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5.二人のメイド

翌朝。柔らかな朝の光が瞼を透かし、小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。ゆっくりと目を開けると、そこは昨日と同じ、見慣れない豪華な部屋だった。やはり、夢ではなかったのだと実感する。


私が身じろぎしたのを察したかのように、部屋の扉が静かに、そして丁寧にノックされた。


コン、コン


「お嬢様、おはようございます。クラウスでございます。お目覚めでいらっしゃいますか?」


その落ち着き払った声を聞いただけで、私の心臓はきゅっと縮み上がった。私が「どうぞ」と答えると、彼は静かに部屋に入ってきた。その手には銀の盆が掲げられており、美しいティーカップから湯気が立ち上っている。


「昨夜はよくお眠りになれましたでしょうか。お身体の具合はいかがでございますか?」


彼は優雅な所作でベッドサイドのテーブルに盆を置くと、私に向き直った。今日の彼もまた、寸分の乱れもない執事服に身を包み、その表情からは何も読み取れない。


「お目覚めの紅茶でございます。お支度が整いましたら、昨日お約束いたしましたお屋敷のご案内をさせていただきますが、いかがなさいますか?」


「はい、ぜひお願いします。紅茶を飲んだら支度しますので。」


私は精一杯の平静を装って、そう答えた。私の前向きな返事に、彼の冷たい瞳がほんのわずかに細められた気がした。


「では、お紅茶を召し上がっている間に侍女たちを向かわせます。彼女たちに身支度のお手伝いをさせますので、ご準備が整いましたらお声がけください。」


侍女。そうだ、公爵令嬢なのだから、着替えや髪を結うのを手伝ってくれる人たちがいるのが当然だ。元の世界の私とは、何もかもが違う。


「私はお嬢様のご準備が整うまで、扉の外で控えております。どうぞ、ごゆっくり。」


彼は静かにそう告げると、音もなく部屋を退出していった。一人残された部屋で、私は温かい紅茶を一口飲む。その優しい香りが、少しだけ緊張をほぐしてくれた。


やがて、彼の手配で二人の若いメイドさんが部屋へとやってきた。彼女たちの私を見る目は、クラウスさんのそれとは全く違う種類のものだった。それは、純粋な恐怖に満ちていた。


二人は私の前に立つと、びくりと体をこわばらせ、まるで条件反射のように深々と頭を下げた。その怯えきった様子から、元の「アレクシア」が彼女たちにどれほど酷い仕打ちをしてきたのかが、嫌でも想像できた。


前世での苦い記憶が蘇る。私自身も、上司の理不尽なパワハラに苦しめられた経験があった。だからこそ、彼女たちのその恐怖が痛いほどに分かった。


「あの…。身支度の手伝いをお願いできますか。」


私ができるだけ穏やかな声でそう言うと、二人はお互いの顔を見合わせさらに体を小さくした。


「…ごめんなさい。聞いているかもしれないけれど、私、事故で記憶が混乱しているんです。だから以前の自分が、あなた方にどんな風に接していたのか思い出せなくて…。」


私はそこで一度言葉を切り、彼女たちの怯えた瞳をまっすぐに見つめた。


「きっと、酷いことを言ってしまっていたんでしょうね。でも、今の私はあなた方を傷つけたいなんて少しも思っていませんから。…どうか、そんなに怯えないでください。」


私の言葉に、二人の侍女はまるで時が止まったかのように、ぴたりと動きを止めた。一人は持っていたドレスを落としそうになり、もう一人は息を呑んで目を白黒させている。二人は顔を見合わせた。その表情には安堵よりも、これまで感じたことのない種類の恐怖と深い混乱が浮かんでいた。


「そ、そ、そ、そんな…!お嬢様が、わたくしどもをお気遣いくださるなど…!滅相もございません!」


「お、お戯れはおやめくださいませ、お嬢様…!」


二人は震える声でそう言うと、慌てて再び深々と頭を下げた。その姿は、私の言葉を受け入れたというよりはむしろ「未知のあなたが一番怖いのです」とその全身が訴えかけているかのようだった。


(…だめだ。…根が深すぎる…。)


私は、この世界の「アレクシア」が、彼女たちにどれほど深い傷を負わせてきたのかを、痛いほど理解した。記憶をなくしただけでは、この根深い恐怖と不信感は拭えない。信頼を取り戻すには、きっと長い時間がかかるだろう。


「…そう、ですよね。急にこんなことを言われても、信じられませんよね。…分かりました。でも、言葉だけじゃなく、これからの行動で示していきますから。だから今は、普通に接してください。…お願いします。」


私が改めてそう言うと、侍女たちは恐る恐る顔を上げた。まだその瞳には強い警戒の色が浮かんでいたが、それでも、先ほどよりは少しだけ落ち着きを取り戻したように見えた。


「…か、かしこまりました。では、お嬢様…お召し物のご準備を…。」


侍女たちのぎこちない手つきに、私は身を任せた。クローゼットは、それ自体が一つの部屋と呼べるほど広大で、中には目もくらむような数のドレスが掛けられている。どれもこれも、刺繍やレース、宝石がふんだんに使われた、豪華絢爛なものばかりだった。


「お、お嬢様…。本日は、どのお召し物になさいますか…?」


侍女の一人が、恐る恐る尋ねてきた。その手には、空色のシルクドレスと、薔薇色の豪奢なドレスが掲げられている。どちらも美しいが、今の私にはその価値も、着ていくべき場面も分からない。


「そうですね…今の私には、どれがどういう時に着るものなのか、よく分からなくて。今日は屋敷の中を案内してもらう予定なのですが、それに合うものをあなたが選んでくれませんか?」


私のその返事に、侍女二人は再び顔を見合わせた。主人が侍女に服の選択を委ねるなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだったのだろう。二人の瞳に浮かぶのは、もはや恐怖よりも純粋な困惑だった。


「…わ、わたくしが、でございますか…?で、では…こちらなど、いかがでしょう…。屋敷の中を歩かれるのでしたら、裾が長すぎない方が動きやすいかと…。」


侍女が選んでくれたのは、最初に提示されたドレスよりも、ずっとシンプルで上品な、柔らかなラベンダー色のドレスだった。華美な装飾は少ないが、上質な生地と洗練されたデザインが、かえって気品を際立たせている。


「ええ、それがいいです。素敵ですね。ありがとうございます。」


私が素直に礼を言うと、侍女たちはまたびくりと肩を震わせたが、それでも黙々と着替えの手伝いを始めた。肌着からコルセット、パニエ、そしてドレスへ。その手つきは驚くほど手際が良く、あっという間に私は公爵令嬢らしい姿になった。


次に鏡台の前に座ると、髪の手入れが始まる。侍女の一人が緊張した面持ちで、櫛を手に取った。


「髪は…いかがいたしましょうか?」


「そうですね……。今日は家の中を案内してもらうだけなので、簡単にまとめてもらえますか?動きやすい方がいいので。」


「か、簡単なものでございますか…?」


「はい。お願いします。」


私の要求に戸惑いながらも、侍女たちは私のプラチナブロンドの髪を丁寧に梳かし、上品なアップスタイルにまとめてくれた。鏡に映る自分は、昨日見た傲慢そうな令嬢とは少しだけ印象が違い、どこか柔和に見える。


全ての支度が終わると、二人は深々と頭を下げた。


「お支度、整いました。」


その仕事ぶりに、私は静かに礼を言った。


「…綺麗にしてくれて、ありがとうございます。」


私の穏やかな感謝の言葉に、二人はまたびくりと肩を震わせた。私はそんな彼女たちに、できるだけ優しい声で問いかけた。


「…もしよろしければ、お二人のお名前を教えていただけますか。…記憶がないので、これから少しずつ覚えたいんです。」


私のあまりにも当たり前で、しかし、この家ではあり得なかったであろう問いかけ。それに二人は顔を上げ、信じられないという表情で、それでも絞り出すように自分たちの名前を告げた。


「…エマ、と申します。」

「…わたくしは、リリーでございます。」


「エマ、リリー。…ありがとう。これからも、よろしくお願いしますね。」


私が穏やかに微笑みかけると、エマとリリーはもはやどう反応していいのか分からないというように、ただ呆然と立ち尽くしていた。


私が部屋を出ると、扉の外ではクラウスさんが綺麗な姿勢で私を待っていた。彼の青い瞳は、私の背後でまだ呆然と立ち尽くしているエマとリリーの様子を一瞥し、そして再び私へと戻ってきた。その瞳には、冷たい分析の色が浮かんでいた。


「お嬢様、ご準備が整ったようでございますね。では、お約束通りお屋敷の中をご案内いたします。」


彼の落ち着き払った声が、静かな廊下に響く。先ほどの侍女たちとは違い、彼の態度には動揺のかけらもない。それが彼のプロフェッショナルさと、私との間にある見えない壁を感じさせた。

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