7.ピアノと確信
重厚な図書室から一転、彼が次に私を案内したのは、明るい光が差し込む優雅な部屋だった。壁は柔らかなクリーム色で、繊細な金色のレリーフが施されている。床には音を吸収する厚い絨毯が敷かれ、部屋の中央には、見たこともないほど艶やかなローズウッドのグランドピアノが鎮座していた。その存在感は、まるで部屋の主のようだった。
「こちらが、ピアノ室でございます。」
彼はそう言うと、私の問いに答えるべく、ゆっくりと口を開いた。
「お嬢様はピアノをお弾きになり、また、歌も歌われておりました。」
(そうだったんだ…。)
「どちらも、公爵令嬢としての嗜み、社交界でご自身を輝かせるための重要な教養の一つとして、幼い頃から王国最高の師について学ばれておりました。」
彼の言葉は、どこまでも客観的だった。しかし、その選び抜かれた言葉の端々から、元の「アレクシア」の音楽に対する姿勢が透けて見えた。それは、芸術への深い愛情というよりは、自らを飾るためのアクセサリーのようなものだったのかもしれない。
「特に、夜会などでゲストを前になさり、その腕前を披露されることを好んでおいででした。お嬢様の演奏が終わると、会場はいつも万雷の拍手に包まれたものです。」
彼はそこまで言うと、ピアノへと近づき、埃一つない鍵盤の蓋を、静かにゆっくりと開けた。磨き上げられた白と黒の鍵盤が、光を反射してきらめく。
「いかがでしょう、お嬢様。少し、触れてみますか?」
彼は私の方を振り返り、その無表情の奥にある青い瞳で、じっと私を見つめた。
「指が、何か覚えているかもしれません。」
それは、単なる提案ではなかった。記憶を失った主人に対する、執事による静かで、しかし明確な「実験」だった。
クラウスの「実験」の意図には気づかないふりをして、私は静かにピアノの前に座った。鍵盤のひんやりとした感触が、少し落ち着く。
どの曲を弾こうか。元の「アレクシア」が弾いていた曲は、当然知らない。ならば、私が知っている曲を弾くしかない。
私の今の気持ち…。周囲からは戸惑いや恐怖の目を向けられ、クラウスには常に観察されている。この世界に来て、不安なことだらけだ。夢であったらいいのにと思った。その、今の気持ちを表す曲は…。
私はゆっくりと息を吸い、鍵盤に指を置いた。そして、前世で好きだった曲の一つ、ドビュッシーの『夢』を紡ぎ始めた。
♬〜〜〜
ふわりとした、夢の中を漂うような柔らかなアルペジオが、静まり返った部屋に響き渡る。それは、聴く者を優しくまどろみの中へと誘うような、幻想的で穏やかなメロディーだった。
光や風の揺らめき、夢の中の曖昧な雰囲気を音で表現したような、内省的で色彩豊かな音楽。私は誰に聞かせるためでもなく、ただ自分のために、心の赴くままに鍵盤を撫でた。
曲がクライマックスを迎え、そして再び静けさを取り戻し、最後の和音が優しい余韻を残して消えていく。私はゆっくりと鍵盤から指を離し、息をついた。
静寂。部屋には、私の息遣いと、背後で微動だにせず佇むクラウスの気配だけがあった。
振り返るのが、少し怖かった。彼がどんな顔をしているのか。私が弾いた曲を、この世界の人間がどう受け止めるのか。
意を決して振り返ると、そこにいたのは、いつもの無表情な執事ではなかった。
クラウスは、その青い瞳を、これまでに見たことがないほど大きく見開いていた。驚愕、困惑、そしてその奥に、鋭い探求の色を浮かべて。彼のポーカーフェイスは完全に崩れ去り、その整った顔には、隠しようのない動揺が走っていた。
「……お嬢様。」
彼の唇から漏れた声は、かろうじて平静を装ってはいたが、わずかに掠れていた。
「…その曲は…私の知らない曲でございます。やはり、貴女は……。」
彼は言葉を続けようとして、やめた。そして、どこか納得したような表情を見せた。
私はピアノを弾くのはまずかったかと思い、苦しい言い訳をした。
「えっと……うろ覚えだったので、アドリブでアレンジしちゃったところが結構あって…。」
「……アドリブで、アレンジを……なるほど。」
彼は私の言葉を、ただの音として受け取ったかのように、静かに繰り返した。しかし、その声には一切の感情が乗っていない。そして、氷のように冷ややかに、私の言い訳の矛盾を突きつけた。
「しかし、お嬢様。」
「今お弾きになった曲は、メロディーが不明瞭であったところはございません。そして、その指使いの基礎、繊細なペダリング、そして何より、音の一つ一つに込められた情感の解釈…。それは、記憶をなくされる前のお嬢様が何百回と弾いてこられた、どの曲の奏法とも、根本から異なっておりました。」
彼の言葉は、もはや尋問だった。執事の仮面の下から、鋭い分析者の目が私を射抜いている。
「まるで、全くの別人が、その魂のままに奏でているかのような…。失礼いたしました。私の聞き間違いでございましょう。」
彼は最後の言葉で、辛うじて主従の関係を取り繕った。しかし、その瞳は一切笑っていない。彼は私という存在の「異常性」を、今この瞬間、確信したのだ。
クラウスは静かにピアノに歩み寄ると、私が触れた鍵盤にそっと、しかし有無を言わせぬ力で、蓋を下ろした。パタン、という乾いた音が、部屋の空気を一層重くする。
「…少々、お疲れになりましたか。記憶を辿ることは、お体に障るかもしれません。本日のご案内は、ここまでにいたしましょう。」
「……分かりました。」
「では、お部屋までお送りいたします。こちらへ。」
彼はそう言うと、私に背を向け、ピアノ室の扉を開けた。来た時と同じように、彼は私の数歩前を歩く。しかし、その背中から発せられる空気は、明らかに違っていた。静かだが、刺すような緊張感が、私たちの間を支配していた。
長い廊下を、二人分の足音だけが響く。彼は何も語らない。私も、何も話せなかった。彼の頭の中で、今、どれほどの思考が巡らされているのか。それを考えると、背筋が冷たくなる思いだった。
やがて、私の部屋の前にたどり着く。クラウスは扉を開け、私が中に入るのを待った。
「図書室で話したお約束の書物と筆記用具は、後ほど私が直接お持ちいたします。」
その言葉は、単なる報告ではなかった。「他の誰にも任せず、この私が、あなたの様子を見に来ます」という、無言の宣告だった。
「それまで、どうぞごゆっくりお休みくださいませ。」
彼は深く一礼すると、音もなく扉を閉めた。一人残された部屋で、私はようやく張り詰めていた息を吐き出す。ピアノを弾いたのは、失敗だったかもしれない。私は、この家で最も警戒すべき相手に、自分の正体の手がかりを、自ら与えてしまったのだから。
◆
アレクシアの部屋の扉を、音もなく閉める。クラウスは扉に背を向けて数歩歩き、そして――ぴたりと足を止めた。
誰もいない静かな廊下で、彼はゆっくりと深く、息を吐いた。ほんの数秒間だけ、完璧に保たれていた姿勢がわずかに崩れる。白い手袋に覆われた拳が、固く握りしめられていた。
彼の脳裏には、先ほどの光景が鮮明に焼き付いて離れなかった。ピアノ室に響き渡った、あの音色。それは、彼が仕えてきたアレクシア・フォン・ヴァイスという令嬢の音とは、似ても似つかないものだった。
アレクシアお嬢様は、わがままで、傲慢で、感情の起伏が激しい。その音楽もまた、彼女自身を映した鏡だった。聴衆の喝采を浴びるための、技巧をひけらかすための、派手で空虚な音。繊細さや、内省的な情感など、そこには欠片も存在しなかった。
(だが、先ほどの音色は…)
夢の中を漂うような、幻想的で、どこか物悲しさを帯びた優しい調べ。技巧ではなく、魂で奏でているかのような、深く、色彩豊かな音。そして、何よりも、あの曲。彼の知る限り、この王国の、いや、どこの国の作曲家のリストにも存在しない、全く未知の旋律。
記憶喪失。性格の変化。医者はそう言った。
しかし、謝罪の言葉、侍女たちへの気遣い、図書室で見せた知的な好奇心。そして、あのピアノ。一つ一つが、ありえないパズルのピースだった。だが今、そのピースが組み合わさり、一つの恐ろしい結論を導き出していた。
(あの中にいる『何か』は、やはりアレクシアお嬢様ではない。)
そうだとして、あれは一体何者なのだ?何かの魔術か、呪いか。あるいは、悪魔か何かが、お嬢様の肉体を乗っ取ったとでもいうのか。公爵家に害をなすための、敵対貴族が送り込んだ刺客…?あらゆる可能性が、彼の冷静な思考を駆け巡る。
クラウスはゆっくりと再び歩き出した。その足取りは、いつもの完璧な執事のものに戻っていた。だが、その内面は、凍てつくような決意に満ちていた。
(正体を、暴かねばならない。)
彼の忠誠は、アレクシアという個人ではなく、ヴァイス公爵家そのものに捧げられている。あの中にいる存在が、たとえ以前のお嬢様よりどれほど知的で、穏やかで、扱いやすい存在であったとしても、それが公爵家にとって脅威である可能性が一片でもあるのなら、容赦なく排除しなければならない。
クラウスは己の執務室へと向かいながら、その青い瞳に、氷よりも冷たい光を宿していた。彼の役割は、もはや単なる「執事」ではなかった。ヴァイス公爵家を守るための「監視者」へと変貌を遂げたのだ。




