡男のベネディクト卿と、次男のジークベルト卿です。お嬢様の婚約者はジークベルト卿で、若くして騎士団長の要職にあらせられます。」


「騎士団長…」


きっと、すごい人に違いない。いや、すごいで片付けるのは失礼だろう。若くして要職についているということは、それ相応の努力もしているはずだ。


「あの、ジークベルト様は、どのような方なのですか?」


私の問いに、クラウスは青い瞳を細めた。憐憫とも軽蔑ともつかない瞳だ。


「…ジークベルト卿は、巷では『堅物』 『冷徹』として知られていますが、どの派閥にも与せず、法と正義を重んじる実直な方です。ただ……。」


彼はそこで、わざとらしく言葉を切った。


「ただ…?」


「以前のお嬢様は、そんなジークベルト卿を『面白みのない男』と仰せでした。そして、先の夜会では彼の前で別の子息と親密に踊り、ジークベルト卿の顔に、泥を塗られました。」


「え………。」


そんなことをされたら、相手は怒るに決まっている。婚約者の顔を潰すなんて、元の「アレクシア」は何を考えていたんだ。


それにしても。ただでさえ家のことで頭が痛いのに、婚約者との関係も最悪だなんて…。自分の置かれた状況の厳しさに眩暈がする。


「他にも有力な貴族はおりますが、今のお嬢様に関係が深いのは以上でございます。他に、何かご質問はございますか?」


彼は私のことを試すかのように、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで言った。


「いえ、詳しく話してくれてありがとうございます。少し、頭の中を整理させてください…。」


私は、そう答えるのが精一杯だった。


クラウスは静かに一礼すると、音もなく部屋を出て行った。一人残された部屋で、私はまとめたばかりのノートを見つめ、深くため息をついた。


問題は山積みだった。屋敷の人たちの信頼獲得。ヴァイス家令嬢としての役割。婚約者との関係修復。元の「アレクシア」のせいで、どうして私がこんな目に遭わなければならないのか、と正直思う。しかし、何とかしなければ、きっと私に未来はないのだろう。


私は痛い頭を押さえながら、次にすべきことに思考を巡らせた。

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