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誰でも良いから救決族を連れてきたかった。

そう考えると、黒金鯱の人間の行動が理解しやすくなる。

かなりの莫大な結納金を支払うと言う話になっていそうだったのだ。それだけ麗珠が欲しいのだと思う方が自然な流れだ。

だが麗珠で無くても誰でもよく、ただ、魅了の術をどうにか出来る救決族の末裔ならば何者でも良いから連れてきたかった、それも表向きは円満に、と考えると、多少どころでは無く常磐家の内情を調べ尽くされているだろうから、彼等の使った手段は間違いが無い。

麗珠や父や春子奥方に断られるのを前提に、声をかけて、ただ断るのは常磐家の懐事情によってうまみがないと判断した常磐家が、代わりに涙珠を、と持ちかけてくるのを待ち構えていたのだろう。

それならば、どこにも角が立たずに、獅子牡丹家と争う事も無ければ、お金で花嫁を買ったのだと言う評判も立たずに、救決族の末裔を一人は手に入れられるというわけだ。

何故ならば、代わりに涙珠をと申し出てきたのは常磐家で、そして姉は無理でも妹はどうだろう、と提案するのも一般的にありふれた事と言って良かったからだ。

妹に決めた相手が居ないならなおさらの話だ。


「……」


涙珠は自分の手のひらを見つめた。依然として苦しみの咆哮は響き続けている。

がたがたと周囲が音を立て始めているのは、何故。


「いけませんね……診断以上に、若の苦痛が悪化しています」


案内をした男性はそう言うと、涙珠の方を見た。


「魅了の術は救決族でしか打ち破れないと聞いております。できますね?」


「い、いきなりそんな事を言われても……」


「出来るか出来ないかの話を聞いております」


「……」


涙珠は口を閉ざした。今日いきなり家から追い出されるようにここに連れてこられて、売られたも同然だと知らされて、求められていたのは誰でもよく、魅了の術を打ち破れる力をもった救決族であると言う事だけ。

いくつもの衝撃は、普通よりちょっとどんくさい少女にとってはなかなかすぐに立ち上がれない物と言っていいだろう。

だが。

苦痛の叫び声は続いている。屋敷全体がガタガタと揺れ始めている。

妖族の中でも、黒金鯱は獅子牡丹に並ぶ強大なあやかしの力を持つ家系で、その中でも次期頭領と言われるような存在は、家一つ簡単に吹き飛ぶような異能を抱えていると聞く。

このまま魅了の術が抜ける苦しみが続けば、おそらく黒金鯱玄武という青年はただでは済まず、周りもただでは済まなくなる。

家が吹き飛ぶ程度の事ではすまなく、なる。


「……」


涙珠は先ほど思い出したたった一つの母からの言葉を、頭に思い浮かべて、そして男性を見てからこくりと頷いた。


「やらせていただきます。……魅了の術が抜ける時の離脱症状は、とても苦しいと聞いていますから」


行く当てなどどこにも無い。帰る場所も断ち切られている。ここ以外に戻ってこられそうな所はもう存在しない。

ここでできる限りの事をやってみなければ、引く道すら何も無いのが、ないないづくしの涙珠の今だった。

それゆえ彼女は決意して、どこかほっとした顔の男性の後に続いたのだった。




「玄武殿は水の属性を持つ妖族の中でも、最高峰のお方の一人でいらっしゃいます。水の属性は結界を張る事に非常に優れていらっしゃる。だが同時に……」


がたがたと周囲は揺れ続けている。叫び声は響いている。苦悶の声、苦痛の響き、それらは魅了の術が抜けていく結果、精神的に多大な苦痛を味わっているからこその、黒金鯱玄武が強い力で何かと戦っている印だった。


「周りの結界を破壊する事にも、長けていらっしゃると言う事です。この邸宅は庭ごと、八名の黒金鯱の関係者が総力を尽くして結界を張ったのです。それすら簡単に、玄武殿は壊しかねない」


「はい」


「さらに玄武殿の周囲には、長老様が直々に張った結界が一つ。それのおかげでまだこれだけで済んでいる」


涙珠は聞いていて手が震えてきていた。だがもう後には引けないのだ。

なんとしてでも、魅了の術をどうにかしなければならなかった。

歩いて一つのふすまの前につく。男性が声をかけた。


「玄武殿、起きていらっしゃいますか?」


返答は無い。だがのたうち回る音が聞こえてきて、かすかに涙珠は血の匂いまで感じ取っていた。

このふすまの向こうの男性は、必死に、必死に戦っている。

たった一人で。

何かと戦う事を選ばず、ただ頭を下げてやり過ごしていた涙珠からは想像も出来ない強さで、ただそれはどれだけ苦しいのだろうと思うものがあった。

……このふすまの向こうを考えると、怖じ気づきたくなる。

だが。

同時に、この誰かを助けたいと思ったのだ。助けられるかはわからないけれども、出来るなら、力になりたいと。

本当に、どうしてか。

涙珠は大きく息を吸った。そして返答の無いふすまの向こうの物音に耳を澄ませてから、案内の男性の前に出て、ふすまを開けた。


「失礼いたします」


ふすまの向こうは惨状だった。物は壊れているし壊されているし、あらゆる物がめちゃくちゃになっていて、大穴があいている箇所もあって、その中央で一人の男性が、自分の首を自分で締め上げようとしながら、体を丸めていた。


血の臭いの出所は、その男性の喉からだった。彼の爪が、ぎゅうぎゅうと己の喉に突き立てられていて、そこから血が流されていた。

苦痛なのだろう。痛みなのだろう。苦しみと耐えがたい衝動なのだろう。

それは周りを見るだけで十分にわかった。


「……はじめまして、私は涙珠と申します。今はそんな流暢な会話も長すぎるくらいですね。失礼します」


その光景を見て覚悟は決まった。決めるしか選択肢は無かった。おびえて嘆いて立ちすくむ猶予は彼女の道には残っていなかった。

だから。

涙珠は震える体を叱咤して、彼に近付いた。堅く目を閉ざし、苦痛を押さえ込もうとして、押さえ込めないで居る男性のわきに座り込む。

ガラスの置物などが無くて良かった。割れ物の破片が落ちていなくて良かった。

それらを踏んだらとても痛い。

そんな事をどこかで思いながら、涙珠は。


「無礼を承知で失礼いたします」


そう言って、男性の首に自分の口を近づけ、べろりとその血をなめとった。

なめとり、自分の口の中になすりつけていく。

吐きそうだった。すさまじい味だった。自分の血をなめる事はなれていたが、他人の血は甲もまずくて吐きたくなる劇物で、二度と口にしたくない物なのか。

涙珠は必死に吐き気をこらえた。

母の言葉が頭をよぎる。

その言葉を信じて、涙珠は彼の頭を膝の上にのせた。周囲は酷く揺れている。そのどれもが、涙珠にどこか遠くに行けと伝えてきていると言っても良い。

叫び声はうめき声に変わっている。本当に、もう、黒金鯱玄武という男性には、時間の猶予がないのだ。

普通ここまでの状態になったら、もうまともな人格には戻れないと授業で習ったのだから。

ここまでの状態になってしまったら、もう、妖族としての異能を爆発させて、塵のように消え去ってしまうとも聞いた気がした。

だが、本人の意識がとても強いから、まだ塵になるほどの力の暴発を起こしていないのである。

涙珠は目の焦点も合わない男の頭を膝の上に乗せて、そっとこう言った。


「私の目を見て、くださいな」


目の焦点の合っていない男に、そう言うのは無理な話だった。普通は。

だが、涙珠の言葉を聞いて……確かに男性の眼が、一瞬、涙珠だけを見たのだ。



りいい、というそれは清らかな鈴の音に似た音が、その場にいた第三者の男性の耳には聞こえたような気がした。


清らかな鈴の音が、一度、二度、三度。


鈴の音が重なるごとに、黒金鯱玄武の体にかかっていた力が弱まる。揺れる周囲が落ち着いていく。

ある程度まで落ち着いた時だ。


「うっ……!!」


その何かをしたはずの涙珠は、口を押さえてうめき、そして黒金鯱玄武を膝の上から降ろすと、すぐさま障子越しの外に向かい、耐えきれないというように、嘔吐してしまったのだった。



だが、あたりは彼女以外の何者も物音を一つも立てられないように、不気味なほどの静寂に静まりかえっていたのだった。

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