12.執事の誓い
侍女たちの涙を背に、私は静かにその場を後にした。石鹸の匂いが遠ざかっていく。私の胸の中には、まだ先ほどの温かい何かが、じんわりと残っていた。
私たちは再び静かな廊下を歩いていた。これで、今日見て回る予定だった場所は全て見終えたことになる。
隣を歩くクラウスの気配は、これまでになく静かだった。いや、静かというよりは、何か深い思索に沈んでいるかのような、張り詰めた沈黙だった。厨房や騎士団、侍女の詰所での出来事。その一つ一つを、彼はその頭脳で反芻し、分析しているのだろう。
やがて、客間や私室が並ぶ、いつもの居住区画へと戻ってきた。私の部屋の前にたどり着くと、彼は足を止め、私の方へと向き直った。
「…本日はお疲れ様でございました、お嬢様。」
彼のその声は、どこまでも平坦だった。
「…いえ。こちらこそありがとうございました、クラウス。先ほどのことだけでなく…。今日までの日々は、あなたがいなければ、私はきっと何もできませんでした。」
私が感謝の意を伝えると、彼はその視線を揺るがせた。そして、まるで何かに耐え切れなくなったかのように、静かに口を開いた。
「……アレクシア様。」
彼の呼びかけに、私はびくりと肩を震わせた。
「…失礼ながら、単刀直入にお伺いいたします。」
彼の青い瞳がまっすぐに、私の瞳を射抜いた。その瞳には純粋で知的な探求心と、どうしても解くことのできない謎を前にしたような、真剣な光が宿っていた。
「…厨房や騎士団で、彼らの心を掴んだあの言葉。…そして、侍女たちの凍てついた心を溶かした、あの慈愛。それらは、私がこれまで存じ上げていた『アレクシアお嬢様』のものではございません。…いえ、それどころか、並の貴族とは全く違う価値観でした。」
彼は、そこで一度言葉を切った。そして、まるでこの世界でたった一つの真実を求めるかのように、その問いを私に投げかけたのだ。
「―――アレクシア様。…貴女は一体、何者なのですか。」
彼の核心を突いた問い。それに私は、言葉を失った。心臓が大きく脈打つ。周囲の音が遠のいていく。私は、彼の全てを見透かすような瞳から逃れるように、俯くことしかできなかった。
(…どうしよう。…どう答えればいい…?)
「記憶喪失だからです」?…そんな子供だましの言い訳は、もはや通用しない。この鋭い観察者の前では、一瞬で嘘だと見破られるだろう。
では、本当のことを?「私は全く別の世界から転生してきたんです」と…?それを言ったところで、信じてもらえるはずがない。きっと彼は私のことを、頭がおかしくなってしまったのだと、そう思うに違いない。
怖い。真実を告げるのが、怖い。ようやく築き始めた彼との僅かな信頼関係が、この一言で全て崩れ去ってしまうかもしれない。彼は私を、気味の悪い得体の知れない「何か」として拒絶するかもしれない。
私は唇を固く噛み締めた。…どうしよう。…どうすれば…。
その時だった。私の脳裏に、前世の記憶が蘇った。タフな交渉の場で、いつも心がけていたこと。「…最大のリスクは不誠実であること。…誠意は、時に論理を超える」。
(…そうだ。…もう、誤魔化しはきかない。)
私は意を決して、顔を上げた。そしてクラウスの青い瞳をまっすぐに見つめ返して、告げたのだ。
「…………クラウス。もし私が、あなたの知る『アレクシア』とは全く別の人間なのだと言ったら。…あなたは、どう思われますか。」
あまりにも、突拍子もない問いだったに違いない。
「…信じてもらえないかもしれません。ですが、これが私に言える精一杯の真実なんです。」
私は一度言葉を切り、震える唇でそのあり得ざる真実を紡いだ。
「…私は、この世界の人間ではありません。全く別の遠い世界で生きていました。…そして事故で命を落とし、気がついた時にはこの『アレクシア』の体に宿っていたのです。」
静寂。私は、彼の反応を見ることができなかった。軽蔑か嘲笑か、あるいは拒絶か。…どんな言葉が返ってきても、それを受け入れる覚悟をした。
長い長い沈黙だった。やがて、彼の静かでどこまでも落ち着き払った声が、私の耳に届いた。
「……………なるほど。」
私は、はっとしたように顔を上げた。そこにいたのは、青い瞳に深い深い思慮の色を浮かべて腕を組んでいる、いつもの彼の姿だった。
「…『魂の転移』でございますか。…古代の禁断の魔術書に、いくつかその症例が記されておりました。極めて稀な現象ではございますが、全くの空想の産物というわけでもない。」
「…え…?」
私はあまりにも冷静で学術的な彼の反応に、完全に虚を突かれていた。
「…つまり貴女は、我々が知るアレクシアお嬢様の肉体に宿った、全く別の『人格』であると。…そう仰せなのですね。」
「…は、はい。…その通りです…。」
彼はふむ、と一度頷き、鋭い瞳で再び私を射抜いた。その瞳に驚きの色はなく、ただ一つの純粋で知的な問いだけが宿っていた。
「…では、アレクシア様。…いや、『貴女』にお伺いします。…貴女がいたというその別の世界とは、一体どのような場所なのですか?」
彼の探求心に満ちた問い。それに私は一瞬、言葉に詰まった。…どう説明すればいいのだろう。この世界とはあまりにも違う、私のいた世界のことを。
私はゆっくりと言葉を選びながら、話し始めた。
「…私のいた世界は…。『科学』と呼ばれる学問が非常に発達していました。」
「例えば、乗り物。…こちらでは、馬や馬車が主ですよね?…私の世界には、馬の何倍も速くて、一度に何百人もの人を運ぶことができる、鉄の乗り物がありました。それは、『電気』という雷に似た力で動いていたんです。」
「…鉄の乗り物…。…雷の力…。」
彼はその青い瞳に、強い興味の光を宿らせていた。まるで、おとぎ話のように聞こえているのかもしれない。
「連絡手段も違います。…ここではきっと、手紙が一般的ですよね?…私の世界には『電話』という、手のひらに収まるほどの小さな箱がありました。それを使えば、どれほど遠くに離れていても、相手とすぐに話すことができたんです。」
「…離れていても、すぐに話が?」
「ええ。…ですから、情報の伝わる速さが全く違います。そして、社会の仕組みも…。」
これが彼にとって一番、信じがたい話かもしれない。
「…私のいた世界には、もはや貴族という身分はありませんでした。」
「…………なんと。」
私のその一言に、さすがのクラウスも隠しようのない驚愕の声を漏らした。
「はい。…もちろん、昔は王様や貴族が国を治めていた時代もありました。ですが、長い時間をかけて社会は変わり、今では全ての人間が『平等』であるという考えが、基本となっていました。…一人一人の努力や才能によって、その人生を切り拓いていくんです。」
私は、そんな自分のいた世界の常識を淡々と語る。
「…私も、そのような社会で自分の力で仕事を得て、生計を立てていました。ですから、この世界の身分制度や考え方には、まだ戸惑うことばかりで…。」
私はそこまで話すと、ふっと自嘲気味に微笑んだ。
「…ごめんなさい、突拍子もない話ばかりしてしまって。…やはり、信じられませんよね。」
私がそう言って彼の顔を見上げると、彼はいつの間にかその腕を組んだまま静かに、目を閉じていた。そして、ゆっくりとその目を開けると、まるで遠い星空でも眺めるかのように、静かに、重々しく口を開いたのだ。
「……いいえ。…信じましょう。」
「…え…?」
「…なぜなら、その方が全て辻褄が合うからでございます。」
彼はその鋭い青い瞳で、再び私を射抜いた。
「貴女の学習意欲や、使用人たちに対する態度。それら全ての源が、貴女のそのお話の中にあるのだとすれば。…全ては驚くほど論理的に、説明がつくのでございます。」
彼は私のその荒唐無稽な告白を、おとぎ話としては捉えなかった。
「…分かりました、アレクシア様。」
彼は初めてその唇に、はっきりと笑みを浮かべた。それは、謎が解けたことへの純粋な知的な喜びに満ちた、美しい笑みだった。
「…貴女の数奇なご運命、このクラウス、理解いたしました。そして、その上で改めて申し上げましょう。」
彼は私に向き直り、深く一礼した。
「―――ようこそおいでくださいました、異世界のお方。…そして、ようこそ我がヴァイス公爵家へ。」
「…貴女の類稀なる知識とご経験、この詰みかけた盤面を覆すための『切り札』として、存分に振るわせていただくこととしましょう。」
彼の予想外の宣言に、私はただ呆然と立ち尽くしていた。恐怖も軽蔑も拒絶もなかった。そこにあったのはただ、この不可解な状況そのものを楽しみ、利用しようとする恐るべき軍師の姿だけだった。
「…き…切り札…?…私が…?」
「ええ。貴女はもはや、ただのお嬢様ではございません。この世界の誰一人として持ち得ない『常識の外』の視点を持つ、唯一無二の存在なのですから。」
彼は楽しそうに続けた。その目はまるで、新しいおもちゃを見つけた子供のように、キラキラと輝いていた。
「…貴女が持つ、我々にはない知識。あるいは、『平等』という思想。それらがこの世界で、どれほどの力となるか。」
「…ふふ。…考えただけでも胸が躍ります。…ゲルラッハのあの老獪な狐も、まさかこんな奇策が飛び出してくるとは夢にも思うまい。」
私は、彼の思考についていくのがやっとだった。ただ生き延びるために、必死だっただけなのに。この男は、私の存在をこの家を救う重大な戦力としてカウントしている。
「…あの、クラウス。私はそんな大それた人間では…。」
「ご謙遜を。貴女はまだ、ご自身の価値をご存知ないだけのことでございます。」
彼はそう言い切ると、私の前にすっとその手を差し出した。それはまるで、騎士が姫君にダンスを申し込むかのような、優雅な仕草だった。
「―――さあ、アレクシア様。契約といきましょうか。」
「…契約…?」
「はい。…貴女の持つ知識と知恵を、このヴァイス家の再興のためにお貸しいただきたい。…その代わり、私クラウス・フォルトナ―が、知謀の全てを懸けて、貴女がこの世界で生き抜くための最強の盾となり、貴女の望みを叶えるための最高の剣となることをお誓いいたします。」
その荘厳で魅力的な申し出に、私はごくりと喉を鳴らした。
「…どうなさいますか?この契約、お受けになられますか?」
彼はその美しい顔に、悪戯っぽい笑みを浮かべて問いかけた。
私はしばらくの間、差し出された彼の手を見つめていた。そして、ゆっくりと自分の手をその上に重ねた。手は少し震えていたが、瞳には確かな決意の光が宿っていた。
「…………よろしくお願いいたします。…私の軍師殿。」
私がそう答えた瞬間、彼の笑みが深く満足げになった。
「…ふふ。最高のお答えでございます、我が主君。」
彼が、私の手を恭しく握り返した。これから始まる逆転劇の幕が、静かに切って落とされた瞬間だった。




