光を見つけた日
放課後、誰もいない教室で黄泉坂煉は一人、窓の外を眺めていた。
茜色に染まる空がなんだか遠くの世界のように煉の心に重くのしかかる。
(帰りたくない、帰ったって、僕の居場所なんてどこにもないんだから)
煉の家はもう家族として動いてまともに機能してなかった。
仕事ばかりで家庭を顧みない父親、自分に無関心な母親。昔は勉強も運動もできる兄といつも比べられ、
ヒステリックに怒鳴られてきた。
兄が風邪を引くと母親は付きっきりで看病をし、テストの点数がいいと大袈裟な程に喜んでいた。
一方で、煉が風邪を引くと最低限薬を置くだけで放置し、テストで九十点を下回るとなぜあの子と違ってこんな点を取るのだと責められた。
それでも、母に褒められたい――――
その思いで兄と同じ難関中学を目指し、必死に努力した。
来る日も来る日も、机にかじりつき全てを捨ててまで勉強をした。
けれど受験に失敗した。
また母親に怒鳴られると覚悟をした。けれど返ってきたのは怒声ではなかった。
『もういいわ、あなたにはもう、失望した』
まるでゴミを見るかのような冷たい目で煉を一瞥し、母は吐き捨てた。
その一言は怒鳴られるよりも深く刺さった。
――それ以来、母親はまるで煉という人間が最初からいなかったかのように振る舞うようになった。
教室でやることがない煉は、机に広げた参考書とノートに向かい、ただひたすらに問題を解いていた。
ふと、教室の時計で時刻を確認するともう17時半を過ぎていた。
もうすぐ下校の時間だ、帰らないとと支度をしようとした時であった。
「あれ?黄泉坂、まだいたのか?」
突然の声に煉はドキリと身体を震わせた。恐る恐る声のする方へ視線を向けると、そこには同じクラスの、まさにクラスの中心人物である佐々川理央が立っていた。彼はサッカー部に所属しているため制服ではなく、ユニフォームを着ていた。肩には部活帰りのためかカバンがかけられている。
「勉強?真面目だなぁ」
「う、うん⋯」
人見知りで友達など一人もいない自分に、皆から頼りにされている理央が自分に話しかけてくるなんて。煉は動揺して、うまく声が出なかった。
ふと、理央は煉の机に広げられたノートに目を留めた。それが数学のノートだと気づいた瞬間、彼は「あっ!」と小さく声を上げた。どうやら自分が忘れ物を取りに来たことを思い出したらしい。
彼は自分の机に駆け寄ると引き出しを漁り、探していた数学のノートを見つけ出すとホッとしたように笑った。
その瞬間、煉は理央が手に取った数学のノートの表紙に鮮やかなシールが貼っていることに気づいた。何かのキャラクターのシールだ。躍動感のあるポーズで空を飛んでいて、煉は見入ってしまう。
その視線に気づいたのか理央はノートのシールに指を指しながら少し照れたように笑う。
「あ、これ?俺の好きなヒーローなんだけど知ってるかな?結構昔の作品でブレイブマンっていうんだけど」
「ご、ごめん知らないや⋯」
幼い頃からテレビを見ることを制限されていた煉はそのキャラクターのことを何も知らなかった。
「あーそうだよなー⋯これ、わりとマイナーな方だし、でもさ!かっこいいんだぜ!アクロバティックな動きでピンチを切り抜けてさ!そんでどんな人でも困っていたら手を差し伸べるんだ!」
と子供のように、楽しそうに語った。そのキラキラした瞳と熱のこもった声に、煉はただ見惚れていた。
(佐々川くんが、こんなに楽しそうに話すもの⋯⋯僕も知りたい⋯⋯)
幼い頃からテレビや漫画などの娯楽を制限された生活を送ってきた煉にとって、「好きなもの」をこんなにも楽しそうに語る理央の姿は酷く眩しく見えた。
その「好き」の対象を自分を知ることで、理央の「光」に、ほんの少しでも近づけるのではないかというかすかな期待が胸に芽生えた。
理央は「そうだ!」と何かを思いついたように声を上げた。そして肩にかけていたカバンをゴソゴソと漁り、その中から一枚のDVDを取り出した。パッケージにはブレイブマンと書かれ、先程見たシールのキャラクターがポーズを決めており、年季が入っているのか色があせて少しボロく見える。
「俺、いつもこれ布教用のために持ち歩いてるんだ!よかったら見てくれよ!!」
理央は満面の笑みでDVDを差し出した。煉は、差し出されたDVDと理央の笑顔を交互に見つめる。
まさか、こんな自分に、自分の世界を共有しようとしてくれるなんて⋯。心の奥底でじんわりと広がる温かさに煉は言葉を失った。
「いいの?」
煉の口から、か細い声が漏れた。信じられない、という気持ちが勝っていた。
「いいに決まってんじゃん!感想聞かせてくれよな!」
理央はそう言ってさらに笑顔を深めた。迷いのないその姿に、煉はただ圧倒された。
「うん、見るね⋯佐々川くん」
そう言い、震える手で煉は受け取った。絶対に見る。そして感想を絶対に伝えよう。煉は心の中で固く決意した。
「あ、そうだ!黄泉坂、もう帰るだろ?だったら俺も今から帰るところだから途中まで一緒に帰らない?」
「え、あ、うん⋯⋯」
煉は思わず声が上ずった。突然の誘いに、またしても動揺する。理央にはたくさん友達がいる。そんな彼が、自分のような人間を誘ってくれるという事実に、胸の高鳴りを感じた。
「じゃあ、行こう!」
理央は煉の腕を優しく掴んだ。その手の温かさに、煉はびくりと身体を震わせた。生まれて初めての経験だ。
誰かと一緒に下校するというのは⋯
強い感動を覚えた。なんて温かくて優しい人なんだろう⋯まるで、「光」のような人だ。
教室を出ると、昇降口に向かう廊下にはまだたくさんの生徒たちが残っていた。部活を終えた生徒、委員会活動を終えた生徒、友達と喋りながらゆっくり帰る生徒たち。そんな中を、理央と煉は並んで歩き出した。
二人で並んで歩く帰り道。理央は瞳を輝かせ、まるでその場にブレイブマンがいるかのように身振り手振りを交えながら、嬉々としてブレイブマンについて語り出した。
「俺さ、小さい頃からブレイブマン好きなんだ!友達はみんな、いつまでそんなもの見てるんだって笑ってくるんだけどな〜」
「『君の助ける声を聞いた!大丈夫、僕がいるよ!』ってマントをなびかせるブレイブマンがめっちゃカッコよくてさ!!」
「それでさ!困ってたら敵にでも手を差し伸べるんだぜブレイブマン!そこがまたいいんだよな〜」
理央の弾むような声を聞いているだけで、煉の心は温かくなるのを感じた。理央が語るヒーローの活躍と困っている人々に手を差し伸べる姿は、隣を歩く理央自身の姿と重なって見えた。煉は、そんな理央の横顔をただ微笑みながら見つめていた。普段なら重く感じるはずの足取りも、今は軽かった。
「あ、ここ僕の家⋯」
煉は思わず声に出していた。理央の隣で歩くことに夢中で、気づけば自宅であるマンションの前に着いていたのだ。
(佐々川くんといる時間は、こんなにも温かくて、心が安らぐ⋯こんな心地良さを感じたのは生まれて初めてだ。このまま、ずっとこの温かさの中にいられたら⋯⋯どんなにいいか。)
「へ〜ここが黄泉坂の家なんだ!でっかいマンションだな〜⋯うちの家とは大違いだ」
理央は屈託なく笑った。
「じゃあ、ここでお別れだな。じゃあまた明日!見たら感想聞かせてくれよな!」
理央は優しい笑顔で煉に手を振ると、彼は自分の家へと向かって歩き出した。その背中が小さくなるまで、煉はただその場に立ち尽くしていた。
『また明日!』
⋯その言葉に煉は嬉しさを感じた。
知らず知らずに煉は顔に笑みを浮かべた。
しかし自宅の玄関を開けると一気に現実に引き戻された。シンと静まり返った空気が煉を出迎える。
母親はいるはずだが、いつも通り自室に籠っているのだろう。リビングも照明は落ちていて誰もいないかのように静けさだ。煉ははぁーとため息をつくと、リビングに足を踏み入れた。
制服のままソファに腰を下ろす。そしてカバンの中からブレイブマンのDVDを取り出し、テレビをつけ、DVDをプレイヤーにセットをする。
幼い頃からテレビを制限されてきた煉にとって、アニメを見るという行為自体が、どこか背徳的で甘美なものであった。ましてや、それが理央の「好きなもの」となると、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
画面に映し出されたのは、理央が語った通りのアクロバティックな動きで敵と戦うブレイブマンの姿だった。
軽やかに宙を舞い、どんなピンチも切り抜ける。
そして困った人がいれば、迷わず手を差し伸べる⋯その姿はふと、理央を思い出した。
ブレイブマンは、困っている人に語りかける。
『大丈夫、僕がいるよ!君の笑顔が、僕の勇気さ!』
その言葉は、画面の向こうから煉の心に直接語り掛けてくるようだった。
(まるで、佐々川くんみたいだ⋯)
画面の中のヒーローが輝けば輝くほど、煉の脳裏には理央の屈託のない笑顔が鮮明に蘇る。
理央の言葉、その熱意、そして自分に向けられた優しい眼差し⋯それら全てが、ブレイブマンの映像と混ざり合い、煉の心の奥底に、ゆっくりと、しかし確実に染み渡っていく。
(佐々川くん、どうして僕に声をかけてくれたの?)
画面のブレイブマンが理央の姿と重なり、心の中で問いかける。
(そんなの、君が助けを求めたからだろ?僕は助けを呼ぶ声が聞こえたらすぐに駆けつけるんだよ!)
ブレイブマンの声が、理央の明るい声で煉の心に響いた。
ハッとした。
(そうだ、佐々川くんは、誰も気づいてくれなかった僕の「助けて」という心の叫び声を理央くんだけが聞きつけて、駆けつけてくれた――)
理央の存在が、煉にとって唯一無二の「光」であると、この瞬間、決定的に確信した。
DVDを見終えた後、リビングは照明が必要なほど暗くなっていた。煉は、まるで大切な宝物のようなDVDをケースに戻し、そっと抱きしめた。まるで理央のことを抱きしめているかのような錯覚に陥る。
(好き、佐々川くんが好き⋯)
理央の「光」が、自分の中にも入ってきた。そう感じた瞬間、煉の胸にはこれまでのないほどの高揚感が込み上げてきた。
彼の全てを知りたい、もっと近づきたい。
ただそれだけが全てだった。
けれどその想いは、まだ「恋」と呼ぶにはあまりにも未熟で、黒いものであった。