四十回目は僕に
放課後のグラウンドに、夕焼けが差し込む。
フェンスの外、誰にも気づかれない場所で、煉はじっと息を潜めていた。
部活が終わるその瞬間まで、理央から一度も視線を外すことはなかった。
「今日の練習はこれで終わりだ!」
部長らしき男子生徒が、大声で周囲に呼びかける。
その声を合図に、グラウンドが一斉にざわめき出す。
理央を見る。誰かと笑い合いながら、グラウンドを整備していた。
(また、笑った、これで三十五回目――)
自分以外に笑いかけた数を、刻みつけていく。
――おかしいな、昨日会ったばかりの人なのに、どうしてこんなことするんだろう⋯
でも、あの日、あの瞬間――僕をちゃんと見つけてくれたのは、理央くんが初めてだった。
だから、やめられない。
整備が終わったのか部員たちは、次々にカバンに手をかけ始める。理央もカバンに手をかける。その仕草さえも、煉はじっと、見つめていた。
(もう、帰る時間か⋯)
チームメイト数人とそのまま談笑しながら、校門へと歩いていく。煉は距離を取りながらその背中を追う。
木々の影に身を潜めながらゆっくりと歩みを進め、そして盗み見る。
(⋯⋯三十六回目)
また、誰かに笑顔を向けている。
誰かの冗談に笑って、軽く肩をすくめて、そんな仕草さえも、胸が痛む。
(その笑顔は、僕にまだ向けていないじゃないか⋯)
''まだ''なんて、当たり前だ。
彼らほど関係が深くないのだから。
でも大丈夫。
僕はちゃんと、彼のことを''全部''知ろうとしてるんだから。
こうして一つずつ知っていけば、いつかあの笑顔を僕にも向けてくれるはず――
「じゃあなー!」
明るい声が校門前に響く。理央が手を振り、チームメイトの背中を見送る。
(三十七回目⋯)
名前も知らない誰かに向けた笑顔の数。
ひたすら心の中で数える。
数えるだけでまだ正気を保てるような気がする。
そのとき、
「わりぃ、遅れた」
聞き覚えのある、気怠げな声。
――黒崎悠斗だ。
「ううん、今来たとこ」
理央は彼の顔を見て笑った。
(三十八回目――)
ああ、どうしてだろう⋯他の数字の笑顔よりも腹立たしく感じる。
(気持ち悪い⋯さっきよりも遥かに)
「今日も部室で映画見てたの?」
「あぁ、見てた。『サメvs巨大カマキリ』」
「⋯⋯え、なにそれ?」
「酷い映画だった、サメもカマキリも出てこなかった」
「タイトルになってるのに!?」
「64分間ずっと、男女が言い争いしているだけだった⋯あまりにもつまんなくて最高だった、また見たい。」
「変わってるな、悠斗⋯」
「お前ほどじゃねぇーし」
「え、ひっど!」
理央が笑う。
(三十九回目⋯)
――そんなの、数えたくなかった
僕はずっと、君を見ているのに。
君のことを誰より知ろうとしているのに。
どうして、僕の知らない笑顔を見せるの?
「それより帰ろ、お腹空いた」
「おー」
二人は並んで歩き出す。肩と肩がほんの少し触れ合うほどの距離感。
遠くから、それを見つめる。
(近い⋯近すぎる)
握りしめた拳に爪が食い込む。
自分でも気づかないほど、強く。
「あとあれも見てた、『ハイスクール・シャーク』」
「⋯一応聞くけどなにそれ」
「高校にサメが出てくる話」
「え、地上だよね?」
「馬鹿、海以外でもサメが出るのはこの界隈では常識だぞ」
「えぇ⋯何その常識」
「まぁ、サメ出てこないんだよな」
「またぁ!?タイトルに''シャーク''付いてるのに!?」
「あぁ⋯たまらねぇよ、このクソさ加減」
何を話しているか、わからない。
入れない、完全に二人の世界だ⋯
僕の知らない理央くんがいる、僕の見た事のない顔で何度も笑っている。
(なんだよ、あいつ⋯)
そんな顔の理央くん、僕は知らない。
――こいつだけが引き出しているんだ⋯
奥歯を噛み締め、ギリっと睨みつけた。
「っ⋯!?」
その殺気に気づいたのか、ばっと悠斗が振り返る。
まるで、なにか鋭いものに背中を撫でられたかのように。
――誰かが自分に殺意を持っている、本能がそう告げた。
煉は慌てて電信柱の陰に隠れる。
「ん?どうした?」
「今⋯いや、何でもない」
悠斗はちらりと後ろを振り返るが、それ以上は追及しなかった。
「?変な悠斗」
また二人は歩き出す。
(気づかれた⋯?)
油断した、感情を表に出しすぎてしまった。
慎重に尾行しなきゃ⋯あいつに気づかれないように。
「てかさ、お前、黄泉坂に変なことしてんじゃねぇーよ」
「変じゃないし!ブレイブマン布教してるだけだし!」
「それが変なことって言ってんだよ、中学のとき、それで何人引かせたんだよ」
「あのときは、俺もまだまだ子供だったし⋯」
「まだ子供だってのに、なぁーに言ってんだか」
「うるさいなぁ、黄泉坂、面白かったて言ってたからいいの!あぁ、早く明日にならないかなぁ!感想を共有できる、こんなに嬉しいことないよ!」
「明日って、一日で見る前提なのかよ!」
「黄泉坂なら見てくれるって!」
「⋯!?」
その一言で、胸が跳ねた。
理央くんが僕のことを話してる、僕のことを信じてくれてる――
嬉しい、僕も嬉しい!!
「絶対、明日までに見るよ。理央くん」
嬉しすぎてそう呟く。聞こえてしまっても構わない。それぐらい嬉しかった。
「その期待、重すぎるだろ」
「重くないし!正常だし!だったら悠斗も見ろよ、ブレイブマン!」
「俺はヒーローもの好きじゃないからパス」
「も〜〜昔っからそれじゃんか!」
「⋯とにかく、黄泉坂に押し付けるなよ、お前の趣味。お前のために言ってんだから」
はぁ⋯?
何を言ってるんだこいつは。
押し付けられたなんて、そんなこと僕は思っていない。
むしろ望んでいる。
何だったら今すぐにでも感想を共有したいぐらいなのに。
「邪魔だなぁ⋯」
あいつ、いなくならないかな。
そうしたら邪魔されることなく、話せるのに。
「お、家着いた」
理央がそう呟く。
煉は立ち止まり、その家を見る。
小さな四階建てのアパートだ。夕焼けに照らされた階段の手すりが、少しさびているのがここからでも見える。
(ここが、理央くんの家⋯)
また一つ、知れた。
一歩ずつ、だけど確かに進んでいる。彼の世界へと。
「じゃあな、理央。黄泉坂のこと大概にしとけよ」
「聞かないし!⋯じゃあ、また''明日''!!」
二人が別れ、歩き出す背中を煉は黙って見送る。
視線を再び理央に向ける。
階段を昇っている。
二階――
三階――
――止まった。
(三階に住んでるんだ⋯何号室だろ?)
理央はカバンの中から鍵を取り出し、ドアの前で立ち止まる。そのまま鍵を差し込み、扉を開けて部屋の中に入っていく。
(⋯⋯閉じちゃった)
その音がやけに重たく感じる。まるで僕だけが、置いていかれたみたいに。
また''明日''――理央はそう言った。
「⋯⋯明日も来よ」
理央くんの家の道を覚えるために何回も通わないと、そう考え、来た道を戻る。
(帰ったら見ないと、『ブレイブマン』)
今はそれだけで頭がいっぱいだ。
思わずスキップしそうになるほど、笑みがこぼれていた。
明日、借りているDVDを全部見て、そして理央くんに感想を伝えよう。きっと喜んでくれる。
――そのどこか壊れたような笑顔を物陰からじっと、見ている人間がいた。
「やっぱり⋯あいつからは絶対離さないといけねぇ⋯」