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馬車に揺られての時間は思っていたよりも長く、涙珠はそろそろお尻が痛くなってきていた。元々馬車に乗る経験が無い彼女は、そもそも長時間座り続ける事になれていない。

どこかで休憩を挟んでくれれば良いのに、そんなそぶりは馬車の中で沈黙を保つ、迎えの人からは見受けられない。

馬車という物は一見すると優雅だが、がたがたとした道を進む車輪の関係なのか、意外と跳ねるし体が揺れる物だった。

これは走っている馬の速度にもよるのだろう。つまり早いほうがぼんぼんと跳ねるし乗り心地が悪いというやつだ。

涙珠は窓の外を見ようとしたが、それは迎えの人にぎろりとにらまれたのでやめておいた。そうすると本当に暇つぶしになる物がない。涙珠はどうせだから何か、編みものでも持ってきていれば良かったと心の中で後悔した。

女学校の宿題が編み物で、手編みのセーターを指示されていたのである。

洋裁に和裁に編み物に……それらは夫になる相手や、生まれてくるであろう子供のために覚える技術とされている。

そんな物は仕立ててもらえば良いだろうと思う人間もいるだろうが、何から何まで仕立てさせるのは傲慢だと、一般的に吹聴される行為である。

それはやはり、女性が長らく家族の衣類を仕上げてきたと言う歴史的習慣による物だろう。涙珠は編み物はそれなりで、自分自身の着物を直すために、繕い物は非常に良く出来る女の子だった。縫い物は……まあ普通程度だろう。少なくとも麗珠の代わりに作った縫い物の課題が、落第点であった事は過去一度も無いのだから。

そうだ。

涙珠はどうせなのだから、と口を開いた。夫になる相手である、黒金鯱玄武という妖族の人となりを聞いてみたかったのだ。

女学校では怖がられている男性で、体が大きくて顔が怖くて鬼のようで、口から牙が映えていて毛むくじゃらで……一体何の生き物と勘違いしているのだろうと思う様な、噂しか涙珠は聞いた事がなかったので。


「すみません」


「……」


返事は無い。うるさそうな顔をされたが、涙珠はめげなかった。


「黒金鯱玄武様は、どのようなお方ですか? 私は女学校での嘘くさい噂でしか、聞いた事がありません。夫となる方の話を聞きたいのです」


「見目麗しいお方だ」


「それだけしか特徴が無いのですか?」


「大変に武勇に優れていらっしゃる」


迎えの人はあまり涙珠と会話をしたくない様子だった。まあ、美貌の麗珠が来るはずだったのに、こんな貧相でぼろを着ていて、顔立ちもぱっとしない涙珠相手に、優しく黒金鯱玄武の事を褒め称える言葉が出てくるわけも無い、と言う事なのだろう。

少なくとも涙珠は勝手にそう判断した。会話を拒まれたのだから、自分で勝手に判断するほか無かったのである。


「婚前に殿方のお屋敷に行く事は滅多にないと女学校で聞かされております。どのようなご事情で、私は黒金鯱玄武様の元に、婚前であるのに来るようにとのお話になったのですか」


「あなたは黒金鯱家に金で買われた」


「えっ」


迎えの人は、こんな話はさっさと言った方が良いと考えたのかもしれない。それか、黒金鯱に迎えられた事をうぬぼれるなと警告したかったのかもしれない。

少なくとも、善意にあふれた言葉ではなさそうだった。


「私の実家はお金に困っていたのでしょうか。申し訳ありません、実家の懐事情は私には聞かされない物でして」


「麗珠殿の結婚式のために、常磐家は金に糸目をつけない事にしたらしい。獅子牡丹家からも結婚式のための費用は出されるが、だから常磐家が金を出さないと言う事にはならない。あなたは麗珠殿の結婚式の費用のために、黒金鯱家に売られたわけだ」


「……」


まさかこの時代に身売りとは。それも麗珠の結婚式のためにとは。

いきなり言われた思いもしない言葉に、涙珠はあんぐりと口を開けそうになったが、はっとして手で抑えた。

口の中を見られるわけにはいかない。そう、どうしたものか、涙珠の口の中の犬歯は、美しい歯並びの麗珠と大違いの、牙のような物なのだから。

この牙のような犬歯を見た奥方春子は、不気味だ、鬼っ子だと涙珠を罵り、彼女が口を開いてあまり言葉を発しないようにさせた。

それもあって、涙珠はあまり口を大きく開けての会話を好まない。友人との会話の際にも、口の大きさは小さめにと意識していた。


「たとえ黒金鯱家になじめずとも、あなたは逃げ帰るところなどどこにも無いと言う事を意味する。常磐家に戻っても、すぐさま追い出されるだろう。場合によっては多額の金を常磐家に支払うと言う事になるかもしれない」


「つまり……あの、すみません、混乱してしまったのですが、私は、常磐家から捨てられたと言う事でしょうか。いらない物だと売りに出されて」


「そのような解釈で問題ないだろう」


いよいよ、黒金鯱玄武にとんでもない問題がある可能性が高くなってきた。そうまでしてでも逃げられないようにすると言う事は、つまり夫になる黒金鯱玄武に、致命的な問題があるからだと暗に言われている気がした。


「……そうですか」


常磐家から追い出された。いらない物だと捨てられた。

涙珠がそれを受け止めたその瞬間の事だった。なれない馬車に乗っている事で疲弊したのか、じわじわと痛んでいた頭が、急激にすさまじい痛みを訴えてきて、それに勝てずに涙珠は意識を失った。





懐かしい記憶を夢の中で見た。

大事な人が、涙珠の美しくはかなげな容姿の母が、涙珠を膝の上にのせて、優しい声でこう言った。


「いい、かわいい私の娘。私達は人とは少し違う生き物なの」


「きゅうけつぞくと言うものでしょ?」


「そうよ。涙珠は覚えていてえらいわ。でもそれだけじゃないの。私達は……」


そう言って母が告げた言葉の数々は、涙珠にとっては想像を絶する物で、そして。


「今日教えた事は、母さんが封印しておきましょう。この場所で暮らしていたら、こんな事を知らなくても、涙珠は十分に平和に生きていけるのだから」


母はそう言って、自分の親指をその鋭い犬歯で噛んで、ちょっとだけ血を出してそれをなめた後に、涙珠の額に自分の指を押し当てた。


「かわいい涙珠、私の跡継ぎ。今は忘れていてちょうだい、いずれ来るかもしれない、来なければ良いその時が来るまで。私の言った言葉を、思い出さないでちょうだい」


優しい母の、このまま愛人として娘と平和に暮らす、その願いはその数日後、母をいきなり呼び出した奥方春子の使いの者によって失われ、母は家に戻ってきたけれどもとても弱った状態で寝込み、そのままこの世を去ったのだ。


「あなただけは、母さんを嫌いにならないで。お願い涙珠」


死に際に母は涙を浮かべて涙珠にそう願い、母を嫌いになる余地のない涙珠は何を馬鹿な事を言うのだ、体が弱って気弱になっているのだと母を励ました。

だが、それを言った後に目を閉じた母の瞳が、開かれる事は二度と無かったのだ……

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