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「大きなお屋敷……」
目的地に到着したのは、一度気を失った涙珠が目を覚ましてからさらに数十分ほど経過した後の事で、彼女は目の前に広がる大きな屋敷の門構えその他に目を奪われていた。
常磐の家は洋風建築だったので、こういう由緒正しい歴史を感じる家屋を、こうも間近に見た事がなかったのだ。
彼女は門構えから驚きに目を丸くして、そこの正門をしっかりと開けられてそこから入るように指示されたため、ああ、そこまでの非道な扱いは受けなさそうだな、と心の中で判断した。
これで正門の脇にある、正式な客人や関係者以外が入る小さな入り口から入れと言われていた、間違いなくこの後の扱いが粗雑だと明言された様な物だからである。
故に涙珠は安心し……そして馬車に乗っていた案内の男性が、こちらだと示す方に歩いて行った。
黒金鯱家の内部は本当に広いのだろう。常磐の家の何倍も有りそうな面積を誇る庭があり、中を進んでも家屋がまだ見えないほど広い。迷子になりそうな大きさで、涙珠はなんとなく自分のような身の上の女の子が、いくら救決族の末裔だからという理由が合っても、ここの若様の嫁に迎え入れられるのは妙な感じがした。
もっと由緒正しい、きちんとした身の上の、何でも出来る見目麗しい女子の方が良いのでは無いだろうか。
たとえ、元々は強力な癒やしの力を持っていると評判の美少女、麗珠を求めていたのに断られ、代わりとして涙珠を選んだという話であっても、涙珠を選ばなくても十分にもっと良い少女が嫁ぐのが本来のあり方だろう。
そんな風に思ったのだ。
……まあ女学校での黒金鯱玄武の人気は最低で、結婚したくない殿方第一位に何年も君臨している男性だから、女子生徒達の方が嫌がってしまうかもしれないが、そんな少女達だって家長には逆らえないので、家長が嫁げと言ったら嫁ぐ以外に道はないのであるが。
「本宅はもっと広いですよ」
「ここは本宅では無いんですか?」
男性が静かにそう言ったため、涙珠は自分の世界がいかに狭いのかを知ったような気がした。
この広い邸宅すら、本宅では無いのだ。つまり本宅はもっと格の違う規模を持っているわけである。
ならばここは一体何という場所なのだろうか……と涙珠は考え、そして何分も歩いた後に到着した場所に目を丸くした。
そこはきちんとした家屋であるが、庭の大きさと比べると酷く小さく見える家屋だった。
だが立派な物で、手入れなどを惜しんだ形跡はどこにも無い。
ここは一体。
涙珠が怪訝な顔で案内の男性の方を見ると、彼は口を開いた。
「こちらで玄武殿が療養していらっしゃる。粗相の無いように」
「お体を壊されていらっしゃるんですか?」
療養と聞き、涙珠はそう問いかけた。男性は一瞬だけ口を閉ざした後に、淡々とした調子出こう言った。
「そうだ。酷い術をかけられそうになったご友人を守るために盾となり……以来こちらで療養していらっしゃる」
ああ、だから癒やしの力を持つと評判の麗珠を所望したのだ。
涙珠は簡単に納得した。術という事は妖族同士の諍いの結果で、親しい友人を守った際にその術の餌食となったのだろう。
どんな術かはわからないものの、麗珠の力なら彼を救うと思われたのも納得のいく理由である。
そして若君が療養しているから、麗珠を婚約者にと言うのはあまり世間的におおっぴらにしていい話にもならなかったのだろう。
黒金鯱からの縁談が、秘密裏の物だったのもこれが要因に違いなかった。
「……今は落ち着いていらっしゃる」
家屋の扉の方に意識を傾けた男性が、静かに言う。落ち着いていると言うのだから、興奮状態の時もあるのだろう。
涙珠は心の中で、何があっても恐慌状態に陥ってはいけないと自分に言い聞かせた。
冷静である事が求められる世界は多いのだ。
「入っていただきたい」
「はい」
涙珠はそう返事をし、男性の案内のままに中に入り、そこが暗く空気のよどんだ空間である事に眉をひそめた。
誰かが空気の入れ換えをしなかったのだろうか。それとも出来なかったのか。
彼女が内心で色々考えながら、あちこちを観察して通路を歩いていた時の事である。
「ぐあああああああ!!!」
突如前方からすさまじい男性の叫び声が響き渡り、その後ばりん、がしゃん、どかん、あらゆる破壊音が響き渡ったのだ。
「いけない、また始まってしまった……!」
男性が苦い声で言う。涙珠はその声の中の計り知れない苦痛の色を感じ取り、問いかけた。
「始まってしまったとは? この声のお方は、一体どういう状態なのですか」
「玄武殿がご友人を庇った際に浴びたのは、魅了の術だ。……多少はご存じだろうか」
「!」
魅了の術と聞いて涙珠は目を見開いた。
それは救決族の末裔達がかろうじて操れる異能で、色々枝分かれをしているが定義としては”自分の望むままに相手を骨抜きにして夢中にさせる”術である。
女学校でそれは習っていた。涙珠はあいにく魅了の術の才能が欠片も無く、蝶々一匹すら魅了できない落ちこぼれなので、全く使えない。
だが、使える少女はそれを使うと聞いていた。
だが魅了の術には重たい代償があり、それで相手を魅了して骨抜きにした場合、一生その相手と共に生きるしか無いと習っていた。
魅了の術を使い、相手を夢中にさせたならば、それは命を握ったも同じ。たとえ相手の裏の顔その他がどんなに汚くとも、それをかけた救決族は責任を持たなければならない。
何故ならば。
「魅了の術が玄武様にかけられたというのに、どうしてかけた救決族の末裔がそばに居ないのですか。魅了の術を使い続けなければ、末裔は対象に殺されるのに!」
魅了の術は現在の救決族の末裔達が使える最も強い術と言われている。だがその術は時折対象者から抜ける物で、永久の物ではない。
そして、魅了の術の抜けた対象者は、術を使用した相手に対して殺意を抱くのだ。
魅了させた分だけ、憎悪が膨れ上がるとされているのである。
そのため、術をかけ続けなければ魅了の使用者はたちどころに相手にいかなる形だとしても殺されるし、家族にもその憎悪は簡単に向く。
魅了は命がけの切り札なのだ。
それに……魅了で相手を夢中にさせた救決族の末裔の末路は悲惨な事が多い。
対象者の家族からも計り知れない憎悪を浴び、対象者に恋人や連れ合いがいた場合はさらに酷く、対象者以上の憎悪を常に受け続ける事により、長生きは出来ない。
対象者以外の全てから恨まれ憎まれ殺意を浴び、対象者以外を全て失う。
魅了の術はそれだけあらゆる方向に対して危険な術なのだ。
「玄武殿がその場で切り捨てた」
「では、術の離脱症状で玄武様は苦しんでいらっしゃる……?」
叫び声に近付きながら、男性が淡々と起きた事実を語る。涙珠は魅了の術でおかしくなった人を見た事が無く、女学校でも危険な力であると常々教育されてきた事から、それを使った同族の無謀なのか命知らずなのかわからない行為に、ぞっとする気分を抑えられなかった。
「そうだ。魅了の術の離脱症状で、玄武殿は終わらない悪夢に苦しんでいらっしゃる。魅了状態と離脱症状を交互に繰り返し、こちらで魅了の術の力が薄れるまで療養していらっしゃるのだ」
「……だから」
癒やしの力を持つ麗珠を求めたし、彼女がだめならおまけの涙珠で良いと妥協したのだ。
「救決族の魅了の術を打ち破れるのは、救決族の同胞のみ……」
涙珠は女学校で習った知識を口に出す。なるほど。本当なら癒やしの力を持つ麗珠なら確実だったのだろう。
だが、彼女が断ったから、同じ血を引く涙珠でもいいと考えたのだ。
ほかの救決族の末裔達ならば、すんなりとここに来させられないだろうから。
たとえどんなに結納金が高くとも、娘の幸せを願う家族ならば、こんな危険な状態の相手に嫁がせたりはしない。
救決族の娘が幸せならば、実家に色々な援助が期待できる事も多く、娘はちやほやと家族に溺愛されるのが、救決族の末裔の一般的な姿勢なのだから。
涙珠の様に、あまり良くない扱いをされる娘の方がかなりの少数派なのだ。
たとえ少数派でも、ほかの救決族の魅了の術をかけられた殿方のところに、命の危険が有るかもしれないのに向かうなんて、あり得ない。
妖族は救決族の末裔を重視しているはずだから、わざわざそんな訳ありの所に向かわせない。
……そんな話では無くて、もっと可能性が高いのは。
誰でも良いから救決族を連れてきたくて、あえて家庭環境が良くない涙珠がすんなりとここに来るように、わざと麗珠に縁談を持ちかけた可能性だった。