また明日、なんてーー
チャイムが鳴る。最終授業の終わりを告げる音が教室中に響く。
机に広げたノートを閉じながら、煉は息を吐く。
(来るかな⋯佐々川くん、ううん、"またあとで''って言ってたもんね)
教室がざわめく中、煉の心もざわめいていた。
理央のことを信じていない訳ではなかった。
――でも、来てくれると確信できるほど、彼との繋がりは深くない。
この待っている時間がひどく苦しい。
そのとき――
「黄泉坂ー!」
理央の声が教室に響いた。――自分の声を彼が呼んでいる。
その事実に胸の高鳴りが止まらない。
「ごめんごめん、結局放課後まで話せなくて」
理央が笑いながら駆け寄ってくる。
「大丈夫、気にしてないよ」
本当はずっと待ってた。休み時間になる度に、今か今かと胸を騒がせて、輪の中に笑う理央のことを、遠くから見つめていた。
「ほんと、ごめん!!⋯それでそれで、これ!」
そう言って理央は「じゃん!」っと声を添え、カバンの中からDVDを取りだした。
――ブレイブマンのDVDだ。しかも、今度は複数本。
「黄泉坂さ、ブレイブマンのこと楽しんで見てくれただろ?だから5巻まで持ってきたんだ!」
「5巻も⋯?」
煉は思わず問い返すと、理央は不安そうに眉を下げる。
「あ、⋯引いた?多すぎるよなぁーごめん⋯」
しゅん、と肩を落とす理央。
そんな姿を見て煉は――
(か、可愛い⋯)
胸がドキリと跳ねた。
どうしようもなく、胸が高鳴る。
でも、こんなふうに思ってはいけない。目の前の彼に、そんな感情を抱くなんて⋯
(――僕って、本当に馬鹿だ)
反吐が出る。自分にとっての「光」にこんなこと思うなんて――穢らわしい。
「ひ、引いてないよ!僕、ブレイブマン続きが気になってたから嬉しい!」
必死に笑顔を作る。上手く笑えてるだろうか?笑うなんて、久しぶりだから口角が上がっているか自分でも分からない。
でも、彼にこんな醜い感情を考えているなんて悟られたくない。
だから、せめて――
ただのクラスメイトの「黄泉坂煉」としての顔を崩さないようにした。
「⋯⋯!!?ありがとう、黄泉坂!!嬉しい!!」
子供のように顔を輝かせ、嬉しさを隠しきれず顔を綻ばせる理央。
あぁ、その笑顔だ。あの時から、僕は、その笑顔に『光』を見出してしまった。胸がどうしようもなく、騒いでいる。
苦しくて、辛くて、でも心地よい。なんて不思議な感覚なんだろうか
――僕はもう、抜け出せない。
「じゃあ、黄泉坂、また感想聞かせてくれよ!」
「うん、⋯佐々川くんはこれから部活?」
「あ、そうだった!試合の日近いんだった!じゃあな、黄泉坂、――また明日!!」
「!!⋯うん、『また明日』」
理央は手を振り、教室を出ていく。
''また明日''――その一言だけで僕は生きてていいんだと思わせる。
多分、この言葉を聞くために今日まで生きていた気がする。
毎日の食事も作られず、洗濯も放っておかれ、挨拶すらも無視され続けた⋯そんな生きてるか死んでるのかわからない日々を過ごしてきた僕の、救い。
だけど、
「明日まで待てない」
明日また話せるなんて、そんな保証はどこにもない。
だって、彼にはたくさんの友達がいる。笑いかける相手なんて僕以外にもたくさんいる。
明日も僕に話しかけるなんて――そんなの、奇跡みたいなことだ。
だから、
「見に行こう」
彼の、勇姿を。
そう考える前に、カバンを持って教室を出ていた。
どこに行くかなんてそんなの決まっている。
――理央のもとだ。
廊下を、早歩きで進む。すれ違う生徒の話し声や笑い声が妙に耳につく。不快で耳障りだ。
(サッカー部は確か、グラウンドで練習してるはず⋯)
知らず知らずに足が速まっていく。
早く、早く、理央のもとに行かなきゃ
(見失っちゃうかもしれない⋯)
それだけは嫌だ。
'''また明日'''が来ないかもしれない、一生来ないまま、卒業して後悔するかもしれない
会わなきゃ、会いに行かなきゃ――その想いだけで足を動かしていた。
気づけば階段を降りて、まっすぐ昇降口を目指していた。誰とすれ違っても、景色なんて目に入らない。
''理央のもとへ行く''――それだけが今の彼を動かしている。
(グランドは、こっちだ――)
昇降口を出ると、ふわりと風が髪をなでる。
春の終わりを告げるような、少しだけぬるくて優しい風であった。
遠くの方で聞き覚えのある声と、ボールを蹴る音が聞こえてきた。
(いた⋯)
その音につられるように足が自然と前に出る。
グランドに近づくにつれ、歓声や掛け声がはっきりと聞こえてきた。
目を凝らすと、何人かの生徒がサッカーボールを追いかけている。
(――いた)
見つけた。理央だ。
(佐々川くん⋯)
フェンス越しに彼を見る。
届かないとわかっていてもつい、手を伸ばしてしまう。
その瞬間、ボールがゴールネットを揺らし、理央は笑顔で仲間のもとへ走っていく。
――なんて遠い存在なんだろう
さっきまで笑顔を見せていたのに。
今はまるで、自分とはまったく異なる世界にいるように思ってしまう。
「佐々川くん!」
そんな理央に駆け寄る女子生徒の姿があった。
マネージャーだろうか?手に持っていたタオルを渡しながら照れたように笑っている。
理央はその女子生徒に柔らかく微笑むと、タオルを受け取った。
――気持ち悪い
そんな顔で佐々川くんに近寄るな、
その女に優しく微笑むな、
嗚呼⋯気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!
(⋯なんで、どうしてこんなに⋯)
――――心をかき乱されるのか。
胸の奥をナイフでぐちゃぐちゃに引き裂かれたような感覚だ。鼓動がうるさい。頭がぐらぐらして、視界が歪む。吐き気すらする。
「っ⋯あんなやつ、いなくなってしまえばいいのに」
本音がつい言葉に出てしまう。慌てて口を抑えるが、もう遅い。一度漏れ出たものは決壊して止まらない。
「あの女、意味わかんない⋯!!僕の''光''に何を軽々と、あんな近づいて!」
声が震える、そうだ、―――これが嫉妬!!
(僕の光なんだ、佐々川くんは⋯僕だけの、僕を救ってくれた、たった一つの光なのに⋯)
名前も知らない女と一緒に笑いあってる⋯
反吐が出る、気持ち悪い、最悪、度し難い⋯マイナスな感情が頭の中を行ったり来たりしてぐちゃぐちゃだ。
(あいつらも、気持ち悪い⋯)
理央に群がるチームメイトを睨みつける。
(あんなに、馴れ馴れしく話しかけて、笑って⋯何様なんだよ⋯!)
ギリっと奥歯を噛み締める――
(どいつもこいつも、佐々川くんのことを何も知らないっ⋯!あの人がどれだけ優しいかみんな知らないんだ⋯こんなゴミクズみたいな僕をも救ってくれた!!⋯それなのに、あんな軽々と触れやがって!!――――ふざけるな、ふざけるな⋯⋯)
今、この瞬間も、
誰かが佐々川くんの背中を叩いている。
誰かが佐々川くんの肩に手を置いている。
誰かが佐々川くんと笑いあっている。
――嫌だ、嫌だ!!
その光景から視線を逸らしてしまう、フェンスを力の限り叩きたい衝動に駆られる。
その時であった、フェンス越しに理央と視線が合った。
(――――えっ?)
一瞬、理央の目が真っ直ぐこっちを向いているような気がした。
目が合った?本当に?⋯気のせい⋯いや、でも、でも――
(佐々川くん⋯)
全身の血が沸騰してるんじゃないかと思うほど体が熱い⋯息ができない、喉が焼けるようだ。
(僕のこと、見てくれた⋯?)
こんなに離れているのに、あんなに大勢に囲まれているのに⋯僕の方を見てくれた。
そう思うと笑顔を浮かべてしまう。
(やっぱり、僕のこと、気にしてくれてるんだ!!)
胸がいっぱいになる。幸福とはこういうことを言うのだろうか、心地良ささえ覚えてしまう――
(そうだ、僕が、僕だけが佐々川くんの⋯理央くんの本当の優しさを知っているんだ)
気づけば、名前を呼んでいた。
「⋯理央くん」
名前を口に出してみた。とてもしっくり来る。
まるで最初からそう呼ぶために生まれてきたみたいだ。
(この名前を呼んでいいのは僕だけだ⋯)
他の誰かが呼ぶ度に、胸が痛む、耳を塞ぎたくなる。
だって、彼のことを何も知らないくせに――
(奪われたくない、誰にも渡したくない⋯)
感情が昂って涙すら出てきた。 悔しくて、惨めで、苦しいのに、それでも目が離せない。
グランドの向こうに笑う理央が見える。
誰かと肩を並べて、笑うながら話し合っている。
(だから、知りたい、彼のことをもっと知りたい⋯)
身長は、体重は、どこに住んでるのか、どんな部屋なのか、好きな食べ物は、嫌いな食べ物は、誕生日は、趣味は、朝は何を食べたのか、今日の夜ご飯は何なのか――
なんでもいいから、知りたい
知ることで彼を手に入れられる気がする。
彼を''理解っている''という事実だけが僕を安心させてくれる。
知らないことが怖い、誰かの方が先に彼のことを知るのが耐えられない。
だから、知りたい――彼の全てが
「⋯⋯あぁ、そういえば、僕、理央くんがどこに住んでいるか知らないや」
ぽつりと呟かれたその言葉に、完全にタガが外れた。
「知らなきゃ⋯わからないままじゃ怖い」
落ち着かない。
だって他の人は知っているかもしれないのに、僕だけ知らないなんて、おかしいじゃないか。
(ちょっとだけ、後ろからこっそり着いていこう)
大丈夫、バレないように上手くやる
もしもバレても――
「理央くんなら、許してくれるよね?」
だって理央くん、僕にはすごく優しいもん
僕がこれからやることがバレたらきっと怒るんだろうけど、それも優しさから来るものだよね。
こんな僕でも、受け入れてくれる。僕、信じてるよ
理央くんなら理解ってくれる。
「僕の、''光''だもん、ね?――」