1.盤上の絶望
その日もまた、私、クラウス・フォルトナーの朝は、一つの小さな絶望から始まった。
「違う!違うと言っているでしょう!」
甲高い金切り声。そして、床に叩きつけられる真珠の髪飾り。侍女のリリーが「申し訳ございません!」と、か細い声で謝っている。
「何度言ったら分かるの!わたくしが言っているのは、こっちの南洋産の真珠ではなくて、あっちの東方産の乳白色の真珠よ!あんたの目は節穴なの!?」
「も、申し訳…ございません…!すぐに、お持ちいたします…!」
私は、部屋に入る扉の前で、静かに目を伏せた。…またか。
我が主君、アレクシア・フォン・ヴァイス嬢。その美しさは、まるで春の陽光を集めて作られた芸術品のようだった。しかし、硝子の器の中に宿る魂は、あまりにも幼稚で、あまりにも空虚だった。
私は完璧な執事の仮面を付け、部屋へと入った。
「お嬢様。そろそろ、ご朝食のお時間でございますが。」
「うるさいわね、クラウス!今それどころではないのよ!この使えない下女のせいで、わたくしの気分は最悪だわ!」
彼女は、私を忌々しげに睨みつけた。彼女にとって私は、自分の欲望を阻む忌々しい壁でしかない。
その時だった。私の部下である一人の執事が、血相を変えて部屋へと駆け込んできた。彼の手には、王都にあるヴァイス邸に届いたばかりの、至急便を示す赤い封蝋の手紙が握られている。
私は、手紙を受け取り一読した。その瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。
「なによ、その手紙は。わたくしに、何か王都の殿方から恋文でも届いたのかしら?」
彼女の能天気な声。それに私はゆっくりと、冷たい青い瞳を向けた。
「…お嬢様、申し上げます。…先日、お嬢様が夜会にて、『氷の騎士様より、甘い言葉を囁いてくださる優しい殿方のほうが、千倍も素敵ですわ』と仰せになられた件。…これが、ヴァルトフォーゲル公爵の耳に入り、公爵は激怒。…我がヴァイス家に対し、『公式な謝罪なき場合、婚約は白紙に戻す』と、最後通牒を突きつけてこられました。」
私がそう告げた瞬間。彼女の美しい顔に浮かんだのは、満面の笑みだった。
「…まあ!本当!?あの堅物から願い下げにしてくれるというのね!」
彼女は手を叩いて喜んだ。
「せいせいしたわ!あんな面白みのない男、こっちからお断りよ!ねえ、クラウス、これでわたくしは自由よね?次はもっと素敵な、ハインリッヒ様のような方と婚約できるわよね?」
彼女のあまりにも愚かで救いようのない言葉に、私の心の中で何かがぷつりと切れる音がした。
私は、ゆっくりと彼女に向き直った。もはや執事の面はない。あったのはただ、絶対零度の軽蔑の色だけだった。
「…お嬢様。…貴女様は、まだお分かりにならないのですか。」
「…な…なによ、そんなに怖い顔をして…。」
「…この事態を領都におられるゲオルグ閣下が知れば、どうなるかということをです。」
父の名が出た瞬間、彼女の笑顔が凍りついた。
「…お父様…?」
「…閣下は、以前より仰せでした。『次に家の名に泥を塗るような真似をすれば、直ちに北の修道院へ送る』と。…今回の件は、泥を塗るどころではございません。ヴァイス家の未来そのものを叩き潰したのです。」
「…しゅ…修道院…!?…冗談じゃないわ!…絶対に嫌よ!あんな何もない田舎なんて!」
ようやく事の重大さに気づいたのか、彼女は顔面蒼白になり、私にすがりついてきた。
「そうだわ、クラウス!…あんたが何とかなさい!…お父様に黙っていればいいじゃない!あんたは優秀な執事なんでしょう!?…そうよ、ヴァルトフォーゲル家にお金でも積んで黙らせて、お父様には上手く報告してちょうだい!」
「…断る、と申し上げたら?」
「なっ…!あんた、主人であるわたくしの命令が聞けないの!?」
「…聞けません。…貴女様が今打ち砕いたのは、ただの婚約ではないのです。…それは、弱点をゲルラッハ家に握られ、常に危機に瀕しているこのヴァイス家にとって、唯一残されていた最後の希望だったのですよ。」
「…貴女様のそのくだらない虚栄心が。…ヴァイス家を、そして、ヴァイス領に暮らす全ての人間を、破滅の淵へと突き落としたのでございます。」
私が生まれて初めて剥き出しにした刃のような言葉。それに彼女は完全に言葉を失い、ただわなわなと、美しい唇を震わせていた。
「………あ……あ……。」
「…もう、よろしい。…お荷物のご準備を。…午後には王都を発ち、領都の閣下の元へ向かいます。…私の口から、ありのままをご報告するために。」
私は冷たく言い放つと、彼女に背を向け、その場を立ち去った。背後で、何かが割れる甲高い音がした。おそらく、彼女が燭台か何かを鏡にでも投げつけたのだろう。…しかし、そんなことはもはやどうでもよかった。
◆
(…私にできることは、もはや何も残されていないか……。)
私は自室に戻ると、一人チェス盤の前に座った。そして、盤上に置かれた白のクイーンの駒を指で弾いた。からん、と虚しい音を立てて、象牙の駒は盤の外へと転がり落ちる。
この盤上のゲームこそ、我がヴァイス公爵家が置かれた、絶望的な状況そのものだった。
白のキングダム、我がヴァイス家は、常に危機にある。
当主であるゲオルグ公爵閣下は、北の国境線を守る無敵の将軍として、その武威だけでかろうじてヴァイス領を支えている。
そして、我らを滅ぼそうと画策するのが、最大の政敵、黒のキングダムのゲルラッハ公爵。
あの老獪な男の最強の武器は、南方の広大な領地が生み出す「食料」だ。我がヴァイス領は厳しい北の地。食料の大半を、ゲルラッハの影響下にある南からの輸入に頼っている。もし彼が本気でその供給を止めれば、我らは戦う前に飢え、内側から崩壊するだろう。
その絶望的な状況を打ち破るための、唯一の希望。
それが、どの派閥にも属さぬ清廉潔白なヴァルトフォーゲル家との婚約だった。若くして騎士団長の要職にあり、王家からの信頼も厚い最強の騎士、ジークベルト卿を味方に引き入れることができれば、ゲルラッハの包囲網に風穴を開け、詰みかけた盤面をひっくり返せるはずだった。
…しかし、希望の駒であったはずの我らがクイーン、アレクシアお嬢様が、その全てを台無しにした。
彼女は、自らのくだらない虚栄心のために、敵であるゲルラッハの子息に媚を売り、味方になるはずだった最強のナイトを、公衆の面前で裏切ったのだ。もはや、打つ手はない。チェックメイトだ。
私は持てる知謀と情報網をもって、ゲオルグ閣下の腹心として、このヴァイス家を影から支えてきた自負がある。だが、それもここまでだ。内側から自滅していくこの愚かなクイーンが存在する限り、このゲームに勝ち目はない。
私にできることは、もはや何もない。ただ、この緩やかな滅びを、静かに見届けるだけだ。




