10.騎士たちの忠誠
厨房での出来事を胸に、私はクラウスと共に、屋敷の外れにある質実剛健な建物が並ぶ一角へとたどり着いた。土と汗と鉄の匂いが、かすかに漂ってくる。
「…こちらが、騎士たちの詰所と訓練場でございます。」
彼の静かな声が、沈黙を破った。
「ヴァイス公爵家に仕える騎士や兵士たちが、日々、武芸の鍛錬に励んでいる場所でございます。…普段、お嬢様が足をお運びになるような場所ではございませんが、よろしいのですか?」
その問いかけは、もはや私を試すものではなかった。ただ純粋に、私の意図を確認するための静かな問いだった。
「はい。ヴァイス家が『王国の盾』たる所以を、この目で見ておきたいのです。」
「…かしこまりました。では、こちらへ。」
彼に導かれて足を踏み入れたのは、広大な訓練場だった。その中央では、数人の騎士たちが木剣を手に、激しい打ち合いを繰り広げていた。
「ハッ!」「セアッ!」
鋭い気合と共に、木剣がぶつかり合う乾いた音が響き渡る。飛び散る汗、引き締まった筋肉、そして、相手の動きを瞬時に読み、次の一手を繰り出す真剣な眼差し。それは、私がこれまで見てきた華やかな貴族の世界とは全く違う、力と技が支配する剥き出しの世界だった。
訓練をしていた騎士の一人が、入口に立つ私たちの存在に気づいた。彼は驚いたように動きを止め、その相手もつられてこちらを向いた。やがて、訓練場にいた全ての騎士たちの視線が、私とクラウスに注がれる。
彼らの視線に、厨房の料理人たちのようなあからさまな恐怖はなかった。しかし、そこには武人特有の、鋭く値踏みするような光と、そして、あの日の事故を目撃した者としての複雑な色が宿っていた。
一人の隊長格と思しき体格のいい壮年の騎士が、こちらへ歩み寄ってくる。
彼はまずクラウスに一礼し、それから、どこか気まずさと、それ以上に強い訝しむような目で私を見下ろした。
「これは、クラウス殿。…そして、お嬢様。…お加減は、もうよろしいのでございますか。」
その声には、儀礼的な気遣いの裏に隠しようのない警戒心が硬く込められていた。
しかし私は怯まず、彼とその後ろにいる全ての騎士たちに向かって、厨房でしたのと同じように、まずは静かに深く頭を下げた。
「皆様。先日は私の未熟さゆえに、多大なるご迷惑とご心配をおかけいたしました。まことに、申し訳ございません。」
私の事故への謝罪。それに、グスタフ隊長は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。彼の後ろにいた騎士たちの間にも、どよめきが広がる。彼らは、まさかあの傲慢だった令嬢が自らの非を認め、頭を下げるとは夢にも思っていなかったのだ。
「私はあの事故で記憶が混乱しておりまして、今は自分が暮らすこのお屋敷のこと、そして、この家を支えてくださっている皆様のことを、改めて学ばせていただいている最中でございます。」
私はゆっくりと顔を上げ、まっすぐに隊長の目を見つめ返した。
「ヴァイス家が『王国の盾』としてその重責を果たせているのは、皆様のような方々の日々のたゆまぬ努力があってこそだと学びました。その鍛錬の場を、ぜひ一度この目で拝見したく、本日は参上いたしました。…どうかお気になさらず、稽古をお続けください。」
隊長の厳しく疑念に満ちていた顔つきが、私の言葉でみるみるうちに変わっていった。驚き、困惑、そしてその奥に、ほんの少しの…尊敬とでも言うべき光が宿り始めていた。
「……お嬢様…。」
彼は何かを言おうとして、しかし言葉が見つからないというように、その武骨な口をわずかに開閉させた。そして、彼はまるで条件反射のように、私の前でガシャリ、と鎧の音を響かせ、片膝をついた。
「もったいなきお言葉でございます、お嬢様!どうか、お顔をお上げください!我ら一同、お嬢様がそこまで我らのこと、そしてヴァイス家のことをお考えくださっていたとは、露とも知らず…!これまでのご無礼、幾重にもお詫び申し上げます!」
騎士隊長が膝をついたのを見て、彼の後ろにいた全ての騎士たちが、まるでドミノ倒しのように次々とその場に膝をつき、私に臣下の礼を取った。
厨房とは全く違う反応。彼らは武人だった。自らの非を認め、家の誇りを口にするその「覚悟」と「気概」に対して、彼らはその場で、即座に敬意と忠誠を捧げたのだ。
私は、その光景にただ圧倒されていた。そして、私の隣に立つクラウスが、その無表情の奥で、静かに深く、息を呑んだ気配がした。
目の前で繰り広げられる、あまりにも荘厳な光景。屈強な騎士たちが一斉に、自分に膝をついている。その重みに、私は一瞬息をすることを忘れた。しかしすぐに我に返り、慌てて彼らに声をかけた。
「皆様、どうか楽になさってください。そして、顔を上げてください。私は皆様に、そのようなことをしていただくために、ここへ参ったのではありません。」
私の少し慌てたような声に、隊長はゆっくりと立ち上がった。他の騎士たちもそれに倣う。
「私はただ、皆様の邪魔にならないよう、少しだけ見学をさせていただきたいだけなのです。どうか私のことは気になさらず、大切な稽古にお戻りください。皆様の剣こそが、ヴァイス家とこの王国の盾なのですから。」
私は精一杯の敬意を込めて、そう告げた。その言葉に、隊長の厳つい顔がわずかに、誇らしげに綻んだように見えた。
「……はっ。お嬢様のそのお言葉…まことに身に沁みます。」
彼はそう言うと、部下たちの方へ向き直り、野太い声で檄を飛ばした。
「聞いたか、お前たち!お嬢様が我らの鍛錬をご覧になりたいと仰せだ!この上ない栄誉ぞ!だらしない姿を見せるな!これまで以上に気合を入れろ!」
「「「オオッ!!」」」
騎士たちの雄叫びが、再び訓練場に響き渡る。先ほどまでの訓練とは、明らかに空気が違っていた。彼らの瞳には、主君の娘に見守られているという誇りと、明確な目的意識の炎が、赤々と燃え上がっていた。
やがて彼らは、私とクラウスが壁際で見守る中、再び激しい打ち合いを再開した。しかし、その剣筋は先ほどよりも格段に鋭く、その気迫はまるで本物の戦場にいるかのように凄まじいものになっていた。
私は、その光景をただ黙って見つめていた。そして、この家や関わる人々を、絶対に守らなければならないと、改めて強く強く心に誓った。




