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2.神の悪戯

王都からの帰路。それは、さながら葬列のようだった。先頭を行くアレクシア様の馬車の中からは、時折ヒステリックな声が漏れ聞こえてくる。護衛の騎士たちの顔には、深い疲労と諦観の色が浮かんでいた。誰もが、このどうしようもない主君を、父君である公爵閣下の厳罰が待つ領都へと護送する、ただの「刑吏(けいり)」に成り下がっていた。


私は馬車の少し後ろを馬で並走しながら、ただ無感情に思考を巡らせていた。これから、どうするか。ゲルラッハの勢いを抑えたいが、ジークベルトとの関係修復は絶望的。…打つ手は八方塞がりだった。


その時だった。


「―――いや!…いやよ!…こんな檻みたいな馬車は嫌!…わたくしは馬に乗るわ!…どきなさい!」


馬車が急に止まり、中からアレクシア様が半狂乱の形相で飛び出してきた。私に言い負かされた屈辱と、父君に全てを報告されるという恐怖が、彼女の理性を完全に破壊していたのだ。彼女は、近くにいた騎士の手から乱暴に手綱をひったくると、ドレスの裾が乱れるのも構わず、その馬の背に飛び乗ったのだ。


「お、お嬢様!…なりませぬ!…その馬はまだ若く、気性が…!」


護衛隊長のグスタフが発した制止の声も、彼女の耳には届いていなかった。


「うるさいわね!…黙りなさい!…わたくしの邪魔をする者は、誰であろうと許さないわ!」


彼女はそう叫ぶと、手にしていた鞭を高く振り上げ、バシッ!と容赦なく馬の臀部(でんぶ)に叩きつけた。


―――ヒヒーンッ!!


馬は甲高い嘶きと共に、前足を天に突き上げた。そして、次の瞬間。それはまるで狂った獣のように、猛然と駆け出したのだ。


「…しまっ…!…追え!…何としてもお嬢様を確保しろ!」


騎士たちが一斉に馬を駆る。私も舌打ちを一つすると、その後を追った。しかし、暴走した馬の速さは異常だった。見る間に、彼女の姿は森の中の道へと吸い込まれていく。


そして、私たちが道のカーブを曲がりきった時。…その光景は、目に飛び込んできた。


馬はすでにいなかった。道端には、人形のような彼女の体が転がっていた。


騎士たちが息を呑む。私は、冷静に馬から降りると、脈を確認した。…弱い。しかし、まだ生きている。


「…グスタフ。…一番の早馬で領都へ戻り、屋敷に医師を手配しろ。…他の者たちは、担架を作れ。…急げ。」


私は淡々と指示を飛ばした。その声には、一切の感情がこもっていなかった。私の心の中は、奇妙なほど静かだった。


(………自業自得だ。)


そう思った。この愚かな人形は、愚行によって自らを滅ぼしたのだ、と。



 ◆



数時間後。ヴァイス公爵邸の一室。医師による診察と治療が終わった。


「…命に別状はございません。…ですが、大きな傷ではないものの、頭を打っている跡が見られます。…すぐには目を覚まさないでしょう。」


報告を受け、ゲオルグ閣下はただ苦虫を噛み潰したような顔で、腕を組んでいた。イザベラ夫人は、ベッドの脇で静かにハンカチで目元を押さえている。


私は、ベッドの上で青白い顔をして眠り続ける硝子の人形を、ただ無感情に見下ろしていた。…このまま目覚めなければ、あるいは、それも一つの結末か。…そんな不謹慎な考えさえ、頭をよぎった。


そして、アレクシア様が事故に遭ってから、丸2日が経とうとしていた。


様子を見に、彼女の部屋に入る。ちょうどその時だった。彼女の長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと翠の瞳が姿を現したのだ。


私はベッドの傍らに歩み寄り、執事としての第一声をかけた。


「お嬢様、お目覚めになられましたか。お身体の具合はいかがでございますか?」


そして、彼女の口から発せられた第一声は―――私の冷たい計算と、予測の全てを木っ端微塵に打ち砕く一撃となった。


「…………あの…ここは?」


(……………は?)


私は、我が耳を疑った。


…なんだ、今の声は。…あの耳障りな金切り声ではない。…どこまでも澄み渡り、深い戸惑いの色を宿した音色。


…なんだ、あの瞳は。…あの傲慢な光はどこへ消えた。…まるで、生まれたての子鹿のように純粋な、混乱と不安に揺れている。


…なんだ、この空気は。…彼女の周りから常に発せられていた、あの人を寄せ付けない刺々しいオーラが、完全に消え失せている。…代わりにそこにあるのは、どこか儚げで不思議な透明感。


(…記憶喪失か。あるいは、父君の厳罰を逃れるための芝居か。)


私はポーカーフェイスの下で、即座にそう結論付けた。いずれにせよ、まずは揺さぶりをかけて、その化けの皮を剥がしてくれよう。


「…何をおっしゃいますか。ここは、お嬢様の私室でございます。公爵邸のご自身の部屋が分からなくなられたと?」


私の刺すような視線に、彼女は怯えたように肩を震わせ、視線をきょろきょろと泳がせた。


「すみません、記憶が混乱しているかもしれません…。自分の名前も思い出せなくて…」


か細い、どこまでも誠実な響きを持った声。その瞳には、嘘や計算の色は微塵も感じられない。…ただ、純粋な恐怖だけがあった。


違う。これは芝居などではない。ならば、本当に記憶喪失だと?


しかしそれにしても、腑に落ちない。記憶を失っただけで、これほどまでに人間は変わるものなのか?声のトーン、纏う空気、そして、魂とも言うべき根源的な何かが、まるで別物にすり替わっている。


私の頭の中で、これまで築き上げてきた「常識」と「論理」という名の城壁が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。目の前にいるのは、私の知るアレクシアお嬢様ではない。では、何だ?


私は無意識のうちに、一歩後ずさっていた。そして、目の前の見慣れたはずの主君の顔をした全く知らない「何か」に向かって、声にならない声で問いかけていた。


(―――お前は、誰だ。)


しかし、私の口から紡がれたのは、完璧な執事としての返答だった。


「…お嬢様の御名は、アレクシア・フォン・ヴァイス公爵令嬢にございます。そして、私は貴女様にお仕えする、執事のクラウスと申します。」


私は、深く一礼した。その仮面の下で、一つの冷徹な決意を固めながら。


私は、見定めなければならない。このアレクシアお嬢様の顔をしたこの「何か」が、我がヴァイス家にとって、益となるのか、害となるのかを。

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